狼の獣性

筺 柚人

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「あーっきぃーらくんっ」

 鈴木は椅子の上で器用に尻を支点にくるりと周り、後ろを向いた。

 机に突っ伏す狩野が少しだけ顔を上げ、気だるげに視線を寄越してくる。黒というより灰色っぽい目の色が綺麗だなあ、といつも鈴木は思う。そして、無視されなくなったことは進歩だなあ、とも。

「聞いてよ、昨日なんだけど、部活で顧問同士の試合があったんだよ」

「……誰?」

「数学の木崎先生と、二年のどっかの担任の榛名先生。知ってる?」

 狩野からの反応はないが、いつものことなので気にしない。本当に必要な時は返事をしてくれるからだ。

「それでね、榛名先生がかっこよくってさー! なんかこう、ばちっ、さっ、しゃっ、しゅって感じで勝っちゃって!」

「は?」

「いやだから、ばちっ、さっ、しゃっ、しゅっ」

 動作付きで演じてみるも、伝わる気配はない。が、「最後のちょこんとしたのが小手なのはわかった」と一つくらいは通じたようで、鈴木は満足だった。

「頭も良くて顔も良くてそれに強いなんて、最強だよ。俺もああなりたーい」

「……あの人には努力じゃどうにもならないもんがあるだろ」

「なんて? もっと大きな声で言ってよ」

「何でもない」

 狩野は静謐な動作で頭を振った。こうなるとどれだけ食い下がっても教えてくれないと、四月からの付き合いでたっぷり知っているのでそれ以上は触れない。

 それでも何か話したいと思って頭の中で話題を探していると、狩野の黒いメッシュのペンケースから、白い包みが覗いているのを発見した。

「それ、飴? ふでばこに入れてるの?」

 指さすと、狩野は隠すようにそれをポケットに押し込んだ。珍しくその顔には表情がある。照れているような、なんとなくピンクっぽいような、今までに見たことのない顔だったが、残念ながら鈴木の表現力はあまり高くなかった。ただ「わあー、お年頃だね」と珍妙なコメントを投げる。

