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私立高校の教員として勤務し始めてはや四年。翠は国語の教師であり、剣道部の副顧問でもあった。定年退職した顧問に代わって当時の副顧問が顧問になり、そして、空いた席に剣道の経験があった翠が据えられたという形である。
幼少期から、オメガである翠には護身術を習わせたいという意向が両親にあった。その中で剣道は他の武道よりも身体的接触が少なく、また面をつけてしまえば顔も見えにくいため習いやすかったのだ。
翠は、今でこそ男性の平均身長を僅かに上回っているものの、一般的なオメガらしく骨が細く華奢で、顔立ちも整っていた。雪国生まれの母の血を濃く継いだようで色素が薄く、幼少期は特に女の子だと間違えられたものだ。
食べても体重が増えないのでやせ気味だが、細すぎるわけではない。そんな体に頑丈な黒の首輪は非常にアンバランスで、だからこそ禁欲的に見えたとは芳の言だ。翠はそう言われた時、困惑のあまり芳をにらみつけてしまったが、それももう七、八年は前のことだ。
小学校中学年から高校を卒業するまでの約十年間、翠の生活には剣道が共にあった。受験中であっても週に三日は道場に通い、級はもっていないものの、師範のお墨付きでそこそこ扱える。
現在の剣道部の顧問はこの学校に二人いるうちのアルファの一人だ。彼はオメガの存在そのものを馬鹿にしているようで、翠に対する態度は頗る悪い。更に翠が副顧問であるにも関わらず級を持っていないところも鼻につくのか、部活に出るたび当てこすられる。
だが、今日は参加しないわけにはいかない。
剣道強豪校として知られているこの学校では、月の最後の土曜は紅白試合と決まっていた。夏を最後に引退した三年生を除く一、二年生の能力が同程度になるように赤、白に分けて試合をさせるのだ。翠は審判役として参加することになる。
「木崎先生、今日はよろしくお願いします」
道場では袴だと決まっているので、翠も木崎も袴姿である。きっちりと礼をしたが一瞥をくれるだけで返事はない。
こういった態度には慣れているし、木崎も生徒がいる前では愛想笑いくらいはするからまだいいのだが、誰かから嫌われているというだけでストレスは溜まるものだ。
残暑が厳しかった9月前半とは裏腹に、秋らしい気配の到来が早い。下旬の今は気温的に過ごしやすい日が多くて体が楽だった。
今日も気温は二十度前半というところで、真夏のむっとした空気がない道場はまだ居心地が良い。蝉も驚きのあまり鳴きやむくらいの大声で部活をするのも趣があるとはいえ、換気扇はあっても冷房のない道場ではせめてこれくらいの気温が良いものだ。
この武道場は授業でも使うのでそれなりの広さがあり、一階は柔道部、二階は剣道部が使用している。
剣道では足運びや試合の際に地面を踏みならすため階下に誰かいると不安になるものだが、ここは相当強固に造られているのでちょっとやそっとではびくともしない。翠の通っていた道場は板間の一部がへこんでいてひやっとしたものだが、それも懐かしい思い出だ。
道場に足を踏み入れる前に部員たちは丁寧に礼をしていく。それが武道家としてのマナーなのだ。翠と木崎はそれぞれ会釈で迎えた。
部員たちは準備運動や防具の確認、組み分けの確認等を流れるように行ってゆく。
木崎と翠が先頭に立って行う素振りで体を温めてから、やっと紅白戦の開始だ。
通常、剣道の団体戦では先鋒・次鋒・中堅・副将・大将の計五人が一つのチームとなる。だが、この紅白戦では各チーム五人以上いるのでそうは分けず、顧問が一年から副将を一人、二年から大将を一人選び、通常の試合を勝ち点一、副将戦を二点、大将戦を三点として合計の勝ち点で勝敗を決める。
翠の担当は白組だ。新しく副部長になった二年生を大将に据え、迷ったものの今までに副将をやったことのない一年生を指名した。副部長は身内にオメガがいるそうで、翠の身の上にも理解があり、部の中では一番関係性が作れているので話しやすい。
対する木崎率いる紅組は新部長を大将に、スーパールーキーの呼び声高い一年を副将にしたようだった。
実際、紅白の実力が同程度というのは建前で、チーム分けは顧問である木崎の権限で行われている。本人はくじで決めたと公言しているが、毎回紅組の上位メンバーが同じというところから、翠も、おそらく一部の部員も信じていない。
これでは部内に余計な確執が広がる恐れがあるものの、木崎は顧問であり、何よりアルファだった。そのせいで仕方がないというムードが流れている。それほどにアルファは影響があるのだ。
公式戦であれば審判の人数や位置取り等規定があるが、ここでは簡単に教員の二人が審判を行う。日常の練習試合では部員にやらせることもあったが、紅白戦の時は集中を促すためにやめている。
部員数は一年、二年合わせて二十四人のため、全部で試合数は十二となる。場合によってはどちらかに白星が偏って逆転が不可能になることもあるが、これは試合形式に慣れる練習でもあるので切り上げることはない。
強豪ということもあって、小、中学からの経験者が部員の多数を占めていた。中には翠が通っていた道場出身という生徒もいる。
やがて試合が始まった。「始め」の合図の後、向かい合った生徒が気合いの声を発する。これは威嚇の意味もあり、腹から声を出すため、道場中に雄叫びが響き渡る。
床を擦る足音と衣擦れが張り詰めた空間を静かに支配する。相手の一挙手一投足を見て動きを読むのだ。面から覗く二年生二人の眼差しは鋭い。
紅組の生徒が小手を打った。しかし、当たりどころから有効ではないと判断して審判旗は揚げない。木崎も同様だった。さすがに試合の時にまで卑怯めいたことはしなかった。
お返しとばかりに白組の生徒が面を狙ったものの、竹刀で弾かれて決まらない。そのまま二人は膠着状態に陥った。
