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芳からきた年明けの連絡には適当に考えて返したが、会おうという誘いには乗れなかった。会ってしまったら流されて寝ることがわかりきっていたので、会えないと思ったのだ。
あれから、狩野が言った言葉の意味を、翠はずっと考えていた。
オメガであることが翠を縛っている。オメガであることの価値を歪められている。わかるような、わからないような、掴みどころのない言葉だった。
いったい狩野には何が見えているのだろう。彼をもう少し知ったらその思考のプロセスもわかるだろうかと、翠は自分で考えることを諦めた。
昼食前にと携帯を確認すると、芳から連絡が入っていた。忙しい時間の合間を縫って、五日に一度は連絡が来る。食事の誘いだったが、気が乗らないと断った。
このまま断り続けるままでいいのか、それとも話し合ったほうがいいのか。芳の名前を携帯で見かけるとその疑問が浮かんだ。けれど、会えばきっと流されてなあなあになって、今まで通りの日常になってしまうことだけは確かだった。翠は彼を拒めないのだ。……オメガだから。
携帯を鍵付きのキャビネットにしまい、翠は弁当を持って職員室を出た。
視聴覚室は防音で、暗幕もあるため、教室内の様子は見られないようになっている。また、資料室等が多い校舎の一番端にあり、人が来にくい位置にあった。
借りた鍵で教室のドアを開く。一番前の席に座って弁当を広げると、軽いノックの音がして狩野が入ってきた。
内鍵をかける姿を視界に入れながら、一つ離れた席を叩く。木製の固定椅子は座りにくく、長時間座りにくいんじゃないかと毎日思っているが、翠にはどうすることもできない。
頷いて傍らに座った狩野の昼食は今日もチョコ尽くしだった。アップルパイならぬチョコレートパイに、チョコレートコーティングがされた蒸しパン。
最近は翠が「もっと野菜をとるように」と言ったからか飲み物は野菜ジュースに変わったが、味も見た目の食べ合わせも悪いと心底思う。あまり口うるさいのもどうかと思って言わないが、こんなに炭水化物ばかりで栄養が偏っていそうなのによくも太らないものだ。若さのなせる業か、と遠い目になった。
「はい。体にいいから卵焼き食べなさい。卵にはタンパク質が入ってるから」
「……ん」
母手製の弁当のふたに卵焼きを置いて狩野にすすめてみると、彼は素直に頷く。
指先でひょいと摘まんで、だしの味がするそれを食む様子には可愛げがあった。次いで舌で唇を拭う仕草に色気を覚えたが、錯覚だと翠はやはり遠い目で誤魔化す。
もう一度どうこうなるつもりはないが、狩野に抱かれたことがあると考えてしまうと途端に落ち着かない気持ちになった。雨漏りのように予想外に、その考えは不意に現れる。
そのたびに、翠は芳に八つ当たりしたくなる。彼にとっては気まぐれや意味のない行為だったとしても、翠にとっては大きな意味を持つということ。
名前をつけなければそれ以上心で幅を利かせることはないだろうと決めつけて、翠は狩野を見るたびそわそわする自分を見ないふりでやり過ごしている。
しかし、そう思っているはずなのに、自分から誘って共に昼飯をとったりしてしまうのだ。考えなければ、見なければなくなる思いかもしれないのに、そうしたくない矛盾がある。
人目を忍んでいる時点で、これは教師としてはあまりよろしくない行為だ。だが、昼食内容の改善という理由にもならない理由で狩野を呼びつけて、こうして共に食事をしている。
当の狩野はそれを拒まず、むしろ心なしかうれしそうに見えて、翠はよけい落ち着かなくなってしまう。彼が翠嫌っていないことだけはわかった。否、むしろ――。
「……何?」
「いや。なんでもない」
狩野は怪訝そうに急に頭を振った翠を見たが、答えないとわかるとまた咀嚼を始めた。
チョコパイを食べ終わり、蒸しパンに入ったようだ。野菜ジュースとチョコレート。口の中がどうなっているのか非常に気になった。
「今日は部活は?」
切り替えるように話を振った。狩野はちらりと翠を見て、
「出る。明日は家の手伝いがある」
「大変そうだな。普段は何をしてるんだ?」
「今は宿泊客からの要望の電話をまた聞きしてる。先輩スタッフが電話の対応をして、新人が客室にものを届けるのが仕事だな。今後、実際に電話対応ができるように、電話の内容を聞かせてもらう」
「へえ! そういう業務もあるのか。大きいホテルだもんな。他には何かやった?」
「大きいパーティーがあったときに新人ドアマンの補佐をやった。人を覚えてドアマンに言う。黒子役」