「……お前、何にもわかってないだろ」

「うん」

 発言がどこか緩い鈴木に小さくため息をつくと、気を取り直したように机の上に袋を乗せる。

「別に隠すものでもねーしな。……飴だよ。もらった」

「誰から?」

 狩野は口を開かない。包み紙をじっと見つめて眉を寄せた。

「どうしていいのかわかんねえんだよな。今更普通に話すのもどうかと思うし」

「威君は意地っ張りだもんね! 俺と話すまでにもだいぶかかったし」

「うるせー」

 ギロリと睨まれたがいつものことなので鈴木は動じない。

 ホームルームまでの時間、朝のまだ浮ついた空気が教室にあった。アルファばかりのクラスとはいえ、半年前までまだ中学生だったのだ。常に落ち着きがあるわけではない。

 そのうちで、クラスではあまり馴染まない二人が話している様子はやはり人目を引くようだ。時折興味深げに視線を向けられるが、どちらも意識することはない。

 意味もなく、狩野の真似をして飴の包み紙を見つめる。白地のパッケージには茶色い文字で〝chocolat〟とある。フランス語だ。

「よくわかんないけど、素直になればいいんだよ。いいじゃんそれで」

「……ってもなあ……」

「まあ、言ってすぐできるくらいなら悩まないよね。何より、意地っ張りな威君だからこそできることもあるからね」

「…………」

「何?」

 視線を感じて顔を上げると、狩野の目は丸く見開かれている。

「めったにないけど、お前って凄いなって思う時がある」

「どこが?」

 そうこうしているうちに担任がやってきたのでこの会話は終わりになった。鈴木は前を向き、狩野は机の上にある飴を手のひらの上にぽんと置く。

 ……色素が薄いのだと思わせる、白い手のひらを思い出す。僅かに触れた指先は滑らかで、絹のようという表現を威は初めて理解した。

『……狩野、本当に喧嘩したのか?』

 心配を多分に含んだ囁きがレコーダーを再生するように鮮明に繰り返された。あの時もらった飴をすぐには食べられなくてこうして持ったままだ。

 偶然休日に会った時の飴は食べた。だからこの飴がほろ苦くて甘くて、美味なことは知っている――。

 制服のポケットではいつの間にか落としそうで、狩野はまたペンケースに握りしめてしわが寄った小さな包装を放り込んだ。









 教科書と問題集を無造作に持った木崎が教室に足を踏み入れた。鈴木が目配せしたので、自然と朝の剣道部の話が思い出される。

 細い手首が器用に小手を打つ様を想像しようとしたが、それができるほど相手に詳しくないと知っただけだ。さらに狩野は剣道にも明るくないのでよくわからない。

「前回課題として出した問題の答え合わせから始める。問題集を開いて」

 木崎は教卓に手をついて教室内を見回した。一瞬だけ狩野のほうを睨んだ気がしたが、勘違いかもしれない。

 何を狙ってか時々話しかけられることもあったが、優しげな口調とは裏腹にその雰囲気はとげとげしかった。嫌なら関わってこなければいいのにと木崎を見て思ったものだ。

 相手が自分をどう見ているか、狩野はけして馬鹿ではないのだからわかる。問題児? 上等だ。

「この問題を解くにあたって使用する定理は――」

 数センチほど空いた窓から漏れる風が狩野の頬を撫でる。一年の教室は一階なので、ガラスの向こうはグラウンドだ。かろうじて問題集を開いてはいるが授業を聞くつもりがない狩野は、頬づえをついて走り回る生徒に視線を向ける。

 どうやらサッカーの授業をしているらしい。モノクロのボールを追いかける白い体操着は、一様に黒いもので首を覆っている。オメガクラスだろう。

 この私立校にはアルファクラスもあればオメガクラスもある。私立設立の条件として特別クラスの設置があるからだ。

 アルファクラスは他のクラスと違って授業進度が早い。例えば数学は基礎はできていると見なされるので発展問題が多く、単元によっては大学レベルの内容も扱う。語学も、高校卒業までに母国語以外に二、三言語話せることが求められる。アルファは世界と渡り合うべく育てられる、所謂国の顔なので当たり前のことだ。

 対するオメガは高校の進学率そもそもが低く、さらに大学に行くのは一握りといっても良い。普通ならば国立大学なんて夢のまた夢だ。

 オメガクラスの授業は基礎ばかりで、カリキュラムの段階で他と差があるのが現状だった。たいして他の性の事情に興味がない狩野でも、それくらいの知識は持っていた。

 おもむろにキーパー役の背が高いオメガが、跳んできたボールを弾いた。シュートを決め損ねたオメガが男にしては伸びた髪を手で払いながらふてくされる。仕切り直そうと言っているのか、また別のオメガに諭されて走り出した。試合を続けるようだ。

 どこに居てもオメガは目立つ。たおやかな整った容姿のせいか、それとも首を戒める無骨な首輪のせいか。

 クラスの何人かが物欲しげにグラウンドに目をやる。細い体を文字通り舐めるように見つめていた。

 オメガを性欲処理の道具だと見なすアルファは多い。世間の常識がそうだからだ。実際、性風俗の従業員はほとんどがオメガで、発情期抑制剤の開発から徐々に社会進出しつつあるが爆発的なものではない。

