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1巻:動き出す歴史
第四話 第三章:潜入官の日常 2
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二、チャコのメイド生活
マイヤー将軍に仕えることになったチャコの業務は、いかにもメイド然としたものばかりだった。
洗濯物の仕分け、食器の片づけ、書類の整理、衣装の手入れ……将軍は“メリンダ婦人”と同じく奔放な性格で、家事の心得がまるでない。騎士も軍人であるからには最低限の身辺管理をするはずだが、彼女は例外らしい。
「チャコ、これ、どこにしまえばいい?」
マイヤー将軍が、脱ぎ捨てた騎士服を指差す。チャコは淡々と拾い上げ、衣装室へ向かう。
「左の壁に、戦装束をまとめました。右は礼装です。普段使い、お集まりやおでかけ用、式典用と順番に並べておきました」
「うわ、すごい!もうすっかり、あなたの部屋ね」
大げさな驚きように、チャコは苦笑した。彼女は帝国兵学校の生徒でありながら、軍備部で正規軍人に交じって優秀な士官として働いていた。だらしない女の一人暮らしを整えることなど、造作もないことだ。
「ほんと、助かるわ。チャコが来てから、生活がまともになった気がする」
「それは……よかったですね」
チャコは表情を崩さずに答える。見えすいたお世辞では、心は動かない。しかし、マイヤー将軍が目を輝かせる表情には、少しくすぐったい心地がした。
ある日、外出から帰宅したマイヤー将軍を迎えると、貴族服の裾が破れている。将軍自身は気づいていないようだった。
「将軍、裾が裂けています。すぐにお直ししますね」
チャコが腰元につけた小さなポーチに手を伸ばす。マイヤー将軍はそれを静止するように、声をかける。
「え?ああ、これは普通の服とは違うのよ。貴族服は特殊な織りの布で、職人でないと直せないから…」
「大丈夫です。少しお時間をいただければ」
チャコは将軍を自分の前に立たせたまま、床に膝をつく。小さな裂け目をそっと押さえ、金糸の模様を崩さぬよう布の目を合わせ、細かな針目を刻んでいく。糸が通るたびに小さく擦れる音がして、裂け目は少しずつ消えていった。マイヤー将軍は無言のまま、その様子に見入っていた。
「……すごいのね」
マイヤー将軍は、感嘆とも呟きともつかぬ声を漏らす。
「小さな綻びでしたから」
チャコは視線を上げずに答えた。ほどなく補修は終わり、糸の結び目を指で押さえて余分を切ると、そこに傷はもう見えなかった。マイヤー将軍は礼を言い、チャコはありがたく受け取った。そのまま業務に戻るチャコの背中を追うマイヤー将軍瞳には、何かを察した光が宿っていた。
数日後、マイヤー将軍はチャコを連れて、あの屋敷へ向かった。市井遊行の際に休み宿として使う、小さな屋敷である。
「ここ、実は私の持ち物なの。将軍になってからは帰ってこれなくて、平民のご家族に維持をお願いしているけどね」
マイヤー将軍が挨拶もなく屋敷に入ると、平民の装いのご主人がにこりと笑って頭を下げる。マイヤー将軍は、よほど良い条件で貸し与えているらしい。
マイヤー将軍は、屋敷の奥の部屋にチャコをいざなう。そこは、立派なアトリエだった。
絵画や工芸の備えのほかに、上等な手芸設備が整っている。机の上には、ほこり除けの薄布で覆われた何らかの設備が置かれていた。布地は適度な間隔で取り換えられているのか、薄く清潔な白を保っていた。チャコは、薄布の稜線を見るだけで、何が隠されているのかを察した。
マイヤー将軍が、その薄布を一つひとつ取り去る。磨かれた作業台や精巧な仕立て道具が光を浴びて姿を現す。
チャコは予想通りとはいえ、思わず息を呑み、驚きと感動の声を上げてしまう。彼女はその価値を、十分すぎるほどよく知っていた。
「……すごい。本当に…全部、そろってる……」
設備の一つ一つを確かめるように見つめるチャコに、マイヤー将軍は笑顔で寄り添った。
