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47.早春のジムノペディ
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今日は妙子さんが来る日だ、そして藍の出立する日。今日を逃せば僕と藍はもう二度と会うことはできないだろう。
妙子さんが来る前に和菓子屋まで足を延ばし、妙子さんの好きなべこ餅を買いに行く。和菓子屋の行き帰りの間も僕の気分は憂うつだった。妙子さんになんと切り出そう、そしてなんと言って理解してもらおう。もし理解してもらえなかったら。妙子さんは泣くだろうか。怒るだろうか。その時僕はどうすればいい。
帰宅すると小さな古ぼけたテーブルの上に一通の白い封筒が置かれていた。どういうことだろう、出かけるときにはこんなものはなかったのに。手に取ってみるとそこには「入江奏輔様 大須賀妙子」と記されてあった。僕は不審に思いながらも中に入っていた便箋を広げた。そこには流れるような字で「さようなら、今までありがとうございました」とだけしたためられていた。
僕は血の気が引いた。手の甲を切られた瞬間の時のように呆然となった。僕はどうすればいい。このまま妙子さんが消えるがままにしておくか。それはできない。会って真意をただし、妙子さんの意志が固いのならば僕は、僕は、僕はどうしたらいいのだろう。胸が苦しくなった僕は、その胸の痛みに身を任せ、妙子さんを探しに行こうと考えた。
冨久屋は定休日で誰もいなかった、僕は駅に向かって走る。高速バス乗り場にも改札にも妙子さんはいない。
改札からコンコースに戻ろうと振り返った時だった。僕は妙子さんと鉢合わせになった。キャスター付きのトランクを引きずった妙子さんは目を丸くして僕を見ている。「どうして……」と口が動いたように見える。
「それは、こっちの、セリフです」
僕は荒い息を整えながら言う。
「どうしてっ、どうしてこんな手紙ひとつでっ……」
息が続かない。
妙子さんは困ったような苦笑を浮かべながら壁に寄りかかる。僕もそれに倣った。駅ピアノを弾く音が聞こえてくる。最近流行りのポピュラーだった。
「奏輔さんは――」
僕は隣の妙子さんを見た。きれいな横顔だ。
「――あの人といたほうがいいんです」
あの人。藍のことだろう。昨日奇しくも僕も同じ考えに至った。でもなぜ妙子さんが自分からこのようなことを。
「どうして、そう思ったんですか」
「私、奏輔さんと一緒になる資格なんてありませんから。それにコンサートで寝ちゃいますし。やっぱり私、世界が違うんです」
僕は妙子さんの言葉に少しいら立った。
「人と一緒になるのに資格がいるなんて思いませんし、世界が違っても一緒に生きて行けると思います。この間の公園で妙子さんがあいつに言った通り僕はそう言います」
「ふふっ、ありがとうございます。やっぱり優しいんですね。でも私、欲張りな女なんです。それに奏輔さんそんなこと言っていいんですか。そんなこと言われたら私その気になっちゃいますよ」
「あっ」
「ねっ」
「すいません」
「奏輔さんにとって本当に大事な人は彼女。私じゃないわ」
「でも、僕はこうして妙子さんをたくさん苦しめてしまいました。申し訳ありません」
「ふふ、自惚れないで。私だってまだまだ素敵な出会いくらいいっぱいあるもの」
「す、すいません……」
僕たちは言葉もなくしばらく壁に背を向けていた。駅ピアノからはシューマンのトロイメライー子供の情景7.Op.15が聞こえてくる。
「そうだ、これ」
ふと思い出したように妙子さんがコートのポケットから何かを取り出す。
「返すの忘れちゃってました。これ、もういりませんから」
それは可愛らしいカラフルな鈴のついた僕の部屋の鍵だった。黙ってそれを受け取る。
「さあこれで私の償いはおしまい、かな。だから私はもう消えますね」
「えっ」
「だから、私が消えても探さないでね」
後ろ手にして作り笑顔を浮かべる妙子さんの目は潤んでいた。駅ピアノからショパンの別れのワルツOp.69-1が聞こえる。
「思い出すなあ、奏輔さんのジムノペディを聴いた時のこと」
しみじみとした口調の妙子さん。
「妙子さんが聴いてくれているって知ってたらもっと真剣に弾いたんですが」
「ううん、とっても良かったですよ。とってもきれいな曲でした。あの曲を聞いたから私……」
潤んだ目でどこか遠くを見つめている妙子さん。すると突然こちらを向く。
「奏輔さん、ジムノペディ弾けます?」
「だましだましでどうにかこうにか、といったざまですが……」
「それでいいの。最後に聴かせて」
僕は椅子に座る。妙子さんに目で合図するとサティのジムノペディの一番を弾き始める。続いて二番、三番と。
たちまち右手が悲鳴をあげ始める。指がつる。キーに指が届かない。引きつれるような痛みが走る。だけど僕はここで僕の右手の機能のすべてが失われても構わなかった。これが妙子さんにとって最後の僕の演奏なのだから。
およそ十分間の演奏が終わり僕は席を立つ。ほんの数メートル離れた妙子さんが真っ赤な眼で僕の方を食い入るように見つめ立ち尽くしていた。妙子さんの口が「ありがとうございました」と動いたような気がした。僕もそれに応え「今まで本当にありがとうございました」と言う。妙子さんは僕に深々と礼をすると振り返り、駅の外へ向かう人ごみの中へゆっくりと消えていく。
「私が消えても探さないでね」。妙子さんのその言葉が僕の頭にこだましていた。やがて妙子さんの背中は人ごみの中に消えた。
