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偽薬を処方するように頼む時ばかりは、秘書の「犯罪行為はごめんですよ」という言葉がリフレインした。その上、「黙っていてほしいなら袖の下を」と要求する声も聞こえた気がする。
「何か?」
「……いや、なんでもないよ」
芳は目前のアルファに意識をうつし、その声をシャットアウトした。
男は中肉中背で、忙しなくうろつく目元が強い緊張を訴えている。彼はアルファであることが間違いではないかと思うほどの小心者だ。そのくせ、乱交パーティーを起こして危うく警察沙汰になって、芳に目をつけられた哀れな男だ。蔑む内心を晒さないように、芳はにこりと笑う。
「やってくれたんだよね?」
「……はい」
「ああ、安心したよ。彼は僕と番になりたいというくせに、発情したところを見せるのが恥ずかしいと拒むから大変で。もうこちらが先手を打ってしまおうと思ってね」
「はあ……。あの、これで、この間のパーティーの件は……」
「先方にとりなしておこう。任せてほしい」
男の顔がぱあっと明るくなった。安堵に顔が火照ったのだろうが、そんなもの見たくないので、挨拶もそこそこに芳は場を辞した。
数時間前に翠が通った両開きのドアを使い、こじんまりとした医院を出る。外気は冷えて刺すように寒く、芳は足早に歩きだした。
住宅街の隙間を縫って大通りを目指す。医院の立地を考えて車はやめて、タクシーを選んだのだ。
日曜日の昼下がりの道をさくさく進む。自身の策に僅かに楽しんでいたので、足取りは軽い。
先日の狩野との会話をきっかけに、芳は今回の策を思いついていた。本来ならば医院スタッフの懐柔にもう少し時間が必要なところだが、幸いにも脛に傷持つ人がいたために手早く済んだ。
翠のかかりつけ医は長らく変わっていない。三か月に一度、年寄りの院長と少しのカウンセリングをし、その期間の発情期抑制剤をもらう。
処方する薬を指定するのは医師だが、実際に処方するのは薬剤師だ。芳は薬剤師に近づき、適当にでっちあげて翠の薬を偽薬にした。これで通常ならば抑制しているはずの発情期が訪れる。
目障りな若造に現実を知らしめるのが楽しくてたまらない。
「そう簡単に本能の力には抗えないのにね……」
芳はうっそりと笑う。頭にカレンダーを思い浮かべ、日付を一つ真っ黒に塗りつぶした。
食事に行こうではなく、大事な話があるという切り出しで芳から連絡をもらったのは初めてだった。
待ち合わせは日曜の午後三時。場所は狩野の家が経営するホテルの一八〇五号室だ。
彼とは食事してそのままホテルへ向かうことがほとんどだったので、この呼び出しはイレギュラーだった。“大事な話”という言葉のチョイスも気になる。
ここ数日体がだるく熱っぽさが続いており、応じるには迷いがあったものの、文章から芳の様子が常とは異なっていると感じたため、会うことに決めた。クリスマスのことを謝罪する気にでもなって気まずいのかもしれないと、そんな気安さで。
フロントで鍵を預かって、天井にクリスタルが輝くエレベーターで上階へ。行きがけにそれとなくスタッフを確認したが、ドアマンもベルボーイも知らない顔だった。以前聞いた業務のままであれば、狩野はまだ研修中のようなものなのだろう。
ツインの部屋に入ったが無人で、芳は来ていないようだ。携帯を確認すると「少し遅れる」という内容のメッセージが届いている。翠はほっと息を吐き出し、知らずに強張っていた肩を落とした。
