3 / 55
3.すがちゃんとピアノ――ジムノペディ
しおりを挟む
翌日、午前中で今日のバイトを終えた僕は相変わらず空腹と暇、そして寒い財布を抱え行く当てもない。結局駅構内に足を向けるしかなかった。単なる暇つぶしのつもりだった。
ピアノのことなんかどうでもよかった。いや、頭の中になかった。やはり僕は音楽を、ピアノを、捨てたのだ。そう胸に刻み込むようにしながらも僕は、駅ピアノのあるコンコースに向かって歩みを進めた。
でも、音楽もピアノももうどうでもいいと思っていたなら、僕はなぜ駅に向かったんだろう。そう思った時、昨日初めて会った彼女の大きくてきれいな瞳が頭に浮かんだ。
駅ピアノに行ってみたものの藍はそこにはいない。話が違う、と僕は少しいらだった。なにも弾かずに駅を出る。
僕は一人活力亭ラーメンで塩ラーメンを食ったが、そこにも藍はいなかった。きっと忙しいのだろう、と思い直して藍のことは忘れようとした。今日はこのあと半日ずっと空いている僕はどうしようもなく暇を持て余していた。
あまりにもすることがない。
仕方がない、溜息を吐いて暇つぶしに一曲くらい弾いてやろうかと思った。それに、昨日弾いた月光ソナタの第三楽章。あれを弾き切った瞬間、ほんの一瞬だけだけど僕は爽快感を感じたことを思い出した。僕はなぜかそんなことを思い起こしていた。音楽にはすっかり嫌気がさしていたはずなのに、どうしてそんな気分になれたのか不思議だった。だがもう一度でいい、僕は無性にそんな気分に浸りたくなっていた。
午後二時半過ぎ、僕はピアノ椅子に座り集中する。この弾く直前の緊張感。そう言えば僕はこの緊張感も好きだったことを思い出す。そして僕にしては珍しくゆったりとして穏やかな曲調の曲を弾いてみた。ゆっくりと、苦しむように弾く。
この苦しみが心地よい。
僕自身の心は不思議と穏やかになっていった。
演奏を終え席を立つ。いつも通りのまばらな拍手とは別にひときわ盛大に手を叩く音が聞こえた。そちらの方を振り向く。拍手の主はしゃれた分厚いコートを着て大きな荷物をいくつも抱えたすがちゃんだった。なんだか古代の巨大ペンギンのように見えなくもない。
称賛の眼差しで鳶色の瞳をきらきらと輝かせるすがちゃん。僕はなんだかひどく恥ずかしいことをしたところを見とがめられたような気がしてそそくさと逃げ出した。
荷物を抱えたすがちゃんが大声で何か言いながら僕を追いかけ追いつきぎゅっと袖をつかむ。見た目はペンギンなのにすごい速さだ。すがちゃんの息が荒い。よほど息せき切って走ってきたのだろう。
「もうっ、逃げることないじゃないですか。ひどい」
息を切らせふくれっ面をしたすがちゃんを見て僕は少し申し訳ない気持ちになった。
「す、すいません。追いかけられたのでつい」
「まあっ、私が悪かったんですか?」
「あ、いや、すいません。僕のせいです」
「ふふっ。素直でよろしい」
すがちゃんは息を整えながら、僕を子ども扱いするような言い方をして、少しおどけた顔をする。
「でもなんで追いかけてなんて」
「もちろん素晴らしい演奏をありがとうございますって言おうと思って。とってもきれいな曲。あれはなんて言うんですか」
「エリック・サティのジムノペディ、1番と3番です」
「ジムノペディ。なんだか名前の響きまできれいなんですね」
「曲調もロマンチックですね」
「ほんとそうね、ロマンチック。想さんってとってもピアノお上手なんですねえ。私感激しました」
「いやいや、お耳汚しで本当にお恥ずかしい限りです」
これからもここへ来るかも知れないことを言おうと思ったが、そうすると藍といるところを見られてしまいそうだ。下手をすると鉢合わせだ。なぜかは分からないがそれだけは絶対に避けたかった。藍のことですがちゃんに変な誤解を生みたくなかった。僕は話題を変えた。
「どうしたんですか、その荷物」
「今日明日の食材。車を修理に出していて。よいしょ。七重浜にいいお肉屋さんがあるんです。でもご主人、お年な上に膝が悪いのでなかなか配送がままならなくて。よいしょ」
「あ、僕持ちますよ」
「あらだめですよ、大事なお客さまに荷物持ちさせるだなんて」
「今はお客さんじゃないからいいですよね」
と僕は笑いながら強引に大きなエコバッグを一つ取り上げる。
「もう……」