 中には高級娼婦として仕込まれるオメガもいるらしいが、それは進出ではなくよりアンダーグラウンドに沈み込む行為だろう。それほどにオメガの存在は危ういのだ。

 砂の上を駆け回るオメガ達にもそういう未来が待ち受けているのだろうか――。

「集中できていないみたいだな」

 思考にふけっていたせいで木崎の存在に気づかなかった。ゆるく首を回す。

 授業中に声をかけられたのは、最初の数回以来のことだ。

「外になにか面白いものでもあったか? ああいや……オメガか」

 皮肉げに木崎の片頬が上がる。教室の空気はあっという間に硬質になり、無口な狩野と教師を観察している。

「先週、校舎裏にいたな。楽しかったか? オメガとの逢瀬は」

 トーンを下げた声は小さく、狩野や周囲の数人にしか聞き取れないだろう。更に内容に至ってはわからないはずだ。

 見られていたのかと狩野は心で思う。だからなんだという話だが。言いたいこともなく、再び木崎から顔を背ける。

 その反抗的な態度は当然、木崎のプライドを刺激した。

「――犬め」

「……今何て言った?」

 吐息と言える程の声量だったが、狩野の耳には確かに届いた。

 木崎はやっと反応を見せた狩野に気を良くしたらしい。微かに唇が吊り上がっている。

「教師に向かってその態度はなんだ」

「あんたは生徒に何言ってんだ。そう言われて喜ぶ人間がいるってのか」

「フン――あいつは喜ぶんじゃないのか? なんせ……」

 木崎は頭を傾けると、自分の空いた首筋を叩いて目を細めた。言葉尻は言わない。その行動が狩野個人への挑発だと、何よりも示していた。

 狩野の機嫌はあまりにもくだらないそれに急降下する。

「あの人に負けたからって、俺に八つ当たりか。直接言えないのか」

「……何で知ってる?」

 狩野は鈴木のほうは見なかった。わざわざ教えて鈴木の部活での居心地を悪くする必要はないと考えたからだ。

 答える代わりに鼻で笑って、

「そびえるプライドも大変だな。見かけばかりのお粗末なビルでも建つんじゃねえの?」

「――お前っ!」

 胸元を掴もうと首を狙ってきた木崎の手をはたき落とす。「あちゃあ」といつのまにか狩野の方を向いていた鈴木が頭を抱えた。

 木崎の手は顔と同じく、すっかり赤くなっていた。

「威君、それまずいよ」

「正当防衛だろ」

「いやー、普段の素行が悪いから先生達信じないかもー……」

「……別にそれでもいいけど」

「狩野貴様、べらべら話してないで職員室に来い!」

 剣道家らしく、木崎の怒鳴りは腹から出ていた。事の次第を見届けるクラスメイト達は、興味がなさそうなふりをしていても体は狩野に集中している。

 狩野は逆らわず立ち上がった。しかし、これだけはと誰に聞かせるでもなく囁く。

「……あの人を馬鹿にするな」

 それが聞こえたのかどうか、木崎は憎々しげに睨んだだけで、それ以上声を発することはなかった。











 四限の授業が終わってすぐ、学年主任から校長室に呼び出されていると言われ、翠は教材を取り落としそうになった。心当たりはないが、理由無く呼ばれるはずがない。

 行きがけの職員室の自分のデスクに教材を放ると、早足で部屋に向かう。

 校長室の金で細工を施されたドアノブを持つ扉が冷たく重く見えたが、これ以上待たせては印象が悪いだろう。躊躇いを込めた息をすっかり吐きだしてノックした。

「失礼します、榛名です」

 校長の入室許可から間髪入れずに中に入る。金属の温度が手のひらの熱を吸い取っていった。

 入って正面の奥に校長の机がある。背にはブラインドがかけられた窓。

 あとは本棚とトロフィーや旗、応接セット、観葉植物等が置かれていた。足を踏み出すと、靴の下で柔らかい感触の絨毯が潰れて違和感があった。

 革張りの一人がけのソファーに、目をぎらつかせて木崎が座っていた。その向かい、同じ形のソファーには気だるげに足を投げ出す狩野がいる。

 校長が翠を招いた。

「待っていましたよ」

「……お待たせして、すみません」

 あまり見ない組み合わせに頭が混乱する。狩野と目があったのでどうにか頷くと、視線をそらされた。もはや珍しくない光景だ。

「先ほど、狩野君が木崎先生に暴力を振るいましてね。そうなるまでの原因に、どうやら榛名先生も影響しているようです」

「俺が? それに……暴力?」

 ソファーに収まる木崎の体を見るが、服の下まではわからない。ワイシャツとスラックスから見える範囲にその痕跡は見つけられなかった。

「怪我をしたのは手ですよ。ひっかき傷ができています」

 校長の話の通り木崎の手元を確認したが、特別な手当てはされていないようだ。そこから酷い傷ではないのだろうと予想できた。

 木崎から狩野に注目を移すと、彼はいつもと変わらず超然として無表情に見えた。だが見かけだけでやはり落ち着かないのか、手は腕置きを軽く掴んでいる。

「あれは正当防衛だ。胸ぐらを捕まれそうになったから手を払っただけだ」

「俺はそんなことしていない、言いがかりはやめろ」

「……チッ」

 自身の言葉を打ち消された狩野は舌を打つ。木崎はそれに反応しかけたが、校長がいることを思い出してやめたようだ。

 木崎に煮え湯を飲まされている翠からすれば、狩野の言葉を信じたくなる。しかし、暴力行為があったことに関しては肯定できなかった。たとえどんな理由があれど、教師と生徒お互いに暴力を振るうのは正しくないことだ。

