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7月
2.
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掘っ建て小屋の先の露天風呂からは夕暮れのピンク色の空と灰青の山が見える。
遠く甲府盆地の明かりが少しずつ灯る光景は、とても不思議な気持ちよさと、と同時に気ぜわしさが交互にやってくる。
日が落ち切る前に千晶は風呂から上がった。
「待った?」
「ううん」
待たされたのは千晶のほう、脳内で大昔のフォークソングをリピートすること5回目、やっと出てきたそいつは千晶の頬に触れると後から抱きつく。
「ちょっと冷えてる」
「身体は温まってるってば」
湯冷めをする季節ではない、くっついたらせっかくさっぱりしたのにまた汗をかく、離れろ離れないとじゃれあう。
「長かったね、温泉入ったんだ?」
「そりゃ入るでしょ」
「へんなところ潔癖そうだから苦手かと思った」
「大学に入ってはじめて銭湯に行ったんだ、慣れるといいもんだね」
(湯上りに腰に手を当てて牛乳飲む姿とか、想像でき――)したら肩が震えて千晶は一人笑いをこらえ俯く。薄暗いのもあって、後ろの男は自分が笑われているのは気づいていない。
「アキは?どうだった?」
「うーーん、きもちよかったよ。温泉はちょうどよかったし景色もいい眺めで、どんどん空の色が変わっていって綺麗だったな。建物のカランが並んだ光景はちょっとシュールだったね、ここは浸かるだけの設備でいいのになぁ」
「環境負荷とか考えてんの? お金を払うと途端にクチの大きくなる客が多いからね、もっと楽しみなよ」
「そこが自然に湧き出た温泉と違うとこなのかなぁ」
「混浴だったらよかったのにね」
俺なら貸し切りが欲しいと言い出す慎一郎に、千晶は何を想像したのか眉を顰める。
「思ってるような光景にはならないから、絶対」
ぷいと横を向いた千晶の荷物が増えている。二人が温泉に着いた時すでに売店は閉まっていた。
「それどうしたの?」
「ああ、さっきおばちゃんからもらったの、プラムだって」
「知らない人から貰ったの?」
責める口調ではないが、慎一郎なら受け取らない。片や千晶は気さくな商店街育ち。
「……? ヘアゴムとビニール袋のお礼にって物々交換みたいなものだよ。ああ、私は命を狙われたりしないし、いたずら目的ならその場で食べさせるでしょ」
「そこまで言ってないよ」
「いや、危機管理の甘い平和ボケって言いたそう」
慎一郎はプラムを見つめ、ちょっと考えて、手ぬぐいで拭いて丸ごとかぶりつく。
「無理に食べなくても」
「…酸っぱいな」
「そう?」
もうひとくち齧って千晶に顔を寄せ、わずかに開いた口に酸味と香りを放り込む。
「…甘酸っぱい」
「もっと?」
平然と味わってみせた千晶の顔が急に俯いた。慎一郎は楽しそうに、もっと?と顔を寄せると更に顔をそむける。
「こんなところでやめて、向こうに人がいるのに」
「ここでなければいいんだ? ふーん」
手すりにもたれた千晶の手に慎一郎の手が重なり、耳元でささやく。
「あの湯に二人きりだったらどう?」
昼間の晴天そのままをたっぷり浴びたような星空と眼下の夜景…と温泉。
「もしかして顔赤い? 何想像してんの?」
「いじわるヘンタイさいてー」
今日も千晶の負けだ。二人きりなら非道く背徳的かもしれない、
星だけが見ている。
***
大学の学生科の掲示板に夏季休暇中の求人が張り出されている。それを眺める千晶ともう一人の女子。と、そこへまた一人。
「これかな、先生の言ってたの」
「君らバイトすんの?」
「うーん、これ、ニュアンス的に男性向けなのかな?」
「どれ、そんなことないんじゃない、男限定だともっと体力うんぬん書いてあるよ」
一般の情報誌とはちがう表記に、どこまで裏を読めばいいのか分からない。あれこれと情報交換をしながら条件を見ていく。
「うーんこれは20歳以上男性か 5泊で15万だって」
「治験は勘弁して、今何かしてんの? 家庭教師?」
「あたしは夏休みだけしようと思って」
「週末だけホテルでウエイトレスだよ。立ちっぱなしでろくに休憩もないから別の仕事がいいんだ、
浅井くんは?」
「ダイニングバー、チップと賄いがうまいよ。お、これなんかいいかな夕方までだし」
「夜はそのまま掛け持ちなの?」
「ああ、2年からは忙しくなるっていうから今のうちに貯めておかないとな」
「すごーい、あたしバイトしたことないの、なにがおすすめ?」
「最初は接客かな――」