「ああいう仕事ってナンバーとか顔とか、名前や職業も覚えるんだっけ。何人くらい来た?」
「確か百人とかそこらじゃないか」
「……覚えたのか?」
狩野は顎を下げるようにして頷いた。やはり彼は記憶力がとびぬけているようだ。翠は舌を巻いた。
「頑張ってるんだな。うまくいってるみたいに聞こえるよ」
「いや。ベルボーイの仕事はすぐ降ろされた」
「何で? 英語は問題ないだろ?」
「違う。俺は愛想笑いができねえから」
淡々とした台詞に、翠は吹き出した。途端にジト目を向けられたが、手刀で謝りつつも笑ってしまう。
「はは、そっか、狩野は笑顔が苦手だよな。俺でもあんまり見たことない。ちーにしてるみたいにしたらどうだ?」
「客はちーじゃねえだろ」
「みたいにって話だよ」
若干狩野の声音がふてくされた。翠は気合で笑いを堪えて、狩野の肩をぽんと叩く。
「笑顔の練習してみなよ。そのほうができることも増えると思う」
「……どうやんの?」
「まず表情筋を柔らかくするところからじゃないか? マッサージするとか」
「どこを揉むんだよ」
「うーん、頬とかこめかみじゃないか? あと、割り箸を咥えるといいって聞いたことがあるな」
狩野は「ふうん」とあまり興味がないようだった。面倒そうとも言える。
「面白くもないのにどう笑うのかがわからねえ」
「言うと思った。いいんだよ、笑ってれば楽しいとか面白いって思うもんなんだから。ほら、笑ってみ」
「……」
「笑えてないから。目が怖いよ」
笑顔というよりも口を笑みの形に開いた、という感じだ。こんなに笑っていない笑顔があるのかと、翠はいっそ愉快な気分になってしまった。
「先生が笑ってどうするんだよ」
そうつっこまれるのも当然だ。翠は食べ終わった弁当箱を元通りにしながら肩を引くつかせた。
「狩野が笑わせてるんだろ。……わかった、じゃあ話す相手の後ろにちーを思い浮かべてみるのは?」
「……なんとなく楽しくなってきた」
「じゃあそれでいこう。狩野、俺に笑ってみて」
そう請うて、体を傾けて狩野と向かい合った。狩野の視線がちーを思い浮かべるように翠の頭の上で僅かに止まったかと思うと、次いで輝くような笑みが彼を彩った。つい数瞬前の笑わない顔が嘘みたいだ。
可愛くてたまらないと言いたげに細められた薄い色味の目が輝いて、年相応な顔がのぞく。翠の胸は現金にも鼓動を早くしたが、狩野は「これは駄目だ」とすぐに普段通りの真顔に戻ってしまった。
「撫でてるちーを想像したから手が動く。こんな不審者みたいな手つきでベルボーイはできねえ」
言われてみれば、狩野の手はちーの大きな体をかき混ぜるような動きをしていた。壊れたロボットのような動作とも言える。
「ははは! 確かに、預かった荷物を落としそうだな!」
言いながら狩野はわざとだろう、手をさらにわしゃわしゃと動かした。たいして表情を動かさないのにとぼけてくるからたまらず、翠は頬を緩ませる。
「俺じゃなくて先生のほうが笑ってるな」
息を吐き出すように、狩野は口元を解いた。翠からすれば、それが日常での狩野の心からの笑みだと感じたが、指摘はしなかった。ひとり占めしたいような、おかしな独占欲があったのだ。
他愛のない会話をしながら、昼休みは更けていった。
「榛名先生、今お時間よろしいですか?」
肩を軽く叩かれて振り向くと、害のない微笑みを称えた校長がいた。今日も初めて出勤した時と同じスーツだ。これ以外見たことがないので、それこそ制服のようなものなのだろう。
「榛名先生にお客様ですよ」
「僕にですか?」
校長は狩野に見習わせたくなる完璧な笑顔で首を縦に振った。翠の思考は狩野が何をしたらこの境地に行けるだろうかと明後日の方向に向きかける。
瞬きでそれを追い出して、「伺います」と立ち上がった。
促されたのは校長室だった。自分のテリトリーだろうに、校長はノックで入室する。
「失礼します」
「どうぞ」
迎えた声に聞き覚えがあり、翠は思わず立ち竦む。
「榛名先生、さあ」
だが、翠の気まずそうな様子に気づかないのか、校長は翠を部屋に押し込むと会釈して部屋を辞した。そうして、翠はいつか見たことのある細身のスーツを身に着けた芳と、部屋に二人きりになってしまった。
翠を立って待っていたらしい芳は、ソファーを示して自身も腰かけた。優雅に足を組んで、ドアの位置から動かない翠に首を傾げる。
「どうしたの。座らないの?」
「……何で芳が?」
「校長の視察だよ。うちの会社から派遣したからね、少し様子を見てみたいと思って。この学校で知っている教員は君だけだったから、君を呼んだというわけ」
「……」
