月と影――ジムノペディと夜想曲

永倉圭夏

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48.旅立ち ―完―

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 駅ピアノの傍らで呆然としていた僕ははっと我に返った。
 スマホで時間を見て慌てる。全速力で駅前の電停を目指して走った。途中でタクシーを見つけたので、それに飛び乗り急いで空港に向かうよう運転手に告げる。藍の乗る飛行機が出るまでもう一時間半ほどだった。藍がゲートをくぐってしまったら全てが終わってしまう。
 空港に滑りこむタクシーから転げ出るようにして降りた僕は、また空港内を全速力で走る。人とぶつかっても気にもとめず、ただ藍のいるであろう搭乗口を目指す。果たして間に合うのか、走ったせいだけではない、僕の心臓は破裂しそうだった。
 人もまばらな空港内に見間違えようもない姿を見つけた。よれたダークグリーンの薄いタートルネックセーターにデニム。ニット帽とやはり薄い安物のコートにオフホワイトのマフラー。モスクワに行くのにそれでは寒くないだろうか。
 間に合った。僕は彼女を後ろから思いきり抱き締めた。

「ひゃっ」

 藍は彼女らしくない小さな悲鳴を上げて身を固めた。すぐにそれが僕と気づいたのか、硬くて冷たい一言を発する。

「なに」

 僕は荒い息を整え、深呼吸をして言った。

「ごめん。僕はやっぱり藍じゃないとだめだった。やっとわかった」

「あの年増バツイチ女はどうしたの」

「話をして終わりにしてもらった」

「遅せえよ、遅すぎ」

 藍の声は心底怒ったものだった。僕はさらに藍を強く抱き締め真剣に藍に詫びた。

「遅くなってごめん」

「ばか。ばか奏輔」

 僕の腕を掴む藍の声は少し涙ぐんでいた。

「ばかでごめん」

「許さない」

「どうしたら許してくれる」

「絶対許さない」

「許してくれるまでこうしてる」

「どうしてあの女を捨ててあたしのとこに来たんだよ。あっちの方がずっと男ウケいいじゃんか。それにあたしにあんだけのこと言っといてさ」

「藍を苦しめるようなことを言ったのは本当に悪いことをしたと思ってる。謝る。でもあれから考えたんだ。藍と僕と音楽のこと。そうしたら僕はとても強く、どうしようもないほど強くお前とお前のピアノが好きだってことに気付いたんだ」

「好き……?」

「ああ、好きだ。藍のことが」

 藍は僕の後ろからの抱擁をそっとほどいて僕と向き合う。相変わらず距離が近い。藍は怒ったような不貞腐れたような顔をしていた。その顔は真っ赤だった。

「それほんとに信じていいの?」

「ああ、信じてくれ」

「あたしのことが好き?」

「ああ、大好きだ」

 藍はふと顔をほころばせ目じりに少し涙をためながら僕にそっと抱きついてくる。僕はもうそれを引き剥がしはしなかった。藍は僕の胸に顔をうずめながらぼそりと言った。

「わかった。じゃあ今回だけ特別に許す」

「ありがとう」

 僕も藍を抱き締め直す。

「僕はずっと気づいていなかったけど、藍はただそこにいるだけで、僕に色んなものをくれていたんだ。今までだって、そしてきっとこれからだって。それに、藍といると刺激的で断然楽しいんだ」

「ふふっ、ありがと。あたしも。あたしも奏輔といると断然楽しいよ」

「お前はモスクワ、僕は東京。お互い離れ離れになるけどなんとか頑張って行こうな」

「……んっ? うーん……」

 僕の言葉に藍は僕から体を引き離し、何か良くないことを思いついた時のほほ笑みを浮かべる。いたずらっぽいハシバミ色の瞳で僕を見つめる。一歩二歩後ずさる。

「あたし決めた……」

「決めた、って何を……? おい」

 一瞬で僕は最悪の事態を想定した。
 笑みを浮かべた藍はよれたデニムの後ろポケットからくちゃくちゃになったチケットを取り出すとびりびりと細かく切り裂く。

「ちょっお前何やって!」

「あー、これでモスクワ行けなくなっちゃったねーあたしー」

 他人事のようにいたずらっぽい笑みを浮かべてこっちを見る藍。

「どういうつもりだ」

 僕は震える声で藍を問いただす。モスクワ中央音楽院編入というまたとないチャンスをなぜふいにしようというのか。僕には理解できなかった。

「あたしも東京行く」

「東京? 東京に行ってどうする」

「東京行って、奏輔とおんなじ音大に入る」

「はああああっ?」

 これは僕も想定外だった。思わず呆れた大声を出す。

「奏輔と一緒ならあたしきっとやってけると思うんだ。めんどくさい決まり事も練習も」

「武蔵川だって桐光を五日で辞めた奴にとってそんな甘くはないと思うぞ。悪いことは言わない、モスクワ中央音楽院に行くんだ」

「やーだよっ、もう決めたんだ」

 これもまたいつも見せる人をからかうような表情に僕は溜息を吐いた。
 小さく笑みを浮かべ、キャリーバッグ一つ持った藍が更に一歩前に出る。身体がくっつきそうだ。そして僕の目を正面から見据えて口を開く。

「あたし…… あたしね。ショパンやモーツアルトとかへのリスペクトなんて全然ないんだけどさ、色々面倒な決まり事から逃げないようにするよ。記号、音程、調号…… そういった規則やらめんどくさい用語からも」

「そうか。でも無理するな」

「なんだよ、逃げるなって言ったの奏輔じゃん」

「いや、だけどそれで藍らしい演奏が消えてしまったら元も子もない。やっぱり藍は藍そのままでいるのが一番なんだ。だから本当に苦しかったらまた逃げたってかまわない。そう思うようになった。だからまずは自分を一番に考えてくれ」

「でもさ、奏輔だって手をだめにして苦しんでるんだもん。あたしだけ逃げるわけにはいかない」

「そうか」

「そう。あの女にも言われたしね」

 ふと何かを思い出した表情になる藍。

「あ、ねえ……」

「なんだ?」

「花、あんたでしょ。ありがと。あたしうれしかった」

「なんだばれてたのか。ちっぽけなやつでごめん。持ち合わせなくってさ」

「ははっ、うちら持ち合わせないのいつものことじゃん」

「ほんとそうだな」

「ふふ……」

 顔を上げた藍は僕とは目を合わさずに小さな声で噛みしめるように言う。

「ね、あの花…… スイートピーの花言葉って知ってる?」

「いや、全然」

「『門出』、『別離』、『飛躍』そして」

「……」

「『優しい思い出』」

「知らなかった」

「もう全然状況が違っちゃったね。180度変わった」

 藍はくすくすと笑う。僕も苦笑いをした。

「いや、そうじゃない。今日が僕たちの門出で飛躍の日で、そして昨日までが僕たちの優しい思い出なんだ」

「へえ、奏輔案外ロマンチスト」

「案外は余計だ。僕はロマンチストなんだ」

 苦笑いを浮かべる僕。目を輝かせて僕を見つめる藍。藍が何かを懐かしむような顔になる。まるでもう二十年も三十年も前の話をしているかのようだ。

「優しい思い出か。五ヶ月って案外短かいんだね。ほんといい思い出だった」

「でも、これからもまだまだ続くんだ。そうだろ」

「うんっ」

 藍がさらに身体を近づけてくるが、もう今までのように距離を空ける必要はなかった。

「今までずっと楽しかった」

「ああ、僕もだ」

「いきなりちゅーされた時はビックリしたけど」

「あっ、あれは本当にすまん。ごめん。申し訳ない」

「ふふっ、いいよ。……ほんとは嬉しかったし」

「えっ」

「ううん、なんでもないっ」

 藍の表情がまた危険な笑顔に変わる。まずい、今度は何を企んでいるんだ?

「ふふっ」

「なんだ?」

 いきなり爪先立ちになった藍は素早く僕の首に腕を回すと、僕の唇に自分の唇を無理矢理押し付けてきた。

「んーっ!」

 藍の唇が僕の唇から離れた。

「ぷはあっ!」

 目の前に藍の顔がある。いたずらっぽい目をした彼女の笑顔には憎めない愛嬌がある。その笑顔のまま彼女は一言、

「セカンドキス」

 とだけ言った。

 呆気にとられた僕から腕をほどいた藍は、傍らのキャリーバッグを掴んでガラガラ鳴らして走りだす。少し距離を置いて振り返り、いつも通りはち切れんばかりの笑顔を見せながら大声で言った。

「ねえお腹ぺこぺこだよ。ラーメン食べに行こ!」

 二人で空港を出ると外はまさに早春と言うにふさわしい陽気。僕たちのような安物のコートでももう寒くはない。
 雲の混じった晴れ間を僕は見上げる。ここで出会った人、別れた人を思う。そして少し胸が苦しくなる。

「それっ」

 藍が僕に向かってビリビリに破いたチケットの紙吹雪を投げつける。風に舞うそれはこの季節にはまだ早い桜吹雪のようだった。

「こらっ、そういうことするなっ、ごみはちゃんと拾えよ」

「あははっ、わかってるって」

 祝福を受けたかのように紙吹雪を浴びた僕たちはじゃれ合う。早春の風はまだ少し冷たい。藍を掴まえ抱き締める。春の陽気のような藍の温もりを感じる。

「あ」

 僕は空を見上げた。そこには轟音を立てて飛び立つ旅客機の姿があった。

「あれ、藍が乗るはずだった飛行機じゃないか」

「うーん、そうかも」

 藍は口に両手を当てて叫ぶ。

「ジュラフスキー先生ごめんねー! あたし東京に行くー! 奏輔と一緒にー!」

 僕らは灰色がかった青空の向こうへ小さく消えゆく飛行機を並んで眺めた。その藍の顔は晴れやかだ。彼女の肩を抱き寄せた僕の表情も自然とほころんだ。

                                  ― 了 ―

◆次回
49.エピローグ1――妙子
2022年5月19日 21:00 公開予定 
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