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1巻:動き出す歴史
第四話 第三章:潜入官の日常 1
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一、シエラのメイド生活
王宮でのシエラの一日は、試験の日とほとんど変わらなかった。
王子の生活には、すでに何人もの近衛騎士がつき、衣食住の世話はすべて彼らが担っている。個人的に雇われたメイドが家事をする余地は、全くない。シエラの役目といえば、王子が手紙に目を通し、返答を書くときに傍らに控えることくらいだった。
それでも、王子はシエラが寄る辺なく過ごさないようにと、よく話しかけてくれた。近衛騎士たちを遠ざけ、一人で過ごす時間にも、必ずシエラを隣に座らせた。
ある午後、王子は庭園のベンチに腰を下ろし、咲き誇る花々を眺めていた。ふと、息を吐き、後ろにたたずむシエラに問いかけた。
「君の故郷には、どんな花が咲くんだい?」
シエラは少し驚き、微笑を返して頭を整理する時間を稼いだ。王子は、自分について、背骨山脈に匿われながら育った令嬢だと聞いているはずだ。なるほど王子の態度には、過酷な幼少期を過ごしたのではないかという、同情がにじんでいる。
「村は、不便なところもあります。でも……」
シエラは遠くを見つめ、記憶をさぐる。脳裏に浮かぶのは、当然“いずみ村”である。
「でも、それを補って余りあるほど、良いところもたくさんありました。春には白い花が丘を覆うように咲いて、風が吹くと雪みたいに舞うんです。」
王子は静かに頷き、その情景を思い描くようにそっと目を閉じた。その横顔を見ながら、シエラは胸の奥に、任務とは別の温かさが広がっていくのを感じた。
王子はベンチの端にずれ、シエラを呼び寄せた。秋の気配に柔らかくなり始めた日差しが、二人を包むように降り注いでいた。王子はシエラの肩を抱き、耳元で囁く。
「君は秘密を、持っているね」
思わずシエラは身じろぐが、両腕で捕まえられてしまう。王子は二人にしか聞こえない声で静かに、しかし強い調子で告げる。
「ここには僕たちしか、いない。僕は君を決して見捨てたりしない。だから、隠し事をしないで」
メイドには過分な優しい申し出に、シエラはかえって警戒を強めた。本当の事は、決して知られてはならない。
シエラは身体を硬くしたまま、気取られないように浅い呼吸をよそおって、息をつく。肩に王子の額の硬さを感じる。瞬きを2回すれば、急速に頭が冷静さを取り戻していった。
情報を、分析しなくては。シエラはそう思った。今、王子が言った事を整理してみよう。彼は、私に「秘密を持っている」と、断定した。断定したという事は、確信があるという事だ。王子が確信する、“私の秘密”とは何なのだろうか?
エバ婦人から何か聞いているのだろうか、それとも、私の何かが王子に秘密を悟らせたのか…可能性はいくらでも挙げられる。しかし、それを知るすべは私には無いのだ。
王子はシエラの首元に顔をうずめながら、彼女の動揺を感じていた。身は硬く、呼吸は浅い。庇護すべき配下を、これほどまでに追い込んでしまった。自らの主君としての才の無さに呆れてしまう。
自己嫌悪を抱えたまま顔を上げると、そこには目にいっぱいの涙を溜めた少女が座していた。
「何を……ご存じなのですか」
それは、最も効率的で最も見え透いた方法だった。相手が握っている情報は、相手に語らせればよい。追及されれば終わりだ。それでも彼女は、正直そうに見える自分の居住まいに賭けてみることにした。背筋を伸ばし、目を逸らさず、ただ静かに王子の言葉を待った。
王子はシエラの様子を見つめながら、彼女が自分の元にたどり着くまでの人生を思いやっていた。先の女主人、その前の主――彼女はどんな圧力を受け、どんな支配の中で生きてきたのだろうか。生きるための偽りが露見するのを、こんなにも恐れている。
この少女に、信頼と温かさの上に築かれた主従もあるのだと、教えてあげたい。そんな思いが、王子の胸に静かに灯っていた。
もちろん、王子にも交渉の心得が無いわけではない。だが、時に願望は事実をゆがませる。彼は、言葉を選ばず、まっすぐに告げた。
「君は、孤児…だね。”令嬢”は、ドラモンド夫人が作った虚像だ。」
その瞬間、シエラはわずかに肩を震わせた。視線を落とし、動かずにいた。やがて静かに、頷いた。
「……ごめんなさい。」
その言葉に、王子は柔らかい笑顔で応えた。二人の間で“真実”が作られた瞬間だった。
シエラにとって、その言葉は謝罪というよりも、王子の信じる“真実”を受け入れる合図だった。シエラにとって、王子が信じている内容を“真実”とすることは不都合ではなかった。賭けに、勝った。
“家督争いを避け、匿われてきた令嬢”、そして“令嬢を装った孤児”この二段構えの嘘は、エバ婦人がシエラに用意したいくつもの設定の一つだった。彼女の作る嘘は、嘘の中に嘘があり、全てが真実と似通った形をしている。王子の思考は、エバ婦人の用意した嘘のバリエーションに絡めとられたのである。シエラは初めて、婦人の策略に感謝の念を抱いた。
