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必然
19.
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梅雨入りが宣言されて数日が過ぎた、晴天の日。
『仕事が終わる前に連絡して』問答無用でどうしても今日だからとねじ込まれ、千晶はもうあの男に付ける薬はないと匙を投げた。
猫の食欲が落ちてあたふたと心配したのは先週のこと、原因は分からなかったが、今はすっかり回復した。家には弟がいればいいか。
試作品の組み立てとプレゼン用の資料と鍋一杯の豚汁を作って今日のバイトは終了。
ハイヤーで迎えに来たのには少し驚いたが、仕事が押していると言われれば給与水準も違うからそんなものかと乗り込んだ。
梅雨の合間の蒸し暑い夜。強引に誘った男の顔には疲れの色が見えた、千晶も顔には出ないが疲れていた。
「タコの胴体が頭と称して売られている件」
「……はいはい擬人化、Jay says that too」
後部座席でPCを叩く慎一郎を真似て、千晶も隣でレポートの草稿をメモし始めたが、酔いそうになり諦めた。
車中で仕事が出来て当然なら、成功者への道は遠すぎる。せめて整然と話せたら音声入力という手があるのに。隣は電話をしながらタイプできる男。下らない話を流す余裕もある。
車窓から見る人々もどこか疲れ、せわしない。どこへ何をしに、もう尋ねるのは諦めた。
そして途中で軽食を買い、食べ終わる頃に慎一郎の仕事も一段落、そして目的地へも到着した。
*
遮光ネットを二枚くぐった先は、ひそかな光が泳いでいた。それはあのドライブのようにいつか見てみたいと、ちょっと会話の端にでてきたことだった。
「……」
光は想像よりずっと強く明るかった。二人の後ろからは、愕きで息を飲み、または驚嘆の声をあげかけて飲み込む音が続く。
無数の光のたゆたう暗闇に、たゆたう人間の声もひそやかで。
千晶は初めて見た蛍に現実を忘れた、慎一郎も蛍が飛ぶのを初めて見た。千晶の開いたままの口に、慎一郎の指が触れる。無邪気にほほ笑む千晶と、いつもの鉄面皮。
光のひとつが水辺を離れ、人波に揺れる。
恋の行手を阻まぬよう、避ける人々の空気が優しい。
「どこ?」
「アキの髪に」
吸い込まれるように、光は千晶の耳の少し後ろに止まった。
千晶は水辺に近寄り、そっと離れるのを待つ。水際では一段暗い光がゆっくりと瞬いていた。暗さに慣れた目に時折スマートフォンの画面の明かりが眩しい。
黙って、ただ、見つめていた。
「まだいる?」
慎一郎が千晶の髪に目をやると、蛍は水辺の葦と勝手が違うのか淡く瞬く。
「ああ、――」きっと居心地がいいんだ。横顔に軽く口づけると、光は飛び立った。
どちらからともなく手を繋ぎ、光を見送る。
そのまま、それから。
呑んでたわけじゃない、泣きたいほどの夜じゃない。いつだって理性を持ったまま重ねる身体。
「結局こうなるかな」
「男と女だもの、もったいない」
千晶は流された自分を棚にあげ、目の前の、これまた何を考えているのか分からない男に軽く八つ当たり。ここまで会話らしい会話もなく1ラウンド、うつぶせでそっぽを向きながらあーあ、なんでかなーとブツブツとぶーたれる。片や胡坐をかいて口角を上げた男が、髪を一房とり指に巻き付けてもてあそぶ。
ああ、結局男と女なのだから関わってはいけないのだ。自分がチョロい自覚はある、無理矢理、強引、それなら拒否したのに。逃げるから追う、ならば手に入れて満足し次へ目移りするはずだった。執着も束縛もない。恋情、という熱も感じない。
気まぐれにやってくる、昔も今も面倒くさい男。それでも嫌いなわけではない自分に心底呆れる。そもそも千晶の好みはのんびりした穏やかなひと。それだけでは頼りないと気づいた今でも、隣に座る男は恋愛とは程遠い。
「男ねぇ、」
「男の意味なんてそんなもんでしょ、」
そうでなければ女とは関わらない、という顔を隠しもしない。甘い情緒もあったもんじゃない。
「ふーん、ね、ちょっとうつぶせになって、両手は前に」
閃いた。千晶はすくっと起き上がり、慎一郎の手首を前で合わせてバスローブの腰ひもで縛る。そして無駄に意味のない微笑みを浮かべてみせた。千晶の脳のリソースは一生使わない無駄知識が99パーセントを占めている。ついに、役に立つ時が来た。
「えぇ…っ? ちぃーあきサン?」
「慎ちゃん、女だったらどうしたい? あ、どうされたい?」
千晶は戸惑う慎一郎の手を勢いよく前に引き、うつぶせにする。
「……考えたこともないよ」
慎一郎も性分化の過程は習った。どことどこが対応するか、今は思い出したくもない。余計なことは言ってはいけない。拒否オーラ全開で首を振る。胡坐からそのまま前に倒れこんだ体勢の、その両足に重みが掛けられた。
「私はねー、」
「言わなくていいよ」
千晶は男にしたらいけないほう、直感が訴える。
「えーと、セーフワード決めとこっか。なんにするー?」
「Wh…what do you mean by that?」
「知ってるくせにー」
きゃらきゃらと笑う声に、血流が集中する。後ろを振りかえって彼女の真意を確かめたい、のんびりした口調の裏打ちが欲しいのに上半身が動かない。