剣道の試合時間は一試合五分で、場合によっては延長が認められる。試合時間内に先に二本先取するか、または有効打突を一本取ってそのまま時間切れになった場合も勝ちと見なされる。これがあと二回繰り返されて勝敗が決まるのだが、今回は略式なのでそこまではしない。
初戦は延長までもつれ込み、胴を決めた白組の勝利になった。幸先の良いスタートだ。翠はそれなりの距離感を保って生徒たちを激励する。
さすがに九月にもなれば、部員たちもオメガの存在に慣れてはいた。しかし、木崎派と呼んでいる数人をはじめとする一部の生徒からは良く思われていない。
木崎は顔も良く、剣道の段位もあるため、少数の生徒から崇拝に近い感情を持たれていた。とりまきの中心である木崎が翠を嫌っているのだから、彼らとの関係調整は容易なことではない。
その後も試合は恙なく進んだ。十試合が終わって、勝ち点は紅組が六点、白組が四点だ。副将戦、大将戦共に勝たなければ白組の勝利はない。
副将戦を控えた鈴木は表情を強ばらせ緊張した面持ちで、せっかくつけた面の紐を何回も結び直している。
初めて副将に選ばれたので無理もないだろう。どうして自分が選ばれたのかとその目が語っていたが、翠は必要以上に声をかけない。ただ「持てる力を出せ」とだけ言った。
副将戦の結果は延長で面をとった白組の勝利だった。鈴木は試合相手との関係性もありあまり喜んだ表情を見せなかったが、自然と笑いそうになるのをこらえるように唇を噛んでいる。
「しっかりやれたな」
大将戦の準備の時間でひっそりと話しかけると、鈴木は手早く面を外しながら僅かにはにかんだ。汗で濡れた毛束が肌に張り付いている。
「なんで俺を選んだんですか?」
それをずっと聞きたかったのだろう、小声ながらもずいぶんと早口だった。
翠は前のめりになる鈴木の必死さに可愛らしく思いながら、自分よりも少し低い位置にある目をしっかり見つめる。
「同門だよ。俺も牧先生のところで習ってた。あそこの出身は粘り強いからな」
「牧先生の?」
そのまま会話が続きそうだったが、「審判、位置に!」と木崎が叱責したので叶わなかった。翠と鈴木は慌ててそれぞれの位置に戻る。
頭を下げて謝罪の代わりにし、旗を構える。木崎は生徒の前でどうなのかと思うくらいに強く翠を睨んでいたが、心の底からの不満がこもった息を大きく吐き出してから、試合の開始を宣言した。
「――始め!」
紅組の主将であり部長の彼は体が大きく、身長は百八十半ばだ。その体の割には関節が柔らかく、良い動きをする。特に腕を綺麗にひねった胴が得意で、それが決まり技になることも多い。
一方の白組の大将は、身長こそ百八十と高いが手足は細く、見ようによっては頼りない。しかしそれは体の鍛え方のせいもあり、マラソン選手のような持久力がある。手数が多いのが特徴だ。
流す紅、攻める白と対照的な二人で、こちらも五分では決着がつかずに延長になった。
結局、一瞬の隙を突いて副部長が面を決め、文字通り決定打になった。
年度が変わってから初めての白組の勝利だった。紛うことなく実力で勝ち取った結果であり、静かに喜ぶ生徒たちを見て翠も嬉しくなる。講評として意見を求められた時はもちろん顔に出さなかったが、翠の気分は高揚していた。
片付け等終わらせて部員が引き上げた後の道場にて、場を辞しようと礼をした翠の肩を木崎は容赦ない力で引き留めた。
「一回くらい勝ったからって調子に乗るなよ」
自身が選んだメンバーへの期待からというよりは、オメガである翠に負けたことへの屈辱というところか。木崎はプライドが高くあからさまな選民意識を持っているので、存在自体が彼の地雷である翠としてはあまり関わりたくない。
「……痛いです」
かつては幾度も竹刀を振った分厚い手のひらが与えてくる痛みは鈍く、自然と息が詰まる。
木崎は歪んだ翠の表情を見て悦に入ったようで、さらに力を込めてきた。袴の襟が歪んで胸元が露出しそうになり、慌てて腕を払う。ぱちん、と音としては軽かったが、腕を叩かれた木崎の顔が一瞬にして赤く染まった。
「てめえ!」
胸ぐらを捕まれかけたがすり足で下がって避ける。翠の体に染みついた動きだ。
じんじんと痛む肩をゆっくりと擦る。木崎の苛烈な感情が乗り移ったような痛みにぞっとした。
「――失礼します」
これ以上ここに居ては危険だと判断した翠はまろびそうになりながら階段を駆け下りる。木崎の声が追いかけてこないことが、むしろ怖かった。
その日の夜は芳と会う約束があったが、肩に見事に手形のあざがついていたので断りの連絡を入れた。わざわざ職場でのトラブルを話すこともない。心配する芳に「怪我をしたから今日は会えない」と告げる。
両親共になんの偶然か出張だったので、家には翠一人きりだ。
帰宅してすぐにシャワーを浴びて患部には湿布を貼った。肩を見るとくっきりと指の形がわかる内出血になっていて、じくじくとした痛みに唸る。恐ろしいまでの力の強さだ。
「あのゴリラめ」
そう思わず吐き捨てたとしても仕方ない。しかし、証拠がなくては報告も出来ないので泣き寝入りだ。とはいえ、彼ともめるような面倒を起こす気持ちも翠にはなかったが。
刻んだ野菜を入れた袋のラーメンを夕食にして、やることも特になくテレビを見る午後八時。この時間にやっているのはドラマかバラエティがほとんどで、目当てがないのでもはやつけているだけだ。
本当であれば、今頃は芳と食事をしていたはずだった。会社で人にしているのと同じように、雰囲気がよく、料理がうまい店を選ぶことが彼はとても上手だ。
秋の味覚が出始めてしばらくたつ。もしかしたら、今日もどこか季節の料理が美味しい店を予約していたかもしれない。キャンセル料を払わせていたら申し訳ないが、きっと芳が翠にそれを言うことはないだろう。
上等の食事に程よい酒。それを味わった後は、たいていやはり高級なホテルになだれ込むことになるのだが。
