狼の獣性

筺 柚人

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 職員会議にて、狩野がまた怪我をしていたと報告が上がった。校長の命により、いつものごとく追い立てられた翠は、ショッピングモールで話して以来の狩野のもとへ向かう。

 校舎裏のケヤキの下が定位置らしい今日の狩野の昼食はフルーツサンドで、飲み物はコーヒー牛乳のようだ。木に寄りかかって風に髪を靡かせる彼のそばに袋が散らばっている。

 衣替えがあったのでスラックスの色は墨色に変わっていた。暑すぎる日々とはいい加減おさらばできそうで、翠もほっとしている。

「よう」

 足音から人の存在には気づいていたのだろう。狩野は翠を一瞥すると、言葉無くコーヒー牛乳のパックを取り上げた。狩野が吸うストローの音から、あまり中身がないようだと知る。

 歩いていた時はわからなかったが、翠の位置からは見えなかった頬に平手の跡がある。目算だと少し手が大きい成人男性のもの。これが校長が言っていた怪我なのだろうが、翠は違和感を覚えて狩野の顔を凝視した。

「……狩野、本当に喧嘩したのか?」

 尋ねた瞬間、狩野の鋭い視線が翠をさした。やはり張り詰めた面持ちで、先日の狩野は幻だったとすら思う。

「何でそう思った」

「喧嘩っていったら、擦傷とかあざのほうが一般的だろ? 平手は珍しい気がする」

「……」

「そう聞いてくるってことは、喧嘩じゃないんだな」

 狩野は答えなかったが、頼りなさげに伏せられた視線が肯定を示していた。喧嘩ではない怪我、それはもしかして――。

「ちーの話だけど」

 口を開こうとした翠に被せて、初めて狩野から話題を切り出した。

「ちーはあだ名なんだ。本当は別」

「そうなのか。名前は?」

「……あんたならわかるだろ」

 ふてくされたように言われて、翠は首を傾げた。普段の狩野の様子を思い出し、それから手に持っているコーヒー牛乳をまじまじと見て、

「それチョコレート牛乳か?」

 こっくりと狩野は首を縦に振った。茶色いところから早合点してしまったが、パッケージにはコーヒーではなくチョコレートが描かれていた。

「ちーってもしかして、チョコ?」

「……ふん」

 鼻を鳴らすことが返事の代わりらしかった。思えば狩野はいつもチョコレートのものを食べていた。翠が渡した飴も、このぶんなら食べているだろうか。

 話を誤魔化されたことはわかったが、せっかく狩野が歩み寄っているのだから無理に距離を詰めるべきではないだろう。翠はポケットにしまっていた例の飴を取り出して手のひらに乗せた。

「この間と同じものだ。どうぞ」

「……」

 そのままじっと待っていると、思ったより大きな手が飴を持っていった。そのまま白い包みは狩野のブレザーのポケットに消えてゆく。

 懐かない動物に初めて触れた時のような感動だった。ガッツポーズしたい気持ちをぐっとこらえ、喜びを噛みしめる。少しずつ、狩野との距離が近づいているとわかった。

 あまり見ては緊張させそうで、視線を彼から移すことにする。目の前の校舎は特別教室が並ぶので人影はない。辺りを見回すと、今日の天気が良いことに気付いた。

 雲一つない碧空。葉の緑と相まってこの上なく爽やかな気持ちになった。ぐっと背筋を伸ばして息を吸い込む。

「今日は天気がいいな、気分が良い。明後日から雨になるらしいから、今のうちに楽しんでおかないと」

「……ん」

 狩野は頷きともうなりともつかないが、翠の言葉に反応を見せた。それに励まされてもう少し会話を投げてみる。

「雨の日の昼はどうしてるんだ? ここは無理だろ」

「……空き教室」

「そっか」

 どうやら昼食は一人のようだ。休み時間の光景を見たことがないから想像もつかないが、狩野の交友関係は狭いか皆無か、どちらだろうか。少なくとも広いようには思えない。今度調べてみようか、と内心でごちる。

 ふっと一匹狼という単語が沸き上がった。狩野のつんとした雰囲気に合う気がするが、不躾なので思うだけにする。

「……授業は」

「ああ、もう時間になるな。行くか」

 沈黙を破る狩野の台詞に同調する。狩野に時間を指摘されるのはこれで二回目だ。

 校舎に入るまでにそれ以上の会話はなかったが、狩野が翠を妙に気にしているのがわかって、少し微笑ましく思った。











 あまり部活に出ないとはいえ、週六日のうちの半分は顔を出すようにしているため、一日おきの月、水、金の計三日、翠は袴姿で道場に向かう。

 あと二ヶ月で今年も終わる十月、道場内もやっと秋の気配を感じるようになった。床の板材の温度が以前よりも下がったからだろうか、照りつける日差しのぎらつきが薄れたからだろうか。紅葉にはまだ早いので気分的なものかもしれない。