*
『仕事が終わる前に連絡して』問答無用でどうしても今日だからとねじ込まれ、千晶はもうあの男に付ける薬はないと匙を投げた。
猫の食欲が落ちてあたふたと心配したのは先週のこと、原因は分からなかったが、今はすっかり回復した。家には弟がいればいいか。
試作品の組み立てとプレゼン用の資料と鍋一杯の豚汁を作って今日のバイトは終了。
ハイヤーで迎えに来たのには少し驚いたが、仕事が押していると言われれば給与水準も違うからそんなものかと乗り込んだ。
梅雨の合間の蒸し暑い夜。強引に誘った男の顔には疲れの色が見えた、千晶も顔には出ないが疲れていた。
「タコの胴体が頭と称して売られている件」
「……はいはい擬人化、Jay says that too」
後部座席でPCを叩く慎一郎を真似て、千晶も隣でレポートの草稿をメモし始めたが、酔いそうになり諦めた。
車中で仕事が出来て当然なら、成功者への道は遠すぎる。せめて整然と話せたら音声入力という手があるのに。隣は電話をしながらタイプできる男。下らない話を流す余裕もある。
車窓から見る人々もどこか疲れ、せわしない。どこへ何をしに、もう尋ねるのは諦めた。
そして途中で軽食を買い、食べ終わる頃に慎一郎の仕事も一段落、そして目的地へも到着した。
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遮光ネットを二枚くぐった先は、ひそかな光が泳いでいた。それはあのドライブのようにいつか見てみたいと、ちょっと会話の端にでてきたことだった。
「……」
光は想像よりずっと強く明るかった。二人の後ろからは、愕きで息を飲み、または驚嘆の声をあげかけて飲み込む音が続く。
無数の光のたゆたう暗闇に、たゆたう人間の声もひそやかで。
千晶は初めて見た蛍に現実を忘れた、慎一郎も蛍が飛ぶのを初めて見た。千晶の開いたままの口に、慎一郎の指が触れる。無邪気にほほ笑む千晶と、いつもの鉄面皮。
光のひとつが水辺を離れ、人波に揺れる。
恋の行手を阻まぬよう、避ける人々の空気が優しい。
「どこ?」
「アキの髪に」
吸い込まれるように、光は千晶の耳の少し後ろに止まった。
千晶は水辺に近寄り、そっと離れるのを待つ。水際では一段暗い光がゆっくりと瞬いていた。暗さに慣れた目に時折スマートフォンの画面の明かりが眩しい。
黙って、ただ、見つめていた。
「まだいる?」
慎一郎が千晶の髪に目をやると、蛍は水辺の葦と勝手が違うのか淡く瞬く。
「ああ、――」きっと居心地がいいんだ。横顔に軽く口づけると、光は飛び立った。
どちらからともなく手を繋ぎ、光を見送る。
そのまま、それから。
呑んでたわけじゃない、泣きたいほどの夜じゃない。いつだって理性を持ったまま重ねる身体。
「結局こうなるかな」
「男と女だもの、もったいない」
千晶は流された自分を棚にあげ、目の前の、これまた何を考えているのか分からない男に軽く八つ当たり。ここまで会話らしい会話もなく1ラウンド、うつぶせでそっぽを向きながらあーあ、なんでかなーとブツブツとぶーたれる。片や胡坐をかいて口角を上げた男が、髪を一房とり指に巻き付けてもてあそぶ。
ああ、結局男と女なのだから関わってはいけないのだ。自分がチョロい自覚はある、無理矢理、強引、それなら拒否したのに。逃げるから追う、ならば手に入れて満足し次へ目移りするはずだった。執着も束縛もない。恋情、という熱も感じない。
気まぐれにやってくる、昔も今も面倒くさい男。それでも嫌いなわけではない自分に心底呆れる。そもそも千晶の好みはのんびりした穏やかなひと。それだけでは頼りないと気づいた今でも、隣に座る男は恋愛とは程遠い。
「男ねぇ、」
「男の意味なんてそんなもんでしょ、」
そうでなければ女とは関わらない、という顔を隠しもしない。甘い情緒もあったもんじゃない。
「ふーん、ね、ちょっとうつぶせになって、両手は前に」
閃いた。千晶はすくっと起き上がり、慎一郎の手首を前で合わせてバスローブの腰ひもで縛る。そして無駄に意味のない微笑みを浮かべてみせた。千晶の脳のリソースは一生使わない無駄知識が99パーセントを占めている。ついに、役に立つ時が来た。
「えぇ…っ? ちぃーあきサン?」
「慎ちゃん、女だったらどうしたい? あ、どうされたい?」
千晶は戸惑う慎一郎の手を勢いよく前に引き、うつぶせにする。
「……考えたこともないよ」
慎一郎も性分化の過程は習った。どことどこが対応するか、今は思い出したくもない。余計なことは言ってはいけない。拒否オーラ全開で首を振る。胡坐からそのまま前に倒れこんだ体勢の、その両足に重みが掛けられた。
「私はねー、」
「言わなくていいよ」
千晶は男にしたらいけないほう、直感が訴える。
「えーと、セーフワード決めとこっか。なんにするー?」
「Wh…what do you mean by that?」
「知ってるくせにー」
きゃらきゃらと笑う声に、血流が集中する。後ろを振りかえって彼女の真意を確かめたい、のんびりした口調の裏打ちが欲しいのに上半身が動かない。
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