「この痣じゃなあ……」
部屋着として着ているジャージの上から湿布を撫でる。撫でるだけでも違和感があるのだ、セックスで動いたらぶつけそうで怖い。
翠は怪我をした左肩を上にしてソファーに横向きに寝そべった。ローテーブルの上の携帯がメッセージの通知を示している。察するに芳だろうが、今は文字を打つ気力がわいてこない。
疲れたというのがいまの感情だった。木崎がぶつけてきたあのエネルギーに引いてしまい、気力を根こそぎ奪われた感じだ。代わりに抱えるにも困るくらいの不快感が心を襲っている。
胸に黒いもやもやとした塊があるような気がして、大げさに吸い込んだ息を吐き出してみたが特に変化はない。肩は身じろぐだけで疼痛を与えてくる。
心を取り出して漂白でもできたら楽になるかもしれないのにと、翠は詮無いことを考える。
沈んだ気持ちのまま視線を更に遠くに投げると、液晶の中で男女が深い口づけを交わしあっていた。ホテルの一室という設定らしく、照明が付けられていないせいで画面は不明瞭だが、睦み合う二人のシルエットが重なっているのはわかる。
このドラマは母が毎週見ているので、その話からなんとなくのあらすじは知っていた。簡単に言えば、ベータの女性が、将来有望なベータと幼なじみのベータのどちらを選ぶかという話だ。
今は「体だけでもいいから」と将来有望なベータが迫っているところのようだ。熱のこもったキスに、主人公はくったりと体から力を抜いてベッドに身を投げている。
それを見つめるベータの淫靡な眼差しに、まるで閃くように芳が重なった。尖った犬歯を見せびらかし、自分の魅力をわかっていながら翠を誘惑してくる――。
自然と翠の指は自分の唇を辿った。自分がはき出す熱い吐息にぎょっとして、それでも刺激が欲しくて唇の形をなぞる。
爪の先端を歯でゆっくりと擦る。指の腹も同じようにしていると、だんだんと零れた唾液に濡れてきた。そのまま舌を絡めて口腔をつつく。後孔を馴らす準備として自分の指を咥えたことはあるが、唇に触ることを目的にこうしたことはなかった。
官能を求める背徳感に尾てい骨の辺りが重たくなっていく。
自分の指だというのに、舐める度にどんどん甘くなるキャンディーを口にしているかのようだ。指に吸い付くと何度もリップ音が鳴る。淫らな響きに興奮をかき立てられて、翠の怪我をしたほうの腕は痛みも忘れて下腹に伸びていった。
服の上から既に膨らんだ欲望をなぞる。力を入れないように手のひら全体で包むとまざまざと熱を思い知った。時折太ももの肉を弄びながら気持ちを高ぶらせていく。
芳との約束を断って、一人いやらしいことをする自分の浅ましい本性。エロティックな感情を晒したくてうずうずとしている。服の中で、欲望は蜜を零しているのだろう。
唾液が頬を伝った。それを合図に、翠のぬめる指先は服を潜り胸に立ち上がる突起に触れた。あさましく芯を持つそれをこねくりながら、片方の指で欲望の形をなぞる。
芳にされる時のような圧倒的な快楽ではなかったが、自分で自分を辱める行為に羞恥から呼吸が荒くなった。
翠はさらに硬くなった欲望を直接触る。布をかき分けると、案の定そこは透明な液体を垂らしていた。こもった熱を逃がすように、又はより追い詰めるように、包み込んだ欲望を上下に滑らせる。
「ンっ……ふ、んん……ん……」
鼻にかかった喘ぎは静かで、家に誰もいないダイニングで淫靡な遊びをしているのだと突きつけてくる。下半身からの規則的な水音もそれに拍車をかけた。赤く色づく胸の突起を人差し指で虐めながら鼓動を早めていく。
濡れた音の発生源である小さな穴にゆるく爪を立てた。芳にされると思わず声が出てしまう行為だが、今回は体を大きく揺らすだけで耐えた。だが、痛みが官能に繋がってだんだんと頭が痺れていく。
性器に触れながら、後孔を埋めるものが欲しいと飢餓感を覚える。こじ開けて、奥まで犯してほしい。これじゃ足りない。体に興奮を積み上げながら、自分以外の熱を望む気持ちも高まっていく。
ふいに携帯が着信を告げた。驚きのあまり気持ちが一瞬冷めたものの、浮かぶ国木芳の文字にまた体が熱くなる。
「翠? 今、大丈夫?」
通話ボタンを押し、引き寄せた携帯を耳の横に置く。聞き慣れた声に安心すると共に、体がぶるっと震えた。芳はどこかのんびりと話すので、電話越しだというのに吐息に耳を擽られるようだ。
「――かおる?」
答える声は掠れていた。芳がそんな翠に気付かないはずがない。
「……何してるの? 一人?」
「……家に誰もいないから……」
「メールの返事もしないで、俺との約束断っていやらしいことしてたの?」
冷たい声音だった。あまり聞いたことがない芳の口調にぞっとする。高ぶっていた分、気持ちが落ち込むのも驚くほど早かった。自慰の手も自然と止まり、目元にあっという間に水の膜が張る。
「ごめん……」
「怒ってないよ。何があったの? さっきのメール、怪我しただけじゃわかんないよ。どこをどう怪我したの? 病院は行ったの?」
怒ってないと言いながらも口ぶりはきつい。そう聞こえるのは電話だからだろうか? 今の翠には判断ができなかった。
「……学校のことだから言いたくない」
「酷い怪我ではないんだね?」
「……うん」
「それならいいけど……なんだか今日は素直だね、電話だから?」
わからないと返すので精一杯だった。自分がやけに子どもっぽくなっていることを知る。思ったよりも木崎にされた行為が堪えたのだろうか。それとも、周りに誰もおらず、まったくの一人きりだからだろうか。
なんにせよ、電波の向こうのこの声だけが今の翠のすべてだ。
「――それとも、気持ちいいことしてたから?」
場面を切り替えるように芳の口調が優しくなった。睦言を思わせるそれに、遠ざかっていた熱が戻ってくる。
たっぷりと纏わせた吐息。彼の声はエロティックだ。
