狼の獣性

筺 柚人

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 約二か月ぶりに呼び出された校長室は相変わらずどこかごてごてしていた。艶がでるほど磨かれた棚や一人で運ぶには重そうな観葉植物、部屋の割には大きな空気清浄機や、やけに装飾が凝った動物の置物等たくさんのものが置かれている。

 重たそうなデスクを挟み、狩野はやたらと背もたれの大きい椅子に座った校長と向かい合っていた。

 朝一番の呼び出しなので未だ荷物を持ったままだ。たいして中身もないので重くはないが、そこらへんに放り出すわけにもいかず、指定鞄の紐を肩に抱えなおす。

「木崎先生は全治三週間だそうです。かろうじて骨折はしていなかったものの、顔だけでなく体にも沢山の怪我があったとのことで、しばらく入院することになりました」

 手元の診断書らしき書類を見ながら、校長は言った。

 狩野は三週間で済んだのかという感想で、それ以上のコメントはない。それよりも未遂とはいえ強姦の加害者である木崎への処分の如何が気になっていて、今日顔を出したのは呼び出しをすっぽかして翠に迷惑をかけないためと、その処分を確認するためだった。

「やっと成績が良くなって更生したかと思えば、もう暴力行為ですか」

 挑発めいた言葉にも特に表情を変えない。狩野にとってはそれがどうでもいいことだからだ。

「処分は?」

 それにのらない狩野に校長はむっとしたようだが、すぐに表情を切り替える。

「君は一週間の謹慎です。さすがに二回目の謹慎ということで、ご実家からの寄付がなければとっくに退学にしているところでしたよ」

「教師の処分は」

「今回は学内のことなので顧問をやめさせること、それに減俸処分をすることにしました」

 それが軽いのか重いのかもわからないが、木崎が部から去るのなら、翠の気持ちは楽になるだろう。

 部活で会うからその時に少し話せたらいいと考えていると、

「全く困ったものですね、榛名先生は。また問題を起こして」

「……先生は被害者でしょう?」

「とんでもない! 木崎先生もお可哀想に。そもそも君も、何より榛名先生も、己の罪を認めないのはどうかと思いますよ」

 どこかかみ合わない会話に狩野は校長を睨みつける。これでは翠が加害者で、木崎が被害者のようだ。

 狩野の視線を受けた校長は雪の中にいる兎のように身を震わせる。もう十二月になるというのに、スラックスのポケットから真っ白いハンカチを持ち出して額に押し当てた。

「オメガの性フェロモンでアルファを誘惑するなど前代未聞です。彼のような教師をこの学校に招き入れるなど、前任の校長はあまりにも考えなしでしたな」

 その言葉に絶句した。被害者と加害者が見事に逆転している。

「君も君ですよ、どうせ榛名先生にそそのかされたのでしょうが、木崎先生を脅して金をせびるつもりだったとか? 次はありませんから心しておくように」

 鼻息荒く翠を糾弾する校長は、自分が間違っているとは欠片も思っていないのだろう。これでは二か月前と同じだ。否、今回は庇えないぶんさらに悪い。

「それは木崎先生から聞いた話ですか?」

「もちろんです! 榛名先生は自分が襲われたと主張して責任逃れをするおつもりのようでしたが、そうはいきません! 守衛まで巻き込んで話を大事にしようとしても私には通じません」

「……」

 怒りのあまり出そうになる手を無理やり押しとどめる。

 このまま、この分からずやのハゲを昏倒させたらどれだけ気分がいいだろう? 翠の負った恐怖もわかるかもしれない――握った拳に食い込んだ爪が、狩野の努力を物語っていた。

