野獣公爵の執愛

ゆき真白

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第三章

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「ほら、ジル、早く! わたし、ジルとまたここに来たいと思ってたの!」

 ジルヴィウスの手を引っ張りながら、シーラは軽快な足取りで色とりどりの野花が咲く丘を進む。
 雲一つなく晴れ渡った空からは暖かな日差しが降り注ぎ、昨夜の雨に濡れた草花を瑞々しく輝かせていた。
 肌を撫でる風は心地よく、夏の訪れを告げているようだ。

「ね、ね、ジル。ここでお花の指輪作ってくれたの覚えてる? 花冠も!」
「落ち着け。前を見ないと転ぶぞ」
「もう、さすがにそんな――っきゃ……!?」

 そんなことはない、と言おうとした瞬間、泥濘に足を取られ、視界が傾く。

(えっ、うそっ、嘘!?  お兄様たちに会うのはこれからなのに! その前に泥だらけになるなんて……!)

 嫁いでもお転婆なのかと呆れられてしまう、とぎゅっと目を瞑ったシーラだったが、体は地面に倒れることなく、ジルヴィウスに引き寄せられた。
 繋いだ手をしっかりと握り、広い胸にシーラを抱きとめながら、ジルヴィウスは深い溜息を漏らす。

「お前、昔も大丈夫と言いながら転んだことがあっただろう。忘れたのか?」
「……あったっけ?」

 思い当たる節がなく、首を傾げながらジルヴィウスを見上げれば、繋いでいないほうの手で頬をつままれた。

「お気に入りの服が汚れたと泣いていただろう」
「そんなこと……」

(……あったような気がする)

 ジルヴィウスと一緒に出掛けるからとお気に入りの可愛いドレスを着たのはいいものの、お出掛けにテンションが上がりすぎて派手に転び、結果ドレスを台無しにして大号泣したような気がする。

(わたしの泣く声を聞いてジルが駆けつけてくれたような……)

 悲しいやら恥ずかしいやらでわんわん泣くシーラを、ジルヴィウスが宥めてくれたのではなかっただろうか。

(うーん……改めて思い返してみると、わたしって昔から“ジル”、“ジル”ってそればっかりだったかも)

 理由があったとはいえ、よくそんな状態で他の男性との縁談を受け入れたな、と我ながら思う。今なら絶対にそんな選択はしないだろう。

「……」
「どうした?」

 じっと見つめたままでいると、ジルヴィウスは少しだけ頬をつまむ手に力を入れた。それでも決して痛みはなく、加減してくれているのがわかる。
 昔からそうだ。ジルヴィウスはいつだって、シーラを大切に扱った。
 友人の妹でしかないはずなのに、とても大事にしてくれた。
 そんなの好きになるなというほうが難しい。

「……ジル」
「なんだ」

 すがしい風が、彼の黒い髪を揺らす。
 硬そうに見えて柔らかな彼の黒髪が好きだった。
 彼の琥珀のような金の瞳が自分に向けられるのが嬉しかった。
 大きな手に頭を撫でられるのも、力強く抱きあげられるのも、彼が愉しそうに笑ってくれるのも、全部大好きで、嬉しかった。

(……ずっと憧れて、大好きだった人。昔から、たった一人、特別な人)

 記憶の中の彼と比べると、目の前の彼は不愛想で、危険な香りを纏うようになった。少年から青年へと移りゆくあどけなさや瑞々しさがなくなり、代わりに雄々しさや色香を兼ね備えた大人の男性へと姿を変えたのだ。
 それでも、ジルヴィウスのことが好きだった。
 昔から変わることなく彼のことが好きで、昔よりももっと彼のことを好きになった。彼を愛する気持ちに際限はないのではないかと思ってしまう。

「ジル……」

 甘えるように名前を呼び、シャツを引っ張る。それだけでシーラがいったい何を望んでいるのかわかったのか、ジルヴィウスは目を細めると顔を近付けた。
 重なる二人の影を揺らすように、穏やかな風が二人を包み込んだ。





 丘に寄ってから向かう、という伝言とともに先に馬車を贈っていたため、辺境伯家までは歩いて向かう。
 思っていたよりも長く思い出に浸ってしまったため、早く向かわなければと思うものの、歩みはとてもゆっくりとしたものだった。

「……あの丘に行くのもだけど、この道を通るのも久しぶり。またこうしてジルと一緒に歩けてよかった」

 隣を歩くジルヴィウスを見上げながら言えば、彼は一度シーラを見遣り、再び前へと視線を向けた。

「……北部のくそ野郎とは来なかったのか」

(えっ……!)

 まさかジルヴィウスからエルネストの話を振ってくるとは思わず、驚きに目を見開く。
 彼の目は前を向いたままではあったが、以前ほどの険悪さは感じられない。声色にも険はなかった。
 兄に会わせてくれることもそうだが、ジルヴィウス自身、変わってきている――いや、変わろうとしてくれているのだろう。
 共に過ごすなかで、少しは彼の傷を癒せたのだろうか。
 シーラは、ふ、と口元を緩めると、彼と同じように前を向き、ジルヴィウスの腕に寄り添った。

「うん。公子様とは来なかったよ。そもそも来ようとも思わなかったし……それに、公子様はこういう場所にご興味がなさそうだったから。こういうのどかな場所よりは王都とかの賑やかなところが好きというか……」
「はっ。甲斐性のないぼんくらめ」

 嘲るように鼻で笑うジルヴィウスに、シーラは少し困ったように苦笑を浮かべた。

(甲斐性はあったけど、ただ単純にわたしと趣味が合わなかったのよね。エルネスト様はとても貴族らしい方で……偉ぶるわけではないけど、公爵家としての自覚と矜持が高い方だったから、公爵家の品位にそぐわないことは好まれないというか……)

 思い返してみれば、ジルヴィウスとは正反対の人物だった。
 何故エルネストに友愛以上の気持ちを抱けなかったのか、今ならわかるような気がする。

(初恋は忘れられないって言うけど、本当にその通りなんだなぁ)

 自分は本当にジルヴィウスのことが好きなのだな、と感心していると、懐かしい見慣れた門が見えた。
 見張りに立っていた門番は、シーラたちの姿を確認すると急いで門を開け、一人は中へと走っていく。残った一人に「お疲れさま」と声を掛けながら手を振れば、門番はどこか緊張したように敬礼した。
 以前なら笑顔で「お帰りなさいませ」と声を掛けてくれたのに、いったいどうしたのだろうか。

(ジルが一緒だから緊張してるのかな?)

 それなら無理もないか、と納得したシーラだったが、邸の入り口で待ち構える人物を見て、もしかしたら違う理由で緊張していたのかもしれないと思い直す。
 邸の入り口では、ずっと会いたかった兄が険しい表情を浮かべながら仁王立ちで待っていたのだ。
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