「さっきまでどこを触ってたの? 言ってみて」
「……」
「言えない? じゃあ言ってみるから、当たってたらごほうびちょうだい」
「ご、ほうびって何だよ」
「そうだなあ。とんでもないこと言うとか、かなあ?」
芳の淫らな言葉が体に突き刺さる。翠の欲望からは再び蜜が溢れ、指に触れる赤い突起も硬さを取り戻している。
「それじゃあまず……乳首」
反射で指先が突起を摘まむ。息を詰めたのに芳には知られているのか、「当たった?」とくすぐるような優しい声で笑われた。
「きっと真っ赤になってるんだろうね。そばに居たら舐めてあげるのに」
「んぅっ……」
「それとも舐めるだけじゃ足りないかな?」
自分で触っていた時よりも甘い疼きに突起から気持ちよさが湧き出してくる。芳の声が媚薬のように脳に染み渡っていき、呼吸がどんどん浅くなった。
親指で側面を擦りながら上げる声のなんと気持ち良いことか。翠は何度も息をつく。
「あ、ん……」
「かわいい声になってきた。じっくりそこを虐めてあげるのも楽しいけど、今日は他のところも触って欲しいかな。それじゃあ、次は……」
芳が指摘したのは欲望だった。そそのかされるようで嫌だと思うのに、翠の指先は自らの性器をぬめりを利用して刺激する。
「……っ、ふっ、……んっ、んっ……」
「良い声だよ。それ、こっちも興奮する」
電波の向こうの芳の声もどこか上ずっているように聞こえた。言った通り、高ぶっているのだろう。触って、彼の重たい熱を感じたかった。
「後ろは? 触ってない?」
「……まだ、んっ、そっちは……」
「俺がたっぷりローション使って広げてあげたいなあ。翠の中はきゅうきゅう吸い付いてくるんだよ?」
「ひ、ん、いやっ……そんなん、言うな……」
「ふふ。今度は乳首じゃなくて、後ろを触ってみて」
家にローションがないので、翠は突起を捏ねていた指を最初と同じように咥えた。一心不乱に芳の言うことを聞いてしまう。絡まる唾液がだらしない音を立てるが、芳の吐息に後押しされてもう止められない。
「その音、まるでフェラされてるみたい……熱いんだろうね、今の口の中」
「んっ、んむっ、ふっ、んん……んっ」
敏感な口の中を何度も擦る。そうしていると本当にフェラチオを施しているようで興奮した。頭を撫でられながら奉仕したい、味わいたいという被虐的な欲求が沸いてくる。
しかし今求められているのは別のことだ。翠は明かりの下で光るくらいになった人差し指を、後孔に潜らせる。
「あっ、あ、入って……かおる、中、熱い……」
「やらしい言葉……ごほうびもらってる気分だ――熱いだけ? 体はどう?」
「ンッ、擦ると、きゅうってなるところが……あ、あー……っ」
片足はソファーの背もたれに乗せ、翠はカエルのように足を開く。前から回した手で後孔と性器をいじくった。恥ずかしい体勢だと思うのに止められない。
「指は、一本で足りるの?」
「いっ、いま、二本……ひぁ、あっ」
前と後ろを刺激するリズムが重なる。頂点の波がすぐそこまでやってきていることがわかった。芳も、おそらく自らの性器を弄っているのだろう、体を揺するタイミングで声が揺れている。
「翠の真っ赤な中見たいな……今度俺の前でも、自分でしてくれる?」
「いやっ、いやだっ、あっ、はぁっ」
「俺より細い指が、一生懸命出し入れされてると思うとたまんない……」
「ひっ、あっ! あっ、あっ、もうっ」
翠の腰が宙に打ち付けるかのように前後に揺れた。投げ出された指先が頼りなく踊る。非日常の卑猥な光景に、目の前が真っ白になっていった。
「翠……もっと声聞かせて」
「んっ! んっ、んーーー!!!」
芳の懇願を最後に、体は絶頂に巻き込まれていった。
「社長、私的な電話はご自宅でされたらどうですか」
電話を切ったのとほぼ同じタイミングでノックがあったかと思えば、細身のスーツを纏った秘書が部屋に入ってきた。部屋に漂う性の匂いにむっと顔を顰めて、取り出したハンカチで鼻を覆う。
芳はその行動を一瞥し、呟くように言う。
「……こっちの返事の前に開けるのはどうかと思うなあ」
「失礼致しました。二十分ほど、扉の前で待ちぼうけを食っていたもので」
秘書の手には書類があった。翠との予定がなくなって、半ばふてくされて書類仕事に専念しようとして指定したものだ。
結局、電話で楽しんでしまったので今はすっかり上機嫌だが。
「すまない。それは俺も悪かったね」
「相変わらず誠意の足りない謝罪ですね。どうしてそんなに軽く見えるんでしょう? 本当に悪いと思っていないからでしょうか」
言葉はきついが、秘書の台詞には純粋な疑問の気持ちに満ちていた。悪意のない言葉で、色々と無自覚な彼は今日も眼鏡の向こうの瞳を妖しくきらめかせている。
ベータであるにも関わらず彼には不思議な色気があった。翠とは違い、所作に常ににじみ出る、まさに匂い立つようなそれだ。彫刻めいた顔なのに生々しい存在感があり、それで困ったこともあると面接の時に聞いている。
この雰囲気で、率直かつ仕事は頗る優秀となると物好きも沸くだろう。
それも無理もないかと思いながら、
「調べて欲しいことがある」
芳のデスクに書類を置いて部屋を辞そうとする背中を呼び止めた。手本のように完璧な動作で振り向いた秘書は、ハンカチで顔を隠しつつ「私的ですか?」と訳知り顔だ。
「そう。とある高校の教員について調べて欲しい。場合によってはうちから人を派遣する」
「とりあえず調査からですね。信頼できる人間を手配しましょう。それで、高校名と教員の名前は?」
ポケットからハンカチの代わりにメモ帳を取り出した秘書に、芳は先ほどの熱の欠片もない、気安い態度で告げる。
怪我をしたのは夕方だと、電話を切る前の翠は言っていた。今日あった特別なことと言えば、部活の紅白戦。以前行った身辺調査で、翠は新しい剣道部の顧問であるアルファから目の敵にされていたはず。そうすると、怪我の原因として考えられるのは――。
