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11.ロールキャベツ
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僕はそれ以来、昼には駅ピアノへ足が向くようになっていった。ジュラフスキーに技術面だけでも一定の評価を得て自分に自信がついたからかもしれない。しかし音楽を捨ててから二年。その間僕のピアノにどんな変化があったのか、それは自分でもよくわからない。長さんに言われた言葉「音楽が好きなんでしょう?」に自信を持って答えられるものが僕にはなかった。
駅ピアノに行く理由はほかにもあるかもしれない。例えば藍の演奏に心がザワついて僕も無性に弾きたくなるから、とかだろうか。しかし、必ずしもポジティブな感情だけが湧き上がるわけではない。嫉妬、羨望、絶望、怒り、様々な負の感情も同時に噴き出てくる。それに対し僕は自分の演奏でそれらを払拭しようとする。そして結局僕の拙い力では藍の演奏に太刀打ちできずにまた負の感情に苛まれるのだ。とにかく藍の演奏は僕の心を大きく揺らす。胸が熱く、そして苦しくなる。藍はきっとスケールの大きな演奏家になる。間違いなく彼女は天才だ。僕はそう確信するようになっていった。
こんな感覚は今までないものだったし、今までにない演奏体験でもあった。音大での僕とライバルたちの実力差を見せ付けられた時の感情とは何かが違う。悔しいだけではない何か。その何かが何なのか僕にはよくわからなかった。それに藍には到底敵わないないと言えども、いざ演奏をしてみると不思議に気分のよいものも感じた。これもあまり感じたことのない感覚だった。今まで僕の演奏はいつも苦痛の上に成り立っていたのだから。僕は藍の演奏、そして藍との演奏を通じて確かに変わりつつある自分を感じていた。
このようにして「音楽を捨てた」はずの僕は駅ピアノへ通いつづけた。
まず彼女が一曲、それを受けて僕が一曲弾くのがいつものことだった。気が向けばさらに連弾を弾いたり彼女のバイオリンに合わせて僕がピアノを弾くこともあった。それが終われば僕たちは昼食を食べに行って解散する。時間とお金があれば音楽教室の練習室を借りて僕一人で練習もした。そして夜になったら冨久屋に行く。たったそれだけの毎日。そんな生活がもう三週間も続いていた。それが僕には不思議と心地いい。
今日は開店とほぼ同時に冨久屋へ行く。他の客はいなかった。
「あら、いらっしゃい。想さん今日はお早いのね」
すがちゃんのはじけるように明るい声が狭い店内に響く。いつもの落ち着いていてどこか陰のあるすがちゃんらしくない。驚いた僕はすがちゃんをまじまじと見つめる。白いタートルネックセーターに地味で素朴なロングスカート、分厚い黒いタイツ、薄いベージュの大き目なエプロンといったいでたちは変わらなかった。が、髪は僅かに明るく染められ、僕にはよくわからないが多分ハーフアップと言う髪型になっているようだ。
そのあまりの清楚かつ大人っぽい可愛らしさに僕は絶句した。頭に血が一気に上り眩暈がしてくるほどきれいだった。
「どうかしました?」
すがちゃんがゆっくり回転しながらいたずらっぽい目で僕を見る。
「すごく、素敵なので……」
僕は頭をぽーっとさせたままそう答えるのがやっとだった。
「ありがとっ、お上手ね。ふふふっ」
今度は勢いよくくるっと一回転する。ふわっとスカートが広がる。どうしよう、死ぬほど可愛らしい。心臓の動悸が収まらぬまま僕はいつもの席に座る。動悸を隠しあくまで平常心を装い僕はすがちゃんに尋ねた。
「なんだかとっても嬉しそうですね。いいことでもあったんですか」
すがちゃんはお通しとおしぼりを僕の前に置くと、満面の笑みで答えた。
「そうなの。すごくいいことがあって!」
「へえ、どんないいことなんですか? あ、焼酎お湯割りと煮びたし下さい」
「それは機密事項なんです、焼酎今お持ちしますね」
今日僕に向けられるすがちゃんの視線は、いつか二人きりでこの店にいた時とほんの少しだけ似ている。あの全身が燃えるように熱くなる視線だ。
「私ね、ようやく自由になれたの」
「自由?」
焼酎のお湯割りを僕の前に置いたすがちゃん。今度は急に寂しそうに微笑む。