「クラスのやつの話を聞かずに、教師の私見だけで判断するのかよ」

「誰のお前の味方はしないぞ、そんなのは無駄だ」

「そうですね。第一、木崎先生が嘘を言うはずありません」

 信じがたいことに、木崎の意見に否定しないところを見ると校長は事情聴取する気がないようだ。これではあまりにも横暴だ。

「校長先生、それはいくらなんでも」

「榛名先生にお聞きしたいことは別にあるんですよ。話を進めても構いませんかな?」

「いえ、生徒をないがしろにするのは」

「――なんでしたかな、木崎先生? 榛名先生と狩野君にやましい関係があるのではないかという話でしたかな?」

 開いた口がふさがらないとはこのことだろうか。翠は目をむいた。狩野は呆れたようにため息をついているが、校長はこの話題がとても魅力的に感じるらしく言葉を重ねる。

「榛名先生は教師のうちで自分だけが狩野君と話せると自慢し、また狩野君は必要以上に榛名先生を庇ったと聞いたんですがね。どうです?」

「自慢だなんて、そんな言い方はしていません!」

「ふむ、そういう話があったのは事実ということですか」

 校長はいかにも権力者らしく振る舞ってみせた。お得意の揚げ足取りだ。何を言っても曲がって伝わるのだと悟り、翠は言葉に迷って口を噤む。

 ただ、狩野は冷静だった。「それが何故やましい関係だという解釈になる?」と前提そのものを是正しようとする。

 しかし、

「彼がオメガだからです。オメガとはそういうものでしょう?」

 あっけらかんとした校長の台詞に、ソファーをがたつかせて立ち上がった。

「――ふざけんじゃねえぞ! 人を馬鹿にしてんのか!」

「狩野っ!」

 今にも手が出そうな気配を感じたので慌てて止める。目の前に立ちはだかると半ば抱きつくような体勢になった。しまったと思ってももう遅い、木崎が勝ち誇った笑いを見せる。

「この気安さを見てください! 校長、これが何よりの証拠じゃありませんか!」

「ふむふむ。木崎先生の言葉は正しいようですなあ」

 うなずき合う二人から狩野を引き離す。深呼吸するように言うと、狩野は肩をいからせながらもその通りにした。翠はやっと手を離す。

「何であんなこと言われて言い返さないんだ」

 憎々しげに翠の肩越しに二人を睨みながら、狩野の興奮は冷めやらない。翠はその表情を見てむしろ落ち着いた。自分よりも気が昂った人を見ると冷静になるのは、いったいどういうしくみなのだろう。

「狩野が代わりに怒ってくれたから俺はいいよ。それにもう言われ慣れてるし……何より俺がオメガってことは事実だから」

「……あんたは、こんな……」

 狩野の声に微かな労りを覚え、翠は少しだけ笑顔を返した。これ以上、翠のことで狩野が不利になるのは避けたい。それに、校長達に食ってかかった狩野の怒りが嬉しかったのは本当のことだ。教師としては正しくないかもしれないが、一人の人間として差別に声を上げてくれたことが身に染みた。