チャコには、将来の夢があった。帝国兵士の防具を作成するのに心血を注いでいる今も、それは変わらない。防具作りは、戦争が早期に終結するための“未来への投資”だ。めでたく未来にたどり着いた時には、ドレスや美しく機能的な訪問着など、人を喜ばせ、魅せる衣装を作りたいと願っていた。マイヤー将軍の申し出は、その煩わしい道のりをすべて飛び越えて未来に連れていくような、まさに夢のようなものだった。
マイヤー将軍はチャコの肩に手を置き、言った。
「ここで、“メリンダ婦人”のドレスを作ってくれない? あなたなら、きっと素敵なものができると思うの」
そして、柔らかく微笑んだ。
「私の部屋を片付けるだけじゃ、あなたの能力には不十分よね。本当は、こういう仕事がしたいんじゃない?きらびやかなドレスを作るような……」
その言葉は、まっすぐにチャコの胸に届いた。高揚を感じ、すぐに冷たい感覚が背筋を走る。すべてを与えてくれる人は、すべてを見透かしている人だからだ。
これに飛びつけば、いずれ、全てを掌握されてしまう。そんな不安が、チャコを埋め尽くした。
チャコは感謝の気持ちを抱きながらも、潜入任務を隠し通す方法を探す。何事も、命あっての物種である。その方法は、思いつかないわけではない。むしろ、あの秘密試験の際には、見当がついていた。しかし、実行するにはためらいがあった。
マイヤー将軍は、チャコに逡巡する時間を与えなかった。剣士が瞬時に間合いを詰めるように、言葉をつなぐ。
「チャコ。私のことは、主だと思わなくていい。そうね……友人だと思って?」
マイヤー将軍の申し出に、チャコは目を見開いた。彼女を欺く可能性がある方法を、実行せざるを得なくなった。これは罠である。しかし、この罠を踏まなければ、檻に入ることも叶わないままで終わるだろう。
沈黙の間、マイヤー将軍の長い指がチャコの手の甲を踊る。彼女の思惑通りに誘いにのれば、きっと様々な嘘を飲み下してくれるのだろう。
チャコは静かに、しかし確かな声で言った。
「……友人では、嫌です」
そして、マイヤー将軍の胸にそっと飛び込んだ。これほどまでに、打ち負かされたのは初めてだった。
マイヤー将軍に仕えることになったチャコの業務は、いかにもメイド然としたものばかりだった。
洗濯物の仕分け、食器の片づけ、書類の整理、衣装の手入れ……将軍は“メリンダ婦人”と同じく奔放な性格で、家事の心得がまるでない。騎士も軍人であるからには最低限の身辺管理をするはずだが、彼女は例外らしい。
「チャコ、これ、どこにしまえばいい?」
マイヤー将軍が、脱ぎ捨てた騎士服を指差す。チャコは淡々と拾い上げ、衣装室へ向かう。
「左の壁に、戦装束をまとめました。右は礼装です。普段使い、お集まりやおでかけ用、式典用と順番に並べておきました」
「うわ、すごい!もうすっかり、あなたの部屋ね」
大げさな驚きように、チャコは苦笑した。彼女は帝国兵学校の生徒でありながら、軍備部で正規軍人に交じって優秀な士官として働いていた。だらしない女の一人暮らしを整えることなど、造作もないことだ。
「ほんと、助かるわ。チャコが来てから、生活がまともになった気がする」
「それは……よかったですね」
チャコは表情を崩さずに答える。見えすいたお世辞では、心は動かない。しかし、マイヤー将軍が目を輝かせる表情には、少しくすぐったい心地がした。
ある日、外出から帰宅したマイヤー将軍を迎えると、貴族服の裾が破れている。将軍自身は気づいていないようだった。
「将軍、裾が裂けています。すぐにお直ししますね」
チャコが腰元につけた小さなポーチに手を伸ばす。マイヤー将軍はそれを静止するように、声をかける。
「え?ああ、これは普通の服とは違うのよ。貴族服は特殊な織りの布で、職人でないと直せないから…」
「大丈夫です。少しお時間をいただければ」
チャコは将軍を自分の前に立たせたまま、床に膝をつく。小さな裂け目をそっと押さえ、金糸の模様を崩さぬよう布の目を合わせ、細かな針目を刻んでいく。糸が通るたびに小さく擦れる音がして、裂け目は少しずつ消えていった。マイヤー将軍は無言のまま、その様子に見入っていた。