 今ここで自分がまた暴力を振るえば、校長の中では教唆役らしい翠に迷惑がかかるだろう。そして、自分も退学になりかねない。

 学校なんていつやめてもいいと思っていたが、それは少し前までのことだ。この時ばかりは金を積んでくれた親に僅かだが感謝した。

 だが、狩野はそれ以上に木崎に対する怒りでいっぱいで、目の前の校長へのそれも吹き飛ぶようだった。

「……木崎先生はどちらの病院に?」

「謝罪ですか? 早速心を入れ替える気なのですねえ。ですがそれは知らせないようにというのが被害者である木崎先生の希望なのですよ」

 校長は随分とおめでたい頭をしているようだ。狩野は内心を隠して、にっこりと笑って見せる。怒りでも人は笑えるのだと、彼はそれを初めて知った。

「教えていただけますか? どうしても伝えたいことがありまして」

「ですが……」

「お願いします、校長先生」

 目に力を籠め、緩く微笑んでみせる。ダメ押しで首を傾げてみると、校長は首まで赤く染めてメモを用意しはじめた。

 アルファ、ベータ、オメガは各々の性特有のフェロモンを持っている。生まれつきその所有量が多い一定数のアルファは、ある程度そのフェロモンを調節して、軽い魅了のようなものを扱えるのだ。同じアルファに使うには所有量の差がないと意味が無いが、そこらのベータであればこれで押し切れる。

 以前木崎が紅白戦の審判をごまかそうとした際に使ったのもこれだ。木崎程度のフェロモンであれば、狩野はものともしないので、あの時も惑わされなかった。

 親を見ているようで大嫌いなこの力だが、今使わなくては翠の不名誉は晴らされないままだ。自分の感情よりも優先したい人間がいるならば、狩野は迷わなかった。

 赤ら顔の校長が差し出してきたメモを受け取り、早々に部屋を出ていく。

 授業が始めるチャイムを無視して、そのまま昇降口で靴を履き替える。

「おい、帰るのか?」

 咎めてきた他の学年の三十歳くらいの体育教師が、グラウンドを横切る狩野の前に立ちはだかった。この学校にいる教師の顔はだいたい覚えている。彼はベータだ。

 背後に控える生徒のジャージのカラーを見るに三年生のようだ。人数を見たところアルファクラスではない。

「用事があるんです」

「さぼりか? お前、一年の狩野だろう。教師の間で有名だぞ」

「急いでるんで」

 先ほどと同じように笑ってみせれば、彼は顔を赤くして口ごもった。追いかけてくることはないと判断して、狩野は早足で校門までの道を進む。

 守衛が門のところで目を光らせていたが、狩野が病院への地図を持っているのを見るとすぐに通してくれた。事情を理解しているのだろう。先日も、彼は事務員とは異なって翠への差別意識はなかったと記憶している。

 家とは逆方向にある駅に向かい、電車に乗る。急行で十分ほど行き、その後バスに乗れば病院につくようだ。

 めったに乗らないバスに揺られながら、渡されたメモを見返す。病院への行き方と部屋番号、万が一に備えた押印付の校長の一筆が添えられていた。

 病院についたのはあと数分で十時になろうかという頃だった。看護師に校長のサインを見せて許可をもらい、ネームプレートに木崎典明と書かれた扉にたどり着く。

 白というよりもクリーム色の内壁が目に優しい院内は、明るく清潔感があった。木崎はどうやら個室らしい。親か本人がかはわからないが、ある程度自由にできる金を持っているということだろう。

 あえてノックはせず、横開きの戸を開けた。

 室内は、最奥に木崎が半身を横たえるベッドが鎮座し、ベッドの足のほうにはサイドボードとテレビがあり、ベッドヘッドには花瓶やランプが置かれ、入ってすぐに簡単な流しがあるという設えだ。

 花瓶にはいったい誰の趣味なのか、黄色や赤の薔薇とカスミソウが生けられている。木崎の雰囲気に合っているとはいえず、どこかそこだけが部屋の中で浮いていた。

 意外なことに、中には木崎の他にもう一人男がいた。

 髪色は明るいがきちんと着こなされたスーツは濃灰色で、そのバランスに目が引かれる。ここからは後ろ姿しかわからないが、それなりの金と努力で作られただろう、完璧に整った肢体だ。

