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必然
21.
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“forgive me please”
夢うつつの千晶の耳にそんな言葉が聞こえてきた。
何が? そう思ったけれど音に出なかった。
重だるい疲労感にとらわれた身体は、頭を少し持ち上げるだけでこと切れた。
今何時? ここは――自分がいる場所を確かめる。回らない頭で昨日?今日?のことを――思い出し、恥ずかしさに枕に顔をうずめた。ちょっとしたいたずら心で変な趣味嗜好は無い、事実面白くもなんともなかった。やられたらやり返す性分と、そういう性癖とはまったく別モノだと知った。
うつぶせになった男の腰が少し浮いたのは気付かないふりをした。どうしても喰えなくなったら女王様と複数の人から言われたが、そっちの才があるとは思えない。人から見た姿と自分で思う姿はどこか乖離している。
今日のことは、全部夢だったらいいのに。ううん、そんな欲求不満な夢をみてたまるか。
やらかしたことをしっかり覚えている千晶はほんの少しのためいきを吐いた。酒を飲んで忘れられる人がうらやましい。
ふと、伸ばした右手のシーツの隙間はまだ暖かかった。シャワーの水音が聞こえる。
一晩ぐっすり眠れば回復する、だから今はゆっくり眠りたい。リネンからは、ほっとするあの香り。なんだかんだと流された、この香りに抗えない。
そしてまた眠りに落ちた。あたまの片隅では明日、家に一旦帰った場合の時間と、そのまま大学へ行く時間を逆算する。多分、大学へ直行だ、着替えは教室にあるし。
次に目ざましのスヌーズを二回止めて、やっと覚醒した時、隣はすっかり冷たくなっていた。
以前、朝まで一緒に過ごしたことは多くはないけれど、必ず千晶が先に目覚めていた。
気にせず起きていたら焦った様子は見せないものの、いるとわかるとちょっとだけ眉が下がる、そんな顔を目にしているうちにベッドから出ずに待つようになった。
待ちきれないときはわざと気配を感じるよう音を立てて。
置いて行かれるのはこんな気分だったのか、と千晶は初めて知った。
メモも何もなかった。ただ右手の中指に見慣れない輝きがあって、それは昔貰ったピアスのフラワーモチーフとよく似ていた。マルチカラーに無色の飾りはスワ〇フスキーだと思っておく。
ねだったりねだられたりという関係ではなかったし、労せず始まった関係で釣果に餌を惜しまない人かどうかも知らなかった。千晶も引き留めるために形に残るものを贈ったりはしなかった。
コンパクトなシングルルーム。ソファーに掛かった衣類に、デスクの上の書類やケーブル類、適度な生活感が見て取れる。そろそろ三か月、でも、まだ今日はこの部屋に帰ってくるはずだ。
指輪と部屋を見つめ、千晶はしばし首を傾げた。さて、どうしようか。置き去りにしたことを根に持って仕返しされたのなら、素直に受け取っておこうか。
着てきたワンピースには華美すぎる気がしたけれど指輪の他にケースも何もなく、指にはめたまま部屋を出た。
初めて会った日を思い出す。二人で桜を見て、それから彼の部屋へ行った。帰り際にキャンディを一置いてきた。特に意味はなかった。
それからまた偶然が重なった。
穏やかな日々、彼の周囲の人も、失礼な言動はあっても気持ちに余裕のある人たちだった。
大きく盛り上がることはなかった、静かに始まって静かに終わる。彼は気付いていないだろう、あの日に残したキャンディと今朝の指輪、置き去りにしたほうが入れ替わって。
ドアノブから手を放す。カチリ、とドアが閉まりロックがかかる。
あの夜も、今日までの日々も、なかったことにはしないけれど、今度こそ引き出しに仕舞い、鍵をかけた。
ホテルから出て千晶は立ち止まる。空を見上げればどんよりとした梅雨空で、しとしとと洗い流された空気からは雨の匂いもしなかった。
(ああ、あの朝も雨だったな)
灰白色に右手をかざす。ちりじりとした雨粒に、片目を瞑り、ひらひら角度を変えて動かしてみると5枚の花弁が色とりどりに透けて、滲んだ。
ashes to ashes, dust to dust
そうだ、春になったら、ううん、無事卒業になったら全部クッキーの箱に入れてあの桜の下に埋めてしまおう。桜の木の下には―――が埋まっている。
いいことを思いつい――いやいや埋めるってベタ過ぎ、犬やリスが埋めるのって宝物を隠すみたいじゃないの。千晶はかぶりを振り、うつむいてひとり笑った。
「花の下にて春死なん、その如月の――望月のころ」
===============
香りで記憶が呼び出されるのは『プルースト効果』というそうだ。
人の香りは年代で変化する、彼はまだあの香りのままだったけれど、歳を重ね違った香りになればもう思い出すことはないだろう。
夢うつつの千晶の耳にそんな言葉が聞こえてきた。
何が? そう思ったけれど音に出なかった。
重だるい疲労感にとらわれた身体は、頭を少し持ち上げるだけでこと切れた。
今何時? ここは――自分がいる場所を確かめる。回らない頭で昨日?今日?のことを――思い出し、恥ずかしさに枕に顔をうずめた。ちょっとしたいたずら心で変な趣味嗜好は無い、事実面白くもなんともなかった。やられたらやり返す性分と、そういう性癖とはまったく別モノだと知った。
うつぶせになった男の腰が少し浮いたのは気付かないふりをした。どうしても喰えなくなったら女王様と複数の人から言われたが、そっちの才があるとは思えない。人から見た姿と自分で思う姿はどこか乖離している。
今日のことは、全部夢だったらいいのに。ううん、そんな欲求不満な夢をみてたまるか。
やらかしたことをしっかり覚えている千晶はほんの少しのためいきを吐いた。酒を飲んで忘れられる人がうらやましい。
ふと、伸ばした右手のシーツの隙間はまだ暖かかった。シャワーの水音が聞こえる。
一晩ぐっすり眠れば回復する、だから今はゆっくり眠りたい。リネンからは、ほっとするあの香り。なんだかんだと流された、この香りに抗えない。
そしてまた眠りに落ちた。あたまの片隅では明日、家に一旦帰った場合の時間と、そのまま大学へ行く時間を逆算する。多分、大学へ直行だ、着替えは教室にあるし。
次に目ざましのスヌーズを二回止めて、やっと覚醒した時、隣はすっかり冷たくなっていた。
以前、朝まで一緒に過ごしたことは多くはないけれど、必ず千晶が先に目覚めていた。
気にせず起きていたら焦った様子は見せないものの、いるとわかるとちょっとだけ眉が下がる、そんな顔を目にしているうちにベッドから出ずに待つようになった。
待ちきれないときはわざと気配を感じるよう音を立てて。
置いて行かれるのはこんな気分だったのか、と千晶は初めて知った。
メモも何もなかった。ただ右手の中指に見慣れない輝きがあって、それは昔貰ったピアスのフラワーモチーフとよく似ていた。マルチカラーに無色の飾りはスワ〇フスキーだと思っておく。
ねだったりねだられたりという関係ではなかったし、労せず始まった関係で釣果に餌を惜しまない人かどうかも知らなかった。千晶も引き留めるために形に残るものを贈ったりはしなかった。
コンパクトなシングルルーム。ソファーに掛かった衣類に、デスクの上の書類やケーブル類、適度な生活感が見て取れる。そろそろ三か月、でも、まだ今日はこの部屋に帰ってくるはずだ。
指輪と部屋を見つめ、千晶はしばし首を傾げた。さて、どうしようか。置き去りにしたことを根に持って仕返しされたのなら、素直に受け取っておこうか。
着てきたワンピースには華美すぎる気がしたけれど指輪の他にケースも何もなく、指にはめたまま部屋を出た。
初めて会った日を思い出す。二人で桜を見て、それから彼の部屋へ行った。帰り際にキャンディを一置いてきた。特に意味はなかった。
それからまた偶然が重なった。
穏やかな日々、彼の周囲の人も、失礼な言動はあっても気持ちに余裕のある人たちだった。
大きく盛り上がることはなかった、静かに始まって静かに終わる。彼は気付いていないだろう、あの日に残したキャンディと今朝の指輪、置き去りにしたほうが入れ替わって。
ドアノブから手を放す。カチリ、とドアが閉まりロックがかかる。
あの夜も、今日までの日々も、なかったことにはしないけれど、今度こそ引き出しに仕舞い、鍵をかけた。
ホテルから出て千晶は立ち止まる。空を見上げればどんよりとした梅雨空で、しとしとと洗い流された空気からは雨の匂いもしなかった。
(ああ、あの朝も雨だったな)
灰白色に右手をかざす。ちりじりとした雨粒に、片目を瞑り、ひらひら角度を変えて動かしてみると5枚の花弁が色とりどりに透けて、滲んだ。
ashes to ashes, dust to dust
そうだ、春になったら、ううん、無事卒業になったら全部クッキーの箱に入れてあの桜の下に埋めてしまおう。桜の木の下には―――が埋まっている。
いいことを思いつい――いやいや埋めるってベタ過ぎ、犬やリスが埋めるのって宝物を隠すみたいじゃないの。千晶はかぶりを振り、うつむいてひとり笑った。
「花の下にて春死なん、その如月の――望月のころ」
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香りで記憶が呼び出されるのは『プルースト効果』というそうだ。
人の香りは年代で変化する、彼はまだあの香りのままだったけれど、歳を重ね違った香りになればもう思い出すことはないだろう。
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