狼の獣性

筺 柚人

文字の大きさ
13 / 15

13

しおりを挟む
「翠から呼び出されるとは思わなかったよ」

 芳は白いコーヒーカップを一口飲むと、そう言って優雅に笑った。

 ここは例のごとく、狩野の家が経営するホテルのラウンジだった。商談等、人目を忍ぶ会話もできるように他より奥まったところにある。

 高級感がある光沢をしたオーク材のテーブルの向こうで、芳はキリマンジャロを注文していた。翠の前にはカフェオレ。立ち上った香ばしいコーヒーのアロマで落ち着きを強固にし、翠はソファに深く腰掛ける。

 狩野と相談して完全な密室を避けた結果がこの場所だった。狩野が秘密裏に人を配置し、何かあったらすぐに対処できるようになっている。

 オープンスペース以外を翠が指定したことから違和感を覚えているだろうに、芳は驚くほどいつも通りだった。それに加えて、つい一週間前に犯罪まがいのことをしたという自覚も毛の先ほどもなさそうだ。よくも悪くも悪びれない。それが何よりも彼らしい。

 ホテルの一室に呼び出したあの日、当然だが芳は姿を見せなかった。発情期中のオメガがいるとわかっている部屋に行くはずがない。用事だと狩野を呼び出して、翠と鉢合わせにし、犯させるのが彼の狙いだった。翠の携帯には「急な仕事が入った」という簡素なメッセージだけが残されて、それっきりだ。

 狩野から、芳が何かしでかしそうな気配があり、用心して抑制剤を持っていたと聞いた。それがなかったらと仮定するとぞっとする。抗えず二人して落ちて、取り返しのつかない傷となっていただろう。

本気でこんなバカな真似をする奴がいるなんて、と彼が憤慨していたのが昨日のことのようだ。翠は芳に応える代わりに薄く微笑みながら、カップを口に運ぶ彼の姿をじっと観察した。

 温和そうに見える顔の作りと、ふわふわと掴みどころのない口調が一番強い印象で、なんだかんだと言いつつも彼のその部分が好きだったのだと初めて思い至る。

 芳はこの世の全ての辛さを長い足でひょうひょうと乗り越えて行くみたいな、そんな人だ。

 酸いも甘いも知っているだろうに、それを翠には見せず、真綿で包むように甘やかす。おそらく翠がまったく予想しない分野でも彼の手が及んでいるはずだ。全く予想もせず、気づけなかった自分に呆れもあるが、芳の振る舞いは巧みだった。

 強引だが、同時に甘えることも上手で、彼なら仕方ないと思わせることばかりだ。世渡りがうまくて、抱えているものをあまり見せない。

 翠を好きだと言う言葉に真剣みがないように感じたのも、彼の内面が見えてこなかったことが理由の一つだと思う。ちょっとしたしぐさや言葉から好意が覗くこともあったけれど、それすらコントロールして小出しにしたもののようだった。完璧すぎて人間味が薄いと言えばわかりやすいだろう。

 察しがいい彼に知らないままに助けられ、翠はずっと貰いっぱなしだった。狩野なら「体で返してただろ」とつっこみそうな思考を広げているとじわじわと愉快だ。思いがけず微笑が零れかけたが押しとどめて芳に向き直る。