携帯を持ったまま窓際のチェアに腰かける。白樺だろうか、特徴的な節に味が出た木のフレームで、優美なデザインだ。
座りながらしばらく待っていたが、ふいに明らかな違和感に気づく。
視界が揺れる。呼吸がみるみるうちに荒くなり、走った後のように掠れ始める。
胸の突起がシャツの中でピンと立ち上がり、下腹部も兆し始めた。
触れられていないにも関わらず、悪寒にも似たざわめくような刺激が背筋を襲う。この感覚には覚えがあった。抑制剤を飲んでからは感じないようになっていたが、翠がよく知ったものだった。
芳とのセックスを思わせる、だがそれよりも圧倒的と言える波がすぐそこまで来ている。
……発情している。
「何でっ……!」
翠はまろびながら書き物机に置いたバッグに飛びついた。常備している注射型の緊急抑制剤のキャップを何度も掴みなおして、どうにか外す。
ちかちかする視界の中、瞬きを繰り返して肘の内側に薬を注入した。その痛みすら翠には酷だったが、なんとかシリンダーを押し続ける。体を戦慄かせながらも薬の全てが血管に飲み込まれた。
これでもう大丈夫だと、我ながら熱の籠もった息を吐き出す。数分あれば効き目が表れ、体も静まるはずだった。
翠は空っぽの注射器を握り閉め、自分を落ち着かせようと小刻みに深呼吸を繰り返す。引きつれた声が自然と漏れ、欲情をまざまざと感じて辛かった。
しかし、不思議なことに一向に熱は収まらなかった。それどころか時間がたつごとに肌を撫でられるみたいな興奮がつのる。部屋に飾られた壁掛け時計は、早い針を三周したところだ。
ついひと月前に薬をもらったばかりなので、不良品であるはずがない。それなのに、なにかがおかしい。
「……っ……!」
体内を弾ける熱に耐えられず、ついに体が気持ちを裏切って、翠の指先は服のジッパーにかかった。
服と肌が擦れるだけでも腰に熱が灯る。よく知った自分のもののはずなのに、操られたように手が胸の突起を探り当て、下着の中身を引きずり出す。
「ああっ!」
濡れた先端に親指を押し当てると異常なぐらいに感じた。媚びるように嬌声が鼻にかかる。ぬめりを全体に広げながら強く擦った。泣いているようだ。
もう片方の手で先走りを塗り込むように突起を弄り回す。見下ろすと、赤く果物のように熟れていた。我ながらいやらしくて、自分の体に劣情を煽られるなんて、馬鹿みたいだ。
芳が――アルファの彼が来たら強制的に発情させてしまうとわかっていたが、止められなかった。否、止まらないと言っていい。頭のどこかは冷静に警鐘を鳴らすにも関わらず、セックスを覚えた思春期の少年さながらに翠は腰を揺すりたてた。
「嫌っ……嫌だ……何で、俺っ……」
輪にした手の中に腰を打ち付ける。零れる先走りがいつの間にか後孔を伝った時、翠の指はターゲットをそこに変えた。そこはとろけて熱く、底なしのぬかるみのようだ。入れている指がまるで吸われているような気がする。
ベッドの片方に顎を乗せながら腰を上げた。掌で尻たぶを叩くように指を激しく行き来させる。ぐちゅぐちゅと音が零れるのが愉快だ。それだけで翠の頭はいっぱいになった。
体に纏わりつく服を脱ぎ捨てた。外気に晒された場所が疼く。大きなものにいっぱいにナカを広げられたい。そんな妄想に翠は溺れた。
張り出した場所で弱いところをくじられたい。頭が真っ白になって、喉がかれるまで侵されたらどれだけ気持ちがいいだろう?
