月と影――ジムノペディと夜想曲

永倉圭夏

文字の大きさ
10 / 55

10.巨匠

しおりを挟む
 函館は日本でも人気実力ともに日本屈指のロックバンドの聖地だ。そのためこの駅ピアノでもそのバンドの曲を弾く人がとても多い。多くは独学のようだが、そのバンドに対する深い愛着が感じられる。ここは音楽の街と言ってもよさそうだ。
 今日この駅ピアノに来た時も、そのバンドの曲を弾く若い男性がいた。若いと言っても僕より年上みたいだ。その人は多分プロだと思う。正確な技巧と豊かな表現力はなかなかのものだ。見ればビデオカメラで撮影している人がいる。空腹を抱えた僕はそんな様子をぼんやりと眺めていた。

「動画撮ってんだね」

 すぐ隣で藍の声がしたのでぎょっとした。驚きのあまり思わず声が出る。

「びっくりした!」

 藍は笑いをかみ殺して唇に人差し指を当てた。

「しー」

 本当に神出鬼没な奴だ。
 また、さり気なく僕にピッタリとくっついて来ようとするので、僕はそれを引き剥がした。

 演奏が終わり大きな拍手も鳴りやんで、男性たちがいなくなると、駅構内はつかの間静けさを取り戻す。微かな雑踏のざわめきだけが駅の空間を満たしていく。

 僕は背後に人影を感じた。そちらを振り向くとやせ形で背の高いひげをぼうぼうにはやした外国人が立っていた。どこかで見たことがあるが、どうにも記憶があいまいで思い出せない。
 彼は顎髭を撫でながら、隣の背が低い女性に何か言うとピアノに向かって大股に、颯爽として歩いて行く。椅子に掛けるとおもむろに弾き始めた。弾き始めるや否や僕も藍も目を丸くする。
 彼が弾き始めた曲はリストのパガニーニによる超絶技巧練習曲第4番「マゼッパ」だったのだ。「超絶技巧」の名にふさわしく、初稿の楽譜では演奏不可能と言われ、幾度も難度を落として改稿されたものが現在の楽譜と言われる。それでもこの音符の多さはそうそうは弾けるものではない。僕たちは彼のテクニックに息を呑んだ。テクニックだけではない。その美しい旋律も超絶的だった。僕もそして多分藍も鳥肌が立っていたに違いない。
 これだけの曲をいとも容易たやすく弾いてのけた彼が演奏を終えると、いつもよりは多めの拍手が沸き起こる。僕たちも手が痛くなるくらいの拍手をし、藍は「ブラボー!」と叫んだ。

 彼がまた僕の背後に戻って時計をちらりと見ると次の演奏を聴く様だ。そしてその次は、僕だった。
 ギャラリーの中から「次の人やりにくいよねえ」と意地の悪いささやきが聞こえる。
 それならいっそ野心的な選択をしてみようと僕は思った。当初頭にあったチャイコフスキーの舟歌から、ショパンの12の練習曲エチュードOp.10-4に切り替える。あの奏者に喰らい付いてやりたい。そう考えるだけで僕は胸がわくわくした。この生まれて初めて感じる昂揚感に包まれながら僕はピアノの前に座る。もともと得意だった曲だ、それにテクニックだけなら僕だってほんの少しでもやれそうな気がした。
 この曲を弾く度に僕は思っていた。なんという疾走感、幻惑されるようなきらびやかさ、指も手も腕も試される素早さ。肘から下が悲鳴を上げているのに楽しい。楽譜についていけている自分が嬉しい。そんなことを思い出していた。これが長さんの言っていた「演奏が上手くいった時は嬉しいものでしょう」という感覚だったのか。
 演奏を終えた僕は今までで一番ミスタッチも少なく、充分な手ごたえを感じた。僕の中ではここに来てからベストの演奏だった。藍が後ろで歓声をあげている。拍手の数もいつもよりほんの少し多いかも知れない。僕は藍の隣に戻り感想を聞いてみた。

「どう?」

 藍は目を輝かせて言う。

「今までで最高だったんじゃない? すごいよ!」

「そんなに?」

「そんなに!」

「失礼します」

 声がするのでそちらを向く。背の低い女性が僕のすぐそばまで来ていた。

「あの。クラシックをやってらっしゃるんですか?」

「あ、はい。音大生だったんですが、今はちょっとあって……」

 僕は最後の部分を濁す。

「ああ、それで。実は、大変上手だったと『彼』が……」

 女性が手で指したのは先ほどの背が高いひげもじゃの外国人だった。

 その瞬間僕の頭の中で閃光が走る。

「ジュラフスキー!」

「えっ、あのひげおっさんが、ジュラフスキー?」

 驚いた僕の声を受けて藍も驚く。
 僕は彼の目の前であんな演奏をしたことを恥じた。なんといっても彼はペライア、アルゲリッチ、ツィンマーマンらと肩を並べる世界の第一線で活躍中のピアニストなのだから。
 顔を真っ赤にして身体を硬直させ身動きの取れない僕に代わって、ジュラフスキーの方から僕に近づく。