そう言って苦笑いしたすがちゃんは観念したようで、僕の言う通り荷物の殆どを僕に引き渡した。これ、めちゃくちゃ重いぞ。
冨久屋まで駅から歩いて十分少々。僕たちは冷たい北風にあおられながら和やかに談笑する。こうして店の外ですがちゃんと笑いながら話せるなんて。寒さなんて忘れるくらい嬉しくなった僕は、ちょっとしたデート気分を味わった。すがちゃんといると本当に心が和んで暖かくなる。
開店前の冨久屋に入るのはこれが初めてだった。すがちゃんは店に着くなり仕込み中の長さんに「長さん長さん、想さんすっごくピアノが上手なんですよ! 私感動しちゃって!」と興奮気味に言う。いつものどこかしら陰のある表情と違って明るいすがちゃんを見た長さんは、一瞬少し驚いた顔をしたものの「そうですか、よかったですね」と不愛想に答える。しかしその眼はどこか優しく笑っていたようにみえた。
その後も駅での出来事の一部始終を目を輝かせて歌うように語るすがちゃん。その笑顔と声は本当に可愛らしくていつまでも見ていたい。またすがちゃんのために演奏するくらいならしてもいいかな、とそう思った。
◆次回
4.暗雲
2022年4月4日 21:00 公開予定
ピアノのことなんかどうでもよかった。いや、頭の中になかった。やはり僕は音楽を、ピアノを、捨てたのだ。そう胸に刻み込むようにしながらも僕は、駅ピアノのあるコンコースに向かって歩みを進めた。
でも、音楽もピアノももうどうでもいいと思っていたなら、僕はなぜ駅に向かったんだろう。そう思った時、昨日初めて会った彼女の大きくてきれいな瞳が頭に浮かんだ。
駅ピアノに行ってみたものの藍はそこにはいない。話が違う、と僕は少しいらだった。なにも弾かずに駅を出る。
僕は一人活力亭ラーメンで塩ラーメンを食ったが、そこにも藍はいなかった。きっと忙しいのだろう、と思い直して藍のことは忘れようとした。今日はこのあと半日ずっと空いている僕はどうしようもなく暇を持て余していた。
あまりにもすることがない。
仕方がない、溜息を吐いて暇つぶしに一曲くらい弾いてやろうかと思った。それに、昨日弾いた月光ソナタの第三楽章。あれを弾き切った瞬間、ほんの一瞬だけだけど僕は爽快感を感じたことを思い出した。僕はなぜかそんなことを思い起こしていた。音楽にはすっかり嫌気がさしていたはずなのに、どうしてそんな気分になれたのか不思議だった。だがもう一度でいい、僕は無性にそんな気分に浸りたくなっていた。
午後二時半過ぎ、僕はピアノ椅子に座り集中する。この弾く直前の緊張感。そう言えば僕はこの緊張感も好きだったことを思い出す。そして僕にしては珍しくゆったりとして穏やかな曲調の曲を弾いてみた。ゆっくりと、苦しむように弾く。
この苦しみが心地よい。
僕自身の心は不思議と穏やかになっていった。
演奏を終え席を立つ。いつも通りのまばらな拍手とは別にひときわ盛大に手を叩く音が聞こえた。そちらの方を振り向く。拍手の主はしゃれた分厚いコートを着て大きな荷物をいくつも抱えたすがちゃんだった。なんだか古代の巨大ペンギンのように見えなくもない。
称賛の眼差しで鳶色の瞳をきらきらと輝かせるすがちゃん。僕はなんだかひどく恥ずかしいことをしたところを見とがめられたような気がしてそそくさと逃げ出した。
荷物を抱えたすがちゃんが大声で何か言いながら僕を追いかけ追いつきぎゅっと袖をつかむ。見た目はペンギンなのにすごい速さだ。すがちゃんの息が荒い。よほど息せき切って走ってきたのだろう。
「もうっ、逃げることないじゃないですか。ひどい」
息を切らせふくれっ面をしたすがちゃんを見て僕は少し申し訳ない気持ちになった。
「す、すいません。追いかけられたのでつい」
「まあっ、私が悪かったんですか?」
「あ、いや、すいません。僕のせいです」
「ふふっ。素直でよろしい」
すがちゃんは息を整えながら、僕を子ども扱いするような言い方をして、少しおどけた顔をする。
「でもなんで追いかけてなんて」
「もちろん素晴らしい演奏をありがとうございますって言おうと思って。とってもきれいな曲。あれはなんて言うんですか」
「エリック・サティのジムノペディ、1番と3番です」
「ジムノペディ。なんだか名前の響きまできれいなんですね」
「曲調もロマンチックですね」
「ほんとそうね、ロマンチック。想さんってとってもピアノお上手なんですねえ。私感激しました」