 悪戯っ子に似た、生気に満ちた目は黒々として翠の顔を見返している。その顔を揺さぶられながら見上げるとかつては安心したものだ。

 未だにしっかりと温度のある記憶を抱えつつ尋ねた。

「薬剤師の橋本慎太という名前に聞き覚えはある?」

「翠のかかりつけ医院の薬剤師だよね。それが?」

「大事にはしたくないから警察に言うつもりはないけど、この間家に電話がかかってきてさ。抑制剤と称して偽薬を処方したって謝られたよ」

「……やっぱり吟味すればよかったな」

 自分の悪事を指摘されても芳は動じなかった。犬歯がちらりと見え、王族めいた笑みが崩れない。

 足を組み替えて、首を傾ける。

「その薬剤師じゃなくて俺を通報するつもりは?」

「考えたけど、芳とそんなことで争いたくないからしないよ」

「そう……」

 思案顔のままコーヒーを飲み干して、テーブルの呼び鈴でスタッフを呼ぶと、同じものを注文する。

「アフターピルは飲んだよね?」

「飲んでない」

「……君、そんなに妊娠したかったの?」

 発情期中の精子の着床率は百パーセントにほど近いから聞いたのだろう。芳は整った眉を寄せたが、ふと思いなおしたように、

「もしかして、彼、耐えた?」

「緊急抑制剤を持ってたから、それを俺に」

「打つまで耐えて、効くまでも耐えたってこと?」

「そうだ。すごく苦しそうにしてた」

「だろうね。……普通なら耐えられるような衝動じゃない。信じられない」

「でも俺はやられてないよ。もう芳に見せるわけにはいかないけれど」

 新しく受け取ったコーヒーに口をつけた芳は、翠の言葉を聞いて目を細めた。

「どういう意味?」

「わかるだろ。俺はもう芳とは会わないよ」

 さんざん考え、言う覚悟も持った。おかげで声は揺らがなかった。

「狩野君と付き合うことにしたから?」

「それもある」

「俺が悪者だから?」

「それも理由の一つだけど、決定的じゃないよ。もう会わない。今日はそれだけ言いに来た」

 仕切りの向こうにたくさんの人の気配があった。中には、翠にはわからないが狩野も控えている。勿論芳の刺激になるために姿を見せるつもりはないようだが、その存在を信じて翠はここにいる。

「理由は?」

「……」

 芳といると空しくなるなんてそんな残酷なことは、離れていく翠に言えるはずがなくて言葉の代わりに頭を振る。彼に失望する気持ちはあったが、嫌いになったわけじゃない。離れることへの罪悪感は大きく、痛みもあった。それを感じる程度には、翠は芳のことを大切に思っていたのだ。

 痛いくらいの視線がつき刺さった。翠は腹に力をこめ、絶対に逸らさない気持ちで瞬きを繰り返す。

 目で思いのたけの全てがやりとりできたらいいのにという思考がふっと落ちてくる。そうしたら、芳の想いもわかるのだろう。

 本当は聞きたいことが山ほどあったはずなのに、珍しくも真顔の彼を見ているとその気持ちがくじけていく。ありのままの彼は年齢よりも大人びて、顔立ちからは想像がつかないくらいに鋭い。向けられた感情の強さに体が僅かに震えた。

 ああ、温もりが――狩野の腕が欲しい。

「……俺を一人にするの」

 芳は泣いてこそいなかったが、翠の目には今にも泣きそうに見えた。まるで迷子になってしまった自分を許せずに唇を噛む子どもだ。

 どんな返事を返しても何かが違うようで、大きな子どもの彼の台詞を繰り返す。

「……そうだね。俺は芳を一人にするよ」

「俺はこれからどうすればいい?」

「……っ」

 絶対に泣かないと決めていたのに、途方に暮れた芳があまりにも小さく見えて、翠の目からはぼろぼろと滴が零れていく。

 悔しいくらいに彼にかけられる言葉が見つからなかった。自分の全てを攫っても、これから離れる彼に言えるものが何一つない。ごめんねと言うのは簡単だが、それだけは嫌だった。謝って正当化して、楽になりたくない。贖罪にもならない意地を突き通す。

「……わからない。俺は何も言えない」

「どうして一緒にいられないの?」

「……」

「泣くくらいならそばにいてよ」

「……いられない。いられないよ」

 あとからあとからこみ上げる涙のせいで呼吸が苦しくなる。握りしめた自らの手に滴が垂れ、歯を食いしばって耐えようとしても一向に収まらなかった。彼のいいところもわるいところも受け止めて、このまま共にいたほうがよっぽど楽だとすら思う。