「……欲しいのに……なんで誰もいないの……」
翠の瞳からぽろぽろと涙が溢れた。発情期に抗っていたはずなのに、いつの間にか貫くものを欲していた。
その時だ。前触れなくドアが開き、室内にスニーカーを身に着けた足が踏み込んだ。
芳はスニーカーは履かない。沸いた頭で、翠は視線を上向かせる。
そこには、愕然とする狩野がいた。狩野は一瞬で状況に気づいたらしく、素早く掌で口と鼻を覆うと、ドアを閉めた。翠のフェロモンが外に漏れるのを防ぐためだろう。
だがその行為はアルファである狩野を苦しめることに他ならなかった。人は呼吸せずにはいられないわけで、密室で濃くなったフェロモンを吸い込むことになるからだ。
「狩野、ごめん、俺、薬が……っ」
少しだけ頭は正気に近づいたが、それも数秒持たず、翠はすぐにまた秘部に指を埋め込んだ。欲しい、欲しいという呟きはまさしくうわ言だ。
「……あいつ、洒落にならねえっ……」
翠は宙に悪態をつく狩野にも狭間がよく見えるようにだらしなく脚を開いた。羞恥心は発情期のせいで今や消え、貪欲なまでの飢餓感があるだけだ。
「欲しい、ちょうだい」
「……ッ」
狩野は歯を食いしばり頭を何度も振っていた。朦朧とする意識を取り戻す動きではあるが、発情期の衝動はそんなものでは抑えられない。
顎ではなく頬に当たるシーツがひんやりと気持ちいい。腰から下を曲げた無理な体制だが、男を誘うにはちょうど良かった。
ゆらゆらと尻を振る。狩野が一歩一歩カーペットを踏みしめて翠に近づいてきた。ジーンズの前は既に膨らんで、欲望を示している。
安堵と期待に翠の顔がほころんだ。やっと、欠けたものが埋められる――。狩野の体が翠に覆いかぶさった。割れ目に硬い熱が当たり、翠はほうっと息を吐く。
しかし、次の瞬間翠の体に打ち込まれたのは狩野のものではなく、新しい抑制剤だった。
「ひぃ……っ!」
手の後に注射器が刺さるその刺激で翠はあっけなく達する。狩野はそのまま、裸の翠の背中に歯を立てた。衝動を耐えるためだろうが、それすら自身には毒であり、翠は薄い腹をひくひくとへこませた。
「すぐに効くから……待ってろ……」
「や、歯、やめ」
「……噛まなかったらこのまま襲いそうだ」
狩野は苦しそうに呟いた。
彼の忍耐を知った今、それでもいい、犯してくれとは言えなかった。
翠の肌に自身のものではない汗がぽつぽつと落ちる。全神経を持って、鋼の意志で彼は耐えている。アルファの本能と抗っている……。
数分後、翠の体からはまるで嘘のように熱がひいた。
「……悪い、血が出てる。塞がるまでは、シャワーは浴びないほうがいいと思う」
狩野の呼吸は未だに整わないが、気持ちは落ち着いているようだ。翠の背中にバスルームから持ち出した濡らしたタオルをあて、にじみ出ているらしい血を拭う。
ついでのようにもう一枚の濡れタオルが渡され、翠はそれで浮かんだ汗を拭きとった。
彼は甲斐甲斐しくも脱ぎ捨てた服を集めると、一枚ずつ翠に身に着けさせた。幼児に逆戻りしたようで、種類の違う恥ずかしさに苛まれたが、思ったよりも発情期の反動が強く疲労があった。されるがままで、彼に甘える。
ベッドに座らされ、靴まで履かされてしまった。普段は見下ろすことのない狩野を上から見ると、長くて濃い睫毛をしていると知る。
まだ首は細くて一見頼りなくも見えるのに、意思の強さは大人以上だ。翠よりもよっぽど成熟して、忍耐強い。気質もあるだろうと予想するが、それにしたって発情期を跳ねのけるところは純粋な称賛をしたくなった。同時に、自分にはとてもじゃないができないと、そう思う。
「……何で狩野はそんなに我慢強いんだ?」
口にした疑問は、思ったよりも沈んだ雰囲気を纏っている。靴を履かせ終えた狩野は顔を上げ、上目遣いに翠を凝視した。
「俺のために耐えたんじゃないから。好きなやつを思ったらなんとかいけた」
「……好きなやつ?」
翠は間抜けにも鸚鵡がえしをしてしまった。その表情を見て、狩野は楽しげに肩を揺すった。
「誰のことだ、みたいな顔すんなよ。……わかるだろ」
「……」
「抱くのはたぶん簡単だけど、それじゃ国木と一緒になっちまう。……この間のこと、俺は後悔してるんだ」
「クリスマスの?」
狩野は笑みを収めて首を上下に振った。
「なあなあにして、体だけ繋げても心が空しいよ。気持ちいいけどそれだけだ。先生も覚えがあるんじゃねえの?」
空しい、という単語を舌の上で転がして、ゆっくりと味わってみる。
自分と芳の関係は空しかっただろうか? 体は十分すぎるほど満たされていたけれど、心も同じだと言えただろうか?
