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十一月も半ばになり、校内に植わった紅葉が緋色の欠片で絨毯を作るようになった。小さな掌の形の葉は表と裏で感触が違って、幼いころはそれが好きだったことを思い出す。
以前は銀杏の木もあったそうだが、悪臭のあまり登校を嫌がった生徒の保護者の要望で今はない。確かにあの臭いを不快に思う人は多いだろう。実のおいしさとは一致しないのだ。
その日、翠が出勤したのは七時半を少し回ったところだった。職員室にはまばらに人が居た。八時から職員会議があるのだ。
会議までの時間を、マグカップに入れた紅茶を啜って過ごす。クラスごとに管理している授業進度を見るためにパソコンとにらめっこだ。特別遅れているクラスはないが、新しい単元がやっかいで、毎年足並みがずれる。今年も注意しなければならない。
時刻が八時になると校長が前に進み出て、会議が始まった。移動の手間を割くために各自のデスクで話を聞くことになる。
諸連絡と、風邪に対する注意喚起等が行われた。その後、校長は一月前に行われた全国のアルファクラスが一斉に行う実力テストに関して言及した。受験者数が少ないことから返却が早く、もう結果が届けられたそうだ。
「この度、我が校から全国上位二十名に入ったものが現れました。一年の狩野威君です」
直後、教員はどよめいた。最近まで狩野は問題児だったのだ、それも不思議ではない。
翠と木崎を伺うような視線も混じっている。先日の謹慎騒動の関係者だと把握されているのだろう。翠はそれには一切反応せず、姿勢を正して真っ直ぐを見据えた。
校長と目があうと、満足そうに頷かれる。
「これも榛名先生のご指導の賜ですかな。これからもたくさん仕事をしていただきたいものですねえ。また、木崎先生のお叱りも効果があったんでしょう。さすがです、大変素晴らしい!」
その言葉は翠を褒めているようだが、実際はそうではない。わざとらしく細められた瞳のいやらしさにしかめ面をしかけたが、なんとか堪えた。翠になら仕事を押しつけて良い、と教師達に仄めかしたようなものだ。
対して木崎への賞賛は本気だろう。手の甲に毛がびっしり生えた手で拍手までしてみせて、パフォーマンスとしては十分だ。
それとなく木崎を確認すると、彼は翠のことを鋭く睨みつけていた。木崎は校長とは違い、狩野の変化に自分が関わったとは思っていないのだろう。
木崎のための拍手の後、校長は職員室用の自分の席へ辞した。会議は終わりだ。
いよいよ木崎から目が離せず、翠は周りにばれないように抑えたため息をつく。
翠が教師になったのは、公務員のうちで教師がもっとも性差別を受けにくいと言われているからだ。
性差別の被害者はほとんどがオメガで、加害者は圧倒的にアルファが多い。
この学校の採用試験に合格した時、アルファの教員を避ければどうにかなると思っていたが甘かったのかもしれない。
しかし、もう一人の教員のアルファは翠に対して敵意を向けたことはなかった。良くも悪くも関わらないのだ。
木崎が特殊なのか、もう一人のアルファが特殊なのか。翠の大学時代を回顧すると、オメガをまともに扱うアルファは少数派だったので、後者かもしれない――。
そんなことを考えているうちに時間が迫ってきたので準備を始める。担任しているクラスのSHRのあとは授業だ。
その日の部活時間、木崎の機嫌は地を這っていた。
いつもはいい顔をしているというのに取り巻きの部員に対して怒鳴ったり、少し指導と違うことをした生徒が居れば顔が引きつるまで罵倒したり、自ら引っかけた荷物を蹴りとばすという具合だ。
さらに、普通の素振りをしているはずなのにどんどんテンポが上がり、部員達もやり辛そうにしている。そこで初心者の狩野が苦も無くこなしていたためいちゃもんをつけられそうになった。
翠は見ていられずそれとなく場を収めようとしたが、案の定勘に障ったらしい。矛先がこちらに向いたものの、ちょうど良く部活終了のチャイムが鳴ったことで事なきを得た。
鼻息荒く「しっかり片付けておけ!」と道場を去った後ろ姿を見て、部員と共に胸を撫で下ろす。
「台風一過ってところかな?」
「目に入ってる状態じゃないといいですね」
「明日はまた激しいって……? 怖いこと言うなよ」
狩野の淡々とした言葉に突っ込むと、「可能性の話です」と冷静な応えがある。
紺色の胴着を着こなした狩野は大分部活に慣れたようだ。早いもので、彼が入部してから一月が経っていた。
「先生、片付け終わりました」
「挨拶して上がるか。あ、狩野は少し話があるから残れよ」
「……はい」
部長は部員を整列させており、翠の号令で本日の活動が終わった。
着替えは体育館にある更衣室にあるので、各々道場から移動していく。
翠は指示通り待っていた狩野を手招いて、暖簾のかかったスペースに案内した。
「時間、少しなら平気か?」
「はい」
「じゃあお茶入れてやる。ティーバッグだけど」
ここには小さいシンクがあった。ケトルもあるがめったに使わないので簡単に濯ぎ、持ってきていたペットボトルの水を入れる。
無表情だが狩野は落ち着かない様子でそれとなく視線を彷徨かせていた。きっちりと正座だったので崩しても構わないと告げる。翠も裾をさばいてあぐらをかいた。
年代物らしく色が濃くなったちゃぶ台に茶碗を乗せる。ケトルからお湯を注いでティーバッグを落とした。上等とは言えないが、我慢してもらおう。
「どうぞ。器が熱いから気をつけて」
「……ありがとうございます」
うまくあぐらができないのか、狩野は片膝を立てることにしたようだ。茶碗の上端を持って、どこか危なっかしく口元に運ぶ。見守っていると、無事啜ることができたらしい。狩野がほっと肩を落とした。
内心でその様子に微笑ましさを覚えながら、翠も器に手を伸ばす。
「部活には慣れたか?」
「はい。大分」
「そうか。狩野は呑み込みがいいからこっちも教え甲斐があるよ。部員とはどうだ?」
「鈴木が間に入ってくれるんで……それなりに」
狩野はそう言いながら口の端を微かに持ち上げた。笑っているかどうかは定かではないが、雰囲気や声音から機嫌が悪い様子はない。
「鈴木と随分仲が良くて驚いたよ。狩野が入部する前に話すってことはきいてたけど、あれほどとは思わなかった」
「随分ってほどじゃないです。あいつが……変わってるだけで」
言葉を選ぶように挟まれる彼独特の間に、会話はどこかゆったりとしていった。思いのほか自分が穏やかな気持ちで翠は驚く。つい先刻までは木崎の一挙手一投足に構えていたのに、こうも違うのだ。
「……鈴木、俺の事変なふうに言ってませんでしたか」
「浮いちゃった同盟を組んでるって言ってた」
「……」
「そんな怖い顔するなよ! それと、イケメンすぎてクラスメイトが近寄りがたそうにしてるって」
笑いながら言うと、狩野は興味なさげに頷いた。どうやら、クラスでの人間関係はさほどうまくいっていない―興味がないともいう―ようだ。
「そうだ、叶野。今日生徒にも実力テストの成績が届いただろ? おめでとう」
「……ども」
狩野の表情に変わりはない。特に嬉しいということもないのだろうか。または褒められることに慣れていないのだろうか?
深く聞いてみようかと考えていると、狩野が口を開く。
「先週一緒に居たのって国木芳さんですよね」
「……芳のこと知ってるのか?」
首を傾げた翠に、狩野はごく短い時間だがむっとした表情を見せた。気のせいといわれれば気のせいにも思えるくらいの変化で、狩野はもう普段通りの静かな顔をしている。
「父親の取引先の社長です」
「なるほど」
芳の会社は人材派遣を担っている。また、会社自体が何世代かにわたって続いているので、顧客の伝手からはじまるお得意様も多いのだ。
確か狩野の父親はホテルチェーンを経営していたはずだ。従業員数も多い中で、それなりの質の人材を確保しようとすると芳の会社と関わる場合もあるのだろう。
友人と生徒の思わぬ繋がりを感じながらも、この話の意図が分からない。
「芳がどうかしたか?」
「この間、先生と距離が近かったので、気になって」
「……芳はいつも人のことからかうんだよ。だから深い意味はないよ」
ちゃぶ台越しに見つめあう。先に目をそらしたのは翠のほうだった。いたたまれないと思ったのだ。そんなことはありえないのに、芳は体だけの関係だと見透かされそうな気がした。
同時に、芳との熱い一夜を思い出して頬が熱気を帯び、鼻孔にあの日のチョコレートの香りが蘇る。
もう狩野のほうを見られなくて、翠は湯呑茶碗の中身を見つめた。鮮やかすぎる緑に光が映っている。
「……帰ります」
狩野が無音を遮った。茶を飲み干すと、洗い場に立とうとしたので慌てて止める。
「いいよ。戸締りも俺がやるんだし。着替えもしなくちゃいけないだろう、先に帰りなさい」
「……すいません。お先に失礼します」
狩野はやはりお手本のようなお辞儀をして、暖簾のむこうに消えていった。
足音が遠ざかるのを確認してから、大きく息を吐き出す。
部に途中から入った狩野の状況を確認するつもりで呼んだのだ。それなのに、あんなに気まずく話を終わらせることになってしまい、不甲斐なくて仕方がない。
芳は今、仕事の都合で海外にいる。帰ってくるのは今月の終わり頃だ。会えない分の時間まで奪うような一夜が脳裏に蘇ってきたが、どうにか押しとどめる。
身支度を済ませて外に出ると、肌寒さを感じて肩を竦めた。火照った頬には心地いいが、風が吹くと冬の気配を感じる。
見上げた空の覆いのない月が黄色く光っている。明日も良い天気だといいと考えながら、帰路についた。
今回は、練習のために狩野も出ることになっていた。彼は軽い模擬戦の経験は既にあるが、試合形式の対人戦は初めてだ。
新入部員により部員数が奇数になったため、一人だけ二度試合をすることになる。主将と副将以外は学年も無視して無作為にマッチングするので、その四名以外は対戦相手を知らないのだ。
この日も翠は白組のコーチ役だった。顔ぶれに変化はあるものの、もとは木崎が決めたメンバーなので入れ替わりは少ない。
狩野は白組だった。納得したような意外なような気持ちで、翠は審判業をこなす。
今日の木崎の機嫌は悪くないように見えた。紅組の生徒が負けてもアドバイスや励ましを言う余裕があるようで、むしろ良いのかもしれない。
いつもあれなら助かるのにと思いながら、胴を決められ負けてしまった鈴木の肩を叩く。
「相手との身長差を気にしすぎたな。面を誘って打ち合いになったのはわかるが、その後の隙を見せたらだめだ。面は動きが大きい分、次の動作までに時間がかかるってことを考えてみるといい。少し意識していこう」
「俺の誘い方、わざとらしかったっすか?」
「わざとらしいというより、鈴木が身長差がある相手との定石を意識しすぎたってところだな」
「そうですかー……」
鈴木は胴を打たれた部分を、小手をつけたままぽすぽすと叩いている。悔しがっているところを見ると、怪我をしたわけではなく自戒のようだ。
狩野の影響もあって、最近は以前よりも鈴木との関係もできてきた。また、彼と狩野のやりとりを見て介入したがる部員も増えたようで、部員でグループはあるものの関係は良好のようだ。翠としても居心地が良い。
生徒が上げる熱量が場にしっとりとしみ込んでゆく。時折吹きつける木枯らしが室内に響くが、それをものともせず部員たちは竹刀を打ち込んでいる。
生徒の面が決まったのを見て旗を斜めに振り上げた。木崎も同じようにしている。白組の勝ちだ。
剣道の決まり手として最も多いのは面で、逆に少ないのが突きだ。後者は危険度が高くそもそもあまり使われないという背景もある。さらに、突きを禁止にする大会もあるのだ。実際、この学校で突きを決め技にする生徒はめったにいない。
それから二試合が終わると、狩野の出番が回ってきた。相手は同じく一年の、所謂木崎派の生徒だ。身長差はさほどないが、狩野は腰の位置が随分と高いので遠目からみると差があるように見えてしまう。
とはいえこと武道において重心は低いほうがふんばりがきいて有利なので、見栄えだけの話ではない。
木崎が開始を宣言した。
相対する二人が竹刀を構えて気合いを発する。狩野の声は余韻があり、どこか艶っぽく通った。床を滑る音がそれに被さる。
ふいに相手が距離を詰めた。それを見て狩野は身を引いたが、そのまま下がり続けたら場外反則で相手のポイントだ。気づいたようで途中で逆に踏み込んで、二人が鍔迫り合いに陥る。
離れ際の有効を警戒してか、狩野がじりじりと相手を押していくが、相手は伊達に強豪校の部員ではない。それとなく体を移動させて場外を誘う。
それでも狩野は冷静だった。拮抗を切り上げた相手の胴にとっさに反応して切り返す。しかし経験の功があるのだろう、相手に面を取られ、そのまま時間切れになった。
挨拶を済ませた後の狩野は悔しがるそぶりこそないものの、試合を反芻していたようだ。翠は軽く肩を叩くだけに済ませ、次の準備に入る。
次は副将戦だった。今日の白組の副将は二年生から選んだ。
彼は五人が一組になって戦う団体戦で先鋒を担うことが多く、手数が多いムードメーカーで、翠にも最初からてらいなく話しかけてくるような裏表のない性格だ。時々悪戯をして副部長に怒られることもあるが、後輩からも好かれている。
翠の激励に笑顔を返し、「勝ってきますね」と声は小さくとも大げさに胸を張った。気安い態度に半ば呆れながらも嫌な気はしない。
同級生と相対し、彼は宣言通りきっちり二本とって戻ってきた。早々に面を取ってにっこり笑った副将に同じものを返してから、そっと木崎の様子を伺う。
勝ちに自信があるのか、木崎の表情は苛立ちや不満が見られない。今のところ紅組が二点先を行っているので、次の主将戦に勝たなければこちらの負けだ。
先月の紅白戦で戦ったのはもう恒例となった、部長と副部長の二人だった。その時は延長までもつれ込み、文字通り部長の面が決定打となった。
三角座りの部員に囲まれる二人には、実力差がほとんどない。
役職の決定は生徒の話し合いで決められたので、実力順ではないのだ。また、木崎も翠もそれには関わっていなかった。以前の顧問の方針の名残で、代々の役職は生徒たちが決めるのだ。翠は副部長から話を聞いていたのでその経緯を知っていた。
部長となった生徒は体も大きく、戦いに迫力と勢いがあるので、部の顔とするためにそうなったのだという。
副部長は空気を読むことに長けていて、部長を含めた部員全体をコントロールできるので、補佐の色が強い。実際、その立場から木崎ほど部に馴染んでいない翠にこういった報告をする細やかさは、彼ならではのことだろう。
まだ十代の彼らだが、おそらく大人が甘く見るほど子どもではないのかもしれない。翠が個人的に考えていた役職もその通りで、まさしく適任だ。
二人が蹲踞して竹刀を構えた。しゃがんだ足の上に尻を落ち着かせるポーズもしっかり身についている。慣れないとあの動作だけで足がしびれたりぐらついたりするのだ。
「始め!」
木崎の声に、二人は剣の先を軽く合わせた。やらない場合もあるが、挨拶のようなものだ。
高い身長を生かして踏み込んだ部長が飛び込み胴を繰り出して、呆気なく止められた。とはいえこれはパフォーマンスに近いのだろう、現に二人はすぐさま体制を立て直して次の動作に移る。
面金に邪魔されて表情は伺えないが、遊び心を出した部長と、苦笑いをする副部長の顔が目に浮かぶようだ。
面を狙って振り下ろされた竹刀に首をずらし、副部長が打ち込む。有効には思えず翠は旗を上げなかった。木崎も同じようだ。
一本にならなかったことを即座に理解した副部長が果敢に攻める。審判として二人を追いかけながら、翠は神経を集中させた。
捌かれた黒い袴の裾が重たげな音で二人の攻防を彩る。
ふいに、部長が雄々しく叫んで胴を繰り出した。翠のものも含めた二本の旗が上がる。有効だ。
残り時間があまりなく、副部長はむしろ冷静になることにしたようだ。
先ほどの猛攻が嘘のように距離を取って、中段の構えと呼ばれる、竹刀の先端を相手の目の高さに向ける構えをとっている。これはごく一般的に教えられ、最も使われる構えだが、小学校から剣道をしているという副部長のそれにはどこか貫禄めいたものがある。達人、名人には及ぶべくもないが、変に力んでいない姿勢は美しかった。
壁に吊られた時計の秒針は試合があと三十秒で終わると告げていた。
副部長が一本とれば引き分けで延長のチャンスだ。
翠は固唾を飲んで彼を見つめる。肩を守るように突き出した面布団がゆらりと揺れたかと思えば、静謐さを孕んで副部長が動き始めた。
副部長が竹刀を頭上に掲げ、上段の構えを取った。胴ががら空きになるが、振り下ろせば面が打てるので、これは構えのうちで最も攻撃的なものだ。
対する部長は変わらず中段の構えだ。剣先がしっかりと副部長の目の高さにある。
剣道で最も面が決まりやすいのは、有効であると審判が判断しやすいからだ。打った後に相手の傍らを走り抜けなくてはならない胴や、小刻みに動いて狙いがつけにくい小手と違い、面ならば打った後に必要とされる残心がわかりやすい。残心とは、技を決めた後も油断していないと示すために必要な余韻のことで、判定の要素の一つになる。
副部長がじりじりと間合いを詰める。それから鋭く息を吸い込むと、高らかに気合いのこもった面を打つ。
僅かだが、見慣れた者ならわかるくらいに遅れて部長が胴を打つ。
翠も、そして木崎も旗を上げた。
しかし上げられた色の旗が違っていて、木崎が上げたのは赤の旗だ。
――試合は一時中断となった。翠は木崎に早足で近づく。
「先生、今の一本は白でしょう。面のほうが早く当たり、残心もとれていました」
生徒がいる手前、語気こそ気を付けたが、明らかに今の一本は判定違いだ。
今まで木崎と判定が割れたことは不思議となかったのでこの点は安心していたのだが、どうやらそれは間違いだったらしい。正式な試合であれば審判は三人いるため、このように意見が割れてもどうとでもなるのだが、ここではそうはいかない。
「赤のほうが早かったと思いますがねえ。そんなに気になるようであれば、残り時間でもう一本やらせますか?」
「十秒で何ができるというんです?」
翠の険しい顔を眺めて、彼はさも愉快というように口端を吊り上げる。生徒の前では使われる敬語交じりの台詞からひしひしと悪意が伝わってきた。更に、生徒達には聞こえないようなささめきで挑発を下す。
「お前が何か知恵をやればいいんじゃないか? そうすれば山名も見違えるだろう。得意だろ、問題児の成績を全国で二十位以内にした功績があるんだもんな?」
「……は?」
あまりにも唐突な当てこすりに反応が遅れた。潜めた翠の眉を見ながら、木崎はうっそりと口に笑みを穿く。
「いや、できないか。武道はカンニングなんてできないもんな」
――怒りのあまり翠は何も返せなかった。言葉も出なければ、顔にも出ない。時が止まったかのようで、木崎が話を切り上げて部員に指示を出したころにやっと我に返った。
「先生、先ほどの有効はやはり白だったと思います」
部長の声に振り向けば、彼は言いながら挙手していた。それがまるで選手宣誓のようで、翠の心は急速に落ち着いてゆく。
「謙遜なんてしなくてもいい」
「そうではなくて!」
「審判の俺が、一本と認めた。それ以外に何か問題があるか?」
「榛名先生は白旗を上げていました」
木崎はそれ以上言葉を発せず、ただにっこりと笑った。中身がどうであれ、彼の顔は整っているし、何よりアルファなのだ。そうすると周りの空気を塗り替えてしまうようで、たいていの人間はそれに引きずられる。
現に部長も二の句を告げず、吸い込んだ息を音にせず吐き出した。
――急に首の締め付けが気になって、そこに手を当てる。皮は体温で温まっていたがどこか冷たく、たまらなく苦しくなる。
「先生」
それでもその場には、木崎の特権階級の笑顔に惑わされないものが居た。可能性としては三人だが、声を上げたのは一人だ。
すっくと立ちあがった狩野が部長に習って手を上げる。若竹を思わせる伸びた背筋が眩しくて、彼はこんなにも大きかったかと思う。否、ここ数か月で身長が伸びたのかもしれない。今そんなことに気づくなんて、自分はなんて場違いなことを考えているのだろう。
当然ながら狩野はそんな思考に気づかず、道場にいつもより張った声を渡らせる。
「白が正しいです」
「……何だって?」
「白が、正しいです」
「繰り返せと言ったんじゃない! 意見する気か、狩野?」
座ったままの鈴木が必死で狩野の袴の裾を掴んでいるが、狩野は視線を木崎から外さなかった。
「カメラはありませんが、俺なら二人の位置を覚えているので可能であれば再現させられます」
「それにどんな意味がある?」
「正しいことを言った人間二人が救われます」
返事は微妙に論点がずれていたが、おそらく意図的なものなのだろう。案の定、木崎には影響があったのか、むっと黙り込んでしまった。
とはいえ言葉そのものというより、狩野が言った『位置を覚えている』という台詞に驚いたのではないだろうか。上げ足を取るのが得意な彼なのにそうはしないのが何よりの証拠だ。
「副部長が何歩歩いたか、部長がどの角度で竹刀を振り上げたか、それもわかります」
鈴木はいつの間にか手を止め、ぽかんと口を開けて狩野を見た。座っている人間と立った人間の高さの差に首が痛そうだが、その気持ちは翠にもわかる。
おそらくそれは嘘ではないのだろう。アルファは生まれついて能力が高いが、狩野は特に動体視力や認知処理や記憶力がいいのだろう。そうでなければあれだけ動き回る人間の動きを正確に捉え、把握し、それを頭にとっておくなんて真似はできない。
成績がいいのも、記憶力がいいからかもしれない。特に実力テストの数学では一問も間違えていなかった。一度解いた問題を覚えていられるならば、それそのものが公式のようなものだ。逆に、知識を問われる社会や歴史は知らなければ書けないので比較的点数が下だったのだろう。
――やっぱり、狩野はカンニングなんかしていない。
「……もういい。こんな状況で再戦するにも集中できないだろう。今月の紅白戦は保留だ」
木崎の声は固く、殻にこもるようだった。部活の終了を宣言すると、追い立てるように生徒に身支度や片付けをさせる。
その流れに翠も乗ることにした。それとなく組に分かれて座る生徒を横目で見ながらチーム分けが書かれた紙を回収する。
紅組はどこか不満げなムードで、対する白組は不完全燃焼そうだが狩野への扱いがいつもより友好的なようだ。特に鈴木の目は煌いて、狩野にうっとうしそうにされても動じていない。
「先生」
自身を呼ぶ声に後ろを向くと、木崎が立っていた。また何か言われるのかと構えながらも「はい」と居ずまいを正す。
「後でお話がありますので、残ってください」
「……わかりました」
威圧的なそれではなく、淡々とした声音に違和感を覚える。それほど先ほどのやりとりが堪えたのだろうか。
頷いて去っていく背中を見送る。
生徒がいない場所で嫌味を言う気なのだろうが、今までにこのような宣言をされたことはなかった。長くなるのか、と憂鬱さが身に伸し掛かる。
視線をうろつかせると、鈴木を振り切ったらしい狩野とちょうど目があった。その距離は八メートルはありそうだが、刹那の時、しっかりとお互いを認識したと感じる。
嫌でも不快でもないが、なんとも言えず不思議な感覚だった。またもや庇われたことが情けないような、ありがたいような。まぜこぜになって色を変えた絵の具のように、心がはっきりしない。
それを振り切るように薄く笑みを浮かべると相手からは会釈が返ってきた。割合律儀な彼に好感を持つ。
狩野は防具の片付け作業に入るようで、視線が手元に移った。
翠もそれを認めると、戸締りの確認を始める。
片付けのあとは礼をして、その日の部活は終了となった。
何かを言いたそうなそぶりの狩野には気づいたが、木崎に呼ばれているのでそちらを優先することにする。もしかしたら狩野と話したいのは翠で、勘違いかもしれないのだから。
部員たちの挨拶に応えてから、暖簾のむこうに引っ込んだ木崎を追う。
人がいなくなった後の道場はがらんとして、見た目からも冷ややかだ。特にもうすぐ季節が冬になる。冷えた板間が素足に痛い時期がもうすぐやってくるのだ。
暖簾をくぐると、木崎は壁を背にしてしゃがんでいた。顎で促されたのでちゃぶ台をはさんで座る。
「部員は帰ったか」
「はい。今、道場には誰もいません」
「そうか」
首を傾けて翠の言葉を聞く木崎は、どこかくたびれた顔をしていた。常の高慢な態度はなりを潜め、静かに呼吸を繰り返す彼が見慣れず、翠はどこか落ち着かない。
何か切り出したほうがいいのだろうか。それとも待つべきなのだろうか。ちゃぶ台に残った年輪を数えながら沈黙に耐える。
狩野をカンニングだと断定したことは許せなかったが、その後の狩野とのやりとりを見て気持ちがすっとしていた。審判をわざと間違えたことなど、煮え切らない部分もあるにはあるのだが、今の木崎を見ていると何も言う気にならなかった。
視線を上げると、木崎が前髪に手櫛を入れているところだった。ワックスであげていたのだろう髪がほつれ、額が隠れると彼は少しだけ幼く見える。意外に思いながら、目が合うのが嫌でまた視線を落とした。
不意に風が窓ガラスを揺らす。人間の唸り声のような低い音に神経を刺激され、尚のこと呼吸が苦しくなるようだ。
透明な視界の向こうで黄色い枯れ葉が舞っている。道場の横にあるコブシの木だろう。
思っていたよりも風が強いようだ。これにより体感温度が随分と違ってくるので、できれば今すぐ止んでほしいが、自然に願っても仕方がない。
そうして思考を逸らしていたが、そろそろ我慢の限界だった。空気に耐えられないのだ。
「話ってなんですか」
声をかけると、木崎は髪を掻き上げたまま翠を見つめてくる。そして大きく息を吐き出すと、やっと話し出した。
「お前が目障りで仕方ない」
「……それは俺がオメガだからですか?」
「そうだ。オメガなんてこの世から消えればいい」
返す言葉も見つからない。もう何百と聞いた言葉だった。特に大学時代、アルファばかりの生徒の中で唯一のオメガであった翠は、ほとんど毎日言われていた。
いくら芳がいるとはいえ、常に一緒にはいられない。すれ違いざまの陰口は日常茶飯事だ。翠はそうして悪意に慣れて、既に悲しいとか辛いとかいう感情はなくなってしまったのだ。それが日常で、慣れるしかなかったから。
木崎もありふれたもののうちの一人だ。今まで翠の前を通り過ぎて行った、オメガを嫌うアルファ。彼の言い分にどんな意味があるのだろうと翠は思ったが、口には出さずにじっと待つ。
「お前たちはこの世の底辺のくせにどうしてこんな場所にいるんだ? 発情期があるならそれらしく、ただ股でも開いていればいいだろう。薬を飲んでまで、何故人間の世界に足をつっこもうとするんだ」
「……俺たちは人間じゃないと?」
「そうだ。セックスすることしか能のない、卑しいだけの存在だろう?」
芳との関係を思うと否定できない部分はあったが、そこまで言われる筋合いはないと内心で言い返す。
こういう場合は言いたいだけ言わせておけばいい。
彼はただ悪意をぶつけたいだけで、この場でオメガは翠だけだったという話なのだ。個人的な思想の背景など小指の先ほども興味がないし、あんまりな言葉に憤りも覚えるが、何度もやり過ごしてきたことなのでもはや動じるわけもない。耐えればすむ。
しかし、どうやら今回は違っていた。
予備動作もなく立ち上がった木崎がのろのろとちゃぶ台を回り、翠を見下ろす。殴られるかと身を竦めたが、木崎はそのままぼそぼそと思いを吐いていく。
「どうしてよりにもよって副顧問なんだ。視界に入るだけでも不愉快なのに、二日に一度は顔を見るなんて拷問だ」
任命した管理職に言え、と心で返す。
「校長も校長だ。狩野が改心したからって手のひら返したようにお前を褒めやがって」
それはどう聞いても勘違いで、おそらく木崎の見方がおかしいのだろう。
「狩野がなんだよ、あんなやつ……とっとと辞めちまえばよかったのに」
舌打ち交じりの台詞を聞いて、翠は俯かせていた顔を上げた。
すぐそばに暴力の気配は感じていた。が、今なら部員が証人となってくれるだろう。なら恐れることはない。
翠は自分の意志で口を開いた。どうしても黙っていられない気持ちが沸き上がってきたのはいったいなぜだろう?
