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第三章
七
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兄を責める気持ちは微塵もない。
過去のことについて、兄のせいだと思うことは何一つない。
けれど、シーラがジルヴィウスを慕っていたことも、ジルヴィウスがシーラを大切にしていたことも事実なため、すぐに声を掛けることができなかった。
兄の嗚咽だけが聞こえる室内で、シーラは一度深呼吸をすると、腹に回った太い腕を撫でた。
「ジル……」
振り返り名を呼べば、彼は嫌そうに眉根を寄せつつ、拘束を解いてくれる。
立ち上がったシーラは、ありがとう、の意味を込めて頬に口付けると、すぐに兄の元へと向かう。隣に座り、震える兄の体を抱き締めれば、彼は再び「すまない」と口にした。
「本当に……本当に、すまない……すまない、シーラ……」
こんな兄の姿を見るのは初めてだった。母が亡くなったときも、父が亡くなったときも、兄はこんな風に泣いていなかった。突如引き継ぐことになった当主業に四苦八苦していたときも、こんな弱々しい姿は見せなかった。
きっとシーラの前では見せないように気を付けていたのだろう。
これまでどれだけの我慢と負担を強いてきたのだろう。そう思うと申し訳ない気持ちになる。一方で、そんな兄がこのような姿を晒すほどあのときのことを後悔しているのだということに驚いた。
シーラは優しく兄の背を撫でながら、「お兄様」と声を掛ける。
「エルネスト様との縁談を受け入れたのはわたしの判断よ。本当はあのとき……北部公爵家からお話が来たときに、結婚してもおかしくなかった。それをお兄様が、婚約という形で終わるようにしてくれたじゃない。そのあともできる限り結婚を引き延ばしてくれて……お兄様はずっとわたしのことを想って、わたしを守ってくれたわ」
「違う……お前を想うなら、お前の本心をきちんと聞くべきだった……。お前があの縁談を受け入れたのは、俺や領地のためだということはわかってたのに……もっと、お前の気持ちを……」
「お兄様……」
顔を伏せたまま己を責め続けるヨエルに、どうしたらいいのだろう、と思っていると、深い溜息が聞こえた。はっとジルヴィウスを見れば、彼は優雅に紅茶を飲んでいた。
「今更悔いたことで過去は変えられない。お前があの軟弱な愚か者の口車に乗せられたという過去はな」
(……え?)
驚くシーラをよそに、ヨエルは静かに「そうだな」と呟く。鼻を啜りながら頭を上げた兄の顔は、涙でぐちゃぐちゃに濡れていた。
ジルヴィウスの発言は気になるが、今は兄を慰めるほうが優先だとハンカチを差し出そうとする。しかし、それより早く、兄の手中に突如ハンカチが現れた。
ヨエルがシーラの前で魔法を使っているのも珍しく、思わずじっくりと見てしまったシーラだが、はっと我に返ると、慌てて兄と距離を取る。
「ん……? ああ、悪い。汚いよな」
「あっ、ううん! そうじゃなくて……わたしが触ると、魔力なくなっちゃうんでしょ?」
ソファの端へと移動し両手を振れば、兄は目を瞠った。しかし、すぐに顔を歪め、下を向いてしまう。
自分より色素の薄い薄黄色の髪の隙間から見える兄の顔は、ひどく苦しげだった。
「お兄――」
「いい加減にしろ、ヨエル」
鋭く冷ややかな声に、シーラとヨエルはジルヴィウスへと目を向ける。
ジルヴィウスは真っ直ぐシーラを見つめると、手を差し出した。
「こちらへ戻れ、シーラ」
「でも……」
兄へと視線を向ければ、彼はわずかに口角を上げ、姿勢を正した。
「ジルヴィウスの元に戻れ、シーラ。……きちんと、話をしよう」
自分と同じ若草色の瞳は、決意に煌めいていた。
シーラは二人の顔を交互に見ると、小さく「うん」と頷き、ジルヴィウスの元へと戻る。促されるまま隣に座れば、ジルヴィウスはシーラの腰を抱き、長い足を組んだ。
「シーラはお前を責めていない。後悔も反省も、一人で勝手にしていろ。こいつを巻き込むな」
「……そうだな。お前の言う通りだ、ジルヴィウス」
兄は深く息を吸い込み、再び滲んだ涙を拭うと、シーラへと目を向けた。
「ジルヴィウスから聞いた。俺に訊きたいことがあると」
「あ、うん……でも……」