思案する翠を助けるように、狩野はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「先生は本当は忍耐強い人間だと思う。良い大学に行って教師になって、教師になってから周りに攻撃されながらも俺のことを諦めなかったことが例だ。俺は先生だから色んなことと向き合う気になれた。ずっと俺を見ててくれたから」
「俺は大層なことはしてないよ。だって、仕事じゃないか」
「いいや。先生以外の教師は皆、俺のことを諦めてた。気にしてくれたのはあんただけだった。少なくとも、俺の目にはそう見えてた」
「……」
「頑張り屋なのに自己評価が低すぎるんだよ。もっと自分のことを見つめていい。与えられたものを無理に受け取って、自分を変えすぎなくてもいいんだ」
狩野の瞳は穏やかだ。彼は至る場面で、そういう深い目をしてみせる。光彩の周りが深く煌めくと吸い込まれそうだ。真摯な眼差しに、翠の心にやっと言葉が届く。
「そういうあんたをこれ以上傷つけないためなら、俺は何回でも耐えられるよ」
――最初は雨だ、と思ったのだ。室内に振るはずないからどうしたのだろうと天井を見上げて、スプリンクラーが作動しているわけでもない。首を傾げた翠は、頬に触れた指先に滴が乗っているのを見てやっと気づく。
「いきなり泣くなよ。驚くだろ」
ほろ苦く笑う狩野は、そう言いながらもとろけるように甘い。彼が愛するチョコレートさながらで、ぽろぽろと涙を零しながらも翠の頬はあっという間に緩んだ。
空しいという言葉の意味がやっとわかったような気がする。立ち上がって翠の頭を抱えた狩野の上下する胸を借りて、心をくすぐるような感情を声にした。
「……俺も狩野が好きだよ」
翠を引き寄せる力が強くなった。
――それが、初めて彼を対等な人間として見た瞬間だったのだろう。
立場や、性や、年齢を超えた、ひたすらにシンプルな、ありのままの好意だった。
「何か?」
「……いや、なんでもないよ」
芳は目前のアルファに意識をうつし、その声をシャットアウトした。
男は中肉中背で、忙しなくうろつく目元が強い緊張を訴えている。彼はアルファであることが間違いではないかと思うほどの小心者だ。そのくせ、乱交パーティーを起こして危うく警察沙汰になって、芳に目をつけられた哀れな男だ。蔑む内心を晒さないように、芳はにこりと笑う。
「やってくれたんだよね?」
「……はい」
「ああ、安心したよ。彼は僕と番になりたいというくせに、発情したところを見せるのが恥ずかしいと拒むから大変で。もうこちらが先手を打ってしまおうと思ってね」
「はあ……。あの、これで、この間のパーティーの件は……」
「先方にとりなしておこう。任せてほしい」
男の顔がぱあっと明るくなった。安堵に顔が火照ったのだろうが、そんなもの見たくないので、挨拶もそこそこに芳は場を辞した。
数時間前に翠が通った両開きのドアを使い、こじんまりとした医院を出る。外気は冷えて刺すように寒く、芳は足早に歩きだした。
住宅街の隙間を縫って大通りを目指す。医院の立地を考えて車はやめて、タクシーを選んだのだ。
日曜日の昼下がりの道をさくさく進む。自身の策に僅かに楽しんでいたので、足取りは軽い。
先日の狩野との会話をきっかけに、芳は今回の策を思いついていた。本来ならば医院スタッフの懐柔にもう少し時間が必要なところだが、幸いにも脛に傷持つ人がいたために手早く済んだ。
翠のかかりつけ医は長らく変わっていない。三か月に一度、年寄りの院長と少しのカウンセリングをし、その期間の発情期抑制剤をもらう。
処方する薬を指定するのは医師だが、実際に処方するのは薬剤師だ。芳は薬剤師に近づき、適当にでっちあげて翠の薬を偽薬にした。これで通常ならば抑制しているはずの発情期が訪れる。
目障りな若造に現実を知らしめるのが楽しくてたまらない。
「そう簡単に本能の力には抗えないのにね……」
芳はうっそりと笑う。頭にカレンダーを思い浮かべ、日付を一つ真っ黒に塗りつぶした。
食事に行こうではなく、大事な話があるという切り出しで芳から連絡をもらったのは初めてだった。
待ち合わせは日曜の午後三時。場所は狩野の家が経営するホテルの一八〇五号室だ。