「そ、お金の自由、人付き合いの自由、時間の自由を失って……」
僕には何のことを言っているのかよくわからなかった。
「それに暴力から身を守る自由も……」
ことりと煮びたしの小鉢を僕の前に置きながらすがちゃんは囁くように呟いた。そのあまりにも不穏な言葉に僕はぞっとした。
「暴力……?」
「でももう全部取り戻したの。だから私、今すごく幸せ」
「僕にはよく分からないんですが、なんだかとても大変な目に遭われたみたいですね。でもとにかく今は自由になれてよかった。本当によかったです」
「ありがとう。やっぱり想さんって優しい」
僕の胸が苦しくなるその笑顔でほほ笑みかけるすがちゃん。口調もいつもの冨久屋の時と違う。
「どうもこんばんは」
「いやしばれるねえ」
二人の常連客が入って来る。すがちゃんはそちらのお客さんの方を向いて歩み寄る。しかしさっきすがちゃんが常連客たちの方へ向きを変える時、横目でちらりと僕の方を見ていた気がする。
冨久屋の中にはどこかほっとするいつものざわめきが流れていた。僕は今日の駅ピアノで弾いたラヴェルのソナチネ第一楽章を頭の中で復習していた。右手が自然となめらかに動く。音大にいた頃、教授に言われた表現力の不足という言葉が未だ僕に突き刺さる。
客もまばらになったころ、すがちゃんが他の客の死角から後ろ手に小さく手を振る。こちらを横目で見ていた。恐らくこの間の時と同じように閉店後会おうということなのだろう。僕も少し笑って小さく頷いた。
どういう訳か長さんはまた用事があると言って閉店前に店を出た。僕たちは二人だけでふざけ合いながら戸締まりをし、店内の明かりのほとんどを消した。そしてカウンターのすぐ隣り合った席に座る。すがちゃんは紙袋を持っていた。また、僕の席の前にはお銚子とイカカズノコが置かれている。一度くらいならお言葉に甘えてもいいけど、そう何度もしてもうらうのは忍びない。後でお代を払うと言ってもすがちゃんは頑として首を縦には振らなかった。本当に頑固なところがある。
僕はカウンターに片肘をついて、すがちゃんはこの間と同じようにカウンターに突っ伏して僕たちは話し込む。お客さんのこと。クラシック音楽は奏者や指揮者によってまるで違う曲になること。最近の天気、連弾とは何か。長さんのこと。ピアノ奏者にとってショパンはやはり特別な思いで弾くこと。二人きりの会話は前回の時以上に楽しかったが僕にはどこか物足りなかった。僕もこの間の時のようにカウンターに上半身を投げ出そうかと思ったところで、すがちゃんが身体を起こして足元の紙袋をがさがささせながら、何のことかよくわからない話をしてくる。
「想さん、お食事偏ってない? お野菜足りてる?」
僕の食生活は基本朝抜き、昼は藍とラーメンか海鮮丼か定食を、夜はここ冨久屋で酒と安い肴を少し、といった具合で栄養学的には最悪と言ってよさそうなものだった。
「いやそれが全然足りてません、多分」
話の行き先が見えないまま僕は答える。
するとなぜか我が意を得たりといった表情ですがちゃんが紙袋の中から箱のようなものを両手に持って突き出してくる。
「やっぱり。そんな想さんに、と思って、これ」
「これ?」
まじまじと見ると、それは何やら幾つかの塊がごろごろ詰まったタッパーだった。
「ロールキャベツ作ってみたの、久々に」
「ああ」
これってロールキャベツだったのか。しかし、煮しめたキャベツなんて野菜不足にいいんだろうか。しかも野菜が高いだろうこの季節に作るものなんだろうか。料理のことなどよく判らない僕には色々な面でちょっと疑問だった。それに、すがちゃんからこうして差し入れをしてもらえるなんて胸躍る出来事だが、その好意を素直に受け入れていいものだろうか。
「あの…… すごくありがたいんですが、どうして僕になんか?」
「うーん……」
ほほ笑みから思案顔になり、顎に人差し指を当てて小首をかしげるすがちゃんが可愛い。
「理由は…… キャベツが安かったから?」
と可愛く言うすがちゃんに、この冬の季節に野菜が安いなんてそんなことはあるのかと、僕は心の中で突っ込んでしまった。
「それに最近想さん顔色が悪かったんですよ。冨久屋でも一、二を争う常連さんに具合を悪くされて、うちに来れなくなったら、うちとしても甚大な経済的損失ですもの。それを回避するための投資だと思って」