シーラは、ちらりとジルヴィウスを見上げる。けれど、視線に気付いているはずの彼はシーラに目を向けず、つまらなそうに窓の外を見ていた。
シーラの疑問の答えを、ジルヴィウスは知っていそうだった。でなければ、「口車に乗せられた」などという言葉は出てこないだろう。
何故知っているのか。事前に会いに来ていたときに聞いたのか。気になることはある。けれど、今はどうやら答える気はなさそうだ、とシーラは視線を兄へと戻した。
ただ黙って言葉を待つ兄に、シーラは深く息を吸い込むと、そっと口を開く。
「いくつか聞きたいことがあるんだけど……まず、お兄様はどうして、わたしが魔力消化体質者だってことをずっと黙ってたの? ジルにいろいろ教えてもらったから、守るためだったいうのはわかるんだけど、その……」
「そうだな。お前が疑問に思うのも当然だ。……魔力消化体質者の特例事項を知れば、当然抱く疑問だ」
「あの、でも、お兄様のことを責めるつもりは――」
「わかってる」
ヨエルは力強く頷くと「大丈夫だ」と笑い、言葉を続けた。
「 “魔力消化体質者は己の意思のみで伴侶を決めることができる”……この特例事項については、ずっと前から俺も知ってた。お前が魔力消化体質者だと知ったとき、一通りのことは調べたからな。だから……本来なら、あのとき……北部公爵家からの縁談が舞い込んで来たときに、お前に言わなければならなかった。お前に魔力消化体質者であることを伝えて、魔力消化体質者の特例事項を教えて、断っても何の問題もないから、断っていいんだって言うべきだった」
話しながら、兄の表情はどんどん険しくなっていく。深い後悔の滲む表情を浮かべながら、兄は「でも」と続けた。
「あのとき……本当は断るつもりだったんだ。妹にはずっと慕ってる人がいるからって。まだ打診もしていないからどうなるかわからないけど、それでも妹を売るようなことはしたくないって。でも、あいつが……エルネストが言ったんだ。お前がジルヴィウスを好きなのは、本当に純粋な好意なのかって。お前が……洗脳されてる可能性があるんじゃないかって」
組んだ手に力を入れながら、ヨエルは苦々しそうに息を吐き出す。
ひどく顔を顰めている兄を見つめながら、シーラはただ呆然とした。
過去のことについて、兄のせいだと思うことは何一つない。
けれど、シーラがジルヴィウスを慕っていたことも、ジルヴィウスがシーラを大切にしていたことも事実なため、すぐに声を掛けることができなかった。
兄の嗚咽だけが聞こえる室内で、シーラは一度深呼吸をすると、腹に回った太い腕を撫でた。
「ジル……」
振り返り名を呼べば、彼は嫌そうに眉根を寄せつつ、拘束を解いてくれる。
立ち上がったシーラは、ありがとう、の意味を込めて頬に口付けると、すぐに兄の元へと向かう。隣に座り、震える兄の体を抱き締めれば、彼は再び「すまない」と口にした。
「本当に……本当に、すまない……すまない、シーラ……」
こんな兄の姿を見るのは初めてだった。母が亡くなったときも、父が亡くなったときも、兄はこんな風に泣いていなかった。突如引き継ぐことになった当主業に四苦八苦していたときも、こんな弱々しい姿は見せなかった。
きっとシーラの前では見せないように気を付けていたのだろう。
これまでどれだけの我慢と負担を強いてきたのだろう。そう思うと申し訳ない気持ちになる。一方で、そんな兄がこのような姿を晒すほどあのときのことを後悔しているのだということに驚いた。
シーラは優しく兄の背を撫でながら、「お兄様」と声を掛ける。
「エルネスト様との縁談を受け入れたのはわたしの判断よ。本当はあのとき……北部公爵家からお話が来たときに、結婚してもおかしくなかった。それをお兄様が、婚約という形で終わるようにしてくれたじゃない。そのあともできる限り結婚を引き延ばしてくれて……お兄様はずっとわたしのことを想って、わたしを守ってくれたわ」
「違う……お前を想うなら、お前の本心をきちんと聞くべきだった……。お前があの縁談を受け入れたのは、俺や領地のためだということはわかってたのに……もっと、お前の気持ちを……」
「お兄様……」
顔を伏せたまま己を責め続けるヨエルに、どうしたらいいのだろう、と思っていると、深い溜息が聞こえた。はっとジルヴィウスを見れば、彼は優雅に紅茶を飲んでいた。
「今更悔いたことで過去は変えられない。お前があの軟弱な愚か者の口車に乗せられたという過去はな」
(……え?)