彼とは食事してそのままホテルへ向かうことがほとんどだったので、この呼び出しはイレギュラーだった。“大事な話”という言葉のチョイスも気になる。
ここ数日体がだるく熱っぽさが続いており、応じるには迷いがあったものの、文章から芳の様子が常とは異なっていると感じたため、会うことに決めた。クリスマスのことを謝罪する気にでもなって気まずいのかもしれないと、そんな気安さで。
フロントで鍵を預かって、天井にクリスタルが輝くエレベーターで上階へ。行きがけにそれとなくスタッフを確認したが、ドアマンもベルボーイも知らない顔だった。以前聞いた業務のままであれば、狩野はまだ研修中のようなものなのだろう。
ツインの部屋に入ったが無人で、芳は来ていないようだ。携帯を確認すると「少し遅れる」という内容のメッセージが届いている。翠はほっと息を吐き出し、知らずに強張っていた肩を落とした。
携帯を持ったまま窓際のチェアに腰かける。白樺だろうか、特徴的な節に味が出た木のフレームで、優美なデザインだ。
座りながらしばらく待っていたが、ふいに明らかな違和感に気づく。
視界が揺れる。呼吸がみるみるうちに荒くなり、走った後のように掠れ始める。
胸の突起がシャツの中でピンと立ち上がり、下腹部も兆し始めた。
触れられていないにも関わらず、悪寒にも似たざわめくような刺激が背筋を襲う。この感覚には覚えがあった。抑制剤を飲んでからは感じないようになっていたが、翠がよく知ったものだった。
芳とのセックスを思わせる、だがそれよりも圧倒的と言える波がすぐそこまで来ている。
……発情している。
「何でっ……!」
翠はまろびながら書き物机に置いたバッグに飛びついた。常備している注射型の緊急抑制剤のキャップを何度も掴みなおして、どうにか外す。
ちかちかする視界の中、瞬きを繰り返して肘の内側に薬を注入した。その痛みすら翠には酷だったが、なんとかシリンダーを押し続ける。体を戦慄かせながらも薬の全てが血管に飲み込まれた。
これでもう大丈夫だと、我ながら熱の籠もった息を吐き出す。数分あれば効き目が表れ、体も静まるはずだった。
翠は空っぽの注射器を握り閉め、自分を落ち着かせようと小刻みに深呼吸を繰り返す。引きつれた声が自然と漏れ、欲情をまざまざと感じて辛かった。
しかし、不思議なことに一向に熱は収まらなかった。それどころか時間がたつごとに肌を撫でられるみたいな興奮がつのる。部屋に飾られた壁掛け時計は、早い針を三周したところだ。
ついひと月前に薬をもらったばかりなので、不良品であるはずがない。それなのに、なにかがおかしい。
「……っ……!」
体内を弾ける熱に耐えられず、ついに体が気持ちを裏切って、翠の指先は服のジッパーにかかった。
服と肌が擦れるだけでも腰に熱が灯る。よく知った自分のもののはずなのに、操られたように手が胸の突起を探り当て、下着の中身を引きずり出す。
「ああっ!」
濡れた先端に親指を押し当てると異常なぐらいに感じた。媚びるように嬌声が鼻にかかる。ぬめりを全体に広げながら強く擦った。泣いているようだ。
もう片方の手で先走りを塗り込むように突起を弄り回す。見下ろすと、赤く果物のように熟れていた。我ながらいやらしくて、自分の体に劣情を煽られるなんて、馬鹿みたいだ。
芳が――アルファの彼が来たら強制的に発情させてしまうとわかっていたが、止められなかった。否、止まらないと言っていい。頭のどこかは冷静に警鐘を鳴らすにも関わらず、セックスを覚えた思春期の少年さながらに翠は腰を揺すりたてた。
「嫌っ……嫌だ……何で、俺っ……」
輪にした手の中に腰を打ち付ける。零れる先走りがいつの間にか後孔を伝った時、翠の指はターゲットをそこに変えた。そこはとろけて熱く、底なしのぬかるみのようだ。入れている指がまるで吸われているような気がする。
ベッドの片方に顎を乗せながら腰を上げた。掌で尻たぶを叩くように指を激しく行き来させる。ぐちゅぐちゅと音が零れるのが愉快だ。それだけで翠の頭はいっぱいになった。
体に纏わりつく服を脱ぎ捨てた。外気に晒された場所が疼く。大きなものにいっぱいにナカを広げられたい。そんな妄想に翠は溺れた。
張り出した場所で弱いところをくじられたい。頭が真っ白になって、喉がかれるまで侵されたらどれだけ気持ちがいいだろう?