「これは仕事の話だから、早く座りなさい。次の予定もあるからあんまり時間がないんだよ」
そう言った芳は翠が知っている雰囲気ではなく、どこか淡々としている。駄々をこねる子どもを宥めるような言い方をされた翠は恥じ入った。警戒心が過ぎるのかもしれない。これでは芳もやりにくいだろう。
「……失礼します」
「うん。それじゃあ簡単な質問をさせてほしいんだが、いいかな。録音しても良い?」
「はい、どうぞ」
尋ねられるまま、翠は質問に答えていった。芳はスイッチを入れたレコーダーをテーブルに置き、手元のファイルに文字を書きつけている。
週に一度は会っていたことを思うと、芳を見るのは久しぶりと言えた。喧嘩して以来ということになる。もう一か月近い時が経っていると気づくと驚きだった。
見ないうちに髪が伸びたようで、前髪を横に流すようにセットしている。企業の社長というよりは芸能人のような、こなれた髪型だ。美意識が高い彼のことだから苦も無く整えているのだろう。爪の先まで磨いた姿を、翠は俯瞰で見ている気になる。
二人きりの時は悪戯っぽくどこか甘えた口調が多い話しぶりだが、今は明瞭だ。知らなければ教師に生徒を襲わせるような人間には見えない。否、襲わせたという言い方は正しくない。きっかけは彼でも、実際にことに及んでしまったのは自分だった。
本能に抗えない。芳といると、特に。
「……以上だね。協力ありがとう、よくわかったよ」
思考とは別に、翠は求められる答えを返していた。ペンのキャップをきっちりと被せ、芳は立ち上がる。
「まだ人を呼んでいるんだ。今回はこれで終わり」
エスコートするように芳の手が翠の背中を支える。そのままドアまで向かったが、スーツの袖がくいと引かれた。つられて顔を上げると、思いの他近くに芳の顔がある。
「翠」
――あ。キスされる。
目が合った瞬間、金縛りにかかったように動けなくなった。
傾けた芳の口が翠の唇を吸う。ちゅ、とリップ音を立てて一度離れていったが、すぐに戻ってきた。
驚きで開いた口に舌が滑り込む。よく知った感触。弱いところを掠めて、翠をあっという間に溺れさせる。
どちらのものともつかない唾液が翠の顎を伝って滑っていく。首輪のせいで感触は途中までしかなかったが、口づけをやめた芳が浮かんだそのラインを舐めとった。
「……やっぱり可愛いなあ」
芳はうっとりと目を細め、翠に何度もキスを落とす。腰を支えられなければしゃがみ込んでしまいそうだ。
その時、ドアの向こうから軽いノックの音がした。
芳は「少し待って」と言葉を投げ、翠の服の乱れを確認すると「よし」と頭を撫でた。
「一人でも立てる?」
「……なんとか」
「うん。じゃあまた。連絡する」
喧嘩のことを気にしていないのか、翠がおかしいのかと思うくらいに芳はいつも通りだ。熱の溜まった息を吐き出して、ドアに手をかける。今度は遮られることなく部屋を出ることができた。
ドア前にいる誰かにキスしたての顔が見られるのが嫌で、咳をする素振りでやりすごそうとしたが、自身の名を呼ぶ声が知り合いの者で、無意識に顔が上向く。
「……大丈夫か?」
「何でもない。……何でもないから、ごめん。もう行く」
狩野の不安そうな顔を見ていられない。またもや芳に翻弄されたことを知られたくなかったが、通せんぼうするわけにもいかないので、翠はこの場から立ち去ることを選んだ。
困惑したように呼び止める声も耳に入れず、挨拶もそこそこに彼の横をすり抜けた。
拒めない。抗えない。芳の眼差しが怖い。
逃げたのは狩野からか、それとも――。
二度目のノックをせずに校長室の扉を開く。ソファーに座って足を交差した姿を認めた狩野は、自分の予感が的中したことを知った。
「やあ」
無作法をとがめない朗らかとも言える優雅な仕草は、天地がひっくり返っても真似できそうにない。とはいえ、印象としては胡散臭く、狩野は目を細めた。
先ほどまで密室であった何かの名残を感じさせずに佇んでいるが、翠の反応を見てしまった狩野からすればくそくらえというところだ。
「ちょっとぶりだね。元気だった?」
「……あんたの顔を見て気分が悪くなった」
「君に嫌われるようなことはしていないはずだけど。目障りなアルファの首を飛ばして校長を新しい人材にしたし、クリスマスにはお楽しみもあげたよね。……良かっただろ? 俺が開いた翠の体は」
狩野は白くなるほど拳に力をこめる。その反応を見た芳は楽しそうに声を立て、足の左右を替えた。
「そんなに睨まないでよ。俺みたいに素直に楽しめばいいのに、どうして君も翠もあの時のことを嫌がるのかなあ」
「あんたのそれは素直じゃねえよ。性根が歪んでんだよ」
「……抱いちゃった人間が何を言ってもね」
