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第Ⅰ章
ヤクザのためのアインシュタイン
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「なるほど、タイムマシンってのはそういう仕組みになってたんだな。」
ヒデキは素直に感心していた。
タイムマシンは SF のおとぎ話ではない、とその本には書いてあったからだ。
「光より速ぇってことは、大したことなんだな、やっぱり。」
どうやらタイムマシンに乗るためには、光より速くなることが必要らしい。そこまでは分かった気がしたのだ。もう少し考えれば、本当にタイムマシンに乗れる気がしないでもなかった。
「つーことはだよ、つまり、、、」
などといいながら、辺りを見渡した。
『いるじゃねぇかよ、都合がいいカモがよ。』
そうだ、頭を整理する時は、一人で考えるよりも、人に説明した方が自分でも理解しやすい時がある。今はきっとそんな時だ。
ヒデキは声を掛けた。
「オイ、シンイチロウ。ちょっと面貸せ。」
同じように、隣のデスクで本を読んでいたシンイチロウは、素直に顔を上げた。表紙からすると、読んでいたのはどうやらヒデキと同じ本のようである。
「どうしたんですか、アニキ?」
シンイチロウはまだ十九の新米ヤクザだ。ヒデキが舎弟として面倒を見ている。
「良いからちょっとこっち来い。お前、タイムマシンって知ってっか?」
「はい、あの昔にワープできるって奴ですよね。」
素直にデスクから立ち上がり、顎でしゃくるヒデキの指示通り、眼の前のソファに座った。
「そうだ、その昔にワープするタイムマシンだ。」
ヒデキは質問の核心に進んだ。
「でだ、何で昔にワープ出来るか知ってるか?」
そこは、ヒデキのアパート代わりの倉庫だった。元々は組が何かの形に差し押さえた物件のはずである。ただ、差し押さえたのはいいものの、誰も使うものがいなかった。そこにヒデキが眼を付けたのだった。
だだっ広い空間の片隅に、ちょっとした居住空間がしつらえてある。誰にも邪魔されることのない空間。今はヒデキとシンイチロウの二人きりだ。
「何で出来るかって?」
軽い口調でシンイチロウは答えた。
「それってストーリーとか設定によるじゃないですか。アメリカのドラマのタイムトンネルとかだと、かまぼこ型の細長い奴っていうか、クロワッサンの曲がった奴っていうか、あれの中に入って、、、」
「あぁ、あのテレビ番組ね。まだ白黒だった頃な。子供心にも、あの胡散臭さは鼻に付いたよなぁ。」
思わず昔を懐かしむヒデキ。
「日本で言えば何と言っても、宇宙戦艦ヤマトですかね。波動エンジンで宇宙を旅するんすよね。」
「おぉ、イスカンダルな。松本零士だな。SF宇宙アニメの原点だもんな。」
「『メーテル? 眼、めーてる?』、何て言ってませんでしたか、アニキも。」
「何言ってんだよ、それは999(スリーナイン)だろ。それを言うなら、俺は『縁側の江川』だな。」
「あぁ、あの縁側に座ってるだけの江川ですね。」
「おぉ、江川が湯呑持って、縁側にただ座ってるんだよ。」
「ハハハ」
「ハハハ」
「・・・」
「・・・」
「で、ワープがどうかしたんですか、アニキ?」
話題をシンイチロウに戻してもらった、ヒデキ。
「お、おぉ、そのワープなんだがよ、、、」
辺りを見回し、やや小声で言う。
「わかったんだよ、俺。」
つられてシンイチロウも小声になる。
「何を?」
「やり方を。」
「え!ワープのやり方、アニキがわかっちゃったんすか!?」
思わず大声を出すシンイチロウに、指を立てて黙らせるヒデキ。
ヒデキに肩を掴まれ、座り直されるとシンイチロウは再び質問し始めた。
「本当っすか?」
答えるヒデキ。
「本当だよ。」
「何時わかったんすか?」
「さっき。」
「何処で?」
「ここで。」
「マジで?」
「マジで。」
「・・・」
「・・・」
「ワハハハハ。ヒヒヒヒヒヒ。」
いきなりシンイチロウが腹を抱えて笑い出した。堪えていた爆笑が一気に噴き出した。
「何笑ってやがんだ、シンイチロウ!」
ヒデキが怒鳴りつけて頭をはたくと、シンイチロウは、ハタと真顔に返った。
「・・・」
シンイチロウはヒデキのオデコに手をやると、
「熱はない、と。」
そう言うなり立ち上がると電話を取り上げて、どこかに連絡するのか、プッシュホンを押し始めた。
「何処に掛けてんだよ。」
「医者に決まっているじゃないですか。こう言うのは早い方が良いんですよ。自分じゃ掛けずらいでしょうからね。『ちょっと最近、気がふれたみたいで。』、なんて言ったら、本当にクルクルパーかって思われちゃうから、そういう時は、この私がですね、、、」
有無を言わさずシンイチロウから受話器を取り上げるヒデキ。
「いいんだよ、余計なことはしなくてもよ。」
睨みつけて、顎でソファをしゃくる。不承不承、無言で座るシンイチロウ。ヒデキも向かいのソファに腰を掛ける。卓上の煙草を勧め、自分でも口に喰わせる。すかさずシンイチロウが愛用のジッポで火を差し出す。ちょっと片手をかざし火を点ける。シンイチロウもそれに続いて、自分のタバコにも火をともす。シンイチロウがわざとらしくジッポをスナップで鳴らして、その火を消す。二人でゆっくりと煙を味わう。
「・」
何かを言おうとするシンイチロウを、無言の片手で制止するヒデキ。
そして、シンイチロウの前に、ポンッと一冊の本を放った。
「・」
ヒデキが顎でしゃくったその先を、シンイチロウの眼が追う。その視線の先には、ヒデキが読みかけていた本があった。手に取るシンイチロウ。
「これ、代貸しの本ですよね。」
そう、組の代貸しであるハンタロウが書いた「ヤクザのためのアインシュタイン」、その名の通りヤクザのための相対性理論の入門書である。
「それなら、ほら、俺も読んでますよ。」
シンイチロウが、笑顔で尻ポケットから本を出す。さっきまで読んでいた本だ。
実はこの本、組員全員の課題図書となっていた。この一週間以内に読み終えた上、感想文を提出しなければならないのだ。それもハンタロウからの伝達事項である。つまりハンタロウは、自分で書いた本を組員全員に読ませた上、その感想文まで提出しろ、と命じていたのである。何のためかは不明だったが、組としては正式な命令事項だった。
何はともあれ、今のヒデキにとっても、シンイチロウにとっても、この本を読むことは必須の仕事であり、かつ感想文まで書かなければならなかった、と言うわけである。ここでやっと話が通じた二人。
「この本に書いてあるんだよ、ワープの仕方がよ。」
「え?そんなこと書いてありましたっけ?」
シンイチロウは手に取って、ページをめくりながら言う。
「俺には全然わかりませんでしたけど。」
「だろうな、ちょっと分かり難いといえば、分かり難いからなぁ。」
「アニキは、わかったんですか?」
「おぉ、だからわかったって、さっきから言ってんじゃねぇかよ。」
シンイチロウが、腕を組んで煙草をふかしながら、疑わし気な様子で確認する。
「アニキを疑うようで悪いっすけど、その話本当っすか?」
「あぁ、本当だよ。」
まだ信じ切れない様子のシンイチロウ。
「本当かなぁ、相対性理論っすよ。」
「おぉ、相対性理論だよ。」
「アインシュタインっすよ。」
「あぁ、アインシュタインだよ。」
「アニキ、もしかして、オジキの感想文、本気で書く気じゃないっすか?」
「あぁ、書く気だよ。書かなきゃ破門だからね。お前だって同じだろ。」
シンイチロウが、煙草をもみ消して、真顔になって聞いてきた。
「じゃぁ、そのアニキが書く感想文の中身って、ちょこっと俺にも教えてもらっても良いっすか?」
「いや、だからよ、それを教えるっつぅーか、頭を整理するっつーか、よ、そのためにお前をよ、、、」
おずおずとシンイチロウが口を挟む。やや斜め下からの目線だ。顔もニヤつき始めている。
「で、でもって、俺の感想文にも、それをちょこっとパクっちゃってもいいっすか?」
「そりゃぁ、お前、良いに決まってんだろうがよ。だって、お前に面貸せっつったのは、俺だからね。お前に頼んで聞いてもらおうってんだから、そいつをお前が煮ようが焼こうが、俺が文句をつける筋合いの話じゃねぇわな、だって考えてもみろよ、、、」
「あざっす、あざっす、あざっす。」
シンイチロウは、低めのテーブルをまたいだかと思うと、跪きながら正座をしてヒデキの両手を取って頭に掲げた。
「アニキは、やっぱアニキっす。俺のアニキっす。そう信じてたっす。何処までも、アニキについて行くっす。」
「何言ってんだよ。」
「あ、そうだ、空気が乾燥してアニキの喉がやられるといけねぇから、加湿機が必要だな。それから煙草の煙が目に染みるといけねぇから、空気清浄機も買っておくか。それに眼にはビタミンが良いって言うから、フルーツの盛り合わせもだな。それに、ユンケルだよな、やっぱり。」
などと言って立ち上がり、
「じゃぁ、俺すぐ戻るっすから、ちょっと行ってきます。」
唖然としてヒデキが無言でいると、
「感想文、頑張ってくださいね。アニキだったら、間違いなし!」
と言って、シンイチロウは出口に向かった。扉で振り返り、右手でサムアップを返してよこした。
「感想ブーン、感想ブーン、、、」
そして、車のキーを人差し指でクルクル振り回しながら、スキップで出て行った。
「お、おい、ったく、よお。」
一人残されたヒデキは、舌打ちをした。
「折角、頭を整理するために、シンイチロウをだしにしようと思ったのによう。」
しかし、こうなっては仕方がない。諦めて一人で、頭を整理することにした。煙草をもみ消すと、腕を組んで天井を見上げた。そして目をつむり、頭の中を集中させた。
「問題は、何で昔にワープが出来るのか、だな。」
そう、問題は何故昔にワープが出来るのか、言い換えるならタイムマシンは本当に可能なのか、である。ヒデキは考えた。
見上げた空に星がある。その星を今、五十光年としよう。光年とはご存じの通り、光の速度で一年のことだ。つまり、その見上げた星は、光の速度で五十年の距離があるということだ。言い換えると、今見ているその星は、五十年前の姿だと言う事が出来る。
立場を入れ替えよう。今、誰かがその星から、こっち、つまり地球を見ていたとする。すると、その彼の眼には、やはり同じように五十年前の地球が見えている、と言う計算になる。つまり、彼には俺やシンイチロウが生まれるかなり前の地球や日本が見えていると言う事だ。
『五十年前か。今が一九九二年だから、五十年前といえば、一九四二年、まだ戦時中のことだな。戦艦大和もまだ沈んでなかった頃になるなぁ。』
見れるものなら見てみたい気もしないでもない。いかん、それではわき道に逸れてしまう。戻ろう。
では、もっと離れてみよう。百光年だったらどうだろうか。百光年離れた星からならば、同じように百年前の地球が見えるはずだ。
『百年前なら、一八九二年だ。一八九四年に日清戦争、一九〇四年に日露戦争だから、東郷平八郎とかの時代なわけだな。正真正銘の坂の上の雲だよ、これは。バブルとか高度経済成長とかよりも、イケイケな日本だったのかもなぁ。』
これまた見れるものなら見てみたい気もしないでもない。が、戻ろう。わき道には逸れずに行こう。
ならばどうすれば見れるのか。
「見に行きゃいいんだよな。」
その通り、今すぐ見に行けばいいのだ。今すぐ、五十光年の先に、百光年の彼方に、飛んで行きさえすれば、そこから見れるのだ。何故なら、今でも、いや、今まさに、その五十光年の先に、百光年の彼方に、その時代が現在進行しているからだ。架空のおとぎ話や SF 小説の類などではない。竜馬も信長も坂上田村麻呂も、現在進行の真っただ中なのだ。
「ただ、見るだけにはなっちゃうんだな。」
それもその通り。確かに見ることは出来るかもしれないが、その時代に行くことは出来ない。何故なら行くためには近づかなくてはならないからだ。しかし、近づいてしまっては、時間が逆戻りして元に戻ってしまう。
「テレビ番組のタイムトンネルで、主人公がワープすると周りの人々が止まってしまうと言うのは、ある意味、正しい表現だったわけか。」
あの胡散臭さが鼻に付くほど癖になるアメリカ製のテレビドラマは、ある意味で正確であろうとしたが故の表現ともいえるのだ。
「と言うことは、ドラえもんのどこでもドアは嘘っつぱちつーことか。」
その通り。どこでもドアでは、本当にその瞬間に移動できてしまうわけなので、ドラえもんとのび太は、飽くまで空想の世界ということだ。
「見れるもんなら、見てみてぇもんだなぁ。」
そうだ、それが人情というものだ。だって、それはそこに実在するのだから。架空のおとぎ話や SF 小説の類ではなく、全く持って正真正銘の現在進行の真っただ中なのだから。ただし、それには越えなければならないハードルがある。そのハードルとは、
「光速を超えること。」
そうなのだ、昔にワープするには、これがどうしても必要になってしまう。逆に、これが可能なら、昔にワープすることも可能なはずだ。では何故出来ないのか。
「ここでやっと出てくるんだな、相対性理論つぅ主役の出番だな。」
頭の整理はついた。ヒデキは、次に進むことにした。
ヒデキは閉じていた本を再び開いた。読みかけていた、ハンタロウの「ヤクザのためのアインシュタイン」だ。
そこにはこう書かれていた。
「まずは手鏡で自分の顔を映してみよう。」
ヒデキは辺りを見渡し、後ろの本棚に置いてあった折り畳み式のミラーを手に取った。
手を頬にやり、そして指先に少し唾をつけ、手の平で横髪を撫でつける。剃り残しはない。リーゼントも決まっている。
『ふ。』
気が付いて、鏡を手に取りなおした。右足か左足か、少し迷ったが、左足を前にして左手で持って、ダーツの姿勢で顔を映した。
『まぁ、良いか。』
器用に、右手でページをめくり、本を取り上げた。続きを読んだ。
「手鏡に君の顔が映るのは、君の顔から発した光が、鏡に映って反射するからだ。」
当たり前だ、電気を消してしまえば、何も見えなくなってしまう。
「さて今、君は魔法の絨毯に乗って空を駆け巡っているとしよう。」
『魔法の絨毯?いや、ちょっとそれはないんじゃないかなぁ。』
懐かしい気もしたが、今時絨毯で空飛ぶことを夢見る子供もなかなかいないだろう。いや、そもそも絨毯自体、あまり見かけるものではなくなった気もする。
そう思ったヒデキは、頭の中で絨毯をサーフボードに変えてみた。ヤクザのサーフィン、ワイキキ辺りで試してみるのもいいかもしれない。トロピカルな美女の尻を、サーフボードで追いかけるヒデキとシンイチロウ。ソルティードッグにマルガリータだ。
「そして、その絨毯、いやサーフボードは、前方へ物凄いスピードで突っ走っているとする。」
ワイキキだ。波も高ければ、潮も速い。ビッグウェイブは気を付けないとワイプアウトだ。ノースショアのビッグウェンズデーだ。
「物凄いスピードで突っ走っているが、君の持つ手鏡にはまだ君の顔が映っているはずだ。」
確かに映っている。
「しかし、君のスピードは加速が止まらない。もっともっと速くなっていく。」
ボードは宙に浮きあがり、そのままの勢いで、空を駆け抜けていく。
「次第にそのスピードは光の速さに近づいていく。」
そのまま夜空を突き抜けて、宇宙空間目がけて突っ込んでいく。
「そして、終にそのスピードは光と同じ速さになってしまう。」
ヒデキは手鏡に映る自分の顔に、意識を集中させた。
一瞬息が詰まった。
「その瞬間、手鏡に君の顔はもう映ることはない。何故ならその手鏡には、もう光が届かないからだ。」
『光が届かない。』
「これが光速度不変の定理だ。」
その時、倉庫の扉の開く音がした。
「チーっす。ただいま帰りました、っと。」
シンイチロウが、大きな買い物袋を提げて帰ってきた。すぐさま、倉庫の脇にある大型の冷蔵庫に買ってきたものを詰めだした。
「色々買ってきましたからね、っと。アニキ、レディーボーデンのバニラのアイスも、パイントで買っときましたよ。アニキ、これを直接、スプーンで食べるの好きでしたもんね。」
確かに、レディーボーデンは、取り分けて食べるより、直接スプーンでがっつくのが何よりうまい食べ方だ。持つ手が冷えるので、タオルで巻いて食べるのだ。
そう言いながら、シンイチロウはテキパキと買ったものを整理しては、スーパーでもらった袋も丁寧に畳んだ。無駄はいけない。最近のヤクザは環境にも優しくなければ、生きていく資格はないのだ。使いっ走りの時からこうしたことを教え込む。身体に叩き込むのだ。これも新人教育だ。
ヒデキは、ソファに座りながら、シンイチロウの背中に声を掛けた。
「なぁ、シンイチロウ、江川の球は速えぇよなぁ。」
江川卓は、誰もが知る右の本格派のピッチャーだ。
「確かに速いっすけど、俺は嫌いっすね。」
しかし、嫌われていた。江川、ピーマン、北の湖、は、巨人、大鵬、玉子焼き、の反対で、嫌いなものベストスリーの合言葉だ。
「まぁ、好き嫌いは置いておいたとして、今、江川が河川敷でキャッチボールをしているとする。」
「はぁ、多摩川とかですかねぇ、巨人ですから。でも、一軍は河川敷では練習しないっすよ、きっと。」
といいながら、シンイチロウはヒデキの向かいのソファに腰を下ろした。三角パックのコーヒーミルクを二つテーブルの上に置くと、一つをヒデキに差し出した。
ヒデキは受け取り、
「まぁ、仮にの話だよ。それを俺とお前で眺めていたとする。いいか、、、」
頷くシンイチロウ。
二人はストローを、丁寧にストローの穴に突き刺した。ここで持った手に力を入れてしまうと、穴からコーヒーミルクが溢れ出すので、要注意だ。二人ともそうした要領はよくわきまえていた。三角パックのテーブルマナーだ。ヒデキは話しを進めた。
「江川の投げる球は速えから、140Kmは出ているとする。」
「最速、そのぐらい出るって言ってますもんね。」
「でな、もしよ、その江川がよ、時速60Kmの車の上から投げたとするとな、、、」
思わず吹き出しそうになるのを押さえて、シンイチロウがさえぎる。
「いやぁ、それはいくら何でも危ないっすよ。」
「だから、仮にの話だよ。」
「仮って言っても、車の上じゃぁ、ワインドアップ出来ないでしょうからねぇ。セットポジションからじゃぁ、いくら江川でも140はきついんじゃぁ、、、」
「いや、だからよ、仮の話っつってんだろうがよ。なら、マウンドごとグワーッと動いてたってことでもいいからよ、、、」
「なら、移動式っすか。いや、移動式は、ちょっと芝も良くないし、腰にも悪い、、、」
「だから、仮にの話っつってんだろうが。はったおすぞ、この野郎。」
立ち上がって怒鳴りつける、ヒデキ。
「すんません。」
三角パックを握り潰すように飲み干すと、ゆっくりと座りなおしてヒデキは続けた。
「今、江川が時速60Kmの車の上から、時速140Kmのストレートを投げました。さて、それを多摩川の河川敷で見ている、俺とお前からは時速何キロに見えるでしょうか?」
やっとシンイチロウにも話が言えていたようだ。暫く宙を見つめ、自分の頬をつねりながら、シンイチロウはニヤリと笑った。
「それ、当てちゃってもいいっすか?」
「いいよ、当てろよ。」
シンイチロウの眼の奥に、更にキラリと光るものが見えた。
「これって、もしかして、感想文と関係あります?」
やや気圧されつつ答えるヒデキ。
「お、おぉ、図星だよ。」
「でしょ、だと思いましたよ。」
意外に鋭いシンイチロウに感心しながら、ヒデキはちょっと意地悪をすることにした。
「じゃぁ、ここでヒントな。」
「え?ヒントって必要なんすか。だって、60Kmに140Kmでしょ。」
「あぁ、でもな、感想文だよ、ハンタロウのオジキだよ、つーことは、相対性理論だよ。よーく考えないと、外れちゃうよー。」
「ちょっと待ってくださいよ。てーことは、、、」
ヒデキの言葉に、思わずシンイチロウは腕を組んで考え込んだ。
すでに十二時を回っていた。しかし、ヒデキの読書は続いていた。
「光のスピードに近づけば近づくほど、物体の長さは短縮し、質量は増加し、その経過する時間は遅延する。つまり、短く、重く、そして遅くなるのだ。繰り返そう、速くなればなるほど、短く、重く、そして遅くなるのだ。」
ハンタロウの書いた課題図書、「ヤクザのためのアインシュタイン」の一節だ。この一週間の間にこの本を読み終え、そして感想文を提出しなければならない。組員全員に与えられた課題だ。ヒデキも掛かりっきりで取り組んでいた。だが、
『な、何なんだ、この不思議な感覚は?』
と、ヒデキは困惑していた。
実はすでにヒデキは一度読み終えていた。手に収まるほどの小冊子なので、文庫本みたいなものなのだが、それなりにページ数はある。周りの組員たちは、みな四苦八苦しているのがわかる。そんな奴らを尻目に、ヒデキは楽々と読み終えることが出来た。何故か、
『不思議なんだよなぁ、この感覚。』
そうだ、不思議なのだ。何故かと言うと、この文章が理解できる感じがするからだ。するっと身体に入ってくる感じがするのだ。
「そして、光と同じスピードになった瞬間、長さは消滅し、質量は無限大となり、そして時間は止まる。繰り返そう、光と同じ速度になった瞬間、長さは消え去り、重さは限度をなくし、そして時間は永遠に止まったまま、時計の針はそこからもう動かない。」
『なんだか、分かんねぇのに、分かる気がすんだよなぁ。』
確かに、この本はヤクザのために易しく書かれた、相対性理論の入門書ではある。いや、正確に言えば、書いた本人のハンタロウがそう言っていたと言う事だ。
ただ、それだけではない何かがある。何故なら、ヒデキが理解できるからだ。少なくとも理解した気にさせてくれる、何かがあるのだ。腑に落ちる、腹に落ちる、得心が良く、合点が良く、ピンとくる、要は、
『つまり、ヤバいってことだろ。』
そう、一言で言えば、ヤバいのだ。この本はただ一言、光はヤバいと言っているのだ。
「君もなってみないか?」
文章は続いていた。
『な、なってみたいって、何に?』
それはどう考えても一つしかないのだが、念のためもう一度文章を読み返した。
「長さが消え、重さが無限になり、時間が永遠に止まる、それが、」
そう、それが、
「光だ。」
しかし、どうやったらなれるのだろう?