「……欲しいのに……なんで誰もいないの……」
翠の瞳からぽろぽろと涙が溢れた。発情期に抗っていたはずなのに、いつの間にか貫くものを欲していた。
その時だ。前触れなくドアが開き、室内にスニーカーを身に着けた足が踏み込んだ。
芳はスニーカーは履かない。沸いた頭で、翠は視線を上向かせる。
そこには、愕然とする狩野がいた。狩野は一瞬で状況に気づいたらしく、素早く掌で口と鼻を覆うと、ドアを閉めた。翠のフェロモンが外に漏れるのを防ぐためだろう。
だがその行為はアルファである狩野を苦しめることに他ならなかった。人は呼吸せずにはいられないわけで、密室で濃くなったフェロモンを吸い込むことになるからだ。
「狩野、ごめん、俺、薬が……っ」
少しだけ頭は正気に近づいたが、それも数秒持たず、翠はすぐにまた秘部に指を埋め込んだ。欲しい、欲しいという呟きはまさしくうわ言だ。
「……あいつ、洒落にならねえっ……」
翠は宙に悪態をつく狩野にも狭間がよく見えるようにだらしなく脚を開いた。羞恥心は発情期のせいで今や消え、貪欲なまでの飢餓感があるだけだ。
「欲しい、ちょうだい」
「……ッ」
狩野は歯を食いしばり頭を何度も振っていた。朦朧とする意識を取り戻す動きではあるが、発情期の衝動はそんなものでは抑えられない。
顎ではなく頬に当たるシーツがひんやりと気持ちいい。腰から下を曲げた無理な体制だが、男を誘うにはちょうど良かった。
ゆらゆらと尻を振る。狩野が一歩一歩カーペットを踏みしめて翠に近づいてきた。ジーンズの前は既に膨らんで、欲望を示している。
安堵と期待に翠の顔がほころんだ。やっと、欠けたものが埋められる――。狩野の体が翠に覆いかぶさった。割れ目に硬い熱が当たり、翠はほうっと息を吐く。
しかし、次の瞬間翠の体に打ち込まれたのは狩野のものではなく、新しい抑制剤だった。
「ひぃ……っ!」
手の後に注射器が刺さるその刺激で翠はあっけなく達する。狩野はそのまま、裸の翠の背中に歯を立てた。衝動を耐えるためだろうが、それすら自身には毒であり、翠は薄い腹をひくひくとへこませた。
「すぐに効くから……待ってろ……」
「や、歯、やめ」
「……噛まなかったらこのまま襲いそうだ」
狩野は苦しそうに呟いた。
彼の忍耐を知った今、それでもいい、犯してくれとは言えなかった。
翠の肌に自身のものではない汗がぽつぽつと落ちる。全神経を持って、鋼の意志で彼は耐えている。アルファの本能と抗っている……。
数分後、翠の体からはまるで嘘のように熱がひいた。
「……悪い、血が出てる。塞がるまでは、シャワーは浴びないほうがいいと思う」
狩野の呼吸は未だに整わないが、気持ちは落ち着いているようだ。翠の背中にバスルームから持ち出した濡らしたタオルをあて、にじみ出ているらしい血を拭う。
ついでのようにもう一枚の濡れタオルが渡され、翠はそれで浮かんだ汗を拭きとった。
彼は甲斐甲斐しくも脱ぎ捨てた服を集めると、一枚ずつ翠に身に着けさせた。幼児に逆戻りしたようで、種類の違う恥ずかしさに苛まれたが、思ったよりも発情期の反動が強く疲労があった。されるがままで、彼に甘える。
ベッドに座らされ、靴まで履かされてしまった。普段は見下ろすことのない狩野を上から見ると、長くて濃い睫毛をしていると知る。