「ありがとうな、狩野。お前はいいやつだ」

 頭を撫でてあげたいような、そんな気持ちで翠は心からその言葉を言った。

 喧嘩ばかりして、授業もろくにきかないせいで問題児扱いされているけれど、狩野はおそらくそれだけではない。

 オメガである翠に心を砕ける彼のことを信じたかった。

 こんなにも真っ直ぐに狩野と目を合わせたことはない。その時、翠は狩野の瞳がグレーめいていたことを初めて知った。蛍光灯の下でもその瞳は輝いて、強い意志の力があった。

 そんな狩野はもう一度、今度は自分から深呼吸すると翠のそばから離れる。

「……おい、ハゲのおっさん」

 振り返った先で、校長が頭を押さえていた。

「なっ、な、誰がハゲか!」

「そんなわかりやすいカツラして良く言うな。……俺の処分はなんだよ」

「明日から三日間の自宅謹慎に反省文とする!」

「わかった」

 そう、静かに息を吐き出し、狩野は処分を受け入れる。

「榛名先生も、今後疑われるような行動は控えてくださいね!」

 かつらを指摘されてからまた汗がぶり返したらしい校長が、翠に指を突きつける。

翠はそっと頭を下げ、従う意思を返した。

 そのまま部屋を出るかと思いきや、狩野は逆に校長のデスク前まですたすたと歩いて行く。制止しそうになったが、敵意は感じられなかったので翠は傍観を選ぶ。

 木の艶があるいかにも高そうな文机に手をべたりと乗せ、デザイン性が高すぎてむしろ妙ち きりんに見える椅子に腰掛ける校長と、いつの間にかその横に控えた木崎は警戒するように体を構えていた。

 が、狩野がした行為に驚いて二人は見事に固まる。

「――すみませんでした」

 否、二人だけではない。翠もだ。

 狩野は手本のような角度でお辞儀をしていた。

 部屋の空気が固まるが、狩野はそれをものともしない。

「実は榛名先生には剣道部入部の相談をしていました。もちろんやましい関係はありません。顧問の先生とでは、今日のように……冷静になれないと考えましたので、榛名先生に話をしました」

 翠の位置だと狩野の背中しか見えない。その後ろ姿はやけに大きく、庇われているのだと気付くのにそう時は必要なかった。

 顧問と部員なら、部活動があるぶん接触が多くても不思議ではない。狩野はそれを盾に有無を言わせないつもりだ。やはりアルファらしく頭がいいし、それを押し通そうとする度胸もある。

 いつもよりも張り上げた狩野の声は低いが凜々しく、まるで別人のもののようだ。翠はじっと成り行きを見守る。

「部活の方も、できれば榛名先生に師事を賜りたいのですが、剣道部の入部を許可して頂けないでしょうか」

「……は、はあ」

「ありがとうございます」

 状況が把握できない校長の返答は許可ではないのだろうが、狩野はわかって礼を言ったのだろう。あわを食う木崎をよそに、「これからよろしくお願いします」と微かに艶のあるトーンで言ってみせる。

 では失礼しますと再びきっちり礼をして、狩野は校長室を辞した。――さりげなく翠のことも促して。









 校長室を出ると、もう昼休みは終わっていた。休み時間特有のさざめきは今はない。

「……本当に剣道部に入るのか?」

 本当はもっと尋ねたいことがあったのに何と言えばいいのかわからず、口をついて出たのはそんな言葉だった。

「そのあたりの説明がしたい」

 狩野は先ほどとは違って、翠が聞きなれた言葉使いをした。さらに独り言のような声音で、

「説明……って言うより、決意か」

 翠には続けられた言葉の意味はわからない。

 話を放課後に仕切り直したいところだったが、これほどまでに素直な狩野とは二度と会えないような気がした。

 これは勘といって良かった。

 否、素直な彼という表現ではふさわしくない。今なら腹を割って話ができそうだ、と言う方が正しい。

「それじゃあ、少し話さないか」

 狩野の首が同意するように傾けられたのを見て、翠の顔はほころんだ。

「面談室を開けるか?」

「……いや、いつもの場所がいい」

「それもそうだな。慣れてるところだもんな」

 二人は校舎裏へ向かった。

 特別教室がある廊下を通り、誰にも見られないように校舎裏にたどり着いた。さすがに授業中の今、人の気配はない。実は木崎が見ているなんてとんでもないこともないだろう。彼には授業があった筈だ。残り時間は少ないが、校内を徘徊するわけもない。