社会勉強だという彼女に彼は苦笑しつつあれこれとアドバイスをする。その傍らで、千晶は時給と鉄道路線図を確認していった。
遠く甲府盆地の明かりが少しずつ灯る光景は、とても不思議な気持ちよさと、と同時に気ぜわしさが交互にやってくる。
日が落ち切る前に千晶は風呂から上がった。
「待った?」
「ううん」
待たされたのは千晶のほう、脳内で大昔のフォークソングをリピートすること5回目、やっと出てきたそいつは千晶の頬に触れると後から抱きつく。
「ちょっと冷えてる」
「身体は温まってるってば」
湯冷めをする季節ではない、くっついたらせっかくさっぱりしたのにまた汗をかく、離れろ離れないとじゃれあう。
「長かったね、温泉入ったんだ?」
「そりゃ入るでしょ」
「へんなところ潔癖そうだから苦手かと思った」
「大学に入ってはじめて銭湯に行ったんだ、慣れるといいもんだね」
(湯上りに腰に手を当てて牛乳飲む姿とか、想像でき――)したら肩が震えて千晶は一人笑いをこらえ俯く。薄暗いのもあって、後ろの男は自分が笑われているのは気づいていない。
「アキは?どうだった?」
「うーーん、きもちよかったよ。温泉はちょうどよかったし景色もいい眺めで、どんどん空の色が変わっていって綺麗だったな。建物のカランが並んだ光景はちょっとシュールだったね、ここは浸かるだけの設備でいいのになぁ」
「環境負荷とか考えてんの? お金を払うと途端にクチの大きくなる客が多いからね、もっと楽しみなよ」
「そこが自然に湧き出た温泉と違うとこなのかなぁ」
「混浴だったらよかったのにね」
俺なら貸し切りが欲しいと言い出す慎一郎に、千晶は何を想像したのか眉を顰める。
「思ってるような光景にはならないから、絶対」
ぷいと横を向いた千晶の荷物が増えている。二人が温泉に着いた時すでに売店は閉まっていた。
「それどうしたの?」
「ああ、さっきおばちゃんからもらったの、プラムだって」
「知らない人から貰ったの?」
責める口調ではないが、慎一郎なら受け取らない。片や千晶は気さくな商店街育ち。
「……? ヘアゴムとビニール袋のお礼にって物々交換みたいなものだよ。ああ、私は命を狙われたりしないし、いたずら目的ならその場で食べさせるでしょ」
「そこまで言ってないよ」
「いや、危機管理の甘い平和ボケって言いたそう」
慎一郎はプラムを見つめ、ちょっと考えて、手ぬぐいで拭いて丸ごとかぶりつく。
「無理に食べなくても」
「…酸っぱいな」
「そう?」
もうひとくち齧って千晶に顔を寄せ、わずかに開いた口に酸味と香りを放り込む。
「…甘酸っぱい」
「もっと?」
平然と味わってみせた千晶の顔が急に俯いた。慎一郎は楽しそうに、もっと?と顔を寄せると更に顔をそむける。
「こんなところでやめて、向こうに人がいるのに」
「ここでなければいいんだ? ふーん」
手すりにもたれた千晶の手に慎一郎の手が重なり、耳元でささやく。
「あの湯に二人きりだったらどう?」
昼間の晴天そのままをたっぷり浴びたような星空と眼下の夜景…と温泉。
「もしかして顔赤い? 何想像してんの?」
「いじわるヘンタイさいてー」
今日も千晶の負けだ。二人きりなら非道く背徳的かもしれない、
星だけが見ている。
***
大学の学生科の掲示板に夏季休暇中の求人が張り出されている。それを眺める千晶ともう一人の女子。と、そこへまた一人。
「これかな、先生の言ってたの」
「君らバイトすんの?」
「うーん、これ、ニュアンス的に男性向けなのかな?」
「どれ、そんなことないんじゃない、男限定だともっと体力うんぬん書いてあるよ」
一般の情報誌とはちがう表記に、どこまで裏を読めばいいのか分からない。あれこれと情報交換をしながら条件を見ていく。
「うーんこれは20歳以上男性か 5泊で15万だって」
「治験は勘弁して、今何かしてんの? 家庭教師?」
「あたしは夏休みだけしようと思って」
「週末だけホテルでウエイトレスだよ。立ちっぱなしでろくに休憩もないから別の仕事がいいんだ、
浅井くんは?」
「ダイニングバー、チップと賄いがうまいよ。お、これなんかいいかな夕方までだし」
「夜はそのまま掛け持ちなの?」
「ああ、2年からは忙しくなるっていうから今のうちに貯めておかないとな」
「すごーい、あたしバイトしたことないの、なにがおすすめ?」
「最初は接客かな――」
社会勉強だという彼女に彼は苦笑しつつあれこれとアドバイスをする。その傍らで、千晶は時給と鉄道路線図を確認していった。
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