 入院着に覆われていない手足の一部に包帯を巻いた木崎が、狩野の姿を認めると目を見開く。そして傍らの男と威の顔を交互に見た。

 スーツの男はぴんと尖った革靴の先を優雅に回し体を反転させると、狩野に向かって微笑んだ。

「――国木芳だ。顔を見るのは一月ぶりだけれど、君と直接話すのは初めてだね」

 吐息が多分に含まれた声は甘く、色香が溢れている。どことなく不機嫌になりながら、狩野は足を踏み出した。

 木崎の見舞いとして来たのではないだろう。彼の顔を見て察した。

「狩野威だ。父が世話になっている」

「こちらこそ、いつもご贔屓にしてくれてありがとう。ところで、木崎先生と大事な話をしているところだったんだ」

「土曜日の話だろう?」

「そう。君も関わりがあるそうだね。よければ聞いていくといい」

 微笑を絶やさない姿は菩薩を思わせるが、そんなわけはない。やり手の彼の噂はあまり家のことに詳しくない狩野ですら知っていた。一筋縄ではいかぬ男だ。

 更に、唐突に訪れた狩野に驚きもしないのだ。手のひらの上で転がされているような気持ちの悪さを覚えるのも無理はない。

 狩野は注意深く男を観察した。翠のためにこの場にいるのだろうが、相手のことをろくに知らないので手段がわからない。

 状況の理解が先かと、狩野は鞄を体の横に置いた。テレビの横の壁に背を付けて聞く姿勢をとる。

「……さて。それでは先生、確認のためにもう一度、土曜日にあったことを頭から説明してもらえますか?」

 促された男の視線が情けなく揺らいだところから、どうやら緊張しているらしい。ベッドヘッドに置かれた名刺を見る限り、肩書に戦いたのだろう。木崎らしくない、情けない態度のように思えたが、狩野は考えをそれで終わらせた。

「……部活が終わったあと、その日の活動でのちょっとしたトラブルについて話すために、榛名先生と二人になりました。私と彼の試合の審判が一致しなかったというささいな話だったのですが、その最中、急に榛名先生が服を脱いで私を誘惑してきました」

「それで?」

「……」

「榛名先生が誘惑している最中に狩野君がやってきて、榛名先生と結託して金をせびろうとしたが、それに従わなかったあなたは暴力を振るわれた。先ほどのお話を繰り返すとこのような内容だったと記憶していますが」

 木崎はそれに否定も肯定もせず、腹にたごまったシーツを凝視している。おそらく狩野がいる前で話をでっち上げる度胸はないのだろう。彼はどうやらそれをわかっているようだ。

 あの日起きたことを正確に把握しているのは、当事者である翠と狩野、そして事後処理にあたった守衛と事務員だ。しかし事務員はオメガを嫌っていたようなので、おそらく役に立たない。