常連と言っても安いものしか頼まないんだけどな、と心の中で苦笑いをする。それに比べてすがちゃんの手料理ではあまりにも比重が違いすぎる気がして、僕はまだ少し合点がいかなかった。
「はあ、投資、ですか、ロールキャベツが」
どう聞いても強引に丸め込もうとしているようにしか思えない。
「ですから私の投資、食べてもらえないかしら? 折角作ったんだもの。このとおり。お願い」
またもや可愛くお願いされてしまった。ここまで言われると僕にはもう断る理由なんて見つからなかった。
「分かりました。それでは遠慮なくいただきます。光栄です」
ロールキャベツの詰まったタッパーを受け取る。
「光栄だなんてそんな。あ、でも味はあまり期待しないでね」
「またそんなことを言って。そんなことを言われたら余計期待してしまいます」
「いやだ! 本当に大したものじゃないの」
すがちゃんは恥ずかしそうな顔で笑いながら僕の肩を軽く叩いてそう言った。僕はその柔らかい手の感触にドキッとする。
僕はタッパーの入った紙袋をありがたく頂戴した。
冨久屋を出る時もすがちゃんはなんだかとっても嬉しそうだった。二人でコートを羽織りながらすがちゃんは言った。
「あの、ロールキャベツのこと他の方には内緒で。恥ずかしいから。ああ、それと爪楊枝が刺さってるので気を付けてね」
すがちゃんと二度にわたって二人っきりの秘密の時間を過ごしたことがなんだか嬉しくて、小雪ちらつく寒い帰り道も僕の足取りは軽かった。
小腹の空いた僕は帰宅して早速ロールキャベツを温める。電子レンジなんて気の利いた文明の利器などない我が家では、いちいち鍋で温めなくてはならない。
ホカホカと湯気を上げるロールキャベツを粗末な皿にあける。テーブルに置いて箸で割ってみる。柔らかい。よく煮込んであるんだろう。ひとくち口に放り込んでみた。なんだこれ、めちゃくちゃ美味いじゃないか。期待以上だ。僕はがつがつと貪るように食べた。すがちゃんの気づかいが僕の胃と胸に染みてくる。僕は温かな幸せを噛みしめた。
その瞬間藍の顔が目に浮かんだ。なぜだかわからないがものすごく怒った顔だ。僕はそんな藍に心の中で謝りながら、二食分はありそうなロールキャベツを七割がた食べてしまった。
◆次回
12.リサイタル
2022年4月12日 21:00 公開予定
駅ピアノに行く理由はほかにもあるかもしれない。例えば藍の演奏に心がザワついて僕も無性に弾きたくなるから、とかだろうか。しかし、必ずしもポジティブな感情だけが湧き上がるわけではない。嫉妬、羨望、絶望、怒り、様々な負の感情も同時に噴き出てくる。それに対し僕は自分の演奏でそれらを払拭しようとする。そして結局僕の拙い力では藍の演奏に太刀打ちできずにまた負の感情に苛まれるのだ。とにかく藍の演奏は僕の心を大きく揺らす。胸が熱く、そして苦しくなる。藍はきっとスケールの大きな演奏家になる。間違いなく彼女は天才だ。僕はそう確信するようになっていった。
こんな感覚は今までないものだったし、今までにない演奏体験でもあった。音大での僕とライバルたちの実力差を見せ付けられた時の感情とは何かが違う。悔しいだけではない何か。その何かが何なのか僕にはよくわからなかった。それに藍には到底敵わないないと言えども、いざ演奏をしてみると不思議に気分のよいものも感じた。これもあまり感じたことのない感覚だった。今まで僕の演奏はいつも苦痛の上に成り立っていたのだから。僕は藍の演奏、そして藍との演奏を通じて確かに変わりつつある自分を感じていた。
このようにして「音楽を捨てた」はずの僕は駅ピアノへ通いつづけた。
まず彼女が一曲、それを受けて僕が一曲弾くのがいつものことだった。気が向けばさらに連弾を弾いたり彼女のバイオリンに合わせて僕がピアノを弾くこともあった。それが終われば僕たちは昼食を食べに行って解散する。時間とお金があれば音楽教室の練習室を借りて僕一人で練習もした。そして夜になったら冨久屋に行く。たったそれだけの毎日。そんな生活がもう三週間も続いていた。それが僕には不思議と心地いい。
今日は開店とほぼ同時に冨久屋へ行く。他の客はいなかった。
「あら、いらっしゃい。想さん今日はお早いのね」
