親愛なる風の騎士様へ

筺 柚人

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10 トレーニングと名前

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 その日、ミランは入ったことのない建物の前、ではなく入り口からやや遠い位置で立ち尽くしていた。

 ここは市民カードを見せれば安い金額で利用できる運動施設である。先日、以前言っていたストレッチを教えるとアデルから魔法具で連絡をもらい、せっかくだからとお願いしたところ、ここを案内された。



 運動というと今まで縁がなく、こういった施設に来ようと思ったこともない。

 先程から中に入っていく人たちは、小ざっぱりとしていて皆鍛えて見えた。男性も女性も、なんの気負いもなく入る様子なのが恐ろしい。

 入りにくい。

 立ち止まっているのはミランくらいで、それはそれで目立つだろう。ええいままよと足を踏み出そうとしたその時、名を呼ばれ、自分の肩にものすごく力が入っていたことを自覚した。

 小さくため息を吐きつつ振り向くと、案の定、少し後ろにアデルが立っていた。

 見かけた人たちの例に漏れず気負いなさそうではあるが、その人が知り合いかどうかで全然受ける印象が違う。

 助かったとばかりに小走りで駆け寄ったミランを、立ち止まったアデルは少し不思議そうに瞬きをしながら迎え入れた。



「すまない、また待たせてしまった」

「俺が早かったので気にしないでください」

「……もしかして、緊張していた?」



 ミランはへらりと情けない笑みを浮かべた。ちょっとやそっと鍛えたようでは追いつけない肉体のアデルが傍にいるから、もう安心だ。



「アデル様の顔を見るまでは帰りたかったんですけど、少し落ち着きました」

「帰りたいくらいだったのか? でも助けになったのなら良かったよ。それじゃあ行こうか」



 今日もアデルは堂々としており、ミランを先導して中に入った。

 支払いをすませると更衣室で服を着替え、フロアに出る。ミランが見たこともない器具で体を鍛える人たちがそこかしこにいた。

 寝転がった人が持ち上げている重たそうなダンベルに、落としたら痛そうだと肝を冷やし、座ったまま脚で板を押している人の盛り上がった筋肉を見て、自分の腕二本分よりも逞しいと戦慄する。

 先ほどとは質が違う緊張をしてしまったミランに、アデルは目ざとく気が付いたらしい。

 眉をひょいと下げて、苦笑いよりもいくぶん優しい笑みを口元に乗せた。



「大丈夫、今はああいうのはやらないから。ほらミラン、ここだよ。靴を脱いでこっちへどうぞ」

「あ、はい」



 その一角はマットが敷いてあって、各々が自分のペースで身体を動かしている。

 アデルはそこでまず、準備運動として関節まわりをほぐす動きを見せてくれた。



「ストレッチをする前に簡単な準備運動をしておくと、その後の伸び感が違うんだ。特にミランは筋肉が強張っていたからしっかりめにやろう。ただ無理はいけないよ。筋を傷める原因になるからね」

「はい」

「あと君、少し猫背だろう。ストレッチに慣れてきたら軽い筋肉トレーニングもいれていこう。呼吸がしやすくなるはずだから」

「……呼吸がしやすいってどういう意味ですか?」

「ん? ……うーん、人間の上半身って、まず背骨があって、周りに内臓や筋肉がある状態だよね。背骨は機能的にクッションになるように元からカーブを描いているんだけど、猫背は普段の姿勢とかストレス、筋力不足が原因でそのカーブが深くなったり歪んでいる状態なんだ。そうすると、本来呼吸の通り道として想定されている場所が、歪みによって狭くなる。それで息を吸っても取り込める量が少ないから、結果として呼吸が浅くなるんだよ。猫背がなおれば呼吸の通り道がそれまでより広くなるだろう? それが呼吸がしやすいってことなんだけど……」



 途中からミランがぽかんとしていたのがわかったのだろう。アデルはけん玉を披露するミアを見つめるような目をして、「わかりやすい例を見せようか」とミランの身体に手を伸ばした。



「力を抜いて。すこしくすぐったいかもしれないから、もし無理なら自分でやるんだよ」

「え、あの」

「これから肋骨を触るね」



 宣言通り、アデルの指先がミランの肋骨付近に差し込まれた。痛みというより圧が加わる。反射的に体が硬くなったものの、アデルののんびりした態度に、だんだん体から力が抜けていく。

 鳩尾の少し下、身体の中心から始まって、左の肋骨のきわの部分を押していく。骨のカーブに沿うように、脇腹のほうまで、呼吸のリズムで指先が移動していった。

 くすぐったさよりも、触られている部分が敏感になって、じんわりほぐれているのがわかる。終わってみると、左のほうだけ明らかに鼻の通りが良かった。



「うわ、すごい。本当に息が多く吸える気がします」

「よかった、実験成功だ。猫背の人は体が内巻きになっている状態だから、腹まわりの筋肉が縮んでいるんだよね。今のは指圧でその縮みを伸ばしてあげたんだ。横向きでやるほうが簡単だから、寝る前にやってごらん。ぐっすり眠れると思う」