彼女の姿を見たのはこれが最後だった。
◆次回
48.旅立ち ―完―
2022年5月18日 21:00 公開予定
妙子さんが来る前に和菓子屋まで足を延ばし、妙子さんの好きなべこ餅を買いに行く。和菓子屋の行き帰りの間も僕の気分は憂うつだった。妙子さんになんと切り出そう、そしてなんと言って理解してもらおう。もし理解してもらえなかったら。妙子さんは泣くだろうか。怒るだろうか。その時僕はどうすればいい。
帰宅すると小さな古ぼけたテーブルの上に一通の白い封筒が置かれていた。どういうことだろう、出かけるときにはこんなものはなかったのに。手に取ってみるとそこには「入江奏輔様 大須賀妙子」と記されてあった。僕は不審に思いながらも中に入っていた便箋を広げた。そこには流れるような字で「さようなら、今までありがとうございました」とだけしたためられていた。
僕は血の気が引いた。手の甲を切られた瞬間の時のように呆然となった。僕はどうすればいい。このまま妙子さんが消えるがままにしておくか。それはできない。会って真意をただし、妙子さんの意志が固いのならば僕は、僕は、僕はどうしたらいいのだろう。胸が苦しくなった僕は、その胸の痛みに身を任せ、妙子さんを探しに行こうと考えた。
冨久屋は定休日で誰もいなかった、僕は駅に向かって走る。高速バス乗り場にも改札にも妙子さんはいない。
改札からコンコースに戻ろうと振り返った時だった。僕は妙子さんと鉢合わせになった。キャスター付きのトランクを引きずった妙子さんは目を丸くして僕を見ている。「どうして……」と口が動いたように見える。
「それは、こっちの、セリフです」
僕は荒い息を整えながら言う。
「どうしてっ、どうしてこんな手紙ひとつでっ……」
息が続かない。
妙子さんは困ったような苦笑を浮かべながら壁に寄りかかる。僕もそれに倣った。駅ピアノを弾く音が聞こえてくる。最近流行りのポピュラーだった。
「奏輔さんは――」
僕は隣の妙子さんを見た。きれいな横顔だ。
「――あの人といたほうがいいんです」
あの人。藍のことだろう。昨日奇しくも僕も同じ考えに至った。でもなぜ妙子さんが自分からこのようなことを。
「どうして、そう思ったんですか」
「私、奏輔さんと一緒になる資格なんてありませんから。それにコンサートで寝ちゃいますし。やっぱり私、世界が違うんです」
僕は妙子さんの言葉に少しいら立った。
「人と一緒になるのに資格がいるなんて思いませんし、世界が違っても一緒に生きて行けると思います。この間の公園で妙子さんがあいつに言った通り僕はそう言います」
「ふふっ、ありがとうございます。やっぱり優しいんですね。でも私、欲張りな女なんです。それに奏輔さんそんなこと言っていいんですか。そんなこと言われたら私その気になっちゃいますよ」
「あっ」
「ねっ」
「すいません」
「奏輔さんにとって本当に大事な人は彼女。私じゃないわ」
「でも、僕はこうして妙子さんをたくさん苦しめてしまいました。申し訳ありません」
「ふふ、自惚れないで。私だってまだまだ素敵な出会いくらいいっぱいあるもの」
「す、すいません……」
僕たちは言葉もなくしばらく壁に背を向けていた。駅ピアノからはシューマンのトロイメライー子供の情景7.Op.15が聞こえてくる。
「そうだ、これ」
ふと思い出したように妙子さんがコートのポケットから何かを取り出す。
「返すの忘れちゃってました。これ、もういりませんから」
それは可愛らしいカラフルな鈴のついた僕の部屋の鍵だった。黙ってそれを受け取る。
「さあこれで私の償いはおしまい、かな。だから私はもう消えますね」
「えっ」
「だから、私が消えても探さないでね」
後ろ手にして作り笑顔を浮かべる妙子さんの目は潤んでいた。駅ピアノからショパンの別れのワルツOp.69-1が聞こえる。
「思い出すなあ、奏輔さんのジムノペディを聴いた時のこと」
しみじみとした口調の妙子さん。
「妙子さんが聴いてくれているって知ってたらもっと真剣に弾いたんですが」
「ううん、とっても良かったですよ。とってもきれいな曲でした。あの曲を聞いたから私……」
潤んだ目でどこか遠くを見つめている妙子さん。すると突然こちらを向く。
「奏輔さん、ジムノペディ弾けます?」
「だましだましでどうにかこうにか、といったざまですが……」
「それでいいの。最後に聴かせて」
僕は椅子に座る。妙子さんに目で合図するとサティのジムノペディの一番を弾き始める。続いて二番、三番と。
たちまち右手が悲鳴をあげ始める。指がつる。キーに指が届かない。引きつれるような痛みが走る。だけど僕はここで僕の右手の機能のすべてが失われても構わなかった。これが妙子さんにとって最後の僕の演奏なのだから。
およそ十分間の演奏が終わり僕は席を立つ。ほんの数メートル離れた妙子さんが真っ赤な眼で僕の方を食い入るように見つめ立ち尽くしていた。妙子さんの口が「ありがとうございました」と動いたような気がした。僕もそれに応え「今まで本当にありがとうございました」と言う。妙子さんは僕に深々と礼をすると振り返り、駅の外へ向かう人ごみの中へゆっくりと消えていく。
「私が消えても探さないでね」。妙子さんのその言葉が僕の頭にこだましていた。やがて妙子さんの背中は人ごみの中に消えた。
彼女の姿を見たのはこれが最後だった。
◆次回
48.旅立ち ―完―
2022年5月18日 21:00 公開予定
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