怒り? 違う気がした。その答えはすぐには出せないが、ただ思うことがあった。
――正しいことを言った人間は救われていい。
「彼を馬鹿にするのはお門違いです。先生が気に食わないのは俺でしょう?」
「おい。口答えか?」
「文句なら俺に言ってください。狩野は関係ない」
眦を吊り上げてそう告げたところ、木崎は目を細めることで反応の代わりにした。それから不良がするようにしゃがみ込むと、首をかくりと曲げて呟く。
「……狩野と寝たのか?」
「は?」
口から間の抜けた声が滑り出た。慌てて口を塞ぐと、相手はそれを肯定ととったようだ。噛みしめるように頷いて、とんでもないことを口にする。
「あいつとお前をこの学校から追い出す方法はそれか」
「何をするつもりですか?」
「頭の良いお前ならわかるだろう? 有り難いことに、校長もこの話を信じてる。つつけばお前の腹が痛い筈だ」
「そんな関係はありません」
「では一体何故、執拗に狩野を庇う?」
「それは……」
生徒だから、と口にしようとしたが、不思議としっくりこない。どこか自分と似ているから、ならもう少し近いが、やはり違っている。
考えてみてもわからない問いに、自然と視線が彷徨った。翠のその無意識の行動は見るものによれば何よりの“証拠”に映るのだろう。
「ただ校長を唆すだけじゃつまらないよな……? 目障りなお前にも、生意気な狩野にも、俺が罰を与えてやる」
ゆるく閉じられた木崎の目に光がなく、背筋に冷たいものが走った。頭の中で警鐘が鳴り響く。
逃げ出そうとした翠の足首を、木崎の素振りで分厚くなった手が掴む。半ば引きずられるような形で翠の体は畳に押し付けられた。
背中に乗り上げられる。容赦なく体重をかけられると息がつまって、身動きができなくなった。
「お前を犯した写真であいつを脅せばいいんだな。校長に言うのはそれからでも遅くない」
「……ぐ、ぅ……っ、……そ、な……こと、意味な、いっ……!」
「んー? 聞こえないなあ。人間の言葉を喋ったらどうだ?」
くすくすと体の上で男が笑う。恐怖に息が浅くなるせいでよけいに呼吸ができなくなった。
理不尽でも、ただの暴力なら耐えられると、そう思っていた。だが、自分を明らかに嫌っている相手に強姦されるなんて、そんな――まさか。
渾身の力で身じろぐと叱りつけるように尻を叩かれた。痛みよりもそこを叩かれた意味を知らしめられて、視界に生理的な涙がじわりと浮かぶ。
「存在を詫びろよ。オメガらしく足を開け」
「……――!」
辺りを探るような音がしたかと思えば、手首を何かで縛られた。この近くにあるものでそれが可能なものといえば、トレーニング用のゴムだろう。翠の心は体の恐怖を裏切って、目の前のことを他人のものが如くとらえ始める。
木崎は苦労して翠の体をひっくり返し、肺があるあたりにのしかかった。口をだらしなく開けて足りない酸素を得ようとしたができるはずもなく、翠の視界は霞がかってゆく。
おもむろに首輪に手がかかった。やけに熱い手がゆっくりとそれをなぞったかと思えば、次の瞬間には押さえつける。
「ひ、ぐ」
「……お前らさえいなければ、俺は……」
それは獲物をいたぶる肉食獣さながらの動きだ。獰猛さを潜めて、もがき苦しむ様をじっと観察し、やがては喉元に食らいつく。
圧力がかけられた首輪は誂えた形を変えないまま、紙のような色の柔肌を苛む。
「あ、あ……」
飲み込めなかった唾液が顎を滑り落ちるのを確認すると、木崎はそこで全身の力を抜いた。やっと戻ってきた酸素に耐えられず忙しなくせき込む。体が跳ねるたびに首がひりひりと痛んで、目尻から滴が垂れた。
――木製の天井が見える。そこかしこにある年輪がまるで泣いている人の顔のようだ。口を大きく開けて自身の悲しみを味わっているのだろう、翠は水滴越しに、それが涕泣しているのだと思った。
袴の腰帯に手がかかると、丁寧に縛っていた十文字があっけなく外れた。腹を締め付けるものがなくなったとはいえ、開放感とはほど遠い。
代わりにもならない、強制的に組まされた手首の十字に自身の重みが痛い。多少は沿った背骨に助けられてはいるが、負担がなくなることはなかった。
何か言わなくてはいけない気がした。
これは木崎そのものをも貶める行為だからやめろ、だとか。こんなことをしても意味が無い、狩野とは関係ない、だとか。だが、炭酸水の中の泡のように浮かんでは消えるだけで喉が発声を忘れたようだ。
かつてない悪意の表出。畳に擦れる手首のひりつきが現実を突き付けてくる。
泣きたくもないのに涙が止まらなかった。抵抗する力を出す気力を根こそぎ奪われて、木崎から発せられる受け止めがたいエネルギーの奔流に反応すらできない。
どうせ木崎は勃たないだろう、するなら暴力だろうとたかをくくった自分は、きっと間違っていた。こんな時に自分がオメガであるということを知る――圧倒的な、抱かれる立場。
素足に空気が触れる肌寒さから、木崎が着物を取り払ったことがわかった。
目の高さに取り付けられた小窓ががたがたと揺れて物音を立たせる。やはり他人事のように、翠は外の世界を思った。
――寒くなってきたけれど、狩野は風邪を引かずにきちんと家に帰れるだろうか?
興奮しているのだろうか、聞こえる木崎の呼吸は浅くて忙しない。足から抜かれた下着がどこかに放り投げられて乾いたノイズがした。
「こんな状態でつっこんだら俺まで痛そうだ」
片方の膝裏に手がかかり、乾いた手が後孔を撫でつけた。ひきつるような刺激に身が竦み、はたはたと滴が畳を叩く。恐怖にひきつる顔をどうすることもできない。
木崎が自身の手に唾を吐き出した。それから、乾きやすいそれを纏った指先が翠の中に――。
「……先生?」
信じられない声を聴いた翠はとたんに覚醒した。投げ出された足を振って木崎の横っ腹を打つ。体勢もあって大した威力はなかったが、油断していた木崎は壁にぶつかって大きな音が響いた。
その異常事態を察したのだろう。暖簾をはらって制服姿の狩野が場に押し入った。
驚くのも一瞬に、彼は大股で距離を詰めると木崎の頬を殴りつけた。
「ぐぁっ」
呆然とする翠をよそに、壁に頭を叩きつけた彼のことをさらに攻撃する。血が飛んでも容赦せず、木崎の顔はあっという間に膨れ上がった。
「――狩野! もういいよ!」
「いいわけねえ!」
「……いいから! 俺は何もされてない……!」
「十分されただろ!? あんた今、殆ど裸じゃねえか!」
倒れこんだところをさらに馬乗りになって、狩野は拳を振るう。翠の制止も聞かず続けられる行為のせいで辺りに血が飛んだ。ついこの間まで喧嘩をしていた彼の拳はどう見ても重く、翠はやっと冷静になった。
背中に飛びつくと、狩野の動きが一瞬だけ鈍った。それを確認すると、なるべく静かな声を意識して耳に息を寄せる。
「お前は暴力をしちゃだめだ。前も言ったよな」
「……」
強張った体から力が抜けて、腕がだらりと垂れ下がった。幾らか平静を取り戻したらしい狩野が首を傾けたせいで唇が触れそうな距離にいたことに気づき、翠は慌てて手を放す。
彼の呼吸は荒かったが、今は木崎の手当てが先だ。簡単に身を整え、内線電話で守衛を呼ぶ。
程なくして守衛はやってきた。五十代の体が大きい男で、息子がオメガということで翠も普段から親しくしている仲だった。部屋の有様を見て察したらしく、すぐに病院の手配のため連絡をとる。それを見た翠も事務に電話をかけた。
土曜日は人が少ないので、事務員はあっという間にてんやわんやになった。出張中の校長に報告をし、事情聴取をしてから特別に保健室を開けて、残業になった事務員は狩野と翠を放り込む。
二人だけの保健室。スーツに着替えた翠は、狩野の拳にピンセットでつまみ上げた綿を浸した。
「ちょっと沁みるぞ」
「……っ」
消毒液を浸したそれで擦れた箇所を優しく叩いていく。血がついた綿を替え、それを何回か繰り返した。
歯を殴ったのか、壁に当たったのか、利き腕の怪我はもう片方よりも酷いもので、翠は痛ましく思いながら処置をすませる。ガーゼで患部を押さえれば終わりだ。
「ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
「……先生は、怪我は?」
「傷になるレベルのものはないから大丈夫だよ」
そう言って笑顔を見せると、狩野は真剣な顔をして翠を見据えた。
「本当に何もされてないのか?」
「ああ。未遂だ」
「……それなら、いいけど」
狩野は翠の表情を伺うように首を上下に振る。意思の強い瞳から立ち上る生気を見ていると、なんだか泣きたくなるくらいだ。
労りに満たされた彼の双眸に見守られ、心に平静が戻ってくる。窮地を救った狩野を前に、木崎への恐怖が溶けていくようだ。
こうしていると自分は冷静なようでいてそうではなかったのだとわかった。事後処理で感情を後回しにしていただけだったのだ。
耳が痛むみたいな静寂が場に横たわっていた。風が収まったのか、明り取りのために大きく設えた窓の向こうは凪いでいる。
瞬きすら感じ取れそうな敏感さで、翠は狩野の存在を感じた。
気づけば狩野の大きな手に同じものが包まれていた。温もりを移すような行為だ。
木崎のそれとは違う、もっと肌馴染みの良い熱に自然とため息が零れる。
「――殴ってごめん。止まらなかった」
「……あれが俺のためだったってわかってるよ。その気持ち自体は嬉しいんだ」
「うん。だから、ごめん」
きらきらと翠を引き付ける煌きが伏せられてもったいないような気がした。その目をもっと見ていたいという欲求が、翠の身を駆け巡る。
それでもその願いが分不相応なことはわかっていたから、目を閉じて手の感覚を追いかける。
乾燥を知らない滑らかな肌から伝わる狩野の鼓動。息遣いよりも早いリズムがわかるようで、息を吐きながら感情の波をやり過ごす。
身の内にとぐろを巻く思いがあった。投げかけられた言葉と暴力が蘇ると恐怖が戻ってきたが、その度に狩野の熱に助けられた。
面を上げ、瞬く姿を目に焼き付ける。泣きそうになった翠の頬に、伸びた狩野の手が触れた。その手が瞼の下をなぞったせいで、表面張力の均衡を崩された滴が滑り落ちていく。
今なら泣いてもいいような気がしたけれど、翠はそれ以上考えることをやめた。ただ、瑞々しい手に僅かに頬を擦りつけて引きはがす。温度がなくなった頬がすうっと冷えていった。
「そういえば、どうしてもう一度戻ってきたんだ? 忘れ物?」
「……木崎の様子が気になったから、大丈夫かと思って」
「心配してくれたのか。おかげで助かった」
「……あいつ、どうなるんだ?」
「……そうだなあ……」
翠は答えを持っていなかった。予想はついていたが口にはしない。それはきっと、狩野が知れば怒るからだ。
唐突にノックの音が響き、翠は反射的に手を引いた。狩野は逆らわずに手をどける。
「出先なのか、校長先生に連絡がつかないんです。副校長先生だけだと決められないので、現状はどうすることもできません」
眼鏡をかけた四十がらみの事務員は、二人を保健室から追いやった。確かに治療が終わったために用事はないのだ。
「近いうちに連絡しますのでその通りにしてください。それなりの処分は覚悟しておいてくださいね」
「はい」
彼は目を細めて翠の首筋を見やった。スーツの白と対照的な黒の戒めに視線が向けられた意味をわからないほど鈍くはない。
帰宅を許され、狩野は昇降口へ、翠は職員玄関へ。それぞれ帰路につく。
鳴りやんでいた風が木の葉を散らした。駅までの道を一人歩きながら、マフラーを首まで引き上げる。
無駄なことだとわかっていたが、狩野に包まれていた左手をポケットに押し込んだ。冷えていくのが嫌だったのだ。
いつの間にか日がすっかり落ちて、空は藍色に近づいていた。雲が多く月が隠れていてその姿が見られない。
翠は空を見上げながら歩きだした。
以前は銀杏の木もあったそうだが、悪臭のあまり登校を嫌がった生徒の保護者の要望で今はない。確かにあの臭いを不快に思う人は多いだろう。実のおいしさとは一致しないのだ。
その日、翠が出勤したのは七時半を少し回ったところだった。職員室にはまばらに人が居た。八時から職員会議があるのだ。
会議までの時間を、マグカップに入れた紅茶を啜って過ごす。クラスごとに管理している授業進度を見るためにパソコンとにらめっこだ。特別遅れているクラスはないが、新しい単元がやっかいで、毎年足並みがずれる。今年も注意しなければならない。
時刻が八時になると校長が前に進み出て、会議が始まった。移動の手間を割くために各自のデスクで話を聞くことになる。
諸連絡と、風邪に対する注意喚起等が行われた。その後、校長は一月前に行われた全国のアルファクラスが一斉に行う実力テストに関して言及した。受験者数が少ないことから返却が早く、もう結果が届けられたそうだ。
「この度、我が校から全国上位二十名に入ったものが現れました。一年の狩野威君です」
直後、教員はどよめいた。最近まで狩野は問題児だったのだ、それも不思議ではない。
翠と木崎を伺うような視線も混じっている。先日の謹慎騒動の関係者だと把握されているのだろう。翠はそれには一切反応せず、姿勢を正して真っ直ぐを見据えた。
校長と目があうと、満足そうに頷かれる。
「これも榛名先生のご指導の賜ですかな。これからもたくさん仕事をしていただきたいものですねえ。また、木崎先生のお叱りも効果があったんでしょう。さすがです、大変素晴らしい!」
その言葉は翠を褒めているようだが、実際はそうではない。わざとらしく細められた瞳のいやらしさにしかめ面をしかけたが、なんとか堪えた。翠になら仕事を押しつけて良い、と教師達に仄めかしたようなものだ。
対して木崎への賞賛は本気だろう。手の甲に毛がびっしり生えた手で拍手までしてみせて、パフォーマンスとしては十分だ。
それとなく木崎を確認すると、彼は翠のことを鋭く睨みつけていた。木崎は校長とは違い、狩野の変化に自分が関わったとは思っていないのだろう。
木崎のための拍手の後、校長は職員室用の自分の席へ辞した。会議は終わりだ。
いよいよ木崎から目が離せず、翠は周りにばれないように抑えたため息をつく。
翠が教師になったのは、公務員のうちで教師がもっとも性差別を受けにくいと言われているからだ。
性差別の被害者はほとんどがオメガで、加害者は圧倒的にアルファが多い。
この学校の採用試験に合格した時、アルファの教員を避ければどうにかなると思っていたが甘かったのかもしれない。
しかし、もう一人の教員のアルファは翠に対して敵意を向けたことはなかった。良くも悪くも関わらないのだ。
木崎が特殊なのか、もう一人のアルファが特殊なのか。翠の大学時代を回顧すると、オメガをまともに扱うアルファは少数派だったので、後者かもしれない――。
そんなことを考えているうちに時間が迫ってきたので準備を始める。担任しているクラスのSHRのあとは授業だ。
その日の部活時間、木崎の機嫌は地を這っていた。
いつもはいい顔をしているというのに取り巻きの部員に対して怒鳴ったり、少し指導と違うことをした生徒が居れば顔が引きつるまで罵倒したり、自ら引っかけた荷物を蹴りとばすという具合だ。
さらに、普通の素振りをしているはずなのにどんどんテンポが上がり、部員達もやり辛そうにしている。そこで初心者の狩野が苦も無くこなしていたためいちゃもんをつけられそうになった。
翠は見ていられずそれとなく場を収めようとしたが、案の定勘に障ったらしい。矛先がこちらに向いたものの、ちょうど良く部活終了のチャイムが鳴ったことで事なきを得た。
鼻息荒く「しっかり片付けておけ!」と道場を去った後ろ姿を見て、部員と共に胸を撫で下ろす。
「台風一過ってところかな?」
「目に入ってる状態じゃないといいですね」
「明日はまた激しいって……? 怖いこと言うなよ」
狩野の淡々とした言葉に突っ込むと、「可能性の話です」と冷静な応えがある。
紺色の胴着を着こなした狩野は大分部活に慣れたようだ。早いもので、彼が入部してから一月が経っていた。
「先生、片付け終わりました」
「挨拶して上がるか。あ、狩野は少し話があるから残れよ」
「……はい」
部長は部員を整列させており、翠の号令で本日の活動が終わった。
着替えは体育館にある更衣室にあるので、各々道場から移動していく。
翠は指示通り待っていた狩野を手招いて、暖簾のかかったスペースに案内した。
「時間、少しなら平気か?」
「はい」
「じゃあお茶入れてやる。ティーバッグだけど」
ここには小さいシンクがあった。ケトルもあるがめったに使わないので簡単に濯ぎ、持ってきていたペットボトルの水を入れる。
無表情だが狩野は落ち着かない様子でそれとなく視線を彷徨かせていた。きっちりと正座だったので崩しても構わないと告げる。翠も裾をさばいてあぐらをかいた。
年代物らしく色が濃くなったちゃぶ台に茶碗を乗せる。ケトルからお湯を注いでティーバッグを落とした。上等とは言えないが、我慢してもらおう。
「どうぞ。器が熱いから気をつけて」
「……ありがとうございます」
うまくあぐらができないのか、狩野は片膝を立てることにしたようだ。茶碗の上端を持って、どこか危なっかしく口元に運ぶ。見守っていると、無事啜ることができたらしい。狩野がほっと肩を落とした。
内心でその様子に微笑ましさを覚えながら、翠も器に手を伸ばす。
「部活には慣れたか?」
「はい。大分」
「そうか。狩野は呑み込みがいいからこっちも教え甲斐があるよ。部員とはどうだ?」
「鈴木が間に入ってくれるんで……それなりに」
狩野はそう言いながら口の端を微かに持ち上げた。笑っているかどうかは定かではないが、雰囲気や声音から機嫌が悪い様子はない。
「鈴木と随分仲が良くて驚いたよ。狩野が入部する前に話すってことはきいてたけど、あれほどとは思わなかった」
「随分ってほどじゃないです。あいつが……変わってるだけで」
言葉を選ぶように挟まれる彼独特の間に、会話はどこかゆったりとしていった。思いのほか自分が穏やかな気持ちで翠は驚く。つい先刻までは木崎の一挙手一投足に構えていたのに、こうも違うのだ。
「……鈴木、俺の事変なふうに言ってませんでしたか」
「浮いちゃった同盟を組んでるって言ってた」
「……」
「そんな怖い顔するなよ! それと、イケメンすぎてクラスメイトが近寄りがたそうにしてるって」
笑いながら言うと、狩野は興味なさげに頷いた。どうやら、クラスでの人間関係はさほどうまくいっていない―興味がないともいう―ようだ。
「そうだ、叶野。今日生徒にも実力テストの成績が届いただろ? おめでとう」
「……ども」
狩野の表情に変わりはない。特に嬉しいということもないのだろうか。または褒められることに慣れていないのだろうか?
深く聞いてみようかと考えていると、狩野が口を開く。
「先週一緒に居たのって国木芳さんですよね」
「……芳のこと知ってるのか?」
首を傾げた翠に、狩野はごく短い時間だがむっとした表情を見せた。気のせいといわれれば気のせいにも思えるくらいの変化で、狩野はもう普段通りの静かな顔をしている。
「父親の取引先の社長です」
「なるほど」
芳の会社は人材派遣を担っている。また、会社自体が何世代かにわたって続いているので、顧客の伝手からはじまるお得意様も多いのだ。
確か狩野の父親はホテルチェーンを経営していたはずだ。従業員数も多い中で、それなりの質の人材を確保しようとすると芳の会社と関わる場合もあるのだろう。
友人と生徒の思わぬ繋がりを感じながらも、この話の意図が分からない。
「芳がどうかしたか?」
「この間、先生と距離が近かったので、気になって」
「……芳はいつも人のことからかうんだよ。だから深い意味はないよ」
ちゃぶ台越しに見つめあう。先に目をそらしたのは翠のほうだった。いたたまれないと思ったのだ。そんなことはありえないのに、芳は体だけの関係だと見透かされそうな気がした。
同時に、芳との熱い一夜を思い出して頬が熱気を帯び、鼻孔にあの日のチョコレートの香りが蘇る。
もう狩野のほうを見られなくて、翠は湯呑茶碗の中身を見つめた。鮮やかすぎる緑に光が映っている。
「……帰ります」
狩野が無音を遮った。茶を飲み干すと、洗い場に立とうとしたので慌てて止める。
「いいよ。戸締りも俺がやるんだし。着替えもしなくちゃいけないだろう、先に帰りなさい」
「……すいません。お先に失礼します」
狩野はやはりお手本のようなお辞儀をして、暖簾のむこうに消えていった。
足音が遠ざかるのを確認してから、大きく息を吐き出す。
部に途中から入った狩野の状況を確認するつもりで呼んだのだ。それなのに、あんなに気まずく話を終わらせることになってしまい、不甲斐なくて仕方がない。
芳は今、仕事の都合で海外にいる。帰ってくるのは今月の終わり頃だ。会えない分の時間まで奪うような一夜が脳裏に蘇ってきたが、どうにか押しとどめる。
身支度を済ませて外に出ると、肌寒さを感じて肩を竦めた。火照った頬には心地いいが、風が吹くと冬の気配を感じる。
見上げた空の覆いのない月が黄色く光っている。明日も良い天気だといいと考えながら、帰路についた。
今回は、練習のために狩野も出ることになっていた。彼は軽い模擬戦の経験は既にあるが、試合形式の対人戦は初めてだ。
新入部員により部員数が奇数になったため、一人だけ二度試合をすることになる。主将と副将以外は学年も無視して無作為にマッチングするので、その四名以外は対戦相手を知らないのだ。
この日も翠は白組のコーチ役だった。顔ぶれに変化はあるものの、もとは木崎が決めたメンバーなので入れ替わりは少ない。
狩野は白組だった。納得したような意外なような気持ちで、翠は審判業をこなす。
今日の木崎の機嫌は悪くないように見えた。紅組の生徒が負けてもアドバイスや励ましを言う余裕があるようで、むしろ良いのかもしれない。
いつもあれなら助かるのにと思いながら、胴を決められ負けてしまった鈴木の肩を叩く。
「相手との身長差を気にしすぎたな。面を誘って打ち合いになったのはわかるが、その後の隙を見せたらだめだ。面は動きが大きい分、次の動作までに時間がかかるってことを考えてみるといい。少し意識していこう」
「俺の誘い方、わざとらしかったっすか?」
「わざとらしいというより、鈴木が身長差がある相手との定石を意識しすぎたってところだな」
「そうですかー……」
鈴木は胴を打たれた部分を、小手をつけたままぽすぽすと叩いている。悔しがっているところを見ると、怪我をしたわけではなく自戒のようだ。
狩野の影響もあって、最近は以前よりも鈴木との関係もできてきた。また、彼と狩野のやりとりを見て介入したがる部員も増えたようで、部員でグループはあるものの関係は良好のようだ。翠としても居心地が良い。
生徒が上げる熱量が場にしっとりとしみ込んでゆく。時折吹きつける木枯らしが室内に響くが、それをものともせず部員たちは竹刀を打ち込んでいる。
生徒の面が決まったのを見て旗を斜めに振り上げた。木崎も同じようにしている。白組の勝ちだ。
剣道の決まり手として最も多いのは面で、逆に少ないのが突きだ。後者は危険度が高くそもそもあまり使われないという背景もある。さらに、突きを禁止にする大会もあるのだ。実際、この学校で突きを決め技にする生徒はめったにいない。
それから二試合が終わると、狩野の出番が回ってきた。相手は同じく一年の、所謂木崎派の生徒だ。身長差はさほどないが、狩野は腰の位置が随分と高いので遠目からみると差があるように見えてしまう。
とはいえこと武道において重心は低いほうがふんばりがきいて有利なので、見栄えだけの話ではない。
木崎が開始を宣言した。
相対する二人が竹刀を構えて気合いを発する。狩野の声は余韻があり、どこか艶っぽく通った。床を滑る音がそれに被さる。
ふいに相手が距離を詰めた。それを見て狩野は身を引いたが、そのまま下がり続けたら場外反則で相手のポイントだ。気づいたようで途中で逆に踏み込んで、二人が鍔迫り合いに陥る。
離れ際の有効を警戒してか、狩野がじりじりと相手を押していくが、相手は伊達に強豪校の部員ではない。それとなく体を移動させて場外を誘う。
それでも狩野は冷静だった。拮抗を切り上げた相手の胴にとっさに反応して切り返す。しかし経験の功があるのだろう、相手に面を取られ、そのまま時間切れになった。
挨拶を済ませた後の狩野は悔しがるそぶりこそないものの、試合を反芻していたようだ。翠は軽く肩を叩くだけに済ませ、次の準備に入る。
次は副将戦だった。今日の白組の副将は二年生から選んだ。
彼は五人が一組になって戦う団体戦で先鋒を担うことが多く、手数が多いムードメーカーで、翠にも最初からてらいなく話しかけてくるような裏表のない性格だ。時々悪戯をして副部長に怒られることもあるが、後輩からも好かれている。
翠の激励に笑顔を返し、「勝ってきますね」と声は小さくとも大げさに胸を張った。気安い態度に半ば呆れながらも嫌な気はしない。
同級生と相対し、彼は宣言通りきっちり二本とって戻ってきた。早々に面を取ってにっこり笑った副将に同じものを返してから、そっと木崎の様子を伺う。
勝ちに自信があるのか、木崎の表情は苛立ちや不満が見られない。今のところ紅組が二点先を行っているので、次の主将戦に勝たなければこちらの負けだ。
先月の紅白戦で戦ったのはもう恒例となった、部長と副部長の二人だった。その時は延長までもつれ込み、文字通り部長の面が決定打となった。
三角座りの部員に囲まれる二人には、実力差がほとんどない。
役職の決定は生徒の話し合いで決められたので、実力順ではないのだ。また、木崎も翠もそれには関わっていなかった。以前の顧問の方針の名残で、代々の役職は生徒たちが決めるのだ。翠は副部長から話を聞いていたのでその経緯を知っていた。
部長となった生徒は体も大きく、戦いに迫力と勢いがあるので、部の顔とするためにそうなったのだという。
副部長は空気を読むことに長けていて、部長を含めた部員全体をコントロールできるので、補佐の色が強い。実際、その立場から木崎ほど部に馴染んでいない翠にこういった報告をする細やかさは、彼ならではのことだろう。
まだ十代の彼らだが、おそらく大人が甘く見るほど子どもではないのかもしれない。翠が個人的に考えていた役職もその通りで、まさしく適任だ。
二人が蹲踞して竹刀を構えた。しゃがんだ足の上に尻を落ち着かせるポーズもしっかり身についている。慣れないとあの動作だけで足がしびれたりぐらついたりするのだ。
「始め!」
木崎の声に、二人は剣の先を軽く合わせた。やらない場合もあるが、挨拶のようなものだ。
高い身長を生かして踏み込んだ部長が飛び込み胴を繰り出して、呆気なく止められた。とはいえこれはパフォーマンスに近いのだろう、現に二人はすぐさま体制を立て直して次の動作に移る。
面金に邪魔されて表情は伺えないが、遊び心を出した部長と、苦笑いをする副部長の顔が目に浮かぶようだ。
面を狙って振り下ろされた竹刀に首をずらし、副部長が打ち込む。有効には思えず翠は旗を上げなかった。木崎も同じようだ。
一本にならなかったことを即座に理解した副部長が果敢に攻める。審判として二人を追いかけながら、翠は神経を集中させた。
捌かれた黒い袴の裾が重たげな音で二人の攻防を彩る。
ふいに、部長が雄々しく叫んで胴を繰り出した。翠のものも含めた二本の旗が上がる。有効だ。
残り時間があまりなく、副部長はむしろ冷静になることにしたようだ。
先ほどの猛攻が嘘のように距離を取って、中段の構えと呼ばれる、竹刀の先端を相手の目の高さに向ける構えをとっている。これはごく一般的に教えられ、最も使われる構えだが、小学校から剣道をしているという副部長のそれにはどこか貫禄めいたものがある。達人、名人には及ぶべくもないが、変に力んでいない姿勢は美しかった。
壁に吊られた時計の秒針は試合があと三十秒で終わると告げていた。
副部長が一本とれば引き分けで延長のチャンスだ。
翠は固唾を飲んで彼を見つめる。肩を守るように突き出した面布団がゆらりと揺れたかと思えば、静謐さを孕んで副部長が動き始めた。
副部長が竹刀を頭上に掲げ、上段の構えを取った。胴ががら空きになるが、振り下ろせば面が打てるので、これは構えのうちで最も攻撃的なものだ。
対する部長は変わらず中段の構えだ。剣先がしっかりと副部長の目の高さにある。
剣道で最も面が決まりやすいのは、有効であると審判が判断しやすいからだ。打った後に相手の傍らを走り抜けなくてはならない胴や、小刻みに動いて狙いがつけにくい小手と違い、面ならば打った後に必要とされる残心がわかりやすい。残心とは、技を決めた後も油断していないと示すために必要な余韻のことで、判定の要素の一つになる。
副部長がじりじりと間合いを詰める。それから鋭く息を吸い込むと、高らかに気合いのこもった面を打つ。
僅かだが、見慣れた者ならわかるくらいに遅れて部長が胴を打つ。
翠も、そして木崎も旗を上げた。
しかし上げられた色の旗が違っていて、木崎が上げたのは赤の旗だ。
――試合は一時中断となった。翠は木崎に早足で近づく。
「先生、今の一本は白でしょう。面のほうが早く当たり、残心もとれていました」
生徒がいる手前、語気こそ気を付けたが、明らかに今の一本は判定違いだ。
今まで木崎と判定が割れたことは不思議となかったのでこの点は安心していたのだが、どうやらそれは間違いだったらしい。正式な試合であれば審判は三人いるため、このように意見が割れてもどうとでもなるのだが、ここではそうはいかない。
「赤のほうが早かったと思いますがねえ。そんなに気になるようであれば、残り時間でもう一本やらせますか?」
「十秒で何ができるというんです?」
翠の険しい顔を眺めて、彼はさも愉快というように口端を吊り上げる。生徒の前では使われる敬語交じりの台詞からひしひしと悪意が伝わってきた。更に、生徒達には聞こえないようなささめきで挑発を下す。
「お前が何か知恵をやればいいんじゃないか? そうすれば山名も見違えるだろう。得意だろ、問題児の成績を全国で二十位以内にした功績があるんだもんな?」
「……は?」
あまりにも唐突な当てこすりに反応が遅れた。潜めた翠の眉を見ながら、木崎はうっそりと口に笑みを穿く。
「いや、できないか。武道はカンニングなんてできないもんな」
――怒りのあまり翠は何も返せなかった。言葉も出なければ、顔にも出ない。時が止まったかのようで、木崎が話を切り上げて部員に指示を出したころにやっと我に返った。
「先生、先ほどの有効はやはり白だったと思います」
部長の声に振り向けば、彼は言いながら挙手していた。それがまるで選手宣誓のようで、翠の心は急速に落ち着いてゆく。
「謙遜なんてしなくてもいい」
「そうではなくて!」
「審判の俺が、一本と認めた。それ以外に何か問題があるか?」
「榛名先生は白旗を上げていました」
木崎はそれ以上言葉を発せず、ただにっこりと笑った。中身がどうであれ、彼の顔は整っているし、何よりアルファなのだ。そうすると周りの空気を塗り替えてしまうようで、たいていの人間はそれに引きずられる。
現に部長も二の句を告げず、吸い込んだ息を音にせず吐き出した。
――急に首の締め付けが気になって、そこに手を当てる。皮は体温で温まっていたがどこか冷たく、たまらなく苦しくなる。
「先生」
それでもその場には、木崎の特権階級の笑顔に惑わされないものが居た。可能性としては三人だが、声を上げたのは一人だ。
すっくと立ちあがった狩野が部長に習って手を上げる。若竹を思わせる伸びた背筋が眩しくて、彼はこんなにも大きかったかと思う。否、ここ数か月で身長が伸びたのかもしれない。今そんなことに気づくなんて、自分はなんて場違いなことを考えているのだろう。
当然ながら狩野はそんな思考に気づかず、道場にいつもより張った声を渡らせる。
「白が正しいです」
「……何だって?」
「白が、正しいです」
「繰り返せと言ったんじゃない! 意見する気か、狩野?」
座ったままの鈴木が必死で狩野の袴の裾を掴んでいるが、狩野は視線を木崎から外さなかった。
「カメラはありませんが、俺なら二人の位置を覚えているので可能であれば再現させられます」
「それにどんな意味がある?」
「正しいことを言った人間二人が救われます」
返事は微妙に論点がずれていたが、おそらく意図的なものなのだろう。案の定、木崎には影響があったのか、むっと黙り込んでしまった。
とはいえ言葉そのものというより、狩野が言った『位置を覚えている』という台詞に驚いたのではないだろうか。上げ足を取るのが得意な彼なのにそうはしないのが何よりの証拠だ。
「副部長が何歩歩いたか、部長がどの角度で竹刀を振り上げたか、それもわかります」
鈴木はいつの間にか手を止め、ぽかんと口を開けて狩野を見た。座っている人間と立った人間の高さの差に首が痛そうだが、その気持ちは翠にもわかる。
おそらくそれは嘘ではないのだろう。アルファは生まれついて能力が高いが、狩野は特に動体視力や認知処理や記憶力がいいのだろう。そうでなければあれだけ動き回る人間の動きを正確に捉え、把握し、それを頭にとっておくなんて真似はできない。
成績がいいのも、記憶力がいいからかもしれない。特に実力テストの数学では一問も間違えていなかった。一度解いた問題を覚えていられるならば、それそのものが公式のようなものだ。逆に、知識を問われる社会や歴史は知らなければ書けないので比較的点数が下だったのだろう。
――やっぱり、狩野はカンニングなんかしていない。
「……もういい。こんな状況で再戦するにも集中できないだろう。今月の紅白戦は保留だ」
木崎の声は固く、殻にこもるようだった。部活の終了を宣言すると、追い立てるように生徒に身支度や片付けをさせる。
その流れに翠も乗ることにした。それとなく組に分かれて座る生徒を横目で見ながらチーム分けが書かれた紙を回収する。
紅組はどこか不満げなムードで、対する白組は不完全燃焼そうだが狩野への扱いがいつもより友好的なようだ。特に鈴木の目は煌いて、狩野にうっとうしそうにされても動じていない。
「先生」
自身を呼ぶ声に後ろを向くと、木崎が立っていた。また何か言われるのかと構えながらも「はい」と居ずまいを正す。
「後でお話がありますので、残ってください」
「……わかりました」
威圧的なそれではなく、淡々とした声音に違和感を覚える。それほど先ほどのやりとりが堪えたのだろうか。
頷いて去っていく背中を見送る。
生徒がいない場所で嫌味を言う気なのだろうが、今までにこのような宣言をされたことはなかった。長くなるのか、と憂鬱さが身に伸し掛かる。
視線をうろつかせると、鈴木を振り切ったらしい狩野とちょうど目があった。その距離は八メートルはありそうだが、刹那の時、しっかりとお互いを認識したと感じる。
嫌でも不快でもないが、なんとも言えず不思議な感覚だった。またもや庇われたことが情けないような、ありがたいような。まぜこぜになって色を変えた絵の具のように、心がはっきりしない。
それを振り切るように薄く笑みを浮かべると相手からは会釈が返ってきた。割合律儀な彼に好感を持つ。
狩野は防具の片付け作業に入るようで、視線が手元に移った。
翠もそれを認めると、戸締りの確認を始める。
片付けのあとは礼をして、その日の部活は終了となった。
何かを言いたそうなそぶりの狩野には気づいたが、木崎に呼ばれているのでそちらを優先することにする。もしかしたら狩野と話したいのは翠で、勘違いかもしれないのだから。
部員たちの挨拶に応えてから、暖簾のむこうに引っ込んだ木崎を追う。
人がいなくなった後の道場はがらんとして、見た目からも冷ややかだ。特にもうすぐ季節が冬になる。冷えた板間が素足に痛い時期がもうすぐやってくるのだ。
暖簾をくぐると、木崎は壁を背にしてしゃがんでいた。顎で促されたのでちゃぶ台をはさんで座る。
「部員は帰ったか」
「はい。今、道場には誰もいません」
「そうか」
首を傾けて翠の言葉を聞く木崎は、どこかくたびれた顔をしていた。常の高慢な態度はなりを潜め、静かに呼吸を繰り返す彼が見慣れず、翠はどこか落ち着かない。
何か切り出したほうがいいのだろうか。それとも待つべきなのだろうか。ちゃぶ台に残った年輪を数えながら沈黙に耐える。
狩野をカンニングだと断定したことは許せなかったが、その後の狩野とのやりとりを見て気持ちがすっとしていた。審判をわざと間違えたことなど、煮え切らない部分もあるにはあるのだが、今の木崎を見ていると何も言う気にならなかった。
視線を上げると、木崎が前髪に手櫛を入れているところだった。ワックスであげていたのだろう髪がほつれ、額が隠れると彼は少しだけ幼く見える。意外に思いながら、目が合うのが嫌でまた視線を落とした。
不意に風が窓ガラスを揺らす。人間の唸り声のような低い音に神経を刺激され、尚のこと呼吸が苦しくなるようだ。
透明な視界の向こうで黄色い枯れ葉が舞っている。道場の横にあるコブシの木だろう。
思っていたよりも風が強いようだ。これにより体感温度が随分と違ってくるので、できれば今すぐ止んでほしいが、自然に願っても仕方がない。
そうして思考を逸らしていたが、そろそろ我慢の限界だった。空気に耐えられないのだ。
「話ってなんですか」
声をかけると、木崎は髪を掻き上げたまま翠を見つめてくる。そして大きく息を吐き出すと、やっと話し出した。
「お前が目障りで仕方ない」
「……それは俺がオメガだからですか?」
「そうだ。オメガなんてこの世から消えればいい」
返す言葉も見つからない。もう何百と聞いた言葉だった。特に大学時代、アルファばかりの生徒の中で唯一のオメガであった翠は、ほとんど毎日言われていた。
いくら芳がいるとはいえ、常に一緒にはいられない。すれ違いざまの陰口は日常茶飯事だ。翠はそうして悪意に慣れて、既に悲しいとか辛いとかいう感情はなくなってしまったのだ。それが日常で、慣れるしかなかったから。
木崎もありふれたもののうちの一人だ。今まで翠の前を通り過ぎて行った、オメガを嫌うアルファ。彼の言い分にどんな意味があるのだろうと翠は思ったが、口には出さずにじっと待つ。
「お前たちはこの世の底辺のくせにどうしてこんな場所にいるんだ? 発情期があるならそれらしく、ただ股でも開いていればいいだろう。薬を飲んでまで、何故人間の世界に足をつっこもうとするんだ」
「……俺たちは人間じゃないと?」
「そうだ。セックスすることしか能のない、卑しいだけの存在だろう?」
芳との関係を思うと否定できない部分はあったが、そこまで言われる筋合いはないと内心で言い返す。
こういう場合は言いたいだけ言わせておけばいい。
彼はただ悪意をぶつけたいだけで、この場でオメガは翠だけだったという話なのだ。個人的な思想の背景など小指の先ほども興味がないし、あんまりな言葉に憤りも覚えるが、何度もやり過ごしてきたことなのでもはや動じるわけもない。耐えればすむ。
しかし、どうやら今回は違っていた。
予備動作もなく立ち上がった木崎がのろのろとちゃぶ台を回り、翠を見下ろす。殴られるかと身を竦めたが、木崎はそのままぼそぼそと思いを吐いていく。
「どうしてよりにもよって副顧問なんだ。視界に入るだけでも不愉快なのに、二日に一度は顔を見るなんて拷問だ」
任命した管理職に言え、と心で返す。
「校長も校長だ。狩野が改心したからって手のひら返したようにお前を褒めやがって」
それはどう聞いても勘違いで、おそらく木崎の見方がおかしいのだろう。
「狩野がなんだよ、あんなやつ……とっとと辞めちまえばよかったのに」
舌打ち交じりの台詞を聞いて、翠は俯かせていた顔を上げた。
すぐそばに暴力の気配は感じていた。が、今なら部員が証人となってくれるだろう。なら恐れることはない。
翠は自分の意志で口を開いた。どうしても黙っていられない気持ちが沸き上がってきたのはいったいなぜだろう?
怒り? 違う気がした。その答えはすぐには出せないが、ただ思うことがあった。
――正しいことを言った人間は救われていい。
「彼を馬鹿にするのはお門違いです。先生が気に食わないのは俺でしょう?」
「おい。口答えか?」
「文句なら俺に言ってください。狩野は関係ない」
眦を吊り上げてそう告げたところ、木崎は目を細めることで反応の代わりにした。それから不良がするようにしゃがみ込むと、首をかくりと曲げて呟く。
「……狩野と寝たのか?」
「は?」
口から間の抜けた声が滑り出た。慌てて口を塞ぐと、相手はそれを肯定ととったようだ。噛みしめるように頷いて、とんでもないことを口にする。
「あいつとお前をこの学校から追い出す方法はそれか」
「何をするつもりですか?」
「頭の良いお前ならわかるだろう? 有り難いことに、校長もこの話を信じてる。つつけばお前の腹が痛い筈だ」
「そんな関係はありません」
「では一体何故、執拗に狩野を庇う?」
「それは……」
生徒だから、と口にしようとしたが、不思議としっくりこない。どこか自分と似ているから、ならもう少し近いが、やはり違っている。
考えてみてもわからない問いに、自然と視線が彷徨った。翠のその無意識の行動は見るものによれば何よりの“証拠”に映るのだろう。
「ただ校長を唆すだけじゃつまらないよな……? 目障りなお前にも、生意気な狩野にも、俺が罰を与えてやる」
ゆるく閉じられた木崎の目に光がなく、背筋に冷たいものが走った。頭の中で警鐘が鳴り響く。
逃げ出そうとした翠の足首を、木崎の素振りで分厚くなった手が掴む。半ば引きずられるような形で翠の体は畳に押し付けられた。
背中に乗り上げられる。容赦なく体重をかけられると息がつまって、身動きができなくなった。
「お前を犯した写真であいつを脅せばいいんだな。校長に言うのはそれからでも遅くない」
「……ぐ、ぅ……っ、……そ、な……こと、意味な、いっ……!」
「んー? 聞こえないなあ。人間の言葉を喋ったらどうだ?」
くすくすと体の上で男が笑う。恐怖に息が浅くなるせいでよけいに呼吸ができなくなった。
理不尽でも、ただの暴力なら耐えられると、そう思っていた。だが、自分を明らかに嫌っている相手に強姦されるなんて、そんな――まさか。
渾身の力で身じろぐと叱りつけるように尻を叩かれた。痛みよりもそこを叩かれた意味を知らしめられて、視界に生理的な涙がじわりと浮かぶ。
「存在を詫びろよ。オメガらしく足を開け」
「……――!」
辺りを探るような音がしたかと思えば、手首を何かで縛られた。この近くにあるものでそれが可能なものといえば、トレーニング用のゴムだろう。翠の心は体の恐怖を裏切って、目の前のことを他人のものが如くとらえ始める。
木崎は苦労して翠の体をひっくり返し、肺があるあたりにのしかかった。口をだらしなく開けて足りない酸素を得ようとしたができるはずもなく、翠の視界は霞がかってゆく。
おもむろに首輪に手がかかった。やけに熱い手がゆっくりとそれをなぞったかと思えば、次の瞬間には押さえつける。
「ひ、ぐ」
「……お前らさえいなければ、俺は……」
それは獲物をいたぶる肉食獣さながらの動きだ。獰猛さを潜めて、もがき苦しむ様をじっと観察し、やがては喉元に食らいつく。
圧力がかけられた首輪は誂えた形を変えないまま、紙のような色の柔肌を苛む。
「あ、あ……」
飲み込めなかった唾液が顎を滑り落ちるのを確認すると、木崎はそこで全身の力を抜いた。やっと戻ってきた酸素に耐えられず忙しなくせき込む。体が跳ねるたびに首がひりひりと痛んで、目尻から滴が垂れた。
――木製の天井が見える。そこかしこにある年輪がまるで泣いている人の顔のようだ。口を大きく開けて自身の悲しみを味わっているのだろう、翠は水滴越しに、それが涕泣しているのだと思った。
袴の腰帯に手がかかると、丁寧に縛っていた十文字があっけなく外れた。腹を締め付けるものがなくなったとはいえ、開放感とはほど遠い。
代わりにもならない、強制的に組まされた手首の十字に自身の重みが痛い。多少は沿った背骨に助けられてはいるが、負担がなくなることはなかった。
何か言わなくてはいけない気がした。
これは木崎そのものをも貶める行為だからやめろ、だとか。こんなことをしても意味が無い、狩野とは関係ない、だとか。だが、炭酸水の中の泡のように浮かんでは消えるだけで喉が発声を忘れたようだ。
かつてない悪意の表出。畳に擦れる手首のひりつきが現実を突き付けてくる。
泣きたくもないのに涙が止まらなかった。抵抗する力を出す気力を根こそぎ奪われて、木崎から発せられる受け止めがたいエネルギーの奔流に反応すらできない。
どうせ木崎は勃たないだろう、するなら暴力だろうとたかをくくった自分は、きっと間違っていた。こんな時に自分がオメガであるということを知る――圧倒的な、抱かれる立場。
素足に空気が触れる肌寒さから、木崎が着物を取り払ったことがわかった。
目の高さに取り付けられた小窓ががたがたと揺れて物音を立たせる。やはり他人事のように、翠は外の世界を思った。
――寒くなってきたけれど、狩野は風邪を引かずにきちんと家に帰れるだろうか?
興奮しているのだろうか、聞こえる木崎の呼吸は浅くて忙しない。足から抜かれた下着がどこかに放り投げられて乾いたノイズがした。
「こんな状態でつっこんだら俺まで痛そうだ」
片方の膝裏に手がかかり、乾いた手が後孔を撫でつけた。ひきつるような刺激に身が竦み、はたはたと滴が畳を叩く。恐怖にひきつる顔をどうすることもできない。
木崎が自身の手に唾を吐き出した。それから、乾きやすいそれを纏った指先が翠の中に――。
「……先生?」
信じられない声を聴いた翠はとたんに覚醒した。投げ出された足を振って木崎の横っ腹を打つ。体勢もあって大した威力はなかったが、油断していた木崎は壁にぶつかって大きな音が響いた。
その異常事態を察したのだろう。暖簾をはらって制服姿の狩野が場に押し入った。
驚くのも一瞬に、彼は大股で距離を詰めると木崎の頬を殴りつけた。
「ぐぁっ」
呆然とする翠をよそに、壁に頭を叩きつけた彼のことをさらに攻撃する。血が飛んでも容赦せず、木崎の顔はあっという間に膨れ上がった。
「――狩野! もういいよ!」
「いいわけねえ!」
「……いいから! 俺は何もされてない……!」
「十分されただろ!? あんた今、殆ど裸じゃねえか!」
倒れこんだところをさらに馬乗りになって、狩野は拳を振るう。翠の制止も聞かず続けられる行為のせいで辺りに血が飛んだ。ついこの間まで喧嘩をしていた彼の拳はどう見ても重く、翠はやっと冷静になった。
背中に飛びつくと、狩野の動きが一瞬だけ鈍った。それを確認すると、なるべく静かな声を意識して耳に息を寄せる。
「お前は暴力をしちゃだめだ。前も言ったよな」
「……」
強張った体から力が抜けて、腕がだらりと垂れ下がった。幾らか平静を取り戻したらしい狩野が首を傾けたせいで唇が触れそうな距離にいたことに気づき、翠は慌てて手を放す。
彼の呼吸は荒かったが、今は木崎の手当てが先だ。簡単に身を整え、内線電話で守衛を呼ぶ。
程なくして守衛はやってきた。五十代の体が大きい男で、息子がオメガということで翠も普段から親しくしている仲だった。部屋の有様を見て察したらしく、すぐに病院の手配のため連絡をとる。それを見た翠も事務に電話をかけた。
土曜日は人が少ないので、事務員はあっという間にてんやわんやになった。出張中の校長に報告をし、事情聴取をしてから特別に保健室を開けて、残業になった事務員は狩野と翠を放り込む。
二人だけの保健室。スーツに着替えた翠は、狩野の拳にピンセットでつまみ上げた綿を浸した。
「ちょっと沁みるぞ」
「……っ」
消毒液を浸したそれで擦れた箇所を優しく叩いていく。血がついた綿を替え、それを何回か繰り返した。
歯を殴ったのか、壁に当たったのか、利き腕の怪我はもう片方よりも酷いもので、翠は痛ましく思いながら処置をすませる。ガーゼで患部を押さえれば終わりだ。
「ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
「……先生は、怪我は?」
「傷になるレベルのものはないから大丈夫だよ」
そう言って笑顔を見せると、狩野は真剣な顔をして翠を見据えた。
「本当に何もされてないのか?」
「ああ。未遂だ」
「……それなら、いいけど」
狩野は翠の表情を伺うように首を上下に振る。意思の強い瞳から立ち上る生気を見ていると、なんだか泣きたくなるくらいだ。
労りに満たされた彼の双眸に見守られ、心に平静が戻ってくる。窮地を救った狩野を前に、木崎への恐怖が溶けていくようだ。
こうしていると自分は冷静なようでいてそうではなかったのだとわかった。事後処理で感情を後回しにしていただけだったのだ。
耳が痛むみたいな静寂が場に横たわっていた。風が収まったのか、明り取りのために大きく設えた窓の向こうは凪いでいる。
瞬きすら感じ取れそうな敏感さで、翠は狩野の存在を感じた。
気づけば狩野の大きな手に同じものが包まれていた。温もりを移すような行為だ。
木崎のそれとは違う、もっと肌馴染みの良い熱に自然とため息が零れる。
「――殴ってごめん。止まらなかった」
「……あれが俺のためだったってわかってるよ。その気持ち自体は嬉しいんだ」
「うん。だから、ごめん」
きらきらと翠を引き付ける煌きが伏せられてもったいないような気がした。その目をもっと見ていたいという欲求が、翠の身を駆け巡る。
それでもその願いが分不相応なことはわかっていたから、目を閉じて手の感覚を追いかける。
乾燥を知らない滑らかな肌から伝わる狩野の鼓動。息遣いよりも早いリズムがわかるようで、息を吐きながら感情の波をやり過ごす。
身の内にとぐろを巻く思いがあった。投げかけられた言葉と暴力が蘇ると恐怖が戻ってきたが、その度に狩野の熱に助けられた。
面を上げ、瞬く姿を目に焼き付ける。泣きそうになった翠の頬に、伸びた狩野の手が触れた。その手が瞼の下をなぞったせいで、表面張力の均衡を崩された滴が滑り落ちていく。
今なら泣いてもいいような気がしたけれど、翠はそれ以上考えることをやめた。ただ、瑞々しい手に僅かに頬を擦りつけて引きはがす。温度がなくなった頬がすうっと冷えていった。
「そういえば、どうしてもう一度戻ってきたんだ? 忘れ物?」
「……木崎の様子が気になったから、大丈夫かと思って」
「心配してくれたのか。おかげで助かった」
「……あいつ、どうなるんだ?」
「……そうだなあ……」
翠は答えを持っていなかった。予想はついていたが口にはしない。それはきっと、狩野が知れば怒るからだ。
唐突にノックの音が響き、翠は反射的に手を引いた。狩野は逆らわずに手をどける。
「出先なのか、校長先生に連絡がつかないんです。副校長先生だけだと決められないので、現状はどうすることもできません」
眼鏡をかけた四十がらみの事務員は、二人を保健室から追いやった。確かに治療が終わったために用事はないのだ。
「近いうちに連絡しますのでその通りにしてください。それなりの処分は覚悟しておいてくださいね」
「はい」
彼は目を細めて翠の首筋を見やった。スーツの白と対照的な黒の戒めに視線が向けられた意味をわからないほど鈍くはない。
帰宅を許され、狩野は昇降口へ、翠は職員玄関へ。それぞれ帰路につく。
鳴りやんでいた風が木の葉を散らした。駅までの道を一人歩きながら、マフラーを首まで引き上げる。
無駄なことだとわかっていたが、狩野に包まれていた左手をポケットに押し込んだ。冷えていくのが嫌だったのだ。
いつの間にか日がすっかり落ちて、空は藍色に近づいていた。雲が多く月が隠れていてその姿が見られない。
翠は空を見上げながら歩きだした。
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