「君ならなれる。」
と、文章は続くのだが、具体的な方法は、何も書かれてはいない。どうすればいいのだろう。
ヒデキは思わず立ち上がって、読み飛ばしがないか、前のページをめくってみた。特に飛ばしたページはみつからない。仕方なく、先に進んだ。そこには、
「怖くなったらこう呟け、その合言葉は、」
『怖くなる? 何で? というかその前に、、、』
そんなヒデキの疑問には答えず、本はこう記されていた。
「アインシュタイン。」
『何なんだ、この合言葉は?』
ヒデキはそう思いつつも、不思議なフィット感も感じていた。何といえばいいのか良く分からないのだが、
『初めてゼリー飲料を飲んだ時の喉越しの感触かなぁ。』
とも違う気もするのだが、
『いい音を立ててミットにボールが収まった時の手とグローブの感じかなぁ。』
かなり似ている気はするが、
『そうか、初めてコンドームを付けた時の先っちょの感覚だ。あ、いや、それとも根本の方かなぁ。』
兎に角、そんな言葉を言いたくなる気もしてくるのだ。なので、自分でも音を立てずに言ってみた。
『アインシュタイン』
確かに、良い感じだ。長すぎず、短すぎず、覚えやすい。
『フランケンシュタイン、やっぱ違うな、リヒテンシュタイン、これも違うな、ホルスタイン、全然違うな、バレンタイン、チョコだな。』
やっぱり、
『アインシュタイン。』
しっくりくる。
「さぁ、光になれ。思う存分なるが良い。誰よりも速く、そして何よりも重く、一切の時間が止まる光になるのだ。光になった君のことを、もう誰も止めることは出来ない。そしてそこには永遠の時が待っているのだ。それが相対性理論だ。さぁ、目の前に広がるのは、摩擦も振動もない、無限の真空の空間だ。行く手を阻むものは何一つない。その真空の空間で、思う存分光になれ。光になって突っ走れ!いつまでもどこまでも心行くまで駆け巡れ !」
ヒデキは、何時の間にか想像している自分に気が付いた。
『俺が光になる? だから、どうやって?』
最後の締めくくりはこうだった。
「忘れるな、合言葉はアインシュタイン。」
ヒデキはゆっくりと上を向いて目をつむり、心の中で呟いた。
『アインシュタイン』
眼を開き一息呼吸をして、最後のページを閉じた。ソファに座って、机に本を置いた。
本はそれでおしまいだった。結局、どうすれば光になれるのかは、分からずじまいだった。
仕方なくヒデキは立ち上がり、後ろの本棚に置いてあったシガーホルダーから、モンテクリストを取り出し、火を付けた。
『まぁ、良い。感想文を書くぐらいなら、これで十分だろう。』
ゆっくりと座り直し、モンテクリストを吹かした。何時もの煙草とは違う。仕事を終えた後の一服はハバナに限る。モンテクリストはそのハバナの中でも一級品だ。ヒデキの唯一の贅沢だった。
ヤクザになった時、一つだけ組長(オヤジ)の真似をした。それが、モンテクリストだった。昔気質の極道が、何故か葉巻でしかもモンテクリストだった。着流しにハバナ、それが渋くて、滅法格好良かった。
組長(オヤジ)の吸うハバナの味は、下っ端のヒデキには知る由もない。いつか組長(オヤジ)のように吸うことがあるのか、それも分からない。それでも今日のモンテクリストはまんざらではなかった。
モンテクリストの立ち込める香りに浸りながら、今度は同じく机に広げてある原稿用紙に眼を移した。先ほどの本に関する、ヒデキ自身の手による感想文である。こちらはまだ書きかけだった。締め切りまでに、仕上げてしまう必要がある。
『よし、一気に仕上げちまうか。』
そう心に決めて、書いている最中の、後半部分を読み返し始めた。
「なんつうか、アインシュタインの客分は、筋を通しているところが良い。原爆造っちまったことは、ちいとやり過ぎだったかとは思うが、どんな奴でもしくじることはある。いや、逆にしくじった時のふるまいこそ、そいつの本当の実力だ。やっちまったら仕方がねぇ、きっちり落とし前を付ける。そこが肝心だ。」
『ウム、文章も筋が通ってるじゃねぇか。』
ヒデキはモンテクリストの灰を落としながら、自分の文章に満足して先に進んだ。
「俺が一番気に入ったのは、神様はサイコロなんて振らねぇはずだ、ってところだ。俺もそう思う。」
『ここからなんだよ、俺が言いたいのはよぉ。』
ヒデキは座りなおすと、もう一度、モンテクリストを咥えなおした。一口吸って、下顎を突き出す。黙読だが、何故か口も動く。
「サイコロなんぞで決めるくれぇなら、はなっから手ぇ出すなっつう事だ。勿論、世の中そんなに甘かねぇ。あちらを立てれば、こちらが立たずだ。言うに言われぬ、止むに止まれぬ、なんて時もある。そんな時には、一か八か運は天に任せてって思いたくなる時もある。」
そうだ、そうなんだ。人生とは悩みが尽きないものなのだ。ヤクザとて一介の人間に過ぎないのだ。
「しかし、本当はそうなる前が肝心なんだ。こんがらがってどうにもこうにもならなくなる前にどうするかってことだ。あっちにもこっちにもいい顔してちゃぁいけねぇってことだ。そんなことだから、仁義なき戦いでも金子信雄なんてぇのが生き延びることになるんだ。」
ところが、そんなずるがしこい金子信雄なのだが、何故か憎み切れないのもまた金子信雄である。仁義なき戦いは深い。
ここで段落が変えてあるのを見て、ヒデキは自分の文章力の確かさを再確認した。なんと言っても読み易さが段違いだ。
「そうさせねぇためには、結局どんな時でも筋は通すってこった。ビシーッと、貫き通すんだ。だから、仁義なき戦いで文太のアニキが言いたかったのは、原点回帰だ。文太のアニキが言ってるのは、健さんに戻れってことだ。仁義を欠いちゃぁ、居られはしねぇよ、ってことだ。これが本当の仁義なき戦いの見方ってもんだ。」
やはり、良い。要点がまとまっている。後は締めの一言だ。
おもむろに鉛筆を取り上げると、意を決して原稿用紙に向かう。
「だから俺も迷いわしねぇ。これまでも、これからも、きっちり筋を通す。どこにいようと、誰であろうとだ。何故なら、それが俺にとっての相対性理論だからだ。それが俺にとってのアインシュタインだからだ。 以上」
ヒデキは、一気に書き上げた。
原稿用紙を両手で持って、持ち上げた。原稿用紙一枚が一面真っ黒だ。二十字の二十行だから、合計四百字も詰まっているって計算だ。しかも、ちゃんと段落が切ってあるから読み易い。腹の底から徐々に満足感が湧き上がってくる。
『大した文章じゃねぇかよ。』
書き上げてみると悪くはない。ヤクザと感想文。意外と相性のいい組み合わせだ。
マスからはみ出した書き損じを消しゴムで消し、しっかりと研いだ鉛筆で書き足す。芯は少し堅めの F だ。H 程硬くなく、 B 程もろすぎない、程よい硬度だ。消しゴムの残り滓を、吹く息で飛ばした。飛びきらずに纏わりつく細かい滓は、直接にはこすらない。原稿用紙を持ち上げて端を指で弾く。原稿用紙が、ビリっと反応する。消し滓は堪らず床に落下する。消しゴムの滓は、こうやって丁寧に払って落とす。そうすれば原稿用紙は痛まずに済む。作品は大切に扱わなくてはならない。
横を見ると、シンイチロウは諦めたのか、デスクで涎を垂らしながら眠っている。
「ったく、根性ねぇからよ。」
軽くはたくと、寝言をつぶやいて涎を拭く。ヤクザと言っても十九のチンピラだ。感想文は荷が重いだろう。
覗き込むと、それでも結構頑張っていた。半分は行っている。
「アインシュタインのオジキはスゲエ。原ばくをつくっちまったぐらいだから、きっとケンカも強えぇんだろう。オレもアインシュタインのオジキみたいになりたいけど、バカだからなれない。だけど、やるときはやる。だから、これからもガンバル。でもやるなら原ばくよりかドスでやる。ドスだけは負けたくない。そんなヤクザにオレはなりたい。」
良い文章だ。
ヒデキは内心、シンイチロウを見直していた。しかし、段落がない。
「まだまだ若いな。」
舎弟を見る兄貴の余裕。悪い余裕じゃない。
「さてと、寝るか。この三日てぇもん、書きっぱなしだったからな。」
モンテクリストの火を丁寧に消し、シガーホルダーにしまう。唯一の贅沢、それは決して浪費ではない。
「全く、オジキのやるこたぁ、わかんねーからな。でも憎めねぇんだよな。」
そのままヒデキは、ソファに横になった。天井を見上げると、代貸しの顔が浮かんだ。色白の二枚目。キレるヤクザ。ヒデキをはじめとする直系組員を悪夢の一週間に陥れた張本人。世界で初めてヤクザと感想文を結びつけた男。その名はハンタロウ。
「明日が楽しみだぜ、ハンタロウのオジキよ。」
ヒデキは、ゆっくりと眼を閉じた。モンテクリストの残り香が、労わる様にヒデキの眠りを包み込んで行った。
それは丁度一週間前の総会の席上だった。会も終盤に近づき、青年組員(わけーしゅー)もやっと緊張感を解こうとする頃、代貸しのハンタロウが演壇に立った。
殺しのホーキング、地上げのサハロフ、取り立てのアインシュタインの異名を持つこの男は、昨今稀に見る理論派インテリヤクザの急先鋒として、既にこの地方一円ではその名を知られる存在となっていた。端正な顔立ち、華奢な身体付き、まさにヴィジュアル自体がヤクザの新しい時代の到来を告げるものだった。悲しいかな、梅宮の辰っつぁんの時代は過ぎ去ったのだ。北大路欣也も松方弘樹ももういない。ついでに成田三樹夫もだ。
ゆっくりと確信を持った眼が会場を一瞥する。敵も多い。多ければ多い分だけのし上がれる。周りをピリ付かせずにはいれない男。そんなタイプの男だ。
ただ、何故だか分からないが、ヒデキはこの男を憎めなかった。拒絶反応は感じないとでも言えばいいか。ヤクザの相性、そんな男もいるものだ。
「諸君、一九九二年度の日本国の一人当たりヤクザGNPを君たちは知っているか?」
ハンタロウは、その外見からは予想もつかない野太い声で叫び出した。
「遂に日本国の一人当たりヤクザGNPは、一九九二年度、世界第一位となった。」
一体何を話し出したのか。会場ではそこかしこで話しを始める声がざわつく。それを無視するかのように、ハンタロウは続けた。
「世界中に暴力組織は星の数ほどあれど、その中でついに我々日本ヤクザ、ジャパニーズ極道が世界の頂点を極めたのだ。
我々は既に世界中のどの暴力団組織よりもリッチなのである。コーザノストラよりも、香港マフィアよりも、メキシカン麻薬カルテルよりも、我々は世界中のどんな暴力団組織よりもリッチなのだ。ザ・リッチエスト・ギャングスターズ・イン・ザ・ワールドなのだ。」
会場は何時の間にか熱を帯び、騒然としてきた。世界のトップ。そうだ、日本のヤクザは世界で一番金持ちなのだ。
「更に、日本国はヤクザ債権国ナンバーワンでもある。世界中のありとあらゆる暴力団組織の中で、日本のヤクザが最も多くのお金を貸し付けているのである。債権を持っているのである。
アラブのマフィアがイスラエル製のウージーを買えるのは、日本ヤクザの第三国経由での裏金送金ルートがあるからこそである。ペルーのコカインが遠くヨーロッパのチューリッヒで売買できるのは、ジャパニーズ極道のロンダリング機能があるからこそなのだ。」
日頃はシマの縄張り争いに明け暮れる青年組員(わけーしゅー)には、この言葉は麻薬のような響きを持っていた。世界一位のヤクザ。ロシアン・マフィアよりも、黒人ギャングよりも、チャイニーズ黒社会よりも、凄いのがヤクザ。
「さぁ、もう一度考えてみてみたまえ。債権とはつまり貸しである。ということは、我々日本ヤクザが世界中で貸しを作っているのである。コーザノストラしかり、香港マフィアしかり、メキシカン麻薬カルテルしかりだ。既に我々は、世界中のギャングのエンコを飛ばしまくっても余りある、貸し貸し貸しの大貸しづくめなのである。」
そうだ、俺たちは凄いんだ。
「諸君、我々の一見平凡なヤクザ生活をもう一度振り返ってみたまえ。
シャブもある、取り立てもある、民ボーもある、サツとの付き合いもある。たまにはいけすかない堅気を半殺しにすることもある。思い余ってバラす時もある。ついつい女を輪姦したりもする。輪姦したら輪姦したで、きっちりシャブ漬けにしなきゃならねぇ。売ったら売ったで、円高で買い叩かれる。
これが俺たちまっとうなヤクザの生活だ。」
会場の熱気は既に沸騰寸前だった。みんな拳を握りしめ、自然と吹き出す汗が吐息と交じり合って空気を醸造し始める。
「それもこれもヤクザの仕事よ。盃の重みよ。鶴田浩二よ。安藤昇よ。
組長(オヤジ)の代から俺たちはちゃんとそうしてやってきた。そして今、お前たちがそうしてくれている。」
ハンタロウの口調に泣きが入る。
「え?!それで世界一だぞ。おい、俺たちゃぁ全員ひっくるめて世界一なんだよ。噛み締めようぜ、その世界一って奴をよ。」
会場は泣いていた。嗚咽にむせぶ男たち。堰を切ったようにヤクザたちは日頃を思い返していた。
正しかったんだ。間違ってはいなかったんだ。やっぱり「ゴッドファーザー」よりも「仁義なき戦い」に感動した俺たちは間違っていなかったんだ。
誰もが泣いた。世界一に泣いた。身体を張ってきてよかった。この組にいてよかった。俺たちは軟(やわ)じゃねぇ。俺たちは本物だ。
「諸君、俺たちは本物だ。正真正銘のヤクザだ。押しも押されも、引くも引かれもしねぇ、凄いヤクザなんだよ。」
「ウォー!」
つんざくような雄叫びが、堪りかねたように会場を貫いた。
一体感。いや、そんな言葉では表せない生命感。ヤクザが初めて体験する実存の瞬間。自ら求める興奮と陶酔の一瞬。
ヒデキも興奮していた。眼を輝かせていた。
「それもこれも、お前たち青年組員(わけーしゅー)が必死に戦ってきてくれたおかげだ。身体張って、組を背負ってきてくれたおかげだ。俺の誇りはお前らだ。俺の祖国はお前らだ。お前らは俺の宝だ!勇気だ!魂だ!」
興奮は極みに達していた。異様な熱気と狂躁。
横を見るとシンイチロウが泣き叫びながら拳を壇上に向かって突き上げていた。ヒデキはヒデキで、会場を埋め尽くす同じ青年組員(わけーしゅー)たちと、改めて生きる実感を噛み締めていた。陰嚢が膨れ上がるような生命感。褌を締め付けたような手触り感。
俺たちは日本のヤクザなんだ。
「俺はそんなお前らのために、生まれて初めて本を書いた。読んでくれるかー?」
「読むぞぉー。」
「代貸しー。」
「オジキー。」
「ウォー。」
「フギャー。」
「読・ん・で・く・れ・る・く・ぁ・ー・?」
「ブッフォォォォォォォォォォ。」
みんな叫んでいた。みんな泣いていた。
「俺は今、猛烈に嬉しい。嬉しいぞぉ。」
代貸しが俺たちに感謝している。こんな場面に出会えるなんて。最高だ。確かに最高だ。俺たちは正真正銘、世界一なんだ。
と、その時いきなり数十発のマグネシウムが吹っ飛び、バリーライトが目覚ましの様なイルミネーションを照らし出した。周り一面を埋め尽くすスモーク。壇上は一瞬、掻き消えるように見えなくなった。
怒鳴り出す男たち。壇上に向かって殺到する青年組員(わけーしゅー)たち。
すると、狂乱した群衆を見下ろすかのように、巨大なオブジェがスモークの中から現れた。
思わずヒデキは息を呑んだ
燦然と輝く金色に描かれた背表紙。巨大な本のオブジェだ。そしてその題名は、
「ヤクザのためのアインシュタイン」
と、地上十メートルはあるであろう巨大オブジェの上にハンタロウが仁王立ちに立っていた。
ハンタロウが叫ぶ。
「これが俺の本だぁ。お前らのための本だぁ。」
いきなり甲高い嬌声と共に数十人のラテンダンサーが殆ど全裸で壇上に飛び出してくる。強烈なラテンのリズムが鳴り始める。
誰かが叫んだ。
「ブラボー。」
一瞬、訳が分からず呆然となっていた青年たちが、その一声で我に返った。
そうだ、あれが俺たちの本だ。ハンタロウの兄貴が俺たちのために書いてくれた本だ。日本のヤクザが、世界を向こうに回して書いた本だ。
「ウォォォォォォォォォ。」
地鳴りのような雄叫びが再び青年たちから湧き上がった。
するとその声に合わせたかのように、会場には数百人のイケイケ六本木コンパニオンギャルがなだれ込んできた。
狂喜する男たち。
ギャルたちの手には壇上のハンタロウの本が握られている。本を手にしたまま男たちに抱き着いていくギャルたち。まるでその本が男たちを離さないかのように。
女を見ると男は狂う。もう総会どころではなかった。ハンタロウがニヤリと笑みを浮かべながら再び叫んだ。
「感想文を忘れるなぁ。」
女たちが黄色い声で叫ぶ。
「ハァーイ。」
男たちもそれにつられて叫んだ。
「ハァーイ。」
「ハァーイ。」
「フワァーイ。」
「フワァーイ。」
「フワフワフワーイ。」
「ハーハー。」
「ウッ。」
ハンタロウは会場を見回し満足げに頷いた。
「一週間後の午前中までに提出するように。」
そのハンタロウの言葉を合図に、会場は暗転し轟音が鳴り響いた。
目くるめくサーチライトとけたたましいサイレン。
ヤクザはこれに弱い。誰もが、やられた、と思った。こんな最高の夜を台無しにしやがって。
と、その瞬間会場は明転する。周りを呆然と見渡す青年組員(わけーしゅー)たち。既に女たちもハンタロウもいない。ただ、壇上には横断幕が掛かっていた。
「感想文は皆さんの自由意思で提出してください。
でも、出さないと破門だよ。」
何が自由意志だ。
再び青年組員(わけーしゅー)たちは、やられた、と思った。暫く何もせず、彼らは立ち尽くすしかなかった。
ヒデキは素直に感心していた。
タイムマシンは SF のおとぎ話ではない、とその本には書いてあったからだ。
「光より速ぇってことは、大したことなんだな、やっぱり。」
どうやらタイムマシンに乗るためには、光より速くなることが必要らしい。そこまでは分かった気がしたのだ。もう少し考えれば、本当にタイムマシンに乗れる気がしないでもなかった。
「つーことはだよ、つまり、、、」
などといいながら、辺りを見渡した。
『いるじゃねぇかよ、都合がいいカモがよ。』
そうだ、頭を整理する時は、一人で考えるよりも、人に説明した方が自分でも理解しやすい時がある。今はきっとそんな時だ。
ヒデキは声を掛けた。
「オイ、シンイチロウ。ちょっと面貸せ。」
同じように、隣のデスクで本を読んでいたシンイチロウは、素直に顔を上げた。表紙からすると、読んでいたのはどうやらヒデキと同じ本のようである。
「どうしたんですか、アニキ?」
シンイチロウはまだ十九の新米ヤクザだ。ヒデキが舎弟として面倒を見ている。
「良いからちょっとこっち来い。お前、タイムマシンって知ってっか?」
「はい、あの昔にワープできるって奴ですよね。」
素直にデスクから立ち上がり、顎でしゃくるヒデキの指示通り、眼の前のソファに座った。
「そうだ、その昔にワープするタイムマシンだ。」
ヒデキは質問の核心に進んだ。
「でだ、何で昔にワープ出来るか知ってるか?」
そこは、ヒデキのアパート代わりの倉庫だった。元々は組が何かの形に差し押さえた物件のはずである。ただ、差し押さえたのはいいものの、誰も使うものがいなかった。そこにヒデキが眼を付けたのだった。
だだっ広い空間の片隅に、ちょっとした居住空間がしつらえてある。誰にも邪魔されることのない空間。今はヒデキとシンイチロウの二人きりだ。
「何で出来るかって?」
軽い口調でシンイチロウは答えた。
「それってストーリーとか設定によるじゃないですか。アメリカのドラマのタイムトンネルとかだと、かまぼこ型の細長い奴っていうか、クロワッサンの曲がった奴っていうか、あれの中に入って、、、」
「あぁ、あのテレビ番組ね。まだ白黒だった頃な。子供心にも、あの胡散臭さは鼻に付いたよなぁ。」
思わず昔を懐かしむヒデキ。
「日本で言えば何と言っても、宇宙戦艦ヤマトですかね。波動エンジンで宇宙を旅するんすよね。」
「おぉ、イスカンダルな。松本零士だな。SF宇宙アニメの原点だもんな。」
「『メーテル? 眼、めーてる?』、何て言ってませんでしたか、アニキも。」
「何言ってんだよ、それは999(スリーナイン)だろ。それを言うなら、俺は『縁側の江川』だな。」
「あぁ、あの縁側に座ってるだけの江川ですね。」
「おぉ、江川が湯呑持って、縁側にただ座ってるんだよ。」
「ハハハ」
「ハハハ」
「・・・」
「・・・」
「で、ワープがどうかしたんですか、アニキ?」
話題をシンイチロウに戻してもらった、ヒデキ。
「お、おぉ、そのワープなんだがよ、、、」
辺りを見回し、やや小声で言う。
「わかったんだよ、俺。」
つられてシンイチロウも小声になる。
「何を?」
「やり方を。」
「え!ワープのやり方、アニキがわかっちゃったんすか!?」
思わず大声を出すシンイチロウに、指を立てて黙らせるヒデキ。
ヒデキに肩を掴まれ、座り直されるとシンイチロウは再び質問し始めた。
「本当っすか?」
答えるヒデキ。
「本当だよ。」
「何時わかったんすか?」
「さっき。」
「何処で?」
「ここで。」
「マジで?」
「マジで。」
「・・・」
「・・・」
「ワハハハハ。ヒヒヒヒヒヒ。」
いきなりシンイチロウが腹を抱えて笑い出した。堪えていた爆笑が一気に噴き出した。
「何笑ってやがんだ、シンイチロウ!」
ヒデキが怒鳴りつけて頭をはたくと、シンイチロウは、ハタと真顔に返った。
「・・・」
シンイチロウはヒデキのオデコに手をやると、
「熱はない、と。」
そう言うなり立ち上がると電話を取り上げて、どこかに連絡するのか、プッシュホンを押し始めた。
「何処に掛けてんだよ。」
「医者に決まっているじゃないですか。こう言うのは早い方が良いんですよ。自分じゃ掛けずらいでしょうからね。『ちょっと最近、気がふれたみたいで。』、なんて言ったら、本当にクルクルパーかって思われちゃうから、そういう時は、この私がですね、、、」
有無を言わさずシンイチロウから受話器を取り上げるヒデキ。
「いいんだよ、余計なことはしなくてもよ。」
睨みつけて、顎でソファをしゃくる。不承不承、無言で座るシンイチロウ。ヒデキも向かいのソファに腰を掛ける。卓上の煙草を勧め、自分でも口に喰わせる。すかさずシンイチロウが愛用のジッポで火を差し出す。ちょっと片手をかざし火を点ける。シンイチロウもそれに続いて、自分のタバコにも火をともす。シンイチロウがわざとらしくジッポをスナップで鳴らして、その火を消す。二人でゆっくりと煙を味わう。
「・」
何かを言おうとするシンイチロウを、無言の片手で制止するヒデキ。
そして、シンイチロウの前に、ポンッと一冊の本を放った。
「・」
ヒデキが顎でしゃくったその先を、シンイチロウの眼が追う。その視線の先には、ヒデキが読みかけていた本があった。手に取るシンイチロウ。
「これ、代貸しの本ですよね。」
そう、組の代貸しであるハンタロウが書いた「ヤクザのためのアインシュタイン」、その名の通りヤクザのための相対性理論の入門書である。
「それなら、ほら、俺も読んでますよ。」
シンイチロウが、笑顔で尻ポケットから本を出す。さっきまで読んでいた本だ。
実はこの本、組員全員の課題図書となっていた。この一週間以内に読み終えた上、感想文を提出しなければならないのだ。それもハンタロウからの伝達事項である。つまりハンタロウは、自分で書いた本を組員全員に読ませた上、その感想文まで提出しろ、と命じていたのである。何のためかは不明だったが、組としては正式な命令事項だった。
何はともあれ、今のヒデキにとっても、シンイチロウにとっても、この本を読むことは必須の仕事であり、かつ感想文まで書かなければならなかった、と言うわけである。ここでやっと話が通じた二人。
「この本に書いてあるんだよ、ワープの仕方がよ。」
「え?そんなこと書いてありましたっけ?」
シンイチロウは手に取って、ページをめくりながら言う。
「俺には全然わかりませんでしたけど。」
「だろうな、ちょっと分かり難いといえば、分かり難いからなぁ。」
「アニキは、わかったんですか?」
「おぉ、だからわかったって、さっきから言ってんじゃねぇかよ。」
シンイチロウが、腕を組んで煙草をふかしながら、疑わし気な様子で確認する。
「アニキを疑うようで悪いっすけど、その話本当っすか?」
「あぁ、本当だよ。」
まだ信じ切れない様子のシンイチロウ。
「本当かなぁ、相対性理論っすよ。」
「おぉ、相対性理論だよ。」
「アインシュタインっすよ。」
「あぁ、アインシュタインだよ。」
「アニキ、もしかして、オジキの感想文、本気で書く気じゃないっすか?」
「あぁ、書く気だよ。書かなきゃ破門だからね。お前だって同じだろ。」
シンイチロウが、煙草をもみ消して、真顔になって聞いてきた。
「じゃぁ、そのアニキが書く感想文の中身って、ちょこっと俺にも教えてもらっても良いっすか?」
「いや、だからよ、それを教えるっつぅーか、頭を整理するっつーか、よ、そのためにお前をよ、、、」
おずおずとシンイチロウが口を挟む。やや斜め下からの目線だ。顔もニヤつき始めている。
「で、でもって、俺の感想文にも、それをちょこっとパクっちゃってもいいっすか?」
「そりゃぁ、お前、良いに決まってんだろうがよ。だって、お前に面貸せっつったのは、俺だからね。お前に頼んで聞いてもらおうってんだから、そいつをお前が煮ようが焼こうが、俺が文句をつける筋合いの話じゃねぇわな、だって考えてもみろよ、、、」
「あざっす、あざっす、あざっす。」
シンイチロウは、低めのテーブルをまたいだかと思うと、跪きながら正座をしてヒデキの両手を取って頭に掲げた。
「アニキは、やっぱアニキっす。俺のアニキっす。そう信じてたっす。何処までも、アニキについて行くっす。」
「何言ってんだよ。」
「あ、そうだ、空気が乾燥してアニキの喉がやられるといけねぇから、加湿機が必要だな。それから煙草の煙が目に染みるといけねぇから、空気清浄機も買っておくか。それに眼にはビタミンが良いって言うから、フルーツの盛り合わせもだな。それに、ユンケルだよな、やっぱり。」
などと言って立ち上がり、
「じゃぁ、俺すぐ戻るっすから、ちょっと行ってきます。」
唖然としてヒデキが無言でいると、
「感想文、頑張ってくださいね。アニキだったら、間違いなし!」
と言って、シンイチロウは出口に向かった。扉で振り返り、右手でサムアップを返してよこした。
「感想ブーン、感想ブーン、、、」
そして、車のキーを人差し指でクルクル振り回しながら、スキップで出て行った。
「お、おい、ったく、よお。」
一人残されたヒデキは、舌打ちをした。
「折角、頭を整理するために、シンイチロウをだしにしようと思ったのによう。」
しかし、こうなっては仕方がない。諦めて一人で、頭を整理することにした。煙草をもみ消すと、腕を組んで天井を見上げた。そして目をつむり、頭の中を集中させた。
「問題は、何で昔にワープが出来るのか、だな。」
そう、問題は何故昔にワープが出来るのか、言い換えるならタイムマシンは本当に可能なのか、である。ヒデキは考えた。
見上げた空に星がある。その星を今、五十光年としよう。光年とはご存じの通り、光の速度で一年のことだ。つまり、その見上げた星は、光の速度で五十年の距離があるということだ。言い換えると、今見ているその星は、五十年前の姿だと言う事が出来る。
立場を入れ替えよう。今、誰かがその星から、こっち、つまり地球を見ていたとする。すると、その彼の眼には、やはり同じように五十年前の地球が見えている、と言う計算になる。つまり、彼には俺やシンイチロウが生まれるかなり前の地球や日本が見えていると言う事だ。
『五十年前か。今が一九九二年だから、五十年前といえば、一九四二年、まだ戦時中のことだな。戦艦大和もまだ沈んでなかった頃になるなぁ。』
見れるものなら見てみたい気もしないでもない。いかん、それではわき道に逸れてしまう。戻ろう。
では、もっと離れてみよう。百光年だったらどうだろうか。百光年離れた星からならば、同じように百年前の地球が見えるはずだ。
『百年前なら、一八九二年だ。一八九四年に日清戦争、一九〇四年に日露戦争だから、東郷平八郎とかの時代なわけだな。正真正銘の坂の上の雲だよ、これは。バブルとか高度経済成長とかよりも、イケイケな日本だったのかもなぁ。』
これまた見れるものなら見てみたい気もしないでもない。が、戻ろう。わき道には逸れずに行こう。
ならばどうすれば見れるのか。
「見に行きゃいいんだよな。」
その通り、今すぐ見に行けばいいのだ。今すぐ、五十光年の先に、百光年の彼方に、飛んで行きさえすれば、そこから見れるのだ。何故なら、今でも、いや、今まさに、その五十光年の先に、百光年の彼方に、その時代が現在進行しているからだ。架空のおとぎ話や SF 小説の類などではない。竜馬も信長も坂上田村麻呂も、現在進行の真っただ中なのだ。
「ただ、見るだけにはなっちゃうんだな。」
それもその通り。確かに見ることは出来るかもしれないが、その時代に行くことは出来ない。何故なら行くためには近づかなくてはならないからだ。しかし、近づいてしまっては、時間が逆戻りして元に戻ってしまう。
「テレビ番組のタイムトンネルで、主人公がワープすると周りの人々が止まってしまうと言うのは、ある意味、正しい表現だったわけか。」
あの胡散臭さが鼻に付くほど癖になるアメリカ製のテレビドラマは、ある意味で正確であろうとしたが故の表現ともいえるのだ。
「と言うことは、ドラえもんのどこでもドアは嘘っつぱちつーことか。」
その通り。どこでもドアでは、本当にその瞬間に移動できてしまうわけなので、ドラえもんとのび太は、飽くまで空想の世界ということだ。
「見れるもんなら、見てみてぇもんだなぁ。」
そうだ、それが人情というものだ。だって、それはそこに実在するのだから。架空のおとぎ話や SF 小説の類ではなく、全く持って正真正銘の現在進行の真っただ中なのだから。ただし、それには越えなければならないハードルがある。そのハードルとは、
「光速を超えること。」
そうなのだ、昔にワープするには、これがどうしても必要になってしまう。逆に、これが可能なら、昔にワープすることも可能なはずだ。では何故出来ないのか。
「ここでやっと出てくるんだな、相対性理論つぅ主役の出番だな。」
頭の整理はついた。ヒデキは、次に進むことにした。
ヒデキは閉じていた本を再び開いた。読みかけていた、ハンタロウの「ヤクザのためのアインシュタイン」だ。
そこにはこう書かれていた。
「まずは手鏡で自分の顔を映してみよう。」
ヒデキは辺りを見渡し、後ろの本棚に置いてあった折り畳み式のミラーを手に取った。
手を頬にやり、そして指先に少し唾をつけ、手の平で横髪を撫でつける。剃り残しはない。リーゼントも決まっている。
『ふ。』
気が付いて、鏡を手に取りなおした。右足か左足か、少し迷ったが、左足を前にして左手で持って、ダーツの姿勢で顔を映した。
『まぁ、良いか。』
器用に、右手でページをめくり、本を取り上げた。続きを読んだ。
「手鏡に君の顔が映るのは、君の顔から発した光が、鏡に映って反射するからだ。」
当たり前だ、電気を消してしまえば、何も見えなくなってしまう。
「さて今、君は魔法の絨毯に乗って空を駆け巡っているとしよう。」
『魔法の絨毯?いや、ちょっとそれはないんじゃないかなぁ。』
懐かしい気もしたが、今時絨毯で空飛ぶことを夢見る子供もなかなかいないだろう。いや、そもそも絨毯自体、あまり見かけるものではなくなった気もする。
そう思ったヒデキは、頭の中で絨毯をサーフボードに変えてみた。ヤクザのサーフィン、ワイキキ辺りで試してみるのもいいかもしれない。トロピカルな美女の尻を、サーフボードで追いかけるヒデキとシンイチロウ。ソルティードッグにマルガリータだ。
「そして、その絨毯、いやサーフボードは、前方へ物凄いスピードで突っ走っているとする。」
ワイキキだ。波も高ければ、潮も速い。ビッグウェイブは気を付けないとワイプアウトだ。ノースショアのビッグウェンズデーだ。
「物凄いスピードで突っ走っているが、君の持つ手鏡にはまだ君の顔が映っているはずだ。」
確かに映っている。
「しかし、君のスピードは加速が止まらない。もっともっと速くなっていく。」
ボードは宙に浮きあがり、そのままの勢いで、空を駆け抜けていく。
「次第にそのスピードは光の速さに近づいていく。」
そのまま夜空を突き抜けて、宇宙空間目がけて突っ込んでいく。
「そして、終にそのスピードは光と同じ速さになってしまう。」
ヒデキは手鏡に映る自分の顔に、意識を集中させた。
一瞬息が詰まった。
「その瞬間、手鏡に君の顔はもう映ることはない。何故ならその手鏡には、もう光が届かないからだ。」
『光が届かない。』
「これが光速度不変の定理だ。」
その時、倉庫の扉の開く音がした。
「チーっす。ただいま帰りました、っと。」
シンイチロウが、大きな買い物袋を提げて帰ってきた。すぐさま、倉庫の脇にある大型の冷蔵庫に買ってきたものを詰めだした。
「色々買ってきましたからね、っと。アニキ、レディーボーデンのバニラのアイスも、パイントで買っときましたよ。アニキ、これを直接、スプーンで食べるの好きでしたもんね。」
確かに、レディーボーデンは、取り分けて食べるより、直接スプーンでがっつくのが何よりうまい食べ方だ。持つ手が冷えるので、タオルで巻いて食べるのだ。
そう言いながら、シンイチロウはテキパキと買ったものを整理しては、スーパーでもらった袋も丁寧に畳んだ。無駄はいけない。最近のヤクザは環境にも優しくなければ、生きていく資格はないのだ。使いっ走りの時からこうしたことを教え込む。身体に叩き込むのだ。これも新人教育だ。
ヒデキは、ソファに座りながら、シンイチロウの背中に声を掛けた。
「なぁ、シンイチロウ、江川の球は速えぇよなぁ。」
江川卓は、誰もが知る右の本格派のピッチャーだ。
「確かに速いっすけど、俺は嫌いっすね。」
しかし、嫌われていた。江川、ピーマン、北の湖、は、巨人、大鵬、玉子焼き、の反対で、嫌いなものベストスリーの合言葉だ。
「まぁ、好き嫌いは置いておいたとして、今、江川が河川敷でキャッチボールをしているとする。」
「はぁ、多摩川とかですかねぇ、巨人ですから。でも、一軍は河川敷では練習しないっすよ、きっと。」
といいながら、シンイチロウはヒデキの向かいのソファに腰を下ろした。三角パックのコーヒーミルクを二つテーブルの上に置くと、一つをヒデキに差し出した。
ヒデキは受け取り、
「まぁ、仮にの話だよ。それを俺とお前で眺めていたとする。いいか、、、」
頷くシンイチロウ。
二人はストローを、丁寧にストローの穴に突き刺した。ここで持った手に力を入れてしまうと、穴からコーヒーミルクが溢れ出すので、要注意だ。二人ともそうした要領はよくわきまえていた。三角パックのテーブルマナーだ。ヒデキは話しを進めた。
「江川の投げる球は速えから、140Kmは出ているとする。」
「最速、そのぐらい出るって言ってますもんね。」
「でな、もしよ、その江川がよ、時速60Kmの車の上から投げたとするとな、、、」
思わず吹き出しそうになるのを押さえて、シンイチロウがさえぎる。
「いやぁ、それはいくら何でも危ないっすよ。」
「だから、仮にの話だよ。」
「仮って言っても、車の上じゃぁ、ワインドアップ出来ないでしょうからねぇ。セットポジションからじゃぁ、いくら江川でも140はきついんじゃぁ、、、」
「いや、だからよ、仮の話っつってんだろうがよ。なら、マウンドごとグワーッと動いてたってことでもいいからよ、、、」
「なら、移動式っすか。いや、移動式は、ちょっと芝も良くないし、腰にも悪い、、、」
「だから、仮にの話っつってんだろうが。はったおすぞ、この野郎。」
立ち上がって怒鳴りつける、ヒデキ。
「すんません。」
三角パックを握り潰すように飲み干すと、ゆっくりと座りなおしてヒデキは続けた。
「今、江川が時速60Kmの車の上から、時速140Kmのストレートを投げました。さて、それを多摩川の河川敷で見ている、俺とお前からは時速何キロに見えるでしょうか?」
やっとシンイチロウにも話が言えていたようだ。暫く宙を見つめ、自分の頬をつねりながら、シンイチロウはニヤリと笑った。
「それ、当てちゃってもいいっすか?」
「いいよ、当てろよ。」
シンイチロウの眼の奥に、更にキラリと光るものが見えた。
「これって、もしかして、感想文と関係あります?」
やや気圧されつつ答えるヒデキ。
「お、おぉ、図星だよ。」
「でしょ、だと思いましたよ。」
意外に鋭いシンイチロウに感心しながら、ヒデキはちょっと意地悪をすることにした。
「じゃぁ、ここでヒントな。」
「え?ヒントって必要なんすか。だって、60Kmに140Kmでしょ。」
「あぁ、でもな、感想文だよ、ハンタロウのオジキだよ、つーことは、相対性理論だよ。よーく考えないと、外れちゃうよー。」
「ちょっと待ってくださいよ。てーことは、、、」
ヒデキの言葉に、思わずシンイチロウは腕を組んで考え込んだ。
すでに十二時を回っていた。しかし、ヒデキの読書は続いていた。
「光のスピードに近づけば近づくほど、物体の長さは短縮し、質量は増加し、その経過する時間は遅延する。つまり、短く、重く、そして遅くなるのだ。繰り返そう、速くなればなるほど、短く、重く、そして遅くなるのだ。」
ハンタロウの書いた課題図書、「ヤクザのためのアインシュタイン」の一節だ。この一週間の間にこの本を読み終え、そして感想文を提出しなければならない。組員全員に与えられた課題だ。ヒデキも掛かりっきりで取り組んでいた。だが、
『な、何なんだ、この不思議な感覚は?』
と、ヒデキは困惑していた。
実はすでにヒデキは一度読み終えていた。手に収まるほどの小冊子なので、文庫本みたいなものなのだが、それなりにページ数はある。周りの組員たちは、みな四苦八苦しているのがわかる。そんな奴らを尻目に、ヒデキは楽々と読み終えることが出来た。何故か、
『不思議なんだよなぁ、この感覚。』
そうだ、不思議なのだ。何故かと言うと、この文章が理解できる感じがするからだ。するっと身体に入ってくる感じがするのだ。
「そして、光と同じスピードになった瞬間、長さは消滅し、質量は無限大となり、そして時間は止まる。繰り返そう、光と同じ速度になった瞬間、長さは消え去り、重さは限度をなくし、そして時間は永遠に止まったまま、時計の針はそこからもう動かない。」
『なんだか、分かんねぇのに、分かる気がすんだよなぁ。』
確かに、この本はヤクザのために易しく書かれた、相対性理論の入門書ではある。いや、正確に言えば、書いた本人のハンタロウがそう言っていたと言う事だ。
ただ、それだけではない何かがある。何故なら、ヒデキが理解できるからだ。少なくとも理解した気にさせてくれる、何かがあるのだ。腑に落ちる、腹に落ちる、得心が良く、合点が良く、ピンとくる、要は、
『つまり、ヤバいってことだろ。』
そう、一言で言えば、ヤバいのだ。この本はただ一言、光はヤバいと言っているのだ。
「君もなってみないか?」
文章は続いていた。
『な、なってみたいって、何に?』
それはどう考えても一つしかないのだが、念のためもう一度文章を読み返した。
「長さが消え、重さが無限になり、時間が永遠に止まる、それが、」
そう、それが、
「光だ。」
しかし、どうやったらなれるのだろう?
「君ならなれる。」
と、文章は続くのだが、具体的な方法は、何も書かれてはいない。どうすればいいのだろう。
ヒデキは思わず立ち上がって、読み飛ばしがないか、前のページをめくってみた。特に飛ばしたページはみつからない。仕方なく、先に進んだ。そこには、
「怖くなったらこう呟け、その合言葉は、」
『怖くなる? 何で? というかその前に、、、』
そんなヒデキの疑問には答えず、本はこう記されていた。
「アインシュタイン。」
『何なんだ、この合言葉は?』
ヒデキはそう思いつつも、不思議なフィット感も感じていた。何といえばいいのか良く分からないのだが、
『初めてゼリー飲料を飲んだ時の喉越しの感触かなぁ。』
とも違う気もするのだが、
『いい音を立ててミットにボールが収まった時の手とグローブの感じかなぁ。』
かなり似ている気はするが、
『そうか、初めてコンドームを付けた時の先っちょの感覚だ。あ、いや、それとも根本の方かなぁ。』
兎に角、そんな言葉を言いたくなる気もしてくるのだ。なので、自分でも音を立てずに言ってみた。
『アインシュタイン』
確かに、良い感じだ。長すぎず、短すぎず、覚えやすい。
『フランケンシュタイン、やっぱ違うな、リヒテンシュタイン、これも違うな、ホルスタイン、全然違うな、バレンタイン、チョコだな。』
やっぱり、
『アインシュタイン。』
しっくりくる。
「さぁ、光になれ。思う存分なるが良い。誰よりも速く、そして何よりも重く、一切の時間が止まる光になるのだ。光になった君のことを、もう誰も止めることは出来ない。そしてそこには永遠の時が待っているのだ。それが相対性理論だ。さぁ、目の前に広がるのは、摩擦も振動もない、無限の真空の空間だ。行く手を阻むものは何一つない。その真空の空間で、思う存分光になれ。光になって突っ走れ!いつまでもどこまでも心行くまで駆け巡れ !」
ヒデキは、何時の間にか想像している自分に気が付いた。
『俺が光になる? だから、どうやって?』
最後の締めくくりはこうだった。
「忘れるな、合言葉はアインシュタイン。」
ヒデキはゆっくりと上を向いて目をつむり、心の中で呟いた。
『アインシュタイン』
眼を開き一息呼吸をして、最後のページを閉じた。ソファに座って、机に本を置いた。
本はそれでおしまいだった。結局、どうすれば光になれるのかは、分からずじまいだった。
仕方なくヒデキは立ち上がり、後ろの本棚に置いてあったシガーホルダーから、モンテクリストを取り出し、火を付けた。
『まぁ、良い。感想文を書くぐらいなら、これで十分だろう。』
ゆっくりと座り直し、モンテクリストを吹かした。何時もの煙草とは違う。仕事を終えた後の一服はハバナに限る。モンテクリストはそのハバナの中でも一級品だ。ヒデキの唯一の贅沢だった。
ヤクザになった時、一つだけ組長(オヤジ)の真似をした。それが、モンテクリストだった。昔気質の極道が、何故か葉巻でしかもモンテクリストだった。着流しにハバナ、それが渋くて、滅法格好良かった。
組長(オヤジ)の吸うハバナの味は、下っ端のヒデキには知る由もない。いつか組長(オヤジ)のように吸うことがあるのか、それも分からない。それでも今日のモンテクリストはまんざらではなかった。
モンテクリストの立ち込める香りに浸りながら、今度は同じく机に広げてある原稿用紙に眼を移した。先ほどの本に関する、ヒデキ自身の手による感想文である。こちらはまだ書きかけだった。締め切りまでに、仕上げてしまう必要がある。
『よし、一気に仕上げちまうか。』
そう心に決めて、書いている最中の、後半部分を読み返し始めた。
「なんつうか、アインシュタインの客分は、筋を通しているところが良い。原爆造っちまったことは、ちいとやり過ぎだったかとは思うが、どんな奴でもしくじることはある。いや、逆にしくじった時のふるまいこそ、そいつの本当の実力だ。やっちまったら仕方がねぇ、きっちり落とし前を付ける。そこが肝心だ。」
『ウム、文章も筋が通ってるじゃねぇか。』
ヒデキはモンテクリストの灰を落としながら、自分の文章に満足して先に進んだ。
「俺が一番気に入ったのは、神様はサイコロなんて振らねぇはずだ、ってところだ。俺もそう思う。」
『ここからなんだよ、俺が言いたいのはよぉ。』
ヒデキは座りなおすと、もう一度、モンテクリストを咥えなおした。一口吸って、下顎を突き出す。黙読だが、何故か口も動く。
「サイコロなんぞで決めるくれぇなら、はなっから手ぇ出すなっつう事だ。勿論、世の中そんなに甘かねぇ。あちらを立てれば、こちらが立たずだ。言うに言われぬ、止むに止まれぬ、なんて時もある。そんな時には、一か八か運は天に任せてって思いたくなる時もある。」
そうだ、そうなんだ。人生とは悩みが尽きないものなのだ。ヤクザとて一介の人間に過ぎないのだ。
「しかし、本当はそうなる前が肝心なんだ。こんがらがってどうにもこうにもならなくなる前にどうするかってことだ。あっちにもこっちにもいい顔してちゃぁいけねぇってことだ。そんなことだから、仁義なき戦いでも金子信雄なんてぇのが生き延びることになるんだ。」
ところが、そんなずるがしこい金子信雄なのだが、何故か憎み切れないのもまた金子信雄である。仁義なき戦いは深い。
ここで段落が変えてあるのを見て、ヒデキは自分の文章力の確かさを再確認した。なんと言っても読み易さが段違いだ。
「そうさせねぇためには、結局どんな時でも筋は通すってこった。ビシーッと、貫き通すんだ。だから、仁義なき戦いで文太のアニキが言いたかったのは、原点回帰だ。文太のアニキが言ってるのは、健さんに戻れってことだ。仁義を欠いちゃぁ、居られはしねぇよ、ってことだ。これが本当の仁義なき戦いの見方ってもんだ。」
やはり、良い。要点がまとまっている。後は締めの一言だ。
おもむろに鉛筆を取り上げると、意を決して原稿用紙に向かう。
「だから俺も迷いわしねぇ。これまでも、これからも、きっちり筋を通す。どこにいようと、誰であろうとだ。何故なら、それが俺にとっての相対性理論だからだ。それが俺にとってのアインシュタインだからだ。 以上」
ヒデキは、一気に書き上げた。
原稿用紙を両手で持って、持ち上げた。原稿用紙一枚が一面真っ黒だ。二十字の二十行だから、合計四百字も詰まっているって計算だ。しかも、ちゃんと段落が切ってあるから読み易い。腹の底から徐々に満足感が湧き上がってくる。
『大した文章じゃねぇかよ。』
書き上げてみると悪くはない。ヤクザと感想文。意外と相性のいい組み合わせだ。
マスからはみ出した書き損じを消しゴムで消し、しっかりと研いだ鉛筆で書き足す。芯は少し堅めの F だ。H 程硬くなく、 B 程もろすぎない、程よい硬度だ。消しゴムの残り滓を、吹く息で飛ばした。飛びきらずに纏わりつく細かい滓は、直接にはこすらない。原稿用紙を持ち上げて端を指で弾く。原稿用紙が、ビリっと反応する。消し滓は堪らず床に落下する。消しゴムの滓は、こうやって丁寧に払って落とす。そうすれば原稿用紙は痛まずに済む。作品は大切に扱わなくてはならない。
横を見ると、シンイチロウは諦めたのか、デスクで涎を垂らしながら眠っている。
「ったく、根性ねぇからよ。」
軽くはたくと、寝言をつぶやいて涎を拭く。ヤクザと言っても十九のチンピラだ。感想文は荷が重いだろう。
覗き込むと、それでも結構頑張っていた。半分は行っている。
「アインシュタインのオジキはスゲエ。原ばくをつくっちまったぐらいだから、きっとケンカも強えぇんだろう。オレもアインシュタインのオジキみたいになりたいけど、バカだからなれない。だけど、やるときはやる。だから、これからもガンバル。でもやるなら原ばくよりかドスでやる。ドスだけは負けたくない。そんなヤクザにオレはなりたい。」
良い文章だ。
ヒデキは内心、シンイチロウを見直していた。しかし、段落がない。
「まだまだ若いな。」
舎弟を見る兄貴の余裕。悪い余裕じゃない。
「さてと、寝るか。この三日てぇもん、書きっぱなしだったからな。」
モンテクリストの火を丁寧に消し、シガーホルダーにしまう。唯一の贅沢、それは決して浪費ではない。
「全く、オジキのやるこたぁ、わかんねーからな。でも憎めねぇんだよな。」
そのままヒデキは、ソファに横になった。天井を見上げると、代貸しの顔が浮かんだ。色白の二枚目。キレるヤクザ。ヒデキをはじめとする直系組員を悪夢の一週間に陥れた張本人。世界で初めてヤクザと感想文を結びつけた男。その名はハンタロウ。
「明日が楽しみだぜ、ハンタロウのオジキよ。」
ヒデキは、ゆっくりと眼を閉じた。モンテクリストの残り香が、労わる様にヒデキの眠りを包み込んで行った。