すがちゃんのはじけるように明るい声が狭い店内に響く。いつもの落ち着いていてどこか陰のあるすがちゃんらしくない。驚いた僕はすがちゃんをまじまじと見つめる。白いタートルネックセーターに地味で素朴なロングスカート、分厚い黒いタイツ、薄いベージュの大き目なエプロンといったいでたちは変わらなかった。が、髪は僅かに明るく染められ、僕にはよくわからないが多分ハーフアップと言う髪型になっているようだ。
そのあまりの清楚かつ大人っぽい可愛らしさに僕は絶句した。頭に血が一気に上り眩暈がしてくるほどきれいだった。
「どうかしました?」
すがちゃんがゆっくり回転しながらいたずらっぽい目で僕を見る。
「すごく、素敵なので……」
僕は頭をぽーっとさせたままそう答えるのがやっとだった。
「ありがとっ、お上手ね。ふふふっ」
今度は勢いよくくるっと一回転する。ふわっとスカートが広がる。どうしよう、死ぬほど可愛らしい。心臓の動悸が収まらぬまま僕はいつもの席に座る。動悸を隠しあくまで平常心を装い僕はすがちゃんに尋ねた。
「なんだかとっても嬉しそうですね。いいことでもあったんですか」
すがちゃんはお通しとおしぼりを僕の前に置くと、満面の笑みで答えた。
「そうなの。すごくいいことがあって!」
「へえ、どんないいことなんですか? あ、焼酎お湯割りと煮びたし下さい」
「それは機密事項なんです、焼酎今お持ちしますね」
今日僕に向けられるすがちゃんの視線は、いつか二人きりでこの店にいた時とほんの少しだけ似ている。あの全身が燃えるように熱くなる視線だ。
「私ね、ようやく自由になれたの」
「自由?」
焼酎のお湯割りを僕の前に置いたすがちゃん。今度は急に寂しそうに微笑む。
「そ、お金の自由、人付き合いの自由、時間の自由を失って……」
僕には何のことを言っているのかよくわからなかった。
「それに暴力から身を守る自由も……」
ことりと煮びたしの小鉢を僕の前に置きながらすがちゃんは囁くように呟いた。そのあまりにも不穏な言葉に僕はぞっとした。
「暴力……?」
「でももう全部取り戻したの。だから私、今すごく幸せ」
「僕にはよく分からないんですが、なんだかとても大変な目に遭われたみたいですね。でもとにかく今は自由になれてよかった。本当によかったです」
「ありがとう。やっぱり想さんって優しい」
僕の胸が苦しくなるその笑顔でほほ笑みかけるすがちゃん。口調もいつもの冨久屋の時と違う。
「どうもこんばんは」
「いやしばれるねえ」
二人の常連客が入って来る。すがちゃんはそちらのお客さんの方を向いて歩み寄る。しかしさっきすがちゃんが常連客たちの方へ向きを変える時、横目でちらりと僕の方を見ていた気がする。
冨久屋の中にはどこかほっとするいつものざわめきが流れていた。僕は今日の駅ピアノで弾いたラヴェルのソナチネ第一楽章を頭の中で復習していた。右手が自然となめらかに動く。音大にいた頃、教授に言われた表現力の不足という言葉が未だ僕に突き刺さる。
客もまばらになったころ、すがちゃんが他の客の死角から後ろ手に小さく手を振る。こちらを横目で見ていた。恐らくこの間の時と同じように閉店後会おうということなのだろう。僕も少し笑って小さく頷いた。
どういう訳か長さんはまた用事があると言って閉店前に店を出た。僕たちは二人だけでふざけ合いながら戸締まりをし、店内の明かりのほとんどを消した。そしてカウンターのすぐ隣り合った席に座る。すがちゃんは紙袋を持っていた。また、僕の席の前にはお銚子とイカカズノコが置かれている。一度くらいならお言葉に甘えてもいいけど、そう何度もしてもうらうのは忍びない。後でお代を払うと言ってもすがちゃんは頑として首を縦には振らなかった。本当に頑固なところがある。
僕はカウンターに片肘をついて、すがちゃんはこの間と同じようにカウンターに突っ伏して僕たちは話し込む。お客さんのこと。クラシック音楽は奏者や指揮者によってまるで違う曲になること。最近の天気、連弾とは何か。長さんのこと。ピアノ奏者にとってショパンはやはり特別な思いで弾くこと。二人きりの会話は前回の時以上に楽しかったが僕にはどこか物足りなかった。僕もこの間の時のようにカウンターに上半身を投げ出そうかと思ったところで、すがちゃんが身体を起こして足元の紙袋をがさがささせながら、何のことかよくわからない話をしてくる。