「いやいや、お耳汚しで本当にお恥ずかしい限りです」
これからもここへ来るかも知れないことを言おうと思ったが、そうすると藍といるところを見られてしまいそうだ。下手をすると鉢合わせだ。なぜかは分からないがそれだけは絶対に避けたかった。藍のことですがちゃんに変な誤解を生みたくなかった。僕は話題を変えた。
「どうしたんですか、その荷物」
「今日明日の食材。車を修理に出していて。よいしょ。七重浜にいいお肉屋さんがあるんです。でもご主人、お年な上に膝が悪いのでなかなか配送がままならなくて。よいしょ」
「あ、僕持ちますよ」
「あらだめですよ、大事なお客さまに荷物持ちさせるだなんて」
「今はお客さんじゃないからいいですよね」
と僕は笑いながら強引に大きなエコバッグを一つ取り上げる。
「もう……」
そう言って苦笑いしたすがちゃんは観念したようで、僕の言う通り荷物の殆どを僕に引き渡した。これ、めちゃくちゃ重いぞ。
冨久屋まで駅から歩いて十分少々。僕たちは冷たい北風にあおられながら和やかに談笑する。こうして店の外ですがちゃんと笑いながら話せるなんて。寒さなんて忘れるくらい嬉しくなった僕は、ちょっとしたデート気分を味わった。すがちゃんといると本当に心が和んで暖かくなる。
開店前の冨久屋に入るのはこれが初めてだった。すがちゃんは店に着くなり仕込み中の長さんに「長さん長さん、想さんすっごくピアノが上手なんですよ! 私感動しちゃって!」と興奮気味に言う。いつものどこかしら陰のある表情と違って明るいすがちゃんを見た長さんは、一瞬少し驚いた顔をしたものの「そうですか、よかったですね」と不愛想に答える。しかしその眼はどこか優しく笑っていたようにみえた。
その後も駅での出来事の一部始終を目を輝かせて歌うように語るすがちゃん。その笑顔と声は本当に可愛らしくていつまでも見ていたい。またすがちゃんのために演奏するくらいならしてもいいかな、とそう思った。
◆次回
4.暗雲
2022年4月4日 21:00 公開予定
0
あなたにおすすめの小説
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
【大賞・完結】地味スキル《お片付け》は最強です!社畜OL、異世界でうっかり国を改革しちゃったら、騎士団長と皇帝陛下に溺愛されてるんですが!?
旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞で大賞をいただきました】→【規約変更で書籍化&コミカライズ「確約」は取り消しになりました。】
佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。
新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。
「せめて回復魔法とかが良かった……」
戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。
「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」
家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。
「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」
そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。
絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。
これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
婚約破棄の代償
nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」
ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。
エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる