親愛なる風の騎士様へ

筺 柚人

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16 偶然の出会い

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「アデル様! 待ってください、アデル様!」



 半ば叫ぶように名前を呼んでも、アデルは一向に振り向いてくれなかった。

 風を切る騎士服の肩がいかつく、頑として振り向かないという意志を感じる。

 驚くべきことに、ミランが走るより、彼の急ぎ足のほうが早かった。身長以前に足の長さも違えば、持久力も違う。既に息が上がっていることを思うと、当然ながら走り続けることはできない。



 周囲の人の何事かという視線を感じた。もう少し行けばこの区画は終わり、人通りが増える大通りの端になる。そこまで行ってしまえばもう追えないだろう。

 転んでみるか。泣いてみるか。そんなんじゃ彼は振り向かない。強靭な意志の力でミランの存在を意識から締め出している彼は、そんな気の引き方では止まってくれないだろう。

 あの日戻ってこなかったことから予想がつく。

 今この瞬間にだってミランが傷ついているのに、どうして彼は頑ななんだろう。



 だんだん腹が立ってきた。いつの間にか走る体力もなくなり、水を求めた喉が痛む。

 もういい。

 ミランは立ち止まった。太ももに手をついて息を整え、遠ざかっていく背中めがけて、大きく息を吐いた。



「アデル・シュルツ第三部隊騎士隊長ー! あんたは俺を捨てるのかっ!」



 止まったのはアデルの足ではなく、道ゆく知らない親子の足だった。

 けれどアデルの身体が一瞬ずっこけるように揺らいだ。ミランは既に開き直っていた――たとえ街中の噂になってもいい。

 頑固な彼に、自分の方がよほど頑固であると知らせるのだ。それくらいじゃないと、あんな寂しがりの人を捕まえてはおけない。



「俺に朝帰りまでさせておいて捨てる気か! アデル・シュルツ第三部隊騎士隊長! 責任とれ!」



 アデルの歩みがやっと止まった。

 この作戦ならいける。ミランは一番近場にいた老婦人に近づいた。

 彼女は気の毒そうにミランを見て、帰りたがる孫にちょっと待っておいでと言い聞かせた。



「あなた大丈夫? 騙されてるんじゃなくて? そんなにひどいことをする騎士様がいるとは思えないわよ」

「でもあの人、俺に名乗りましたよ。第三部隊の隊長のアデル・シュルツだって」

「良かったら騎士団に問い合わせてみたらどう? ほら、もしかしたら騎士様の名を騙るおかしな人かもしれないし……」

「――その必要はありません」



 久しぶりであっても、アデルの声は深く響いた。

 アデルは笑顔を取り繕ってはいたが、上げた頬が引くついていた。

 ものすごく怒っている。一瞬怯みそうになったが、ミランだって怒っているのだ。もう腹はくくった。そうでもなきゃ、こんな問題行動は起こさない。

 アデルはゆったりと頭を下げて、周囲の人影に向かって伝えた。



「皆様、お騒がせして申し訳ございません。彼とはちょっとした行き違いがありまして、あとは引き取らせていただきます」



 残りたそうな野次馬もいたが、アデルの表情はあまりにも圧が強かった。十数秒もすれば、人の流れは元通りになった。

 唯一、先程の老婦人だけが孫の手をしっかり握って、ミランの行動を咎めた。



「こんなに立派なんだもの、こちらは騎士様よね。お兄さん、困らせちゃだめよ」

「すみません……つい」

「……でも、何もないとこんなことはしないわね。騎士様も、こんな可愛い子をたぶらかしちゃいけませんよ」

「たぶ……失礼しました。どうぞ気をつけてお帰りください」



 老婦人と孫を見送る。アデルは三日間寝ていないといいたげなため息を空に吐き出して、それからミランを見下ろした。



「君はどういうつもりであんなことをしたんだ! だいたい朝帰りって、何もなかっただろう?」

「あったなかったは置いておいて、たしかに朝帰りしてるじゃないですか。そもそもアデル様が最初から止まってくれたらあんなことしませんでした」

「それにしたって他にやり方があるだろう! 本名に、役職に、演説じゃあるまいし困るんだが」

「やり方がないからああやったんです! じゃあどうやったら止まってくれたんですか!」



 アデルは眉を顰め、考えるように斜め上の方を見つめた。それから「……確かに、あれ以外の方法では止まらなかったかもしれない」と白状する。



「でしょう。今のアデル様は俺が泣こうが喚こうが熊に襲われようが助けてくれませんよ」

「熊はさすがに助けるよ……」



 ミランはアデルの突っ込みを聞き流し、近くの路地まで彼の腕を引っ張った。



 かろうじて明かりが届くくらいの場所で、今度はひっそりと隠れるようだ。

 そこまで来て、やっとミランは落ち着いた。しっかりと彼の服の袖を握ったまま、壁を背にずるずるとしゃがみこむ。



「……緊張した……」

「そんなに憔悴するくらいならやらないほうが良かったんじゃないか?」

「それ本気で言ってます? 怒りますよ」



 ミランの強い怒りを感じたようで、アデルはついに大人しくなった。



「……こんなに思い切りが良いこともできたんだな」

「俺も自分がこんなバカみたいなことするなんて知りませんでしたよ。言っておきますけど、アデル様のせいですからね。……これでもあなたに合わせて偶然の出会いってやつを守ろうとしたんですよ。職場にも家にも行かなかったでしょう?」

「……うん。てっきり諦めたかと思っていた」

「違います! あなたのために! 色々考えて! 酒場の仕事も増やしたし、散歩にだって出るようにしたし! あなたからひょっこり連絡が来るんじゃないかって、風呂に入ってても通信の魔法具を手放せなかったり……」



 喋っていると苦しくなって、ミランは彼の服を掴んでいた手を外した。顔を覆って、大きくため息をつく。



「諦められるはず、ないじゃないですか……」



 手を離してもアデルは逃げなかった。ミランの傍らでじっと立ち尽くす。

 ミランの言い分を聞いているようにも、どうこの場から逃げようかと考えているようにも、その足は見えた。

 涙が引っこんだのを見計らって上向くと、アデルは少し痩せたようだった。顎の線の細さが増している。

 それに、あれから更に髪が伸びたようで、今は後ろ髪をくくっていた。よく見たら、身に着けているのはクラウゼ道具屋で使っているリボンだ。

 商品を包装するときに使うもので、売り物ですらない。けれど母の好みで、家族の瞳の色と同じサファイア色をしている。



 こんなに未練だらけなのに、ミランを振るなんて、笑わせる。



「アデル様こそ諦めてください」

「……何を?」

「俺をこの世の全てから守るってことをです! 俺は守られたいなんて言ってません! ただ、あなたといたいだけです! 俺を守るために、俺といることを諦めないでくださいよ!」

「……その返事はしただろう。俺の考えは変わらない」



 彼の瞳は冴えわたっていた。職場でもこんな瞳をしているのだろう。百戦錬磨の騎士でも怯えるというものだ。

 けれど、ミランは引かなかった。見掛け倒しで引くくらいなら、最初からこんなに悪あがきしていない。



「……しゃがんでください」

「え?」

「腰を落として、しゃがんでください」

「……嫌だ」

「前回は俺があなたに譲歩しました。今日はあなたが俺に譲るべきです」

「……」



 それだけ強く言えば、アデルはやっとしぶしぶと膝を曲げた。



「君、こんな性格だったか?」

「知らなかったんですか? 俺は本当は、すごくわがままだったんです。……目、閉じてくださいね」

「な」



 続けようとした言葉を、ミランは自らの唇でもって封じた。

 ぽかんと開けた彼の唇めがけ、ミランはもう一度口づけた。柔らかな感触。口をつけた場所から、何か大切なものが流れ込んでくるみたいだ。

 彼が固まっているのをいいことに、思う存分、くっつけるだけの口づけを繰り返す。色気もへったくれもないキスは、以前アデルがしようとしていたみたいに格好つけたものじゃない。



 このキスは返品不可の判子のようなもの。商品の裏にぺたりと押す、あれみたいなものだ。



 少しして、我に返ったアデルに肩を掴まれ引きはがされた。アデルはこの暗がりでもわかるくらいに頬を真っ赤に染めて、目を剥いていた。



「どういうつもりだ!?」

「告白です。口で言っても伝わりそうになかったので」

「君、君は……」

「なんですか。何か思うことがあるなら言ってくださいよ。俺はもう充分待ちましたよ」

「……」



 アデルは言葉が見つからないみたいに、ミランの肩を掴みながらも上を向いた。今日はミランのほうを向かないようにか、やたらと空を見ている。動揺しているのだ。

 覚悟を決めたミランの心は今日は鋼である。アデルの腕を振り払うと、彼の身体に腕を回した。

 その瞬間、アデルはブリキの人形よろしく固まった。その胸あたりに片耳を押し付ける。分厚い生地ごしなので分からないが、心臓のあたりに頭をこすりつける。



 頬を擦る服の向こう、彼の肉体が息づいている。やっと触れたこの体に、ミランはそのまま目を閉じた。



「好きです、アデルさん。俺といてください。あなたが居てくれると思うだけで、俺はきっと強くなるから。あなたが俺を守ってくれていると思って頑張れるから。それでももし傷ついたら、あなたがその傷を癒してください。かわりに俺も、あなたを守るし、あなたの傷は抱えるから。どうか一緒にいさせてください」 

「……ミラン」

「……やっと名前を呼んでくれましたね」



 思えば今日は彼の前で一度も笑っていなかった。ミランはようやく、口を上げて笑みを形作った。

 幸せに見えるといい。例え傷ついたとしても、アデルがいるだけで幸せなのだと、彼が信じてくれればいい。そんな気持ちで。



 アデルはミランを見つめながら、静かに瞬きを繰り返していた。色々なことを考えているようだった。

 全て聞くには彼は頑固すぎるから、ミランは顔をつんと上げて目を閉じた。



 暫くして、アデルの指先が頬に触れる。目の下の涙黒子のあたりをゆるくこする仕草は、蛹が蝶になるのを助けてあげるように優しかった。



「顔を隠すのは止めたのか?」

「騎士様のとなりにいるのに胡散臭いとこまるでしょう。俺だって少しは考えてるんですよ」

「この綺麗な顔が世界にばれてしまうと思うと惜しい気もするけど……いつでも見られるのは嬉しいよ」



 目を瞑っていてもわかる。声が少しずつ近くなり、吐息がかかる距離で、アデルは一度小さく笑った。



「ミランは、本当に……」

「アデルさん馬鹿、でしょ?」



 得意げに歪めた唇を、アデルの柔らかいものが覆った。
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