呟くような言葉に、狩野は唇を噛んだ。痛いところを突く男だ。
半ば憎しみをこめた視線を送る。目の前の男が動じないことは痛いほどわかっていたが、そうせずにはいられなかった。
だが、狩野はクリスマスの日のこと全てを彼のせいにするつもりはなかった。究極的には耐えられなかった自身の責任だと考えているからだ。
本当に翠のことを思うならば、自分はあの時つっぱねるべきだったと後悔している。翠は抱かれることにもはや躊躇いも嫌気もないようだが、それが違うと知ってほしかった。そうじゃない。そんな行為は空しい。
狩野だって、あの日の艶めかしい姿を夢に見ることがある。朝起きて、反応している自身に絶望することもある。一度知ってしまったぬかるんだ器官を思い出して苦しむなんてしょっちゅうだ。
けれども、体だけなんかいらなかった。手に入らない心に苦しむほうがよっぽどつらい。それなら自分は――飢えたままでいい。
「もし同じ場面に出くわしても、二度とあんな真似はしねえ」
狩野は言葉をこの場にいない彼にも届けるつもりで、真っすぐ前を見て言った。
「据え膳を食わないのが美徳のつもり? 青いね。高校生らしい」
それは当然ながら失笑を買ったが、ありのままの気持ちを吐露する。
「俺の今の立場なんて時が経てば変わるだろ。でも性根までは変えるつもりはない。あんたは先生の心が手に入らないことを認めずに、体だけ抱いて誤魔化してるだけだ。そんな奴の言葉なんか聞かねえ」
「……体で誤魔化してるって? 知った口を聞くじゃないか」
表情こそ変わらなかったが、芳の指先がせわしなく腿の上で打ち付けられた。狩野はこれこそが彼の“痛いところ”だと悟る。
「事実だろ。あんたらはお互いしか知らないみたいに振舞うくせに、中身はお粗末そのものだ。そんな関係になんの意味がある?」
「関係に意味を求めるなんてナンセンスだな。彼の寂しさを埋められるだけでも、俺は満足しているんだけど」
「先生を寂しくさせたのはあんた。本当ならまっとうな恋愛だってできたはずなのに、あんたが体を奪ったせいで、心が置いてきぼりだ。だから先生は寂しい。教師として生きようと思っても、結局はオメガだからって閉じこもって、自分の権利を主張することもできないでいる。本当はそんな人じゃないはずだ」
そう断言すると、芳はものすごく変わった芸をした犬を褒めるように手を叩いた。完全に馬鹿にした仕草だったが、狩野は瞬きを繰り返してこみ上げる怒りを受け流す。
否、話しているうちに目前の人間には決して自分の考えが伝わらないと分かったから、怒りをやり過ごすのは苦ではなかった。ただ、彼からどう翠を守れるか、そればかりを考えている。
部屋から出てきた翠の素振りを見る限り、おそらくキスでもしたのだろう。パブロフの犬さながらで、翠にとっての芳は欲情のスイッチなのだ。そうさせたのは外ならぬ芳で、人の体を絡めとることが抜群にうまい。
むしろ、だからこそ、彼は心を手に入れるやり方を知らないのかもしれないと狩野は思った。実際は狩野だってろくにわかっていないが、芳のやることは間違っていると強く感じる。
「よくもそんなに語れたものだね。仮に翠にその側面があったとしても、君のそれはただの一つの見方だろ。正しいとは限らないんじゃないか?」
彼の口ぶりは冷静で、言い分は間違っていないが、何かが違うと狩野の直感が告げた。芳の行動には、はまらないジグソーパズルのピースを無理に押し込んだようないびつさがある。本当はその場所であっているのに、向きが違う。そんな、おしいいびつさ。
しかし、それを指摘しても変化があるようには見えなかった。狩野はただ、翠を想って言葉を返す。
「確かにそうかもしれないが……俺の考えが間違ってるとも限らない。それなら俺は自分が信じたい先生を信じる。あんたみたいに自分の欲求を押し付けて先生を苦しめたりしない」
芳が真顔になって口を閉ざした。笑顔という武装を解いた顔はこの上なく不気味で、冷徹な眼差しだ。それから彼は話すことにうんざりしたらしく、首を大きく左右に振る。
「考えが違いすぎる。てんで話にならないな」
「こっちの台詞だ」
狩野が返すなり、芳は立ち上がると校長室の扉を大きく開いた。
「話は以上だ。もう行っていい」
「……校長に呼ばれたって聞いてるけど」
「念のため彼の名前を使っただけで呼んだのは俺だよ。俺は今日、校長の視察って名目でここにいる。――それじゃあ狩野君。教員に関する貴重なご意見をどうもありがとう」
首が僅かに傾き、目が細くなり、芳の口が弧を描く。見慣れた仮面。
狩野は更なる言葉を重ねることなく従った。