驚くシーラをよそに、ヨエルは静かに「そうだな」と呟く。鼻を啜りながら頭を上げた兄の顔は、涙でぐちゃぐちゃに濡れていた。
ジルヴィウスの発言は気になるが、今は兄を慰めるほうが優先だとハンカチを差し出そうとする。しかし、それより早く、兄の手中に突如ハンカチが現れた。
ヨエルがシーラの前で魔法を使っているのも珍しく、思わずじっくりと見てしまったシーラだが、はっと我に返ると、慌てて兄と距離を取る。
「ん……? ああ、悪い。汚いよな」
「あっ、ううん! そうじゃなくて……わたしが触ると、魔力なくなっちゃうんでしょ?」
ソファの端へと移動し両手を振れば、兄は目を瞠った。しかし、すぐに顔を歪め、下を向いてしまう。
自分より色素の薄い薄黄色の髪の隙間から見える兄の顔は、ひどく苦しげだった。
「お兄――」
「いい加減にしろ、ヨエル」
鋭く冷ややかな声に、シーラとヨエルはジルヴィウスへと目を向ける。
ジルヴィウスは真っ直ぐシーラを見つめると、手を差し出した。
「こちらへ戻れ、シーラ」
「でも……」
兄へと視線を向ければ、彼はわずかに口角を上げ、姿勢を正した。
「ジルヴィウスの元に戻れ、シーラ。……きちんと、話をしよう」
自分と同じ若草色の瞳は、決意に煌めいていた。
シーラは二人の顔を交互に見ると、小さく「うん」と頷き、ジルヴィウスの元へと戻る。促されるまま隣に座れば、ジルヴィウスはシーラの腰を抱き、長い足を組んだ。
「シーラはお前を責めていない。後悔も反省も、一人で勝手にしていろ。こいつを巻き込むな」
「……そうだな。お前の言う通りだ、ジルヴィウス」
兄は深く息を吸い込み、再び滲んだ涙を拭うと、シーラへと目を向けた。
「ジルヴィウスから聞いた。俺に訊きたいことがあると」
「あ、うん……でも……」
シーラは、ちらりとジルヴィウスを見上げる。けれど、視線に気付いているはずの彼はシーラに目を向けず、つまらなそうに窓の外を見ていた。
シーラの疑問の答えを、ジルヴィウスは知っていそうだった。でなければ、「口車に乗せられた」などという言葉は出てこないだろう。
何故知っているのか。事前に会いに来ていたときに聞いたのか。気になることはある。けれど、今はどうやら答える気はなさそうだ、とシーラは視線を兄へと戻した。
ただ黙って言葉を待つ兄に、シーラは深く息を吸い込むと、そっと口を開く。
「いくつか聞きたいことがあるんだけど……まず、お兄様はどうして、わたしが魔力消化体質者だってことをずっと黙ってたの? ジルにいろいろ教えてもらったから、守るためだったいうのはわかるんだけど、その……」
「そうだな。お前が疑問に思うのも当然だ。……魔力消化体質者の特例事項を知れば、当然抱く疑問だ」
「あの、でも、お兄様のことを責めるつもりは――」
「わかってる」
ヨエルは力強く頷くと「大丈夫だ」と笑い、言葉を続けた。
「 “魔力消化体質者は己の意思のみで伴侶を決めることができる”……この特例事項については、ずっと前から俺も知ってた。お前が魔力消化体質者だと知ったとき、一通りのことは調べたからな。だから……本来なら、あのとき……北部公爵家からの縁談が舞い込んで来たときに、お前に言わなければならなかった。お前に魔力消化体質者であることを伝えて、魔力消化体質者の特例事項を教えて、断っても何の問題もないから、断っていいんだって言うべきだった」
話しながら、兄の表情はどんどん険しくなっていく。深い後悔の滲む表情を浮かべながら、兄は「でも」と続けた。
「あのとき……本当は断るつもりだったんだ。妹にはずっと慕ってる人がいるからって。まだ打診もしていないからどうなるかわからないけど、それでも妹を売るようなことはしたくないって。でも、あいつが……エルネストが言ったんだ。お前がジルヴィウスを好きなのは、本当に純粋な好意なのかって。お前が……洗脳されてる可能性があるんじゃないかって」
組んだ手に力を入れながら、ヨエルは苦々しそうに息を吐き出す。
ひどく顔を顰めている兄を見つめながら、シーラはただ呆然とした。
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