 ざあっと葉が擦れる音がして、風が二人の髪を揺らす。服が汚れるのも構わず、ケヤキの下に並んで腰を下ろした。

 こうして隣で座ってみると、狩野は思ったよりも体格が良い。細く見えたがそれは体のバランスのせいで、実際は翠と比べるべくもなかった。

 あと数年もしたら、おそらく翠の周りで一番体格が良い芳にもひけをとらないかもしれない。アルファは体格の良い者が多く、平均身長も他の性よりも高いのだ。

 翠は風に煽られた前髪を掻き上げた。話始めを待つつもりだったとはいえ、なんだか邪な目で狩野を見てしまった気がする。

 横目で彼を確認すると、意外なことに目があった。この距離で逸らすのも感じが悪いようで翠は視線をそのままにする。

 彼はやはり目の色が薄かった。黒い瞳孔の周りがグレーで、レンズらしきものがないので本物なのだろうが、カラーコンタクトと言われても頷けるほどの綺麗さだった。イラストでよくある星の形のように、瞳孔の周りから外側に向かって放射状に濃いグレーが走っている。

 狩野はそれからゆっくりと二回瞬きをして、

「……俺の喧嘩は、親への反抗だ」

 何から話すかと思ったが、どうやら喧嘩の理由からのようだ。淡々と、狩野が語り出す。

「俺の家はいいとこのアルファで、子どもの頃から不自由なく育ってきた。本家ってこともあって、同じアルファでさえ子どもの俺に傅いてた。親はそれを当然だって目で見てたけど……俺はずっとおかしいと思ってた。だってそうだろ? 俺は何もしてない。ただ生まれが良かっただけで、他にそうされる理由なんてないんだ。猫なで声で取り入ろうとされて、まるで自分がものみたいだと思ってぞっとした……親父はそんな俺を見て言うんだ。自分の価値もわからない分からず屋だって」

 まだ高校生だというのに、語気を荒らげず冷静に話す様に悲しくなった。感情がないとは言わないが、狩野の普段の表情を見ていて、もう少し喜怒哀楽を出してくれたらと思ってしまう。彼の持つ静かな雰囲気は、ほかの生徒と比べても大人びて見える。

「俺からしたら分からず屋は親父のほうだ。家の価値を自分の価値だって勘違いして、他を威圧して楽しんでる。それがすげえ嫌だった。だから――家のためになることはやめてやったんだ。入試だけは、そうもいかなかったけど」

 自嘲じみた台詞に、校長が狩野のカンニングを疑っていたことを思い出す。やはりあれは不正などではなく、狩野の本来の実力だったのだろう。

 翠は視線を外し、声だけに耳を傾けた。もし、話しているのが翠だとしたら、情けない顔は見られたくないと思うからだ。

 呟くように、言葉を宙に置くように狩野は話した。

「先生は前に、傷を見て喧嘩かどうか聞いてきただろ。……あれ、本当は親にされたんだ。いつもはたいして気にもしないのに、偶然実力テストの結果を見たらしい。で、真面目にやってねーのがばれた」

「……痛かったか?」

「いや、喧嘩の方が痛えかな。でも、親父に平手された時の方が腹が立った」

「狩野が普段から喧嘩してたこと、親は知ってるのか?」

「寝てる建物も違うし、滅多に会わねえんだ。……だから、俺がしてたことに意味はなかったのかも」

 狩野はそこまで言うと、背中を木にもたれかけた。

 大きく吐き出された深いため息が、翠の胸を痛ませる。

 アルファである狩野は、アルファであるが故の悩みを抱えてきたのだろう。彼は悩みの逃がしどころを知らず、唯一自分の意思でした反抗ですら誰にも気付かれないか、否定される。それはとても孤独なことだ。

 ふと、翠の脳裏に休日の狩野の笑顔がよぎった。おそらく、彼が本当に笑えるのは飼い犬の前だけだったのだろう。それを知る翠だからこそ、なおのこと狩野の言葉が苦しい。

 そんな狩野に翠が何を言っても伝わらない気がした。でも、そうやって諦めることもしたくなくて、なんとか思いを口にする。

「うまく言えないけど……俺は、狩野がやってたことに意味がないとは思わないよ」

「……何で?」

 声変りが終わったのだろう低い声は掠れていた。翠は狩野の笑顔を思い出しながら言葉を紡ぐ。

「だってそれは、お前がお前でいるために必要なことだったんだろ。親に逆らいたいって気持ちをどうにかしたくてやったことなんだろ。やり方は良くなかったかもしれないけど、自分なりに考えたことがそれだったんなら無駄じゃないんだ」