帰り際、ごく小さな囁きが耳に残った。
「……そこまで言うなら君の鋼の意志を見せてもらおうか」
あれから、狩野が言った言葉の意味を、翠はずっと考えていた。
オメガであることが翠を縛っている。オメガであることの価値を歪められている。わかるような、わからないような、掴みどころのない言葉だった。
いったい狩野には何が見えているのだろう。彼をもう少し知ったらその思考のプロセスもわかるだろうかと、翠は自分で考えることを諦めた。
昼食前にと携帯を確認すると、芳から連絡が入っていた。忙しい時間の合間を縫って、五日に一度は連絡が来る。食事の誘いだったが、気が乗らないと断った。
このまま断り続けるままでいいのか、それとも話し合ったほうがいいのか。芳の名前を携帯で見かけるとその疑問が浮かんだ。けれど、会えばきっと流されてなあなあになって、今まで通りの日常になってしまうことだけは確かだった。翠は彼を拒めないのだ。……オメガだから。
携帯を鍵付きのキャビネットにしまい、翠は弁当を持って職員室を出た。
視聴覚室は防音で、暗幕もあるため、教室内の様子は見られないようになっている。また、資料室等が多い校舎の一番端にあり、人が来にくい位置にあった。
借りた鍵で教室のドアを開く。一番前の席に座って弁当を広げると、軽いノックの音がして狩野が入ってきた。
内鍵をかける姿を視界に入れながら、一つ離れた席を叩く。木製の固定椅子は座りにくく、長時間座りにくいんじゃないかと毎日思っているが、翠にはどうすることもできない。
頷いて傍らに座った狩野の昼食は今日もチョコ尽くしだった。アップルパイならぬチョコレートパイに、チョコレートコーティングがされた蒸しパン。
最近は翠が「もっと野菜をとるように」と言ったからか飲み物は野菜ジュースに変わったが、味も見た目の食べ合わせも悪いと心底思う。あまり口うるさいのもどうかと思って言わないが、こんなに炭水化物ばかりで栄養が偏っていそうなのによくも太らないものだ。若さのなせる業か、と遠い目になった。
「はい。体にいいから卵焼き食べなさい。卵にはタンパク質が入ってるから」
「……ん」
母手製の弁当のふたに卵焼きを置いて狩野にすすめてみると、彼は素直に頷く。
指先でひょいと摘まんで、だしの味がするそれを食む様子には可愛げがあった。次いで舌で唇を拭う仕草に色気を覚えたが、錯覚だと翠はやはり遠い目で誤魔化す。
もう一度どうこうなるつもりはないが、狩野に抱かれたことがあると考えてしまうと途端に落ち着かない気持ちになった。雨漏りのように予想外に、その考えは不意に現れる。
そのたびに、翠は芳に八つ当たりしたくなる。彼にとっては気まぐれや意味のない行為だったとしても、翠にとっては大きな意味を持つということ。
名前をつけなければそれ以上心で幅を利かせることはないだろうと決めつけて、翠は狩野を見るたびそわそわする自分を見ないふりでやり過ごしている。
しかし、そう思っているはずなのに、自分から誘って共に昼飯をとったりしてしまうのだ。考えなければ、見なければなくなる思いかもしれないのに、そうしたくない矛盾がある。
人目を忍んでいる時点で、これは教師としてはあまりよろしくない行為だ。だが、昼食内容の改善という理由にもならない理由で狩野を呼びつけて、こうして共に食事をしている。
当の狩野はそれを拒まず、むしろ心なしかうれしそうに見えて、翠はよけい落ち着かなくなってしまう。彼が翠嫌っていないことだけはわかった。否、むしろ――。
「……何?」
「いや。なんでもない」
狩野は怪訝そうに急に頭を振った翠を見たが、答えないとわかるとまた咀嚼を始めた。
チョコパイを食べ終わり、蒸しパンに入ったようだ。野菜ジュースとチョコレート。口の中がどうなっているのか非常に気になった。
「今日は部活は?」
切り替えるように話を振った。狩野はちらりと翠を見て、
「出る。明日は家の手伝いがある」
「大変そうだな。普段は何をしてるんだ?」
「今は宿泊客からの要望の電話をまた聞きしてる。先輩スタッフが電話の対応をして、新人が客室にものを届けるのが仕事だな。今後、実際に電話対応ができるように、電話の内容を聞かせてもらう」
「へえ! そういう業務もあるのか。大きいホテルだもんな。他には何かやった?」
「大きいパーティーがあったときに新人ドアマンの補佐をやった。人を覚えてドアマンに言う。黒子役」
「ああいう仕事ってナンバーとか顔とか、名前や職業も覚えるんだっけ。何人くらい来た?」
「確か百人とかそこらじゃないか」
「……覚えたのか?」
狩野は顎を下げるようにして頷いた。やはり彼は記憶力がとびぬけているようだ。翠は舌を巻いた。
