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第一章

68 呼び方

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紅野エリカの彼氏疑惑や婚約者騒ぎが起こった日の夜、約束していたラーメンを一から作り二人で、否、シアも含めて3人で食べた。
何処でならなったのかエリカの手際は見事な物で冬華は下処理だけで殆どエリカに任せてしまった。
今度麺打ちの練習でもしようかと思ったくらいだ。

その日は色々あって疲れたのでお互いに早く切り上げる事にしたのだが、エリカがまた家に泊まると言うので、丁重にお断りした。かなり不服そうではあったものの、今日の事があってからか気不味そうにしていたが、納得して帰ってくれた。
帰る前に、安易に男の家には泊まろうとするなと警告も兼ねて言ったのだが、「私が誰の人の家でも泊まる訳じゃないですよ。貴方を信用しているからです」と返されてしまい悪い気はしなかったが、何かあってからでは遅いので緊急時以外は泊めないと返した。

次の日。今日の朝はエリカの方が用事があった為、家には来なかったので、早起きせずに少しばかりゆっくりできる。
自分が居なくても自炊はしなさいと言われているので腰を上げて弁当を作る。卵焼きにソーセージ、肉巻きポテト、サラダに白米といったおかずを入れて準備をする。

学校へ登校しいつも通り退屈な授業を受け、昼食を中庭で春正と美紀と一緒に食べる。学校では基本エリカとは話す事はないが、ネムリや夢魔やらとはよく話す。
二人とは趣味が合うのもあってか話しやすい相手ではある。

それ以外は特に変わった事はない。強いて言うならエリカが告白されている所を見てしまったりするくらいだ。
盗み聞きは趣味ではないが、先に陣取っていたのは此方なので空気を読んでその場を離れたりはしない。
全ての告白を断るエリカも凄いと言わざるを得ないが、大して仲良くもないのに告白して付き合うという気を起こす相手の方の胆力も見上げたものである。

告白が終わってエリカの後ろから近寄る。エリカも分かっていたのか相手が誰だかすぐに分かったようだ。

「・・・趣味悪いです」
「お前らが後から来たんだ。俺がどっか行くのは筋違いだ」
「それはそうですが」
「告白断るの大変そうだな」
「慣れましたよ。・・・もういっその事彼氏がいると公言した方が良いのでしょうか」
「そいつはやめといた方が良いんじゃないか?まだ例の彼氏疑惑が治ってないし此処で下手に公言なんてしようものならいつか俺だとバレそうだ」
「・・・そうですね。やめておきます」
「そうしとけ」

こんな所を見られたら何があるか分からないが、この場所は殆ど人が来ない校舎裏。早々人にバレたりはしない。

「そうです。一つ確認したい事があったんです」
「?・・なんだ?」
「昨日冬華くん、わたしをエレベーターのまえで私の事をエリって呼んだの覚えてますか?」
「ふぇ?」

思わず変な声を出してしまい頭に小石をぶつけられた感覚が襲う。昨日自分はそんな事を言ったのか?エレベーターのとこまでは覚えているがその後、エリカの名前をちゃんと呼んだ気がするが、焦りすぎていて思わずエリと略してしまった可能性はある。

「俺、そんな事言ったのか?」
「はい。確かに言いましたよ」
「そうか・・・済まん、嫌だったよな」
「・・・・・そういう訳では・・・ただ、家族のものにやネムリちゃんや夢魔ちゃんにも言われた事がなくて、驚いた・・・と言うよりは嬉しかったんです」
「え?」
「そんな愛称で呼んでくれる事なんてなくて、そんな風に呼んでくれて・・・・本当に嬉しくて」
「・・・・・そうか」

隣で嬉しそうな顔をしてなんだかもじもじとしているエリカに対してぶっきらぼうに愛想なく返す。
あまりにも予想外の反応だった為に意表を突かれて戸惑うが、いつも通りに振る舞う。

「それで、冬華くんに提案なのですが・・」
「ん?」
「これからは、その・・・エリって呼んでくれませんか?」
「・・・・え?」
「ダメ、ですか?」


駄目なわけではない。自分に言い聞かせる。愛称で読んだことのある人間なんて限られる。家族に呼ばれているのは別の愛称であるかもしれないが、少なくともそのような感じはしなかった。まさか口から滑って出た言葉が気に入ってもらえるとは思わず、あの時は焦ったが少しだけ我が妹に祝福の言葉でも送ってやろうかと思った。

「・・・気が向いたらな。エリなんて愛称なんて呼んだことねぇんだから・・・恥ずい」
「ありがとうございます」

昔の冬華なら迷わずに断っていただろう。愛称で呼ぶって言うのは昔していた事だ。人生で唯一愛称で読んだ相手はアグレイシュナ・ホーリーグレイル、彼女だけだ。
初めて会ったあの日から、呼ぼうと思えば愛称ではいつでも呼べた。けれど、心の何処かで呼ぶ事を恐れていたのかもしれない。

エリカと会った時もそうだった。初めて会って、その後の1ヶ月後に再開した時、エリカと呼ぶよりも何故だか【エリ】と呼ぶ事に意識を持っていかれていた。
けれど、対して関わりもないのに愛称で呼ぶなんてのは本来あり得ない。
子供の頃なら平気で出来ていたが、いつしかそんな事も考えなくなっていた。
だからこうして愛称で呼ぶ事を許されるっていうのは変な感じだ。

「ほら戻るぞ。いつまでも此処に居るわけにゃあいかねぇからな」
「でも今日はもう終わりですよ?放課後ですし」
「じゃあ今日の飯でも考えといてくれ。お前は今日委員会あるとか言ってたろ?先に帰ってる」
「はい。それではまた後で」
「ああまた後でな・・・・・エリ」
「!・・・はい!」

冬華恥ずかしさのあまり顔が赤くなるのを感じてそれを見せないように踵を返して先にその場を離れるが、耳も真っ赤なっていた。隣に立って歩いているエリカは面白いのか赤くなっている冬華の顔を見ようと顔を覗こうとしてくる。
それを必死に隠しながら居室まで戻る。

人に見つかりそうな場所になるまでエリカは終始冬華をいじり続けた。

(・・・小悪魔め)

嫌な奴と思いつつ、自分の軽率な行動に少しばかり呪詛を放ちながら悪態ではなく、勝負に完敗した戦士のような気持ちで心の中で嘆いた。




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