庭園の風が、二人の間を静かに通り抜けていった。その沈黙は、信頼の始まりを告げるものに感じられた。
王宮でのシエラの一日は、試験の日とほとんど変わらなかった。
王子の生活には、すでに何人もの近衛騎士がつき、衣食住の世話はすべて彼らが担っている。個人的に雇われたメイドが家事をする余地は、全くない。シエラの役目といえば、王子が手紙に目を通し、返答を書くときに傍らに控えることくらいだった。
それでも、王子はシエラが寄る辺なく過ごさないようにと、よく話しかけてくれた。近衛騎士たちを遠ざけ、一人で過ごす時間にも、必ずシエラを隣に座らせた。
ある午後、王子は庭園のベンチに腰を下ろし、咲き誇る花々を眺めていた。ふと、息を吐き、後ろにたたずむシエラに問いかけた。
「君の故郷には、どんな花が咲くんだい?」
シエラは少し驚き、微笑を返して頭を整理する時間を稼いだ。王子は、自分について、背骨山脈に匿われながら育った令嬢だと聞いているはずだ。なるほど王子の態度には、過酷な幼少期を過ごしたのではないかという、同情がにじんでいる。
「村は、不便なところもあります。でも……」
シエラは遠くを見つめ、記憶をさぐる。脳裏に浮かぶのは、当然“いずみ村”である。
「でも、それを補って余りあるほど、良いところもたくさんありました。春には白い花が丘を覆うように咲いて、風が吹くと雪みたいに舞うんです。」
王子は静かに頷き、その情景を思い描くようにそっと目を閉じた。その横顔を見ながら、シエラは胸の奥に、任務とは別の温かさが広がっていくのを感じた。
王子はベンチの端にずれ、シエラを呼び寄せた。秋の気配に柔らかくなり始めた日差しが、二人を包むように降り注いでいた。王子はシエラの肩を抱き、耳元で囁く。
「君は秘密を、持っているね」
思わずシエラは身じろぐが、両腕で捕まえられてしまう。王子は二人にしか聞こえない声で静かに、しかし強い調子で告げる。
「ここには僕たちしか、いない。僕は君を決して見捨てたりしない。だから、隠し事をしないで」
メイドには過分な優しい申し出に、シエラはかえって警戒を強めた。本当の事は、決して知られてはならない。
シエラは身体を硬くしたまま、気取られないように浅い呼吸をよそおって、息をつく。肩に王子の額の硬さを感じる。瞬きを2回すれば、急速に頭が冷静さを取り戻していった。
情報を、分析しなくては。シエラはそう思った。今、王子が言った事を整理してみよう。彼は、私に「秘密を持っている」と、断定した。断定したという事は、確信があるという事だ。王子が確信する、“私の秘密”とは何なのだろうか?
エバ婦人から何か聞いているのだろうか、それとも、私の何かが王子に秘密を悟らせたのか…可能性はいくらでも挙げられる。しかし、それを知るすべは私には無いのだ。
王子はシエラの首元に顔をうずめながら、彼女の動揺を感じていた。身は硬く、呼吸は浅い。庇護すべき配下を、これほどまでに追い込んでしまった。自らの主君としての才の無さに呆れてしまう。
自己嫌悪を抱えたまま顔を上げると、そこには目にいっぱいの涙を溜めた少女が座していた。
「何を……ご存じなのですか」
それは、最も効率的で最も見え透いた方法だった。相手が握っている情報は、相手に語らせればよい。追及されれば終わりだ。それでも彼女は、正直そうに見える自分の居住まいに賭けてみることにした。背筋を伸ばし、目を逸らさず、ただ静かに王子の言葉を待った。
王子はシエラの様子を見つめながら、彼女が自分の元にたどり着くまでの人生を思いやっていた。先の女主人、その前の主――彼女はどんな圧力を受け、どんな支配の中で生きてきたのだろうか。生きるための偽りが露見するのを、こんなにも恐れている。
この少女に、信頼と温かさの上に築かれた主従もあるのだと、教えてあげたい。そんな思いが、王子の胸に静かに灯っていた。
もちろん、王子にも交渉の心得が無いわけではない。だが、時に願望は事実をゆがませる。彼は、言葉を選ばず、まっすぐに告げた。
「君は、孤児…だね。”令嬢”は、ドラモンド夫人が作った虚像だ。」
その瞬間、シエラはわずかに肩を震わせた。視線を落とし、動かずにいた。やがて静かに、頷いた。
「……ごめんなさい。」
その言葉に、王子は柔らかい笑顔で応えた。二人の間で“真実”が作られた瞬間だった。
シエラにとって、その言葉は謝罪というよりも、王子の信じる“真実”を受け入れる合図だった。シエラにとって、王子が信じている内容を“真実”とすることは不都合ではなかった。賭けに、勝った。
“家督争いを避け、匿われてきた令嬢”、そして“令嬢を装った孤児”この二段構えの嘘は、エバ婦人がシエラに用意したいくつもの設定の一つだった。彼女の作る嘘は、嘘の中に嘘があり、全てが真実と似通った形をしている。王子の思考は、エバ婦人の用意した嘘のバリエーションに絡めとられたのである。シエラは初めて、婦人の策略に感謝の念を抱いた。
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