「私立S高校。木崎典明」
幼少期から、オメガである翠には護身術を習わせたいという意向が両親にあった。その中で剣道は他の武道よりも身体的接触が少なく、また面をつけてしまえば顔も見えにくいため習いやすかったのだ。
翠は、今でこそ男性の平均身長を僅かに上回っているものの、一般的なオメガらしく骨が細く華奢で、顔立ちも整っていた。雪国生まれの母の血を濃く継いだようで色素が薄く、幼少期は特に女の子だと間違えられたものだ。
食べても体重が増えないのでやせ気味だが、細すぎるわけではない。そんな体に頑丈な黒の首輪は非常にアンバランスで、だからこそ禁欲的に見えたとは芳の言だ。翠はそう言われた時、困惑のあまり芳をにらみつけてしまったが、それももう七、八年は前のことだ。
小学校中学年から高校を卒業するまでの約十年間、翠の生活には剣道が共にあった。受験中であっても週に三日は道場に通い、級はもっていないものの、師範のお墨付きでそこそこ扱える。
現在の剣道部の顧問はこの学校に二人いるうちのアルファの一人だ。彼はオメガの存在そのものを馬鹿にしているようで、翠に対する態度は頗る悪い。更に翠が副顧問であるにも関わらず級を持っていないところも鼻につくのか、部活に出るたび当てこすられる。
だが、今日は参加しないわけにはいかない。
剣道強豪校として知られているこの学校では、月の最後の土曜は紅白試合と決まっていた。夏を最後に引退した三年生を除く一、二年生の能力が同程度になるように赤、白に分けて試合をさせるのだ。翠は審判役として参加することになる。
「木崎先生、今日はよろしくお願いします」
道場では袴だと決まっているので、翠も木崎も袴姿である。きっちりと礼をしたが一瞥をくれるだけで返事はない。
こういった態度には慣れているし、木崎も生徒がいる前では愛想笑いくらいはするからまだいいのだが、誰かから嫌われているというだけでストレスは溜まるものだ。
残暑が厳しかった9月前半とは裏腹に、秋らしい気配の到来が早い。下旬の今は気温的に過ごしやすい日が多くて体が楽だった。
今日も気温は二十度前半というところで、真夏のむっとした空気がない道場はまだ居心地が良い。蝉も驚きのあまり鳴きやむくらいの大声で部活をするのも趣があるとはいえ、換気扇はあっても冷房のない道場ではせめてこれくらいの気温が良いものだ。
この武道場は授業でも使うのでそれなりの広さがあり、一階は柔道部、二階は剣道部が使用している。
剣道では足運びや試合の際に地面を踏みならすため階下に誰かいると不安になるものだが、ここは相当強固に造られているのでちょっとやそっとではびくともしない。翠の通っていた道場は板間の一部がへこんでいてひやっとしたものだが、それも懐かしい思い出だ。
道場に足を踏み入れる前に部員たちは丁寧に礼をしていく。それが武道家としてのマナーなのだ。翠と木崎はそれぞれ会釈で迎えた。
部員たちは準備運動や防具の確認、組み分けの確認等を流れるように行ってゆく。
木崎と翠が先頭に立って行う素振りで体を温めてから、やっと紅白戦の開始だ。
通常、剣道の団体戦では先鋒・次鋒・中堅・副将・大将の計五人が一つのチームとなる。だが、この紅白戦では各チーム五人以上いるのでそうは分けず、顧問が一年から副将を一人、二年から大将を一人選び、通常の試合を勝ち点一、副将戦を二点、大将戦を三点として合計の勝ち点で勝敗を決める。
翠の担当は白組だ。新しく副部長になった二年生を大将に据え、迷ったものの今までに副将をやったことのない一年生を指名した。副部長は身内にオメガがいるそうで、翠の身の上にも理解があり、部の中では一番関係性が作れているので話しやすい。
対する木崎率いる紅組は新部長を大将に、スーパールーキーの呼び声高い一年を副将にしたようだった。
実際、紅白の実力が同程度というのは建前で、チーム分けは顧問である木崎の権限で行われている。本人はくじで決めたと公言しているが、毎回紅組の上位メンバーが同じというところから、翠も、おそらく一部の部員も信じていない。
これでは部内に余計な確執が広がる恐れがあるものの、木崎は顧問であり、何よりアルファだった。そのせいで仕方がないというムードが流れている。それほどにアルファは影響があるのだ。
公式戦であれば審判の人数や位置取り等規定があるが、ここでは簡単に教員の二人が審判を行う。日常の練習試合では部員にやらせることもあったが、紅白戦の時は集中を促すためにやめている。
部員数は一年、二年合わせて二十四人のため、全部で試合数は十二となる。場合によってはどちらかに白星が偏って逆転が不可能になることもあるが、これは試合形式に慣れる練習でもあるので切り上げることはない。
強豪ということもあって、小、中学からの経験者が部員の多数を占めていた。中には翠が通っていた道場出身という生徒もいる。
やがて試合が始まった。「始め」の合図の後、向かい合った生徒が気合いの声を発する。これは威嚇の意味もあり、腹から声を出すため、道場中に雄叫びが響き渡る。
床を擦る足音と衣擦れが張り詰めた空間を静かに支配する。相手の一挙手一投足を見て動きを読むのだ。面から覗く二年生二人の眼差しは鋭い。
紅組の生徒が小手を打った。しかし、当たりどころから有効ではないと判断して審判旗は揚げない。木崎も同様だった。さすがに試合の時にまで卑怯めいたことはしなかった。
お返しとばかりに白組の生徒が面を狙ったものの、竹刀で弾かれて決まらない。そのまま二人は膠着状態に陥った。
剣道の試合時間は一試合五分で、場合によっては延長が認められる。試合時間内に先に二本先取するか、または有効打突を一本取ってそのまま時間切れになった場合も勝ちと見なされる。これがあと二回繰り返されて勝敗が決まるのだが、今回は略式なのでそこまではしない。