「……すごいのね」
マイヤー将軍は、感嘆とも呟きともつかぬ声を漏らす。
「小さな綻びでしたから」
チャコは視線を上げずに答えた。ほどなく補修は終わり、糸の結び目を指で押さえて余分を切ると、そこに傷はもう見えなかった。マイヤー将軍は礼を言い、チャコはありがたく受け取った。そのまま業務に戻るチャコの背中を追うマイヤー将軍瞳には、何かを察した光が宿っていた。
数日後、マイヤー将軍はチャコを連れて、あの屋敷へ向かった。市井遊行の際に休み宿として使う、小さな屋敷である。
「ここ、実は私の持ち物なの。将軍になってからは帰ってこれなくて、平民のご家族に維持をお願いしているけどね」
マイヤー将軍が挨拶もなく屋敷に入ると、平民の装いのご主人がにこりと笑って頭を下げる。マイヤー将軍は、よほど良い条件で貸し与えているらしい。
マイヤー将軍は、屋敷の奥の部屋にチャコをいざなう。そこは、立派なアトリエだった。
絵画や工芸の備えのほかに、上等な手芸設備が整っている。机の上には、ほこり除けの薄布で覆われた何らかの設備が置かれていた。布地は適度な間隔で取り換えられているのか、薄く清潔な白を保っていた。チャコは、薄布の稜線を見るだけで、何が隠されているのかを察した。
マイヤー将軍が、その薄布を一つひとつ取り去る。磨かれた作業台や精巧な仕立て道具が光を浴びて姿を現す。
チャコは予想通りとはいえ、思わず息を呑み、驚きと感動の声を上げてしまう。彼女はその価値を、十分すぎるほどよく知っていた。
「……すごい。本当に…全部、そろってる……」
設備の一つ一つを確かめるように見つめるチャコに、マイヤー将軍は笑顔で寄り添った。
チャコには、将来の夢があった。帝国兵士の防具を作成するのに心血を注いでいる今も、それは変わらない。防具作りは、戦争が早期に終結するための“未来への投資”だ。めでたく未来にたどり着いた時には、ドレスや美しく機能的な訪問着など、人を喜ばせ、魅せる衣装を作りたいと願っていた。マイヤー将軍の申し出は、その煩わしい道のりをすべて飛び越えて未来に連れていくような、まさに夢のようなものだった。
マイヤー将軍はチャコの肩に手を置き、言った。
「ここで、“メリンダ婦人”のドレスを作ってくれない? あなたなら、きっと素敵なものができると思うの」
そして、柔らかく微笑んだ。
「私の部屋を片付けるだけじゃ、あなたの能力には不十分よね。本当は、こういう仕事がしたいんじゃない?きらびやかなドレスを作るような……」
その言葉は、まっすぐにチャコの胸に届いた。高揚を感じ、すぐに冷たい感覚が背筋を走る。すべてを与えてくれる人は、すべてを見透かしている人だからだ。
これに飛びつけば、いずれ、全てを掌握されてしまう。そんな不安が、チャコを埋め尽くした。
チャコは感謝の気持ちを抱きながらも、潜入任務を隠し通す方法を探す。何事も、命あっての物種である。その方法は、思いつかないわけではない。むしろ、あの秘密試験の際には、見当がついていた。しかし、実行するにはためらいがあった。
マイヤー将軍は、チャコに逡巡する時間を与えなかった。剣士が瞬時に間合いを詰めるように、言葉をつなぐ。
「チャコ。私のことは、主だと思わなくていい。そうね……友人だと思って?」
マイヤー将軍の申し出に、チャコは目を見開いた。彼女を欺く可能性がある方法を、実行せざるを得なくなった。これは罠である。しかし、この罠を踏まなければ、檻に入ることも叶わないままで終わるだろう。
沈黙の間、マイヤー将軍の長い指がチャコの手の甲を踊る。彼女の思惑通りに誘いにのれば、きっと様々な嘘を飲み下してくれるのだろう。
チャコは静かに、しかし確かな声で言った。
「……友人では、嫌です」
そして、マイヤー将軍の胸にそっと飛び込んだ。これほどまでに、打ち負かされたのは初めてだった。
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