埋もれる記憶ー璃子の選択ー  

ひろり

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大人の事情

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 また始まった…
 璃子りこは明日、学校に持っていくものをランドセルに入れる手を止めベッドにもぐりこんだ。


 璃子が小学校2年に上がる少し前あたりから、父と母が派手に声を張り上げ喧嘩をするようになった。
 二人の声に璃子は胸が何かで締め上げられているような息苦しさを感じ、そのうちポロポロと涙がこぼれる。

「璃子、部屋に行ってなさい」
 父が怖い顔で命令する横で、母も眉間に皺を寄せている。璃子の息苦しさは最高潮に達し、顔はくしゃくしゃに崩れ自然に大きな泣き声が出て、急いで自分の部屋に入って布団に突っ伏し声を殺す。

 そんなことが度重なると慣れたもので、璃子は喧嘩になりそうな気配を感じ取ると自室に入り、布団にもぐって手で耳をふさぐ。
 そんな派手な喧嘩も無くなり、しかし二人の間には会話もなく同じ空間にいるのを拒むように、食事を共にすることもなくなった。

 それは静かだが平穏とはほど遠い家族の形だったが、それでも派手に言い争う喧嘩が無くなったことで、璃子はそれが両親の仲直りへの一歩なのかしらと思いながら、一人で夕食を食べていた。
「お母さんは食べないの?」
 恐る恐る訊くと、リビングのソファで雑誌を開いていた母が軽くため息を吐く。

「お母さんはお腹が空いてないから、もう少し後で食べるの」と、視線を雑誌に落としたまま言う。
「だったら璃子もお母さんがお腹が空くまで待って一緒に食べる」と言いたかったが、母の背中が拒否しているように感じてその言葉を飲み込む。
 璃子は、いつかきっとまた前のように仲良く三人で笑いながら食事ができる日が来るはずだと自分に言い聞かせ、一人で黙々と食べ続けた。


 そして、しばらくおさまっていた両親の喧嘩が爆発したように始まった。
 仲直りなんてもう無理なのかも…
 布団の中で耳をふさぎながら璃子はふと思った。
 お父さんとお母さんは離婚する…
 幸せだった三人の生活がバラバラに壊れていくことを想像すると、胸の鼓動が激しくなり乱れた呼吸とともに声が出て、璃子は慌てて両手で口をふさぐ。目をぎゅっと閉じても自然に出てくる涙は抑えることができない。

 あの喧嘩はお母さんとお父さんが私のことを取り合っている喧嘩かしら…
 そう考えると少しだけ心が落ち着くような気がした。
 父と母が離婚すれば璃子はどちらに付いて行くかを選ばなければならない。父と母が一人切りの娘を取り合う。それは辛いことだがどちらからも愛されていることでもある。
 そう考えると少し心が落ち着きを取り戻し、いつしか璃子は深い眠りについた。


 数日後、久しぶりに三人そろってダイニングテーブルの席についていた。
 璃子の前に並んで座る父と母の姿を見たのは何か月ぶりだろう。食事は用意されていなかったが、三人で食卓を囲んでいた頃を思い出し璃子の顔は自然とほころんだ。
 しかし、父も母も無表情だった。
 よく見ると視線は璃子を通り越した先にあるような気がして、すぐに璃子の顔が強張る。

「璃子、お父さんとお母さんは離婚することにした」
 おもむろに父が言葉を発した。
 ついに来た。璃子の鼓動が高鳴った。
「璃子はお父さんとお母さん、どっちと一緒に暮らしたいの」
 そんな言葉が続くはずだ。

 父は肘で母をつつくと母の眉間に皺が寄る。
「もう、あなたが言いなさいよ」
「言い出したのはお前だろ。お前が言えよ」
「あなたもOKしたからもらってきたんじゃない。今さら何よ」
 不穏な空気に璃子が思わず「あの…もう喧嘩しないで」と泣きそうな顔になる。

「もう喧嘩はしない。離婚するんだから」
 父が諦めたように切り出した。
「それでね、二人とも璃子のことを育てられなくなったんだよ。だから、璃子はもと居た家に戻ることになったから」
 璃子は自分が養女であることを思い出した。
 この家に初めて来た時、何の疑いもなく自分は大人になるまでここで暮らすんだと信じていた。

 父も母もどこかぎこちなかったがそれでも精一杯、璃子が寂しい思いをすることなく笑顔でいられるよう気遣ってくれていた。だから、璃子も父母の愛に一生懸命応えようと常に笑顔でいることを心掛けて。
「これからは三人で本当の親子になろうね」
 そう言って母は璃子を抱き締めてくれた。璃子の腕が自然とどのくらいの強さで返せばいいのか探りながら母を抱き締める。

 こんな態度を取れば二人は笑顔で喜んでくれるだろうか、こんなことを言えば頭を撫でてもらえるだろうか、何をするにしても璃子の頭が勝手に考えてしまう。
 本当の親子になれなかったのは私のせいだろうか…
 しかし、そんなことを考えたのはほんの一瞬で、璃子は頭の中が何もなくなり目の前に見える光景もどこか夢の中で見ているような感覚でただ呆然とたたずむ。
 耳に分厚いフィルターを通しているように父と母から聞こえる声が遠い。

 父と母が言い争う声を聞いただけで溢れてくる涙が、家族が壊れる今日この瞬間には出てこない。
 どこを見ているのか自分でもわからないほど焦点が合わなくなっていた瞳が、父と母の視線を捉える。それはまるで人間ではない異物を見るような拒絶の眼差しだった。
 璃子の瞳から一筋の涙が流れた。

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