 そうすると、彼の状況把握に一役かったのは守衛だろう。

 狩野はその時、一つの可能性に気づいた。国木の会社は人材派遣会社だ。もしかして守衛は元から彼の息がかかっていたのではないだろうか。

「先生、私の発言に何か間違いがありましたか?」

「……ありません。それで以上です」

「そうですか――それでは狩野君、君からも、土曜日のことを説明してくれるかい?」

 頷きを一つ返し、木崎を見据えながら言葉を紡ぐ。翠から聞いた情報を混ぜたので、おそらく彼が知っている内容に色を付けることになっただろう。

「榛名先生の手首は縛られていたんだね?」

「そうだ。今ならまだ畳に擦った傷も残っているはずだ」

 言いながら、狩野の脳裏には保健室での涙が浮かんでいた。濡れた感触を思い出すと痛ましさにぞっとする。

 ふと顔を上げた木崎だったが、狩野と目が合うと表情が引きつった。それから、無意識なのか包帯が巻かれた箇所を摩る。

 その行動にじわじわとこみ上げる怒りをなんとか抑えながら、彼の進行に耳を傾けた。

「木崎先生は、今の狩野君の話についてどう思われますか?」

「国木さんは私の言葉を信じないんですか!?」

「それは質問の答えにはなっていませんね」

「……お、俺は……」

 ふいに男が首をひねって狩野に視線を投げた。癖の強い髪が微かな音を立てて肩に落ちる。

「君はここに来てどうするつもりだったの? 説得? 暴力による服従? どうやって翠の不当な処罰をやめさせるつもりだったのかな」

「……先生と付き合ってるのか?」

「彼は俺の大事な人だよ。君もそうなんじゃないの?」

 狩野がはぐらかしたように、彼もまた正確な回答をしなかった。彫刻のような笑顔を浮かべてそれ以上触れさせない。

 それを理解すると、狩野は今までの翠の反応や発言を浚い出し、恋人というよりも体の関係ではないかと予測した。

 油断なく身構えていると、長い足で短い時間で距離を埋めた男が狩野に向かって何かを放り投げる。

 受け取らない選択もあったが、あえてのってみる。弧を描いたものは果たして、白い包み紙だった。

「あげる。気に入ったから、色んな人に勧めてるんだ」

 それはチョコレートの飴だった。狩野の筆箱の中に眠るものと同じパッケージだ。

 それから彼は木崎に向き直り、「そろそろ茶番はやめようか」と歌うように言った。

「君が翠を陥れようとしたことは知っているよ。正当な証拠を出せと言われたら出す準備もある。分からず屋の校長を丸め込もうとしても無駄だ、彼はもういないからね。それでも、翠に罪をかぶせるかい?」

「校長が、いない?」

「つい三十分前に辞めさせたんだ。次の校長は俺が直々に選んだ人間なのでね、前任の不始末による不正も許さないだろう」

 木崎の目が限界まで見開かれ、体がぶるぶると震え出した。

 対する男の瞳は柔らかく細められ、声音も相まってまるで舞台俳優のようだった。

遠回しにお前の居場所はもはやないと告げていた。加えて、私立高校とはいえ一つの学校の任命権すら持っているのだと示したのだ。

 驚きに塗りたくられた木崎を放り、彼は会釈した。部屋を出るつもりらしい。去り際に狩野に向かって僅かにフェロモンの威圧をしてみせる。

「翠を気にしてくれてありがとう。君がいたから未遂で済んだよ」

「……どうせ見張らせていたんだろ?」

「さあ、どうかな」

 はぐらかす口調は掴みどころがない。雲のような男だと思った。狩野は身に圧力を受けながらも動じない。これくらいならばどうということもないのだ。

 それに気づいたらしく、彼は「さすがだ」と下品にも口笛を吹いて見せた。

「狩野さんの息子なだけはある。でも、ふるまいはまだまだだね? 力の有効性を理解していないようだ。反抗している暇があるなら、だれかを守れるようになる為にきちんとパイプは持っておいた方がいい」

 寄り添うだけなら誰にでもできるけれど、守ることは選ばれた者にしかできない。

 彼はそう言葉を残すと部屋を出ていく。

 フェロモンにあてられたらしい木崎はベッドの隅でしきりに頭を振っていた。幻覚に困る人さながらの怯え方で、高位のアルファの力を思い知る。

 暫く待ってから、狩野も病室を出た。木崎とはもう会うこともないだろう。

 握った手の平の中で飴がかさかさと音を立てた。それを放り出したい気持ちをこらえ、先ほどの言葉を反芻する。

「……反抗している暇だって? わかったような口きくんじゃねえよ」











 顧問業の停止と二か月の減俸、それが自分に与えられた処分だったはずだ。それなのに。

「不当な処分、お辛かったでしょう。加害者はもう退職したので何もできませんが、これからは気兼ねなく業務をこなしてくださいね」

 新しい校長はふっさりとした口ひげを備えたアルファだった。白いものが混じったひげのせいで年が上に見えるが、まだ五十を過ぎてすぐらしい。貫禄のためにわざともじゃつかせているのだと笑った彼は、裏表がないようで見ていて気持ちが良い。

 茶色をベースとした白のピンストライプのスーツにボルドーのネクタイという渋さで初出勤を飾った校長は、一通りの挨拶や引継ぎのあと、空きコマだった翠を校長室に呼び出した。

 赤い絨毯は取り払われ、今は毛足の短いシンプルなグレーのそれに変わっている。他にも調度品のいくつかが変わって、色の明るい小物が増えていた。部屋の主が変われば場所もこんなに違うのかと驚かされた。