 この世界は理不尽で満ち溢れている。

 かつて翠は自分がオメガであることを受け入れられず、わずかな時間だが自暴自棄になったことがあった。親の手助けで道を踏み外さなかったが、それがなかったらどうなっていたかわからない。

 狩野も同じで、アルファである自分の在り方を受け入れられないのだろう。親の助けがないどころか彼は親が敵になる状況で、翠とは違うけれど、やはり自分の性にまつわる話だ。

親に愛情を貰えないなら逆らってみせる。このよくある形が、狩野が抱えるアルファという性と絡むことでアイデンティティーにも影響しているのではないだろうか。

 それなら自分は、せめて自分くらいは狩野のことを理解してやりたいと思った。

「……でもな、狩野。喧嘩はよくないよ。別の方法もあったと思う」

「はは。なんか先生っぽいな。きっちり釘をさしてくる」

「これくらいは言わせろよ。本当に部活入るんならもう喧嘩はナシだからな? そんな暇もないくらいしごいてやる」

「……そうだな」

 狩野の立てた穏やかな声に励まされ、翠はやっと彼のほうに顔を向けた。

 その視線は真っ直ぐだったが、過去を思い出すようなどこかぼんやりしたものだ。

 自然と翠の手は寂しそうな頭に伸びていた。

 狩野の髪は触れると柔らかかった。あまり手入れしていない様子で艶はなかったが、見かけではわからないほどの猫っ毛だ。

 翠の手を振り払うことなく、むしろ受け入れるように狩野の瞼が落ちる。

 チャイムはまだ鳴らないだろうか。今、この時を壊す音が嫌だと翠は感じる。

 もう少しだけ彼と会話がしたくて、僅かに迷ってから答えてくれそうな話題を選んだ。

「――なあ、ちーは元気か?」

「……元気。先生のこと気に入ってたから、また会いたいと思う」

「機会があれば、そうだな。俺も会いたいな」

 偶然を装って、あのドッグランで会ってみたいと思う。翠の胸にくすぐったいような不思議な感情が生まれる。

 狩野のことを知りたかった。孤独をどうにかしてやりたいと思った。

 学校外での付き合いを望むなんて教師失格だろうか? でも今は、この感情につけられるだけの名前はない。だからきっと、まだ――。

「そうだ。狩野、飴は食べたか?」

「食べた。うまかった」

「またいるか?」

 風で乱れた狩野の髪を梳いていた手を下ろし、ポケットの飴を取り出す。

 狩野は躊躇うそぶりなくそれを受け取った。

 翠の手のひらから軽さが消える。自分のポケットから狩野のポケットに飴が渡り歩くようで少しだけ愉快だ。

「ありがと」

 狩野の頬にえくぼができる。片えくぼだった。爪でつつきたくなるその隙間ができると、彼は年相応に見えた。まだ十六年しか生きていない、たくさんの可能性がある子どもだ。

「あと、さっきの質問の答え。――俺、部活に入る。新しいこと始めてみたいし」

「そっか。木崎先生に困ったら言えよ?」

「先生もな」

 次からは敬語使うから。

 その声に被せるように授業終わりのチャイムが響く。翠は頷いて返事の代わりにしたのだった。
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哀木ストリーム
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αからの支配から逃げるには、この方法しかなかった。 Ωの辰紀は、αが苦手とする強い匂いを放つ花を、ヒートが始まる前から祖母に食べさせられていた。 そのおかげでヒート中にαに襲われることから逃れていた。  そして祖母が亡くなったある日。両親に売られてしまった祖母の形見を探しに骨董品屋に向かうと、先に祖母の形見を集めているαの有栖川竜仁と出会う。彼を騙して祖母の形見を回収しようとしていたが、彼には花の匂いが効かなかった。それどころか両親が隠したはずの首輪の鍵を持っていて、番にされてしまう。 「その花は、Ωを守る花ではない。喰らわれるのは君の方だよ」  花の中毒症状から救おうと手を差し伸べる竜仁。  彼は、祖母を苦しめたαの孫だと知りーー。 11月から更新します。

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