 素振り中の部員のフォームチェックをしていると、遅れて参加してきた木崎がこの上ない愛想笑いで翠を呼びつけた。

「先生、ちょっとよろしいですか」

 今すぐ必要な話なのかと聞きたくなったが、ちょうど指導していた副部長は「俺は後で大丈夫です」と翠を促す。礼を言ってその場を離れ、道場の一部に顧問が仕事を行うスペースとして設置してある畳敷きの場所までついて行った。入り口に大きな暖簾をかけているので、生徒たちが中の様子を知る術はない。

「昼のことだが」

「昼……? 何かありましたか?」

「狩野だよ。仲良く話していただろう」

 翠は目を瞬く。それが何だというのだろう。きょとんとする翠を、木崎はきつい目つきで睨みつける。

「あいつ、俺はおろか他のどの教員とも話さないんだぞ。それなのになんでお前が?」

「なんでかと言われても困りますけど、定期的に話しかけているからじゃないでしょうか。話す数が多ければ関係もできてきます」

「俺はあいつのクラスの教科担当だ、話す機会ならこっちの方が多い」

「…………」

「お前に一つでも負けていることがあるのが気にくわない」

 言いながら、距離を詰めた木崎が翠の首に指を当てた。首輪の近く、皮膚が薄い箇所を押される。跡がつかないようにと加減しているように見えた。

 その行為というより触れている部分から、木崎がオメガを蔑んでいることが伝わる。否、普段の立ち居振る舞いからもそれは滲み出ていた。

「……この話は今しなくちゃならないことなんですか」

「あ?」

 あまり考えずに口をついて出た言葉だったが、木崎の逆鱗に触れたようだった。それなりの力で肩を押されると、構えていなかった為に堪えきれずたたらを踏む。ちょうど背中が壁にぶつかった。

 その拍子に置かれていた掃除機を蹴倒してしまい、木造の室内に音が響き渡った。暖簾の向こう側で聞こえていた生徒たちのかけ声がピタリと止む。

「オメガの分際でアルファに楯突くなよ」

 木崎は翠を、文字通り見下ろす形で威圧する。木崎の性のプライドはあまりにも肥大しており、思わず引いてしまう程だ。

 翠が通っていた大学にはアルファが多く、芳と仲良くなるまで、特に入学したての頃はこうして感情をぶつけられることがよくあった。翠としてはこういった時のアルファに有効な術はないと考えている。彼らはオメガという存在そのものを憎んでいるのだ。翠がどういう人間かということは爪の先ほども関係ない。

 それを知っているから、あのときもそしてこれからも、翠はいつか終わる相手の感情の波が収まるのを待つだけだ。敵意を持って性のことを言われようとかまわない。それで傷つくような自分はもういないのだと、翠はそう思っているから。