初戦は延長までもつれ込み、胴を決めた白組の勝利になった。幸先の良いスタートだ。翠はそれなりの距離感を保って生徒たちを激励する。
さすがに九月にもなれば、部員たちもオメガの存在に慣れてはいた。しかし、木崎派と呼んでいる数人をはじめとする一部の生徒からは良く思われていない。
木崎は顔も良く、剣道の段位もあるため、少数の生徒から崇拝に近い感情を持たれていた。とりまきの中心である木崎が翠を嫌っているのだから、彼らとの関係調整は容易なことではない。
その後も試合は恙なく進んだ。十試合が終わって、勝ち点は紅組が六点、白組が四点だ。副将戦、大将戦共に勝たなければ白組の勝利はない。
副将戦を控えた鈴木は表情を強ばらせ緊張した面持ちで、せっかくつけた面の紐を何回も結び直している。
初めて副将に選ばれたので無理もないだろう。どうして自分が選ばれたのかとその目が語っていたが、翠は必要以上に声をかけない。ただ「持てる力を出せ」とだけ言った。
副将戦の結果は延長で面をとった白組の勝利だった。鈴木は試合相手との関係性もありあまり喜んだ表情を見せなかったが、自然と笑いそうになるのをこらえるように唇を噛んでいる。
「しっかりやれたな」
大将戦の準備の時間でひっそりと話しかけると、鈴木は手早く面を外しながら僅かにはにかんだ。汗で濡れた毛束が肌に張り付いている。
「なんで俺を選んだんですか?」
それをずっと聞きたかったのだろう、小声ながらもずいぶんと早口だった。
翠は前のめりになる鈴木の必死さに可愛らしく思いながら、自分よりも少し低い位置にある目をしっかり見つめる。
「同門だよ。俺も牧先生のところで習ってた。あそこの出身は粘り強いからな」
「牧先生の?」
そのまま会話が続きそうだったが、「審判、位置に!」と木崎が叱責したので叶わなかった。翠と鈴木は慌ててそれぞれの位置に戻る。
頭を下げて謝罪の代わりにし、旗を構える。木崎は生徒の前でどうなのかと思うくらいに強く翠を睨んでいたが、心の底からの不満がこもった息を大きく吐き出してから、試合の開始を宣言した。
「――始め!」
紅組の主将であり部長の彼は体が大きく、身長は百八十半ばだ。その体の割には関節が柔らかく、良い動きをする。特に腕を綺麗にひねった胴が得意で、それが決まり技になることも多い。
一方の白組の大将は、身長こそ百八十と高いが手足は細く、見ようによっては頼りない。しかしそれは体の鍛え方のせいもあり、マラソン選手のような持久力がある。手数が多いのが特徴だ。
流す紅、攻める白と対照的な二人で、こちらも五分では決着がつかずに延長になった。
結局、一瞬の隙を突いて副部長が面を決め、文字通り決定打になった。
年度が変わってから初めての白組の勝利だった。紛うことなく実力で勝ち取った結果であり、静かに喜ぶ生徒たちを見て翠も嬉しくなる。講評として意見を求められた時はもちろん顔に出さなかったが、翠の気分は高揚していた。
片付け等終わらせて部員が引き上げた後の道場にて、場を辞しようと礼をした翠の肩を木崎は容赦ない力で引き留めた。
「一回くらい勝ったからって調子に乗るなよ」
自身が選んだメンバーへの期待からというよりは、オメガである翠に負けたことへの屈辱というところか。木崎はプライドが高くあからさまな選民意識を持っているので、存在自体が彼の地雷である翠としてはあまり関わりたくない。
「……痛いです」
かつては幾度も竹刀を振った分厚い手のひらが与えてくる痛みは鈍く、自然と息が詰まる。
木崎は歪んだ翠の表情を見て悦に入ったようで、さらに力を込めてきた。袴の襟が歪んで胸元が露出しそうになり、慌てて腕を払う。ぱちん、と音としては軽かったが、腕を叩かれた木崎の顔が一瞬にして赤く染まった。
「てめえ!」
胸ぐらを捕まれかけたがすり足で下がって避ける。翠の体に染みついた動きだ。
じんじんと痛む肩をゆっくりと擦る。木崎の苛烈な感情が乗り移ったような痛みにぞっとした。
「――失礼します」
これ以上ここに居ては危険だと判断した翠はまろびそうになりながら階段を駆け下りる。木崎の声が追いかけてこないことが、むしろ怖かった。
その日の夜は芳と会う約束があったが、肩に見事に手形のあざがついていたので断りの連絡を入れた。わざわざ職場でのトラブルを話すこともない。心配する芳に「怪我をしたから今日は会えない」と告げる。
両親共になんの偶然か出張だったので、家には翠一人きりだ。
帰宅してすぐにシャワーを浴びて患部には湿布を貼った。肩を見るとくっきりと指の形がわかる内出血になっていて、じくじくとした痛みに唸る。恐ろしいまでの力の強さだ。
「あのゴリラめ」
そう思わず吐き捨てたとしても仕方ない。しかし、証拠がなくては報告も出来ないので泣き寝入りだ。とはいえ、彼ともめるような面倒を起こす気持ちも翠にはなかったが。
刻んだ野菜を入れた袋のラーメンを夕食にして、やることも特になくテレビを見る午後八時。この時間にやっているのはドラマかバラエティがほとんどで、目当てがないのでもはやつけているだけだ。
本当であれば、今頃は芳と食事をしていたはずだった。会社で人にしているのと同じように、雰囲気がよく、料理がうまい店を選ぶことが彼はとても上手だ。
秋の味覚が出始めてしばらくたつ。もしかしたら、今日もどこか季節の料理が美味しい店を予約していたかもしれない。キャンセル料を払わせていたら申し訳ないが、きっと芳が翠にそれを言うことはないだろう。
上等の食事に程よい酒。それを味わった後は、たいていやはり高級なホテルになだれ込むことになるのだが。
「この痣じゃなあ……」
部屋着として着ているジャージの上から湿布を撫でる。撫でるだけでも違和感があるのだ、セックスで動いたらぶつけそうで怖い。