「そう言っていただけるとありがたく思います。今までは……その、少し大変でしたから」

「お察しします。そのような対応も含めて前任の方はあまりお上手ではなかったようですねえ。残された書類に目を通しましたが、その出来も……まあねえ」

 あまり愚痴をこぼすのもどうかと思ったのだろう、校長は言葉を濁すことにしたようだ。親指と人差し指でつまむようにひげに触りながら、明るい笑顔を浮かべた。

「教師間の風通しもよくしていかないとなりませんね。やることがたくさんありそうです。お手伝いいただけますかな、榛名先生?」

「……はい、もちろんです」

 今まで差別されていた側の翠を動かすことで教師を変えていくつもりなのだろう。ねぎらいもそうだが、このために呼び出されたのだとそのしっかりとした目を見て思った。彼の前職は知らないが、目力から溢れるエネルギーのようなものを感じて圧倒される。百戦錬磨という言葉が自然と浮かんだ。

「まず、榛名先生から見た教師の実状をお聞かせ願いたいのですが」

 校長が名簿を取り出した。翠はわかっている限りの評価を伝えながら、ふと思う。

 こんなにも翠の意見を取り立てていいのだろうか。ある程度校長自身で選別するのだろうが、オメガが持つ偏った意見になる可能性もある。

 話が一区切りしたタイミングでそれを尋ねれば、校長はさも愉快そうに笑った。

「とある方から榛名先生のお噂は聞いていますのでね。真面目さに関しては信用して良いと」

「とある方、とはどなたですか?」

「まあまあ、聞かぬが花という言葉もありますよ」

「言わぬが花、ではなくてですか?」

 その突っ込みに校長は「さすがですなあ」と、あくまでも茶化すつもりのようだ。であれば仕方無い、翠は問い詰めたい気持ちをぐっと飲み込む。

 換気のために一時的に開けているのだろう、窓から冷たい風が入り込んできた。そのひんやりとした感触に、もう治りかけた手首の傷が痛む気がする。

 木崎が真実を明るみにして職を辞したことで、翠の不当な処分は撤回され、狩野の処分も叙情酌量の余地ありとされた。さらに、翠は副顧問から顧問への昇格も言い渡されたのだ。

 しばらくは所謂木崎派を始めとした混乱があることが予想されるので微妙に胃の辺りが痛むが、ニュートラルな部活作りができると思うと心は軽い。

 ただ、今回のトラブルのせいで三日ほど部活が休みになった。部に迷惑をかけたことには変わりないので、次回はまず謝ることから始めなくてはならないだろう。

 アルファの顧問という存在は自分が思っていたよりも強く翠に影響を与えていたようだった。部が落ち着くまでは特例として副顧問なしで部を回すようにと校長に言われているので、部の責任は自分にかかる。だが、それでも煩わしさよりも楽しさが上回るとは想像していなかった。今後は部員たちの意思を知るためにも卑屈さや遠慮を捨てて介入していきたいと考えている。

 きちんとこなさなくては、と翠は気合いを入れ直した。また、これを乗り越えなくてはとも。

 あまりにも劇的な環境の変化にまだ慣れないが、それでも、あの時感じた恐怖がもう遥か遠い場所にあると分かれば随分と気が楽だった。

 与えられた傷も治りつつある。あの暴力よりも、その後の狩野とのやりとりが心を癒し、記憶は彼方になっていた。

 今の翠の気持ちは、これからに向いている。

 手始めに部長と副部長と面談をしたい。更に、狩野には個人的に礼も告げなくては――。

 土曜日からはや四日、あれ以来狩野の姿を見ていなかった。部活もなく、担当学年も違うのだから当たり前と言えばそうなのだが、なんとなく物足りなさを覚えてしまう。今日再開する部活で会えるだろうが、さすがに個人的な会話をする時間まではとれないかもしれない。

 最後に会った時は、そう、確か――。

「榛名先生?」

 翠は無意識に瞼に手をやっていたようだ。校長の声に慌てて我に返った。

「すみません、もう一度お願いします!」

「お話は終わりましたよ。授業の準備に戻ってけっこうですとお伝えしたんです」

「ああ、そうでしたか。少しぼんやりしてしまいました」

「疲れやストレス等たまっているとは思いますが、今が最初の踏ん張りどころですからね。お互い頑張りましょう」

 校長の優しさに心から感謝する。翠は深々と礼をして部屋を出た。









 その後、二コマほど授業をこなした後の昼休み。

 職員室がざわついた。翠はその異様な雰囲気を察して、母手作りの卵焼きの欠片をごくりと飲み込んでしまった。運良く器官には入らなかったものの食道に感じる違和感にけほけほと咳き込んでいると、背中に手が当てられる。職員室でここまで自分に気安い教師はいない。一体誰かと涙目で体を捻れば、そこにいたのは狩野だった。