「そうします……アデル様、本当に物知りですね」

「こんなのはまだまだだよ。さ、もう片方は自分でやってみようか。それが終わったらストレッチを教えよう」

「はい!」



 こんな少しのことで体が変わっていくのは面白い。

 ミランは家に帰ったら、寒さで体が痛いと毎日のように嘆いている祖父に試してあげようと思いながら、言われるがまま身体を動かした。



 

 

 ***



 

 

 きりが良いところで施設を出て、近くの食事処に入った。二人とも午後から仕事があるが、出勤までは少し時間がある。

 せっかくだから近場の店に入って食事をすることにした。

 ミランはこのあたりには詳しくないので、知っている店があると言ったアデルに任せる。

 少し歩いた先にあったのは黒い庭という名前のカフェで、いかつい名前に反して店内は女性客のほうが多い。

 塗装は雪の中には目立つ黒ではあるものの、モチーフは妖精とか動物で賑わっていた。先程のある意味汗くさい場所とは大違いだ。



 自分で選んだというのにアデルは困ったような顔で、「こういう感じか……」と足を止めた。



「あまり食べ歩くこともないから詳しくなくて。ここはマルティンに教わったんだ。名前がいかついわりにはなんというか……」

「ファンシー? ですね」

「味は間違いないと思うがあいつの趣味ではないな……ああ、もしかしてトリシャさんの趣味か?」



 彼の顔にははっきりと入りにくいと書いてある。一方ミランはあまり気にならず、「ミアが気に入りそうな店構えですね」とけろりとしていた。



「マルティンさんとトリシャさんが選んだお店ならきっと美味しいですよ。料理教室されてるんですもんね」

「……」



 急にアデルはミランを見つめた。物言わぬ様子がやたらと怖い。

 今まで彼にこんなにまじまじと凝視されたことがなく、視線がぐさぐさ刺さるようだ。



「な、何か……?」

「……いや、何でもない。行こうか」



 先程までの逡巡は何だったのか、アデルはすたすたと店に向かって歩いていく。

 ミランは慌てて後を追った。何か悪いことでも言ったかと会話を振り返ってみても、全然わからない。

 彼は理由もなく機嫌を悪くするような子どもっぽい人ではないから、ミランはちょっと驚いてしまった。

 否、機嫌がわるいというのとはやや違う。

 しっくりくる言葉を探しているうちに、店員に席を案内され、慌ただしく注文するころには、アデルの態度はいつも通りに戻っていた。





 ***







「ずばり、それは嫉妬と見た」



 マルティンが指先をぴしっと立てながら言った一言に、ミランは首を捻った。

 ここはいつもの酒場である。マルティンは今日はトリシャと一緒に食事に来てくれていた。



 掃き溜めに鶴という表現は言い過ぎかもしれないが、飲み会をしている客だらけの店内では、トリシャの透明感のある美貌は特に目立つ。

 この卓は手洗い場に近い席なのだが、今日はやけに手洗いに立つ人の回数が多いように思う。美人を見たい酔っ払いの心理だろうか。

 しかし、トリシャだけでなくマルティンも一切気にしていないように見えるので、ミランはすぐにその思考を意識の端に追いやった。



「嫉妬……って、誰が、誰にです?」



 マルティンの顔を覚えた店主によって、ミランは少しだけ厨房の外に出ている。

 挨拶のついでに先日のアデルの反応について相談してみれば、帰ってきたのは先程の言葉だった。



「アデルが、俺に、でしょう」

「……え? その場にいないマルティンさんにどう嫉妬するんですか?」

「あいつもあれで気にしいなんだよ。多分ね、俺がさんで、自分が様づけなのが気になってるんだと思うよ」

「……」



 それが嫉妬という表現になる理由はよくわからなかった。眉間に皺を寄せてしまったミランに、トリシャがグラスを卓に置いて彼の言葉に付け足す。



「アデルさんってあの容姿でしょう? 告白された数は多いのに、ほとんど断ってるみたいなの。だから情緒が子どもなのよ。自分の方が先に知り合ったのに、仲の良さで負けてるみたいできっと拗ねてるんだわ」

「そうそう、そういうこと。俺の名前を出してその反応でしょ?」

「……マルティンさんを褒めたから俺に嫉妬してるんじゃないんですか?」

「ないね、断言するけど、それはない。あいつは俺なんかちょっと使い勝手がいい調味料くらいに思ってる」

「あ、今のは無くなったら困る、ただし無くてもどうにかなるって意味よ」

「それは流石に穿ちすぎじゃないですか……?」



 彼はそんなに薄情なタイプには思えない。

 しかし、補足したトリシャはさらに続けた。



「例えるならお塩よね。まずなくならないことがわかってるからぞんざいに扱う、そういう仲だと思うわ」

「そう、あいつにとって俺は塩。君は……何だろうな、プロテイン? あいつ隙あらばプロテイン飲んでるから。“騎士たるもの逞しく、いつでも市民を守れるようにしておきたい”ってよく言ってるんだよね。とにかく自分に厳しいんだよ。アデルって剣は仕方なしに持ってるけど、格闘技はべらぼうに強いよ。体を鍛えているのも最悪自分が肉の壁になればいいみたいに思ってるところあるだろうし。本人は言わないっていうか気づいてないかもしれないけど」

「プロテインの意味がよくわからないんですが、つまり?」

「あれだね、筋肉を作るエネルギーのもと。自分の信念を形作るための大切なエッセンス」

「……俺がですか? そんなたいそうな存在だとは思えません」



 ミランは途方にくれた。彼にとって自分は、少し縁があるだけの道具屋の店番だろう。

 理解したくてした質問のせいで、考えはさらにとっちらかった。自分が見ている彼と、彼らが見ているアデルは本当に同じ人なのだろうか。

 ただ、信念を持って職務にあたっているのはよくわかる。それで、ミラン自身も助けられたから。



「ミランはアデルに気に入られてる自覚って本当にないの?」

「……よくしていただいているとは常々思ってますよ」

「そこ、それだよ。そういう慎ましさというか卑屈さというか、ちょっと隙があるのがアデルにとっては刺さるんだよね。あいつも物凄くネガティブだからさ」

「わかるわ。ちょっと構いたくなるわよね、ミラン君って。いじめっ子に目をつけられちゃいそうなタイプというか」



 しれっと酷いことを言われた。ただその通りすぎて反論すら出ない。

 学生の時から、時折妙な態度を取られることがあった。相手は決まって気が強い人で、ミランは更に妄想に逃げがちになった。

 それをたかだか二回あっただけの人に言い当てられる自分がわかりやすいのか、二人の観察眼が卓越しているのか。おそらくどちらもだろう。

 よく喋るのは変わらなかったが、アデルがいない時のマルティンは老獪に見えた。こんな一面もあったのかと驚く。

 それに難なくついていっているトリシャとは、本当に相性がいいのだろう。まさしく阿吽の呼吸というやつだ。



「まあミランは今まで通りにしてていいよ。あいつのことは放っておいて大丈夫だから」

「はあ……」

「ちょっと過保護な年上の友達ができたなーくらいに思っておけばいいよ」

「……友達、ですかね? 俺とアデル様って」

「あら、違うならなんて名前になるの?」



 トリシャが言ったその一言は、思いがけずミランの心にさっくり刺さった。

 今まではその関係性に名前をつける必要も、理由もなかった。今でもやはりないと思っている。けれど、他の人から見たらそれはおかしなことなのだろうか。



 固まってしまったミランに、トリシャはぱっと表情を変えた。



「ごめんなさい、踏み込みすぎちゃったみたい。若い男の子と話すのなんて久しぶりだからつい」

「そんな……トリシャさんも十分お若いじゃないですか」

「あら、ありがとう。でも私、あなたの倍の年齢よ」

「えっ」



 ミランは先程までの悩みも吹き飛ぶ心地で目を見開いた。

 まじまじと彼女を見ても全く信じられない。肌の艶めきも、皺ひとつない顔も、どう見ても二十代のそれなのに。

 トリシャは口元に手を当てて、恥ずかしそうに「言っちゃった」と舌を出す。



「これでおあいこね。私、めったにこのこと言わないのよ」

「……なんだかすみません、気を遣わせて」

「ううん。構いたがりの年上の友達がもう一人増えたくらいに思っておいて」



 そうサバサバ笑う彼女は魅力的だった。その美貌を差し置いても、多くの男が群がったのも頷ける。



「トリシャは今日も綺麗だよ。明日も明後日も、もちろん昨日だって綺麗だったよ!」

「あらありがと。そうだミラン君、よかったら今度お教室にいらして。よければアデルさんと一緒に」

「いいんですか?」

「ええ。いつも大勢の生徒さん相手のレッスンだから、時々は身内で気軽にやるのもいいなって思ってるの」

「はい、ぜひ!」



 ミランは二人の注文を受けるとやっと厨房に戻った。けっこうな時間話していたはずだが、鼻の下を伸ばしていた店主にはむしろ喜ばれたくらいだった。



「いやあ、美人は目の保養だ。あの照れた顔なんか可愛かったなあ」

「……あの」

「舌をさ、ペロっとするのが幼くていいな。あの旦那、うらやましい」

「……あの、店主……後ろ……」

「後ろ? ……あ」



 ミランの指先の方向を振り向いた店主は、女将が腕組をしている姿を見て固まった。

 空笑いがむなしい。

 女将は眉を吊り上げて、店主に凄んだ。



「仕事に差し支えるから今はやめておく。けれどあんた、そんな気の抜けたことばかり言ってたら張ったおすからね!」

「す、すまーん!」



 ミランはくすりと笑いながら、調理に戻っていった。
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