「想さん、お食事偏ってない? お野菜足りてる?」
僕の食生活は基本朝抜き、昼は藍とラーメンか海鮮丼か定食を、夜はここ冨久屋で酒と安い肴を少し、といった具合で栄養学的には最悪と言ってよさそうなものだった。
「いやそれが全然足りてません、多分」
話の行き先が見えないまま僕は答える。
するとなぜか我が意を得たりといった表情ですがちゃんが紙袋の中から箱のようなものを両手に持って突き出してくる。
「やっぱり。そんな想さんに、と思って、これ」
「これ?」
まじまじと見ると、それは何やら幾つかの塊がごろごろ詰まったタッパーだった。
「ロールキャベツ作ってみたの、久々に」
「ああ」
これってロールキャベツだったのか。しかし、煮しめたキャベツなんて野菜不足にいいんだろうか。しかも野菜が高いだろうこの季節に作るものなんだろうか。料理のことなどよく判らない僕には色々な面でちょっと疑問だった。それに、すがちゃんからこうして差し入れをしてもらえるなんて胸躍る出来事だが、その好意を素直に受け入れていいものだろうか。
「あの…… すごくありがたいんですが、どうして僕になんか?」
「うーん……」
ほほ笑みから思案顔になり、顎に人差し指を当てて小首をかしげるすがちゃんが可愛い。
「理由は…… キャベツが安かったから?」
と可愛く言うすがちゃんに、この冬の季節に野菜が安いなんてそんなことはあるのかと、僕は心の中で突っ込んでしまった。
「それに最近想さん顔色が悪かったんですよ。冨久屋でも一、二を争う常連さんに具合を悪くされて、うちに来れなくなったら、うちとしても甚大な経済的損失ですもの。それを回避するための投資だと思って」
常連と言っても安いものしか頼まないんだけどな、と心の中で苦笑いをする。それに比べてすがちゃんの手料理ではあまりにも比重が違いすぎる気がして、僕はまだ少し合点がいかなかった。
「はあ、投資、ですか、ロールキャベツが」
どう聞いても強引に丸め込もうとしているようにしか思えない。
「ですから私の投資、食べてもらえないかしら? 折角作ったんだもの。このとおり。お願い」
またもや可愛くお願いされてしまった。ここまで言われると僕にはもう断る理由なんて見つからなかった。
「分かりました。それでは遠慮なくいただきます。光栄です」
ロールキャベツの詰まったタッパーを受け取る。
「光栄だなんてそんな。あ、でも味はあまり期待しないでね」
「またそんなことを言って。そんなことを言われたら余計期待してしまいます」
「いやだ! 本当に大したものじゃないの」
すがちゃんは恥ずかしそうな顔で笑いながら僕の肩を軽く叩いてそう言った。僕はその柔らかい手の感触にドキッとする。
僕はタッパーの入った紙袋をありがたく頂戴した。
冨久屋を出る時もすがちゃんはなんだかとっても嬉しそうだった。二人でコートを羽織りながらすがちゃんは言った。
「あの、ロールキャベツのこと他の方には内緒で。恥ずかしいから。ああ、それと爪楊枝が刺さってるので気を付けてね」
すがちゃんと二度にわたって二人っきりの秘密の時間を過ごしたことがなんだか嬉しくて、小雪ちらつく寒い帰り道も僕の足取りは軽かった。
小腹の空いた僕は帰宅して早速ロールキャベツを温める。電子レンジなんて気の利いた文明の利器などない我が家では、いちいち鍋で温めなくてはならない。
ホカホカと湯気を上げるロールキャベツを粗末な皿にあける。テーブルに置いて箸で割ってみる。柔らかい。よく煮込んであるんだろう。ひとくち口に放り込んでみた。なんだこれ、めちゃくちゃ美味いじゃないか。期待以上だ。僕はがつがつと貪るように食べた。すがちゃんの気づかいが僕の胃と胸に染みてくる。僕は温かな幸せを噛みしめた。
その瞬間藍の顔が目に浮かんだ。なぜだかわからないがものすごく怒った顔だ。僕はそんな藍に心の中で謝りながら、二食分はありそうなロールキャベツを七割がた食べてしまった。
◆次回
12.リサイタル
2022年4月12日 21:00 公開予定
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