 更に驚いてむせた震えた背にぬくもりが行き来する。体温が高いのだろう、セーター越しでも熱がわかった。

「……驚きすぎ」

 やっと落ち着いたころには、職員室の空気は元通りになっていた。おそらくざわめきの原因である狩野の行き先が翠のもとだったからだろう。教師達は先日の出来事の内容を知っている。そして、問題児であるとされていた狩野の更正に一役買ったのは翠だということも理解していた。

 少なくとも、この訪問が殴り込みではないとわかったはずだ。

「ごめん、ありがとう」

「食べ終わった頃にまた来たほうがいいですか?」

「……先日の話だったら場所を移したほうが良いかもしれないな」

「いえ、その話はもう終わったんで」

 狩野の声はやけにきっぱりとしていた。それに違和感をおぼえながらも、では何の用事なのかという疑問がわき起こってくる。傾いた弁当箱の蓋に箸を置いてから狩野を見上げた。

 すると目線で察したのか、彼は「怪我」とたった二文字を口にする。

「手首の。もう良いんですか」

「大丈夫だ、ほとんど痛くないから。あと数日もすれば元通りになると思う」

「良かった」

 良いながら、彼はごく僅かだが頬を緩めた。笑顔とも呼べない表情だが、翠の心臓が大きく音を立てる。そんな自分に気付いて驚愕した。このままではいけない――なぜかそんな予感めいたものがして、背筋が震える。

「……用事はそれだけか? 今日の部活で言ってくれればよかったのに」

「ここ数日、家の用事で休んでたんです。今日も部活は出られないので、それを伝えに」

「家の? お父さん、いいのか?」

 翠の声は無意識で低くなった。つい彼に怪我がないか探してしまう。しかし、対する狩野はいつもと変わらない様子で頷いた。

「何かしたいことがあるなら割り切ることも必要だってわかったんで」

「そんな、大人みたいなこと言って」

「……みたい、ってことはまだ大人じゃないってことですよね?」

「そりゃ、高校生はまだ大人とは言えないだろう?」

 すると、狩野は皮肉げに肩を竦めた。その仕草に疲れが見えたが、覚悟を決めたような落ち着いた顔つきを見てしまうとそれ以上言うのは躊躇われる。

「とにかく、そういうわけなんで今週いっぱいは部活を休ませてください」

「家の用事なら構わない。大変なんだろうが、頑張れよ」

「……はい」

 職員室を出て行った背中を見送ってから箸を持ち直すと、デスクの上に置いていた携帯の通知ランプが点滅していた。確認すると芳からで、どうやら日本に戻ってきたようだ。メッセージはその報告と、向こうで買った土産があること、クリスマスの予定を問うていた。

 クリスマスは毎年なんだかんだ芳と過ごしている。今年もそのつもりでいたのだが、律儀に予定を気にしてくれたようだ。空いているとメッセージを送ると、程なくして返事が返ってきた。

『当日は夕方から予定が入ってるんだけど、その後は一緒に過ごせるから』

『無理して開けなくてもいいよ』

『俺が会いたいの』

 恋人に向けるような甘い台詞になんとなく居心地が悪くて、意味も無く椅子に座り直してしまう。

 暫くしてから、翠は了解という返事を送った。

ため息一つで切り替えて、ふりかけに色づけされた白米を崩しながら数分前の会話を反芻する。狩野の家の用事がどんなものか想像もつかないが、学校を休むほどと聞けば心配になってしまう。しかも、狩野はつい先日まで親に対して反発心を持っていたのだ。こんな短時間で瓦解したのか、それとも何か理由があって反発心を抑えているのだろうか。

 会話が足りないと心から感じる。ぼんやりとメッセージ受信を告げるランプを見て、翠はゆっくりと瞬きをした。
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