 それでも、それだけはできなかった。翠は泣きながら、一生懸命に芳を見つめ続ける。

 張りつめた肩に怒り。顰めた眉に哀しみ。わななく唇には絶望。笑顔の盾を取り払ったありのままの芳だ。

「芳のことを大切に思ってたよ。……今まで、ありがとう」

 月並みだが、それだけが翠に言える全てだった。

 ――唐突に、翠の服が強い力で引かれた。芳の顔が近づいているとわかった瞬間、翠は反射的に、かつては自分を包み込んでいた体を突き飛ばした。

 テーブルとカップが耳障りな音を上げた。芳は何が起こったかわからないとでもいいたげに目を見開いたが、数秒すると強張った顔のまま笑い声をたてる。

「……そう。わかった。もう、俺の知ってる翠じゃないんだね」

 何かあったのかと心配しているパーテーションの向こうに映った人影に向かい、微かに首を振って翠は制止を示す。影はためらうように佇んだあと、また元の場所に戻っていった。

 芳は掌で目を押さえながら細く長い息を吐き出した。

「体でどうにかする以外のやり方は知らないんだ。……もう行っていいよ」

 印象的な目が隠れているために表情がわからない。あえてそうしているのだろうが、ひらひらと力なく振られた手を最後に請われるままに場を辞した。

 パーテーションを超えるとすぐに狩野が寄ってくる。泣いた翠に一瞬ぎょっとして芳の席を振り返ろうとしたが、腕をつかんで止めた。それで察したようで、それ以上の追及はやめることにしたようだ。

 思い出すと嗚咽が止まらなくなるため、必死で歯を食いしばった。狩野はただ、翠の隣に寄り添っていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か

雪兎
BL
第二性が存在する世界。 Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。 しかし入学初日、彼の前に現れたのは―― 幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。 成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。 だが湊だけが知っている。 彼が異常なほど執着深いことを。 「大丈夫、全部管理してあげる」 「君が困らないようにしてるだけだよ」 座席、時間割、交友関係、体調管理。 いつの間にか整えられていく環境。 逃げ場のない距離。 番を拒みたいΩと、手放す気のないα。 これは保護か、それとも束縛か。 閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。

冤罪で堕とされた最強騎士、狂信的な男たちに包囲される

マンスーン
BL
​王国最強の聖騎士団長から一転、冤罪で生存率0%の懲罰部隊へと叩き落とされたレオン。 泥にまみれてもなお気高く、圧倒的な強さを振るう彼に、狂った執着を抱く男たちが集結する。

経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!

中岡 始
BL
社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。 無表情・無駄のない所作・隙のない資料―― 完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。 けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。 イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。 毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、 凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。 「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」 戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。 けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、 どこか“計算”を感じ始めていて……? 狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ 業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!

運命の番は僕に振り向かない

ゆうに
BL
大好きだったアルファの恋人が旅先で運命の番と出会ってしまい、泣く泣く別れた経験があるオメガの千遥。 それ以来、ずっと自分の前にも運命の番があらわれることを切に願っていた。 オメガひとりの生活は苦しく、千遥は仕方なく身体を売って稼ぐことを決心する。 ネットで知り合った相手と待ち合わせ、雑踏の中を歩いている時、千遥は自分の運命の番を見つけた。 ところが視線が確かに合ったのに運命の番は千遥を避けるように去っていく。彼の隣には美しいオメガがいた。 ベータのような平凡な見た目のオメガが主人公です。 ふんわり現代、ふんわりオメガバース、設定がふんわりしてます。

竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜

レイ
BL
「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」 魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。 彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。

身代わり召喚された俺は四人の支配者に溺愛される〜囲い込まれて逃げられません〜

たら昆布
BL
間違って異世界召喚された青年が4人の男に愛される話

平凡高校生の俺にイケメンアイドルが365回告白してくる理由

スノウマン(ユッキー)
BL
高校三年生の橘颯真はイケメンアイドル星宮光に毎日欠かさず告白されている。男同士とのこともあり、毎回断る颯真だが、一年という時間が彼らの関係を少しずつ変えていく。 どうして星宮は颯真に毎日告白するのか、そして彼らの恋の行方は?

処理中です...