「頑張ってるんだな。うまくいってるみたいに聞こえるよ」
「いや。ベルボーイの仕事はすぐ降ろされた」
「何で? 英語は問題ないだろ?」
「違う。俺は愛想笑いができねえから」
淡々とした台詞に、翠は吹き出した。途端にジト目を向けられたが、手刀で謝りつつも笑ってしまう。
「はは、そっか、狩野は笑顔が苦手だよな。俺でもあんまり見たことない。ちーにしてるみたいにしたらどうだ?」
「客はちーじゃねえだろ」
「みたいにって話だよ」
若干狩野の声音がふてくされた。翠は気合で笑いを堪えて、狩野の肩をぽんと叩く。
「笑顔の練習してみなよ。そのほうができることも増えると思う」
「……どうやんの?」
「まず表情筋を柔らかくするところからじゃないか? マッサージするとか」
「どこを揉むんだよ」
「うーん、頬とかこめかみじゃないか? あと、割り箸を咥えるといいって聞いたことがあるな」
狩野は「ふうん」とあまり興味がないようだった。面倒そうとも言える。
「面白くもないのにどう笑うのかがわからねえ」
「言うと思った。いいんだよ、笑ってれば楽しいとか面白いって思うもんなんだから。ほら、笑ってみ」
「……」
「笑えてないから。目が怖いよ」
笑顔というよりも口を笑みの形に開いた、という感じだ。こんなに笑っていない笑顔があるのかと、翠はいっそ愉快な気分になってしまった。
「先生が笑ってどうするんだよ」
そうつっこまれるのも当然だ。翠は食べ終わった弁当箱を元通りにしながら肩を引くつかせた。
「狩野が笑わせてるんだろ。……わかった、じゃあ話す相手の後ろにちーを思い浮かべてみるのは?」
「……なんとなく楽しくなってきた」
「じゃあそれでいこう。狩野、俺に笑ってみて」
そう請うて、体を傾けて狩野と向かい合った。狩野の視線がちーを思い浮かべるように翠の頭の上で僅かに止まったかと思うと、次いで輝くような笑みが彼を彩った。つい数瞬前の笑わない顔が嘘みたいだ。
可愛くてたまらないと言いたげに細められた薄い色味の目が輝いて、年相応な顔がのぞく。翠の胸は現金にも鼓動を早くしたが、狩野は「これは駄目だ」とすぐに普段通りの真顔に戻ってしまった。
「撫でてるちーを想像したから手が動く。こんな不審者みたいな手つきでベルボーイはできねえ」
言われてみれば、狩野の手はちーの大きな体をかき混ぜるような動きをしていた。壊れたロボットのような動作とも言える。
「ははは! 確かに、預かった荷物を落としそうだな!」
言いながら狩野はわざとだろう、手をさらにわしゃわしゃと動かした。たいして表情を動かさないのにとぼけてくるからたまらず、翠は頬を緩ませる。
「俺じゃなくて先生のほうが笑ってるな」
息を吐き出すように、狩野は口元を解いた。翠からすれば、それが日常での狩野の心からの笑みだと感じたが、指摘はしなかった。ひとり占めしたいような、おかしな独占欲があったのだ。
他愛のない会話をしながら、昼休みは更けていった。
「榛名先生、今お時間よろしいですか?」
肩を軽く叩かれて振り向くと、害のない微笑みを称えた校長がいた。今日も初めて出勤した時と同じスーツだ。これ以外見たことがないので、それこそ制服のようなものなのだろう。
「榛名先生にお客様ですよ」
「僕にですか?」
校長は狩野に見習わせたくなる完璧な笑顔で首を縦に振った。翠の思考は狩野が何をしたらこの境地に行けるだろうかと明後日の方向に向きかける。
瞬きでそれを追い出して、「伺います」と立ち上がった。
促されたのは校長室だった。自分のテリトリーだろうに、校長はノックで入室する。
「失礼します」
「どうぞ」
迎えた声に聞き覚えがあり、翠は思わず立ち竦む。
「榛名先生、さあ」
だが、翠の気まずそうな様子に気づかないのか、校長は翠を部屋に押し込むと会釈して部屋を辞した。そうして、翠はいつか見たことのある細身のスーツを身に着けた芳と、部屋に二人きりになってしまった。
翠を立って待っていたらしい芳は、ソファーを示して自身も腰かけた。優雅に足を組んで、ドアの位置から動かない翠に首を傾げる。
「どうしたの。座らないの?」
「……何で芳が?」
「校長の視察だよ。うちの会社から派遣したからね、少し様子を見てみたいと思って。この学校で知っている教員は君だけだったから、君を呼んだというわけ」
「……」
「これは仕事の話だから、早く座りなさい。次の予定もあるからあんまり時間がないんだよ」
そう言った芳は翠が知っている雰囲気ではなく、どこか淡々としている。駄々をこねる子どもを宥めるような言い方をされた翠は恥じ入った。警戒心が過ぎるのかもしれない。これでは芳もやりにくいだろう。