 その揺るがない気持ちが顔に出ていたのか、木崎はつまらなさそうに一つ舌打ちして、今度は嘲るような笑みを浮かべた。

「まあ、お前なんかと話す狩野も狩野か」

「は?」

 突拍子もない発言にぎょっとして、間抜けな声が出てしまった。

 それから、じわじわと言葉の意味が沁みてくる。校長といい、木崎といい、生徒を不当に馬鹿にするなどあってはならないことだ。翠は真っ向から木崎の視線に立ち向かった。

「あなたが接し方を間違えたんじゃないですか? 彼は喧嘩はしますけど、割合素直ですよ」

「……」

 生徒のかけ声は止んだままだ。このままでは良くないと思うのに、今ばかりは気持ちを抑える気にならなかった。

 木崎が翠の黒い首輪をじっと見つめる。翠は木崎の目をじっと見つめる。

 殴られる心配をして身を固くしたが、いつまでたっても痛みはやってこなかった。

 そして。

「随分自分に自信があるようだな。それなら見せてみろよ」

 木崎が唾棄するように言葉を投げる。

「試合だ。防具はでいい、寸止めでやるぞ」

「……え?」

 状況に追いつけないでいると、大股で暖簾の向こうに消えた木崎が部員に周知している。今から顧問の二人が試合をするぞ、と。

 置いてけぼりの翠だったが、暖簾の隙間から心配そうな鈴木の顔が覗くと、慌てて外に出た。











 打ち所が悪ければ木刀は人が死ぬが、竹刀は柔らかいので死ぬことはない。しかし、容赦なく打ち込めば怪我は免れない。

 翠が通っていた道場は珍しく実践的な教えが多く、寸止め稽古もやるにはやった。しかし、それも随分と前のことだ。

 翠が最後に竹刀を握ったのは先月。長期休みで時間がある時に挨拶がてら道場に向かうくらいで、素振りも怠っている今はまさしくなまくら刀だ。

 竹刀を握って振り下ろしながらも、なんとなく居心地が悪い。それに、あまりにも急なことで心の準備もできていなかった。なんの色も顔に乗せずひたすら屈伸している言い出しっぺの木崎は、一体どういうつもりなのだろう。

 ここで翠をこてんぱんにするつもりなのだろうか。顧問間の確執をわざわざ晒して、部の士気を考えていないとしか思えない。否、一部の生徒は翠がやられたらすっきりするのだろう。……憂鬱だ。

 そう考えながらも踏み込みの練習をする。不本意だがやるしかないのだ。実際に木崎に腹が立ったのも事実で、翠は深呼吸を繰り返して集中を高めてゆく。

 剣道で大切なのは気、剣、体と言われている。要するに気合い、竹刀、足捌きの三つが一致して、初めて有効な一本だと認められるのだ。

 状況が分からないだろうに、それでもしっかりと審判旗を持ち出した部長達に目で礼を言うと、同じように黙礼が返された。このくらいなら、仲がどうであれ武道を修めている者としてできないことはない。

 宣言通り防具はなしで、形式は普段の試合と同じように行うようだ。試合は蹲踞と呼ばれるしゃがんだような体勢から始まる。向かい合って蹲踞をして、始めの合図と共に立ち上がってから開始だ。

 準備が終わったらしい木崎に合わせて進み出る。試合は決められたスペース内で行われる。

 体育座りで取り囲む部員をよそに、腰に構えた竹刀の握りを確かめる。学校の備品であり自分のものではないが、それは木崎も同じ事だろう。

 翠は竹刀を木崎の喉元に合わせて蹲踞する。向かい合う二人の剣先が交わった。

「――お前が勝てたら認めてやるよ」

 木崎の小さな声を切り裂く高らかな始まりの合図。

「始め!」

 赤の旗と白の旗が視界の端で閃いた。体の横に沿わせているのだが、沈んだ色合いが多い道場では必然的に目立つ。

 すっくと立ち上がって、気合いを示すように木崎が吼えた。威嚇だ。向かう翠は対峙したまま鋭く息を吐き出す。ただ、構えた竹刀を体の中心から動かさず、顎を引いたまま前を見据える。

 背が高い木崎は歩幅も広く、摺り足ですぐに距離を詰めてくる。冷静にそれを判断し、打ち付けてきた竹刀を弾いた。そのまま返す刀で間合いを保つ。今の打ち合いだけでも、木崎が段位に相応しい力を持っていることがわかった。

 下手に鍔迫り合いになっては危険だ。身長差があるため、離れ際に面を叩かれる危険がある。

 力は明らかに翠が負けていた。しかし、翠が入らせないのだが、間合いを計りかねて攻めあぐねる木崎の苛立ちを感じ、相手が平静を失っていることを知る。

 刹那の読みで、あえて踏み込みにいく。気合いと共にがら空きの胴を狙われたが、斜めに移動し、木崎の横を抜けて手首を返す。

「一本!」

 審判の旗が上がったのは、翠の小手が有効だと認められたからだ。

 それによりいっそう肩をいからせた木崎には、もはや負ける気がしなかった。

 その後、残りの時間でまたもや翠が胴を取り、その不可思議な試合は終わりを告げたのだった。









 その日の部活はそれでお開きになった。負けた木崎が強制的に終わりを告げて出て行ったからだ。着替えを済ませて出ていったことから、おそらく帰ったのだろう。

 翠は自主練をするという一部の部員のため、道場に残っていた。

あれで木崎との確執が終わったのか微妙だが、今日のところはもう何もないと信じたい。

「先生、さっきのすごかったっす! 牧先生っぽい真っ直ぐなところがありました!」

 一年の鈴木が人なつっこい表情で翠を褒め称える。同門の彼は特に感じるところがあったらしくそればかりだ。懐かしさに頷きながらも、随分と腕が鈍っていたことは本当なので心からの同意はできなかった。