Здравствуйтеズドラーストヴィチェ(こんにちは)」

 にこやかに握手を求めてくるジュラフスキー。その気さくさに僕は胸を打たれた。僕は片言のロシア語を交えて震えながら応えた。

Добрыйドーブライ деньヂェン(こんにちは)、あ、あの、お会いできて光栄です。とても感激しています」

 笑顔をたたえた藍が脇から割り込んできて握手を求める。

Здравствуйтеズドラーストヴィチェ

 ジュラフスキーは嫌な顔一つせず藍に応える。

Здравствуйтеズドラーストヴィチェ

 背の低い女性は通訳だろう、僕の言葉を訳しているようだ。するとジュラフスキーが色々通訳に語り掛ける。そして通訳が僕に語り掛ける。

「素晴らしい演奏でした。あなたの若さでこれだけ弾ける人は多くはないでしょう。ただ表現力にはとても大きな課題が残されているように思います。不思議なのはそれでもどこかとても心に残るものがあることです。とても魅力的です。これからも向上心を持って精励すると良いと思います」

 講評された。僕の演奏がジュラフスキーに講評された! 僕はもう天にも昇る気持ちだった。僕は「ありがとうございます!」と言って深々と頭を下げた。

 またジュラフスキーと通訳の女性が色々と話してから、彼女が僕の方を向く。

「近々またここを訪れる機会があります。その時またお会いしたいです。またあなたの演奏を聴かせて欲しいです。その時まで頑張って学んでください」

「はい、はいっ!」

 ジュラフスキーに何かを言われた通訳がため息をついて分厚いファイルの中から二枚の券を出す。

「それとこれが来週のリサイタルのチケットです。良い席ではないのですが良かったら聴きに来てください」

 僕と藍は色めき立った。

「もちろんです! 喜んで聴きに行きます!」
「私も? 私ももらっていいんですか?」

「もちろんです。こちらのお嬢さんは大切なパートナーなんですよね」

「やだもう……」
「いや違うんです違うんですそうじゃないんですそれは大きな誤解で」

 あほみたいに照れる藍と慌てる僕を見て通訳は不思議そうな顔をする。が、気を取り直してまたジュラフスキーの言葉を通訳する。

「楽屋にもいらっしゃい。歓迎しますよ」

 通訳が名刺を渡す。僕は驚いた。なんということだ。それだけ僕の演奏がジュラフスキーに評価されたということなんだろうか。僕は感激のあまり茫然としていた。

 ジュラフスキーは腕時計を見ると、いそいそと床に置いたかばんを手に取る。

「さて、時間が来ましたのでこれで。彼は時間にはうるさいのでね。それでは。思いの外若々しくていい演奏が聴けて良かったです。ええと」

 上機嫌のジュラフスキーが手を差し出す。僕はそれをしっかり握って答えた。

「奏輔、奏輔・入江です」

「あたしは藍・高溝」

хорошоハラショー。ではСоскеソースケАйアイいずれまたここで」

「ありがとうございました」

дo свиданияダヴィスダーニァ спасибоスパシーヴァ

 ジュラフスキーと通訳は足早に駅の外へ向かって歩いて行く。

 僕は藍が意外と流ちょうにロシア語であいさつしたことに驚いた。ジュラフスキーの後ろ姿を見つめながら藍に訊く。

「藍、ロシア語できるのか?」

「ふふふ、あたしの特技は語学なんだなあ」

「意外な才能」

「意外って何?」

「いや、なんでも」

 僕たちは活力亭ラーメンで塩ラーメンを食べている間でも興奮してあれやこれやとしゃべり通しだった。

 僕たちはラーメン屋で解散して僕はバイトに出かける。その帰り、僕はいつも通り冨久屋に向かった。冨久屋ののれんをくぐった僕の顔を見てすがちゃんが嬉しそうな顔をした。

「いらっしゃいませ。あら」

「どうしました?」

「ええ、なんだかすっごく嬉しそうですね」

 すがちゃんまで嬉しそうな顔で僕を迎える。

「ええ、すっごく嬉しいことがあったんですよ」

「まあ」

 僕は長さんにも聞こえるように言った。

「今日高名なピアニストのジュラフスキーに会って、僕の演奏のテクニックがいいって褒めてくれたんですよ」

 長さんの耳がぴくぴくっと反応した。

「もっとも表現力はひどいそうですが……」

「まあ……」

 苦笑いをする僕にすがちゃんが気遣うような表情を見せ、お通しとおしぼりを僕の前に置いた。

「それでもテクニックの面ではそれなりに聴けるということですから僕としては自信がつきました。すがちゃん、燗酒と冷奴下さい」

「はあい」

 笑顔で注文を受けるすがちゃん。長さんは心なしかうんうんと頷いたようにも見える。

 これから練習に励んでジュラフスキーにどんな音楽を聴かせられるか、僕はわくわくしながら頬杖をついて、右手はラヴェルの水の戯れを奏でていた。

◆次回
11.ロールキャベツ
2022年4月11日 21:00 公開予定
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

【大賞・完結】地味スキル《お片付け》は最強です!社畜OL、異世界でうっかり国を改革しちゃったら、騎士団長と皇帝陛下に溺愛されてるんですが!?

旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞で大賞をいただきました】→【規約変更で書籍化&コミカライズ「確約」は取り消しになりました。】 佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。 新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。 「せめて回復魔法とかが良かった……」 戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。 「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」 家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。 「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」 そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。 絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。 これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

婚約破棄の代償

nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」 ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。 エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

処理中です...