「……失礼します」
「うん。それじゃあ簡単な質問をさせてほしいんだが、いいかな。録音しても良い?」
「はい、どうぞ」
尋ねられるまま、翠は質問に答えていった。芳はスイッチを入れたレコーダーをテーブルに置き、手元のファイルに文字を書きつけている。
週に一度は会っていたことを思うと、芳を見るのは久しぶりと言えた。喧嘩して以来ということになる。もう一か月近い時が経っていると気づくと驚きだった。
見ないうちに髪が伸びたようで、前髪を横に流すようにセットしている。企業の社長というよりは芸能人のような、こなれた髪型だ。美意識が高い彼のことだから苦も無く整えているのだろう。爪の先まで磨いた姿を、翠は俯瞰で見ている気になる。
二人きりの時は悪戯っぽくどこか甘えた口調が多い話しぶりだが、今は明瞭だ。知らなければ教師に生徒を襲わせるような人間には見えない。否、襲わせたという言い方は正しくない。きっかけは彼でも、実際にことに及んでしまったのは自分だった。
本能に抗えない。芳といると、特に。
「……以上だね。協力ありがとう、よくわかったよ」
思考とは別に、翠は求められる答えを返していた。ペンのキャップをきっちりと被せ、芳は立ち上がる。
「まだ人を呼んでいるんだ。今回はこれで終わり」
エスコートするように芳の手が翠の背中を支える。そのままドアまで向かったが、スーツの袖がくいと引かれた。つられて顔を上げると、思いの他近くに芳の顔がある。
「翠」
――あ。キスされる。
目が合った瞬間、金縛りにかかったように動けなくなった。
傾けた芳の口が翠の唇を吸う。ちゅ、とリップ音を立てて一度離れていったが、すぐに戻ってきた。
驚きで開いた口に舌が滑り込む。よく知った感触。弱いところを掠めて、翠をあっという間に溺れさせる。
どちらのものともつかない唾液が翠の顎を伝って滑っていく。首輪のせいで感触は途中までしかなかったが、口づけをやめた芳が浮かんだそのラインを舐めとった。
「……やっぱり可愛いなあ」
芳はうっとりと目を細め、翠に何度もキスを落とす。腰を支えられなければしゃがみ込んでしまいそうだ。
その時、ドアの向こうから軽いノックの音がした。
芳は「少し待って」と言葉を投げ、翠の服の乱れを確認すると「よし」と頭を撫でた。
「一人でも立てる?」
「……なんとか」
「うん。じゃあまた。連絡する」
喧嘩のことを気にしていないのか、翠がおかしいのかと思うくらいに芳はいつも通りだ。熱の溜まった息を吐き出して、ドアに手をかける。今度は遮られることなく部屋を出ることができた。
ドア前にいる誰かにキスしたての顔が見られるのが嫌で、咳をする素振りでやりすごそうとしたが、自身の名を呼ぶ声が知り合いの者で、無意識に顔が上向く。
「……大丈夫か?」
「何でもない。……何でもないから、ごめん。もう行く」
狩野の不安そうな顔を見ていられない。またもや芳に翻弄されたことを知られたくなかったが、通せんぼうするわけにもいかないので、翠はこの場から立ち去ることを選んだ。
困惑したように呼び止める声も耳に入れず、挨拶もそこそこに彼の横をすり抜けた。
拒めない。抗えない。芳の眼差しが怖い。
逃げたのは狩野からか、それとも――。
二度目のノックをせずに校長室の扉を開く。ソファーに座って足を交差した姿を認めた狩野は、自分の予感が的中したことを知った。
「やあ」
無作法をとがめない朗らかとも言える優雅な仕草は、天地がひっくり返っても真似できそうにない。とはいえ、印象としては胡散臭く、狩野は目を細めた。
先ほどまで密室であった何かの名残を感じさせずに佇んでいるが、翠の反応を見てしまった狩野からすればくそくらえというところだ。
「ちょっとぶりだね。元気だった?」
「……あんたの顔を見て気分が悪くなった」
「君に嫌われるようなことはしていないはずだけど。目障りなアルファの首を飛ばして校長を新しい人材にしたし、クリスマスにはお楽しみもあげたよね。……良かっただろ? 俺が開いた翠の体は」
狩野は白くなるほど拳に力をこめる。その反応を見た芳は楽しそうに声を立て、足の左右を替えた。
「そんなに睨まないでよ。俺みたいに素直に楽しめばいいのに、どうして君も翠もあの時のことを嫌がるのかなあ」
「あんたのそれは素直じゃねえよ。性根が歪んでんだよ」
「……抱いちゃった人間が何を言ってもね」
呟くような言葉に、狩野は唇を噛んだ。痛いところを突く男だ。
半ば憎しみをこめた視線を送る。目の前の男が動じないことは痛いほどわかっていたが、そうせずにはいられなかった。