翠は怪我をした左肩を上にしてソファーに横向きに寝そべった。ローテーブルの上の携帯がメッセージの通知を示している。察するに芳だろうが、今は文字を打つ気力がわいてこない。
疲れたというのがいまの感情だった。木崎がぶつけてきたあのエネルギーに引いてしまい、気力を根こそぎ奪われた感じだ。代わりに抱えるにも困るくらいの不快感が心を襲っている。
胸に黒いもやもやとした塊があるような気がして、大げさに吸い込んだ息を吐き出してみたが特に変化はない。肩は身じろぐだけで疼痛を与えてくる。
心を取り出して漂白でもできたら楽になるかもしれないのにと、翠は詮無いことを考える。
沈んだ気持ちのまま視線を更に遠くに投げると、液晶の中で男女が深い口づけを交わしあっていた。ホテルの一室という設定らしく、照明が付けられていないせいで画面は不明瞭だが、睦み合う二人のシルエットが重なっているのはわかる。
このドラマは母が毎週見ているので、その話からなんとなくのあらすじは知っていた。簡単に言えば、ベータの女性が、将来有望なベータと幼なじみのベータのどちらを選ぶかという話だ。
今は「体だけでもいいから」と将来有望なベータが迫っているところのようだ。熱のこもったキスに、主人公はくったりと体から力を抜いてベッドに身を投げている。
それを見つめるベータの淫靡な眼差しに、まるで閃くように芳が重なった。尖った犬歯を見せびらかし、自分の魅力をわかっていながら翠を誘惑してくる――。
自然と翠の指は自分の唇を辿った。自分がはき出す熱い吐息にぎょっとして、それでも刺激が欲しくて唇の形をなぞる。
爪の先端を歯でゆっくりと擦る。指の腹も同じようにしていると、だんだんと零れた唾液に濡れてきた。そのまま舌を絡めて口腔をつつく。後孔を馴らす準備として自分の指を咥えたことはあるが、唇に触ることを目的にこうしたことはなかった。
官能を求める背徳感に尾てい骨の辺りが重たくなっていく。
自分の指だというのに、舐める度にどんどん甘くなるキャンディーを口にしているかのようだ。指に吸い付くと何度もリップ音が鳴る。淫らな響きに興奮をかき立てられて、翠の怪我をしたほうの腕は痛みも忘れて下腹に伸びていった。
服の上から既に膨らんだ欲望をなぞる。力を入れないように手のひら全体で包むとまざまざと熱を思い知った。時折太ももの肉を弄びながら気持ちを高ぶらせていく。
芳との約束を断って、一人いやらしいことをする自分の浅ましい本性。エロティックな感情を晒したくてうずうずとしている。服の中で、欲望は蜜を零しているのだろう。
唾液が頬を伝った。それを合図に、翠のぬめる指先は服を潜り胸に立ち上がる突起に触れた。あさましく芯を持つそれをこねくりながら、片方の指で欲望の形をなぞる。
芳にされる時のような圧倒的な快楽ではなかったが、自分で自分を辱める行為に羞恥から呼吸が荒くなった。
翠はさらに硬くなった欲望を直接触る。布をかき分けると、案の定そこは透明な液体を垂らしていた。こもった熱を逃がすように、又はより追い詰めるように、包み込んだ欲望を上下に滑らせる。
「ンっ……ふ、んん……ん……」
鼻にかかった喘ぎは静かで、家に誰もいないダイニングで淫靡な遊びをしているのだと突きつけてくる。下半身からの規則的な水音もそれに拍車をかけた。赤く色づく胸の突起を人差し指で虐めながら鼓動を早めていく。
濡れた音の発生源である小さな穴にゆるく爪を立てた。芳にされると思わず声が出てしまう行為だが、今回は体を大きく揺らすだけで耐えた。だが、痛みが官能に繋がってだんだんと頭が痺れていく。
性器に触れながら、後孔を埋めるものが欲しいと飢餓感を覚える。こじ開けて、奥まで犯してほしい。これじゃ足りない。体に興奮を積み上げながら、自分以外の熱を望む気持ちも高まっていく。
ふいに携帯が着信を告げた。驚きのあまり気持ちが一瞬冷めたものの、浮かぶ国木芳の文字にまた体が熱くなる。
「翠? 今、大丈夫?」
通話ボタンを押し、引き寄せた携帯を耳の横に置く。聞き慣れた声に安心すると共に、体がぶるっと震えた。芳はどこかのんびりと話すので、電話越しだというのに吐息に耳を擽られるようだ。
「――かおる?」
答える声は掠れていた。芳がそんな翠に気付かないはずがない。
「……何してるの? 一人?」
「……家に誰もいないから……」
「メールの返事もしないで、俺との約束断っていやらしいことしてたの?」
冷たい声音だった。あまり聞いたことがない芳の口調にぞっとする。高ぶっていた分、気持ちが落ち込むのも驚くほど早かった。自慰の手も自然と止まり、目元にあっという間に水の膜が張る。
「ごめん……」
「怒ってないよ。何があったの? さっきのメール、怪我しただけじゃわかんないよ。どこをどう怪我したの? 病院は行ったの?」
怒ってないと言いながらも口ぶりはきつい。そう聞こえるのは電話だからだろうか? 今の翠には判断ができなかった。
「……学校のことだから言いたくない」
「酷い怪我ではないんだね?」
「……うん」
「それならいいけど……なんだか今日は素直だね、電話だから?」
わからないと返すので精一杯だった。自分がやけに子どもっぽくなっていることを知る。思ったよりも木崎にされた行為が堪えたのだろうか。それとも、周りに誰もおらず、まったくの一人きりだからだろうか。
なんにせよ、電波の向こうのこの声だけが今の翠のすべてだ。
「――それとも、気持ちいいことしてたから?」
場面を切り替えるように芳の口調が優しくなった。睦言を思わせるそれに、遠ざかっていた熱が戻ってくる。
たっぷりと纏わせた吐息。彼の声はエロティックだ。
「さっきまでどこを触ってたの? 言ってみて」
「……」
「言えない? じゃあ言ってみるから、当たってたらごほうびちょうだい」
「ご、ほうびって何だよ」
「そうだなあ。とんでもないこと言うとか、かなあ?」