まだ首は細くて一見頼りなくも見えるのに、意思の強さは大人以上だ。翠よりもよっぽど成熟して、忍耐強い。気質もあるだろうと予想するが、それにしたって発情期を跳ねのけるところは純粋な称賛をしたくなった。同時に、自分にはとてもじゃないができないと、そう思う。
「……何で狩野はそんなに我慢強いんだ?」
口にした疑問は、思ったよりも沈んだ雰囲気を纏っている。靴を履かせ終えた狩野は顔を上げ、上目遣いに翠を凝視した。
「俺のために耐えたんじゃないから。好きなやつを思ったらなんとかいけた」
「……好きなやつ?」
翠は間抜けにも鸚鵡がえしをしてしまった。その表情を見て、狩野は楽しげに肩を揺すった。
「誰のことだ、みたいな顔すんなよ。……わかるだろ」
「……」
「抱くのはたぶん簡単だけど、それじゃ国木と一緒になっちまう。……この間のこと、俺は後悔してるんだ」
「クリスマスの?」
狩野は笑みを収めて首を上下に振った。
「なあなあにして、体だけ繋げても心が空しいよ。気持ちいいけどそれだけだ。先生も覚えがあるんじゃねえの?」
空しい、という単語を舌の上で転がして、ゆっくりと味わってみる。
自分と芳の関係は空しかっただろうか? 体は十分すぎるほど満たされていたけれど、心も同じだと言えただろうか?
思案する翠を助けるように、狩野はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「先生は本当は忍耐強い人間だと思う。良い大学に行って教師になって、教師になってから周りに攻撃されながらも俺のことを諦めなかったことが例だ。俺は先生だから色んなことと向き合う気になれた。ずっと俺を見ててくれたから」
「俺は大層なことはしてないよ。だって、仕事じゃないか」
「いいや。先生以外の教師は皆、俺のことを諦めてた。気にしてくれたのはあんただけだった。少なくとも、俺の目にはそう見えてた」
「……」
「頑張り屋なのに自己評価が低すぎるんだよ。もっと自分のことを見つめていい。与えられたものを無理に受け取って、自分を変えすぎなくてもいいんだ」
狩野の瞳は穏やかだ。彼は至る場面で、そういう深い目をしてみせる。光彩の周りが深く煌めくと吸い込まれそうだ。真摯な眼差しに、翠の心にやっと言葉が届く。
「そういうあんたをこれ以上傷つけないためなら、俺は何回でも耐えられるよ」
――最初は雨だ、と思ったのだ。室内に振るはずないからどうしたのだろうと天井を見上げて、スプリンクラーが作動しているわけでもない。首を傾げた翠は、頬に触れた指先に滴が乗っているのを見てやっと気づく。
「いきなり泣くなよ。驚くだろ」
ほろ苦く笑う狩野は、そう言いながらもとろけるように甘い。彼が愛するチョコレートさながらで、ぽろぽろと涙を零しながらも翠の頬はあっという間に緩んだ。
空しいという言葉の意味がやっとわかったような気がする。立ち上がって翠の頭を抱えた狩野の上下する胸を借りて、心をくすぐるような感情を声にした。
「……俺も狩野が好きだよ」
翠を引き寄せる力が強くなった。
――それが、初めて彼を対等な人間として見た瞬間だったのだろう。
立場や、性や、年齢を超えた、ひたすらにシンプルな、ありのままの好意だった。
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