だが、狩野はクリスマスの日のこと全てを彼のせいにするつもりはなかった。究極的には耐えられなかった自身の責任だと考えているからだ。
本当に翠のことを思うならば、自分はあの時つっぱねるべきだったと後悔している。翠は抱かれることにもはや躊躇いも嫌気もないようだが、それが違うと知ってほしかった。そうじゃない。そんな行為は空しい。
狩野だって、あの日の艶めかしい姿を夢に見ることがある。朝起きて、反応している自身に絶望することもある。一度知ってしまったぬかるんだ器官を思い出して苦しむなんてしょっちゅうだ。
けれども、体だけなんかいらなかった。手に入らない心に苦しむほうがよっぽどつらい。それなら自分は――飢えたままでいい。
「もし同じ場面に出くわしても、二度とあんな真似はしねえ」
狩野は言葉をこの場にいない彼にも届けるつもりで、真っすぐ前を見て言った。
「据え膳を食わないのが美徳のつもり? 青いね。高校生らしい」
それは当然ながら失笑を買ったが、ありのままの気持ちを吐露する。
「俺の今の立場なんて時が経てば変わるだろ。でも性根までは変えるつもりはない。あんたは先生の心が手に入らないことを認めずに、体だけ抱いて誤魔化してるだけだ。そんな奴の言葉なんか聞かねえ」
「……体で誤魔化してるって? 知った口を聞くじゃないか」
表情こそ変わらなかったが、芳の指先がせわしなく腿の上で打ち付けられた。狩野はこれこそが彼の“痛いところ”だと悟る。
「事実だろ。あんたらはお互いしか知らないみたいに振舞うくせに、中身はお粗末そのものだ。そんな関係になんの意味がある?」
「関係に意味を求めるなんてナンセンスだな。彼の寂しさを埋められるだけでも、俺は満足しているんだけど」
「先生を寂しくさせたのはあんた。本当ならまっとうな恋愛だってできたはずなのに、あんたが体を奪ったせいで、心が置いてきぼりだ。だから先生は寂しい。教師として生きようと思っても、結局はオメガだからって閉じこもって、自分の権利を主張することもできないでいる。本当はそんな人じゃないはずだ」
そう断言すると、芳はものすごく変わった芸をした犬を褒めるように手を叩いた。完全に馬鹿にした仕草だったが、狩野は瞬きを繰り返してこみ上げる怒りを受け流す。
否、話しているうちに目前の人間には決して自分の考えが伝わらないと分かったから、怒りをやり過ごすのは苦ではなかった。ただ、彼からどう翠を守れるか、そればかりを考えている。
部屋から出てきた翠の素振りを見る限り、おそらくキスでもしたのだろう。パブロフの犬さながらで、翠にとっての芳は欲情のスイッチなのだ。そうさせたのは外ならぬ芳で、人の体を絡めとることが抜群にうまい。
むしろ、だからこそ、彼は心を手に入れるやり方を知らないのかもしれないと狩野は思った。実際は狩野だってろくにわかっていないが、芳のやることは間違っていると強く感じる。
「よくもそんなに語れたものだね。仮に翠にその側面があったとしても、君のそれはただの一つの見方だろ。正しいとは限らないんじゃないか?」
彼の口ぶりは冷静で、言い分は間違っていないが、何かが違うと狩野の直感が告げた。芳の行動には、はまらないジグソーパズルのピースを無理に押し込んだようないびつさがある。本当はその場所であっているのに、向きが違う。そんな、おしいいびつさ。
しかし、それを指摘しても変化があるようには見えなかった。狩野はただ、翠を想って言葉を返す。
「確かにそうかもしれないが……俺の考えが間違ってるとも限らない。それなら俺は自分が信じたい先生を信じる。あんたみたいに自分の欲求を押し付けて先生を苦しめたりしない」
芳が真顔になって口を閉ざした。笑顔という武装を解いた顔はこの上なく不気味で、冷徹な眼差しだ。それから彼は話すことにうんざりしたらしく、首を大きく左右に振る。
「考えが違いすぎる。てんで話にならないな」
「こっちの台詞だ」
狩野が返すなり、芳は立ち上がると校長室の扉を大きく開いた。
「話は以上だ。もう行っていい」
「……校長に呼ばれたって聞いてるけど」
「念のため彼の名前を使っただけで呼んだのは俺だよ。俺は今日、校長の視察って名目でここにいる。――それじゃあ狩野君。教員に関する貴重なご意見をどうもありがとう」
首が僅かに傾き、目が細くなり、芳の口が弧を描く。見慣れた仮面。
狩野は更なる言葉を重ねることなく従った。
帰り際、ごく小さな囁きが耳に残った。
「……そこまで言うなら君の鋼の意志を見せてもらおうか」
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