芳の淫らな言葉が体に突き刺さる。翠の欲望からは再び蜜が溢れ、指に触れる赤い突起も硬さを取り戻している。
「それじゃあまず……乳首」
反射で指先が突起を摘まむ。息を詰めたのに芳には知られているのか、「当たった?」とくすぐるような優しい声で笑われた。
「きっと真っ赤になってるんだろうね。そばに居たら舐めてあげるのに」
「んぅっ……」
「それとも舐めるだけじゃ足りないかな?」
自分で触っていた時よりも甘い疼きに突起から気持ちよさが湧き出してくる。芳の声が媚薬のように脳に染み渡っていき、呼吸がどんどん浅くなった。
親指で側面を擦りながら上げる声のなんと気持ち良いことか。翠は何度も息をつく。
「あ、ん……」
「かわいい声になってきた。じっくりそこを虐めてあげるのも楽しいけど、今日は他のところも触って欲しいかな。それじゃあ、次は……」
芳が指摘したのは欲望だった。そそのかされるようで嫌だと思うのに、翠の指先は自らの性器をぬめりを利用して刺激する。
「……っ、ふっ、……んっ、んっ……」
「良い声だよ。それ、こっちも興奮する」
電波の向こうの芳の声もどこか上ずっているように聞こえた。言った通り、高ぶっているのだろう。触って、彼の重たい熱を感じたかった。
「後ろは? 触ってない?」
「……まだ、んっ、そっちは……」
「俺がたっぷりローション使って広げてあげたいなあ。翠の中はきゅうきゅう吸い付いてくるんだよ?」
「ひ、ん、いやっ……そんなん、言うな……」
「ふふ。今度は乳首じゃなくて、後ろを触ってみて」
家にローションがないので、翠は突起を捏ねていた指を最初と同じように咥えた。一心不乱に芳の言うことを聞いてしまう。絡まる唾液がだらしない音を立てるが、芳の吐息に後押しされてもう止められない。
「その音、まるでフェラされてるみたい……熱いんだろうね、今の口の中」
「んっ、んむっ、ふっ、んん……んっ」
敏感な口の中を何度も擦る。そうしていると本当にフェラチオを施しているようで興奮した。頭を撫でられながら奉仕したい、味わいたいという被虐的な欲求が沸いてくる。
しかし今求められているのは別のことだ。翠は明かりの下で光るくらいになった人差し指を、後孔に潜らせる。
「あっ、あ、入って……かおる、中、熱い……」
「やらしい言葉……ごほうびもらってる気分だ――熱いだけ? 体はどう?」
「ンッ、擦ると、きゅうってなるところが……あ、あー……っ」
片足はソファーの背もたれに乗せ、翠はカエルのように足を開く。前から回した手で後孔と性器をいじくった。恥ずかしい体勢だと思うのに止められない。
「指は、一本で足りるの?」
「いっ、いま、二本……ひぁ、あっ」
前と後ろを刺激するリズムが重なる。頂点の波がすぐそこまでやってきていることがわかった。芳も、おそらく自らの性器を弄っているのだろう、体を揺するタイミングで声が揺れている。
「翠の真っ赤な中見たいな……今度俺の前でも、自分でしてくれる?」
「いやっ、いやだっ、あっ、はぁっ」
「俺より細い指が、一生懸命出し入れされてると思うとたまんない……」
「ひっ、あっ! あっ、あっ、もうっ」
翠の腰が宙に打ち付けるかのように前後に揺れた。投げ出された指先が頼りなく踊る。非日常の卑猥な光景に、目の前が真っ白になっていった。
「翠……もっと声聞かせて」
「んっ! んっ、んーーー!!!」
芳の懇願を最後に、体は絶頂に巻き込まれていった。
「社長、私的な電話はご自宅でされたらどうですか」
電話を切ったのとほぼ同じタイミングでノックがあったかと思えば、細身のスーツを纏った秘書が部屋に入ってきた。部屋に漂う性の匂いにむっと顔を顰めて、取り出したハンカチで鼻を覆う。
芳はその行動を一瞥し、呟くように言う。
「……こっちの返事の前に開けるのはどうかと思うなあ」
「失礼致しました。二十分ほど、扉の前で待ちぼうけを食っていたもので」
秘書の手には書類があった。翠との予定がなくなって、半ばふてくされて書類仕事に専念しようとして指定したものだ。
結局、電話で楽しんでしまったので今はすっかり上機嫌だが。
「すまない。それは俺も悪かったね」
「相変わらず誠意の足りない謝罪ですね。どうしてそんなに軽く見えるんでしょう? 本当に悪いと思っていないからでしょうか」
言葉はきついが、秘書の台詞には純粋な疑問の気持ちに満ちていた。悪意のない言葉で、色々と無自覚な彼は今日も眼鏡の向こうの瞳を妖しくきらめかせている。
ベータであるにも関わらず彼には不思議な色気があった。翠とは違い、所作に常ににじみ出る、まさに匂い立つようなそれだ。彫刻めいた顔なのに生々しい存在感があり、それで困ったこともあると面接の時に聞いている。
この雰囲気で、率直かつ仕事は頗る優秀となると物好きも沸くだろう。
それも無理もないかと思いながら、
「調べて欲しいことがある」
芳のデスクに書類を置いて部屋を辞そうとする背中を呼び止めた。手本のように完璧な動作で振り向いた秘書は、ハンカチで顔を隠しつつ「私的ですか?」と訳知り顔だ。
「そう。とある高校の教員について調べて欲しい。場合によってはうちから人を派遣する」
「とりあえず調査からですね。信頼できる人間を手配しましょう。それで、高校名と教員の名前は?」
ポケットからハンカチの代わりにメモ帳を取り出した秘書に、芳は先ほどの熱の欠片もない、気安い態度で告げる。
怪我をしたのは夕方だと、電話を切る前の翠は言っていた。今日あった特別なことと言えば、部活の紅白戦。以前行った身辺調査で、翠は新しい剣道部の顧問であるアルファから目の敵にされていたはず。そうすると、怪我の原因として考えられるのは――。
「私立S高校。木崎典明」
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