それは丁度一週間前の総会の席上だった。会も終盤に近づき、青年組員(わけーしゅー)もやっと緊張感を解こうとする頃、代貸しのハンタロウが演壇に立った。
殺しのホーキング、地上げのサハロフ、取り立てのアインシュタインの異名を持つこの男は、昨今稀に見る理論派インテリヤクザの急先鋒として、既にこの地方一円ではその名を知られる存在となっていた。端正な顔立ち、華奢な身体付き、まさにヴィジュアル自体がヤクザの新しい時代の到来を告げるものだった。悲しいかな、梅宮の辰っつぁんの時代は過ぎ去ったのだ。北大路欣也も松方弘樹ももういない。ついでに成田三樹夫もだ。
ゆっくりと確信を持った眼が会場を一瞥する。敵も多い。多ければ多い分だけのし上がれる。周りをピリ付かせずにはいれない男。そんなタイプの男だ。
ただ、何故だか分からないが、ヒデキはこの男を憎めなかった。拒絶反応は感じないとでも言えばいいか。ヤクザの相性、そんな男もいるものだ。
「諸君、一九九二年度の日本国の一人当たりヤクザGNPを君たちは知っているか?」
ハンタロウは、その外見からは予想もつかない野太い声で叫び出した。
「遂に日本国の一人当たりヤクザGNPは、一九九二年度、世界第一位となった。」
一体何を話し出したのか。会場ではそこかしこで話しを始める声がざわつく。それを無視するかのように、ハンタロウは続けた。
「世界中に暴力組織は星の数ほどあれど、その中でついに我々日本ヤクザ、ジャパニーズ極道が世界の頂点を極めたのだ。
我々は既に世界中のどの暴力団組織よりもリッチなのである。コーザノストラよりも、香港マフィアよりも、メキシカン麻薬カルテルよりも、我々は世界中のどんな暴力団組織よりもリッチなのだ。ザ・リッチエスト・ギャングスターズ・イン・ザ・ワールドなのだ。」
会場は何時の間にか熱を帯び、騒然としてきた。世界のトップ。そうだ、日本のヤクザは世界で一番金持ちなのだ。
「更に、日本国はヤクザ債権国ナンバーワンでもある。世界中のありとあらゆる暴力団組織の中で、日本のヤクザが最も多くのお金を貸し付けているのである。債権を持っているのである。
アラブのマフィアがイスラエル製のウージーを買えるのは、日本ヤクザの第三国経由での裏金送金ルートがあるからこそである。ペルーのコカインが遠くヨーロッパのチューリッヒで売買できるのは、ジャパニーズ極道のロンダリング機能があるからこそなのだ。」
日頃はシマの縄張り争いに明け暮れる青年組員(わけーしゅー)には、この言葉は麻薬のような響きを持っていた。世界一位のヤクザ。ロシアン・マフィアよりも、黒人ギャングよりも、チャイニーズ黒社会よりも、凄いのがヤクザ。
「さぁ、もう一度考えてみてみたまえ。債権とはつまり貸しである。ということは、我々日本ヤクザが世界中で貸しを作っているのである。コーザノストラしかり、香港マフィアしかり、メキシカン麻薬カルテルしかりだ。既に我々は、世界中のギャングのエンコを飛ばしまくっても余りある、貸し貸し貸しの大貸しづくめなのである。」
そうだ、俺たちは凄いんだ。
「諸君、我々の一見平凡なヤクザ生活をもう一度振り返ってみたまえ。
シャブもある、取り立てもある、民ボーもある、サツとの付き合いもある。たまにはいけすかない堅気を半殺しにすることもある。思い余ってバラす時もある。ついつい女を輪姦したりもする。輪姦したら輪姦したで、きっちりシャブ漬けにしなきゃならねぇ。売ったら売ったで、円高で買い叩かれる。
これが俺たちまっとうなヤクザの生活だ。」
会場の熱気は既に沸騰寸前だった。みんな拳を握りしめ、自然と吹き出す汗が吐息と交じり合って空気を醸造し始める。
「それもこれもヤクザの仕事よ。盃の重みよ。鶴田浩二よ。安藤昇よ。
組長(オヤジ)の代から俺たちはちゃんとそうしてやってきた。そして今、お前たちがそうしてくれている。」
ハンタロウの口調に泣きが入る。
「え?!それで世界一だぞ。おい、俺たちゃぁ全員ひっくるめて世界一なんだよ。噛み締めようぜ、その世界一って奴をよ。」
会場は泣いていた。嗚咽にむせぶ男たち。堰を切ったようにヤクザたちは日頃を思い返していた。
正しかったんだ。間違ってはいなかったんだ。やっぱり「ゴッドファーザー」よりも「仁義なき戦い」に感動した俺たちは間違っていなかったんだ。
誰もが泣いた。世界一に泣いた。身体を張ってきてよかった。この組にいてよかった。俺たちは軟(やわ)じゃねぇ。俺たちは本物だ。
「諸君、俺たちは本物だ。正真正銘のヤクザだ。押しも押されも、引くも引かれもしねぇ、凄いヤクザなんだよ。」
「ウォー!」
つんざくような雄叫びが、堪りかねたように会場を貫いた。
一体感。いや、そんな言葉では表せない生命感。ヤクザが初めて体験する実存の瞬間。自ら求める興奮と陶酔の一瞬。
ヒデキも興奮していた。眼を輝かせていた。
「それもこれも、お前たち青年組員(わけーしゅー)が必死に戦ってきてくれたおかげだ。身体張って、組を背負ってきてくれたおかげだ。俺の誇りはお前らだ。俺の祖国はお前らだ。お前らは俺の宝だ!勇気だ!魂だ!」
興奮は極みに達していた。異様な熱気と狂躁。
横を見るとシンイチロウが泣き叫びながら拳を壇上に向かって突き上げていた。ヒデキはヒデキで、会場を埋め尽くす同じ青年組員(わけーしゅー)たちと、改めて生きる実感を噛み締めていた。陰嚢が膨れ上がるような生命感。褌を締め付けたような手触り感。
俺たちは日本のヤクザなんだ。
「俺はそんなお前らのために、生まれて初めて本を書いた。読んでくれるかー?」
「読むぞぉー。」
「代貸しー。」
「オジキー。」
「ウォー。」
「フギャー。」
「読・ん・で・く・れ・る・く・ぁ・ー・?」
「ブッフォォォォォォォォォォ。」
みんな叫んでいた。みんな泣いていた。
「俺は今、猛烈に嬉しい。嬉しいぞぉ。」
代貸しが俺たちに感謝している。こんな場面に出会えるなんて。最高だ。確かに最高だ。俺たちは正真正銘、世界一なんだ。
と、その時いきなり数十発のマグネシウムが吹っ飛び、バリーライトが目覚ましの様なイルミネーションを照らし出した。周り一面を埋め尽くすスモーク。壇上は一瞬、掻き消えるように見えなくなった。
怒鳴り出す男たち。壇上に向かって殺到する青年組員(わけーしゅー)たち。
すると、狂乱した群衆を見下ろすかのように、巨大なオブジェがスモークの中から現れた。
思わずヒデキは息を呑んだ
燦然と輝く金色に描かれた背表紙。巨大な本のオブジェだ。そしてその題名は、
「ヤクザのためのアインシュタイン」
と、地上十メートルはあるであろう巨大オブジェの上にハンタロウが仁王立ちに立っていた。
ハンタロウが叫ぶ。
「これが俺の本だぁ。お前らのための本だぁ。」
いきなり甲高い嬌声と共に数十人のラテンダンサーが殆ど全裸で壇上に飛び出してくる。強烈なラテンのリズムが鳴り始める。
誰かが叫んだ。
「ブラボー。」
一瞬、訳が分からず呆然となっていた青年たちが、その一声で我に返った。
そうだ、あれが俺たちの本だ。ハンタロウの兄貴が俺たちのために書いてくれた本だ。日本のヤクザが、世界を向こうに回して書いた本だ。
「ウォォォォォォォォォ。」
地鳴りのような雄叫びが再び青年たちから湧き上がった。
するとその声に合わせたかのように、会場には数百人のイケイケ六本木コンパニオンギャルがなだれ込んできた。
狂喜する男たち。
ギャルたちの手には壇上のハンタロウの本が握られている。本を手にしたまま男たちに抱き着いていくギャルたち。まるでその本が男たちを離さないかのように。
女を見ると男は狂う。もう総会どころではなかった。ハンタロウがニヤリと笑みを浮かべながら再び叫んだ。
「感想文を忘れるなぁ。」
女たちが黄色い声で叫ぶ。
「ハァーイ。」
男たちもそれにつられて叫んだ。
「ハァーイ。」
「ハァーイ。」
「フワァーイ。」
「フワァーイ。」
「フワフワフワーイ。」
「ハーハー。」
「ウッ。」
ハンタロウは会場を見回し満足げに頷いた。
「一週間後の午前中までに提出するように。」
そのハンタロウの言葉を合図に、会場は暗転し轟音が鳴り響いた。
目くるめくサーチライトとけたたましいサイレン。
ヤクザはこれに弱い。誰もが、やられた、と思った。こんな最高の夜を台無しにしやがって。
と、その瞬間会場は明転する。周りを呆然と見渡す青年組員(わけーしゅー)たち。既に女たちもハンタロウもいない。ただ、壇上には横断幕が掛かっていた。
「感想文は皆さんの自由意思で提出してください。
でも、出さないと破門だよ。」
何が自由意志だ。
再び青年組員(わけーしゅー)たちは、やられた、と思った。暫く何もせず、彼らは立ち尽くすしかなかった。
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