 そのまま牧先生の思い出話に花を咲かせていると、ふと鈴木が首を傾げる。

「でも、なんで突然試合やるなんて言い出したんですかね、木崎先生は」

「……鈴木、ちょっと空気読んでみようか」

「へ? 何でっすか?」

 副部長が首を傾げた鈴木を見て苦く笑う。翠はそのやりとりを見て笑ってしまった。部活での翠はいつも緊張感がある顔をしていたので、それは誤算でもあったが。

「おー。先生って笑うときれいなんですね」

「おいっ、だから空気をだな!」

「ははははは。面白いな、鈴木は」

 副部長のフォームを見るはずだったのに、三人で固まっているとコントのようになった。見かねた部長が横合いから鈴木の頭を小突く。

「お前、アルファらしくないのは顔だけにしとけよ」

「すんません」

 首だけを亀のようにぴょっこりと下げた鈴木は、翠にも謝罪を告げてくる。特に謝られる内容でもないので構わないのだが、それよりも今の部長の発言が気になった。

「鈴木ってアルファなんだっけ?」

「そっすよ。あんま出来よくないですけど」

「一年のアルファクラス?」

「はい。先生、うちのクラスに教えに来たことありますよね?」

 言われて脳内で生徒の顔と名前を照合する。狩野の顔が一番に浮かんで、先ほどの木崎とのやりとりを思いだしむかっ腹がたったが、今は置いておく。

 アルファクラスはどの学年も二十人足らずで数が少ないため、生徒の認識自体は可能だ。鈴木という生徒を思い出してみると、確かに背格好は目の前の鈴木と似ている。が、外見が違っていた。

 翠が知る一年アルファクラスの鈴木は、黒髪をすだれのようにおろし、あまり授業を聞かない印象だ。成績もクラスの中で確かワースト。目の前の明るく人懐っこい彼とは似ても似つかないのだが……。

「いつもは髪の毛下ろしてる?」

「はい。あと眼鏡もしてますね」

 花が咲いたように笑う鈴木は、顔立ちだけ見ると確かにアルファらしくない。加えて大柄なものが多いアルファの中では別の意味で目立つ身長をしている。

 脳内で一致させられなかったことに無性に悔しさがこみ上げるし、鈴木にも申し訳ないと思ったが、本人はあっけらかんとしていた。

「俺、あんな格好してるんでクラスで浮いてるんすよ。まっ、そのおかげで威君と話せるんすけどね」

「あきらくん? ……狩野のことか?」

「はい! 威君とは浮いちゃった同盟組んでるんです!」

 どこに威張るポイントがあったのかはわからないが、鈴木は薄い胸をえいっと張る。そのポーズに副部長は頭を抱え、部長は鈴木の腰をばしりとはたいていて、まるっきりコントだ。

 浮いちゃった同盟が本当に存在するかはさておき、思わぬところで狩野の交友関係を知った翠はここぞとばかりに尋ねてみる。

「二人は仲良いのか?」

「良いですよ。クラスの仲で威君とまともに話すのは俺くらいっすね。皆怖がってるみたいで」

「喧嘩ばっかりしてるから?」

「それもありますけど、威君の家名が良いからじゃないですか? アルファにもランクがありますしね」

「家の格ってやつか……それは確かにあるかもしれないな」

 大学のころを思い出す。芳の周囲には取り巻きのようなアルファもいたものだ。

 それにしても、あの狩野を気安く威君と呼ぶ彼には驚いた。二人が話しているところを一度見てみたいものだ。

 さらに「威君がイケメンすぎて近寄りがたいってのもありますね」と真顔で言うものだから吹き出してしまった。だんだんと鈴木に興味がわいてきて、今度は本人について尋ねる。

「なあ、鈴木はどうして普段あんな格好なんだ?」

「勉強キライなんで、授業中にイヤな顔してもばれないようにっす!」

「……ははあ」

 変わってるな、という感想はなんとか飲み込んだ。同時に今度代理で授業をする時はきちんと見ておこうと決意した。もし分からないところがあるならきちんと教えるべきだ。

「って、その話はいいんすよ! 木崎先生って――」

「こら、もう行くぞ」

 また話題をぶり返そうとした鈴木の腰を、部長が容赦なくとって引きずっていく。哀れっぽく手をばたつかせる鈴木に苦笑いで手を振った。

もう終了の時間が近く、片付けもしなければならない。

 会釈して二人の後を追いかけた副部長の背中を目で追いながら、先ほどの試合に思いを馳せる。後のことを考えずに戦ってしまったが、翠はあの場でどうするべきだったのだろう?

 木崎の試合開始間際の言葉を信じるなら勝っても良かったのだろうが、果たして――。
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