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蓋然
13.
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「確定してしまえば楽なのにな」
「まとまった力は必要でしょう、悪い奴らはいずれ自壊するにしてもね」
ここでやめてしまえば、事業まるっと売り払ってしまえば、慎一郎の一瞬の揺れを、七海は読み取った。
利益の出ている今、売り抜けるのはマネーゲームとしては正しい。現実には議題に挙げることすらできず、―― 精々早めにリタイアをし、そのあとは無人島ひとつ買って暮らして行けたら――、これではどこかの現経営者と同じではないか。
思うだけなら自由、そして自由を許さない自分がいる。
否応なく役割を与えられた人間が、その役目を離れると自我の崩壊が起きる。役を奪われるより、自ら降りる選択をしたものは自己の存在を否定する結果すら招きかねない。
七海は留めに煽ってみせた。
「あいつらが潰されたら?」
誰が? 誰に? 何に? 彼の言葉は二重にも三重にも聞こえる。正義と力は結ばれる必要がある、ならば正義とは?
「カズが言ってた『お前の外に正義を求めるな』」
誰かの受け売りだろうけどね、そう嘯く七海も確かなこころの強さを持つ。だからだろうか、本来彼のような鋭い人間には気を許さないはずなのに、ふと気づけば何の計算もなく対峙してしまっている。むしろさらけ出したい自分がいるような気にすらさせられる。そんな甘さをもう一人の自分が嘲笑う。
慎一郎の心の葛藤さえ見透かしたように、穏やかに微笑む七海、の、その背後のガラス戸の内側から覗く顔がみっつ。
下から毛色は白、茶、黒。
昼寝から目覚めたようだ。
「なぁぁぁっお」
慎一郎が手を振ると、先に大猫がすすっと滑り出てきた。実物は毛先の黒味が強く、銀色だ。
紙袋のにおいを嗅ぎ前足を掛けると、幼児二人も身体を揺らしながら、てとてと、と近づいてきた。
「……」
「…しんちゃ? ほんもぉ?」
上から下までじっくり観察する茶♂と、まっすぐ顔を見つめる黒♀。男児のパンツと女児のワンピースが同柄布地で、猫もお揃いのカラーをしている。そんなお年頃。
「ほんものだよ」
身を屈めた慎一郎に小さな手が伸びる。慎一郎も手を伸ばし、ふたりを抱き上げる。
なぜ人はちいさいものを抱っこしたがるのか。
慎一郎は考える間もなく自然と手が出た自分に驚き、その重みと熱とにおいに、抱いていたはずの曲者感が吹き飛ぶ。
「意外と重くて、軽いね」
わずかな戸惑いと照れくささから出た言葉を、七海は当然のように笑って、流した。
難しく考えなくてもいい、そんな微笑みだ。
彼は当初の拒否感が嘘のように、甲斐甲斐しく世話をし、日々の成長を観察し記録している。嬉々としたその姿は、まるで二十数年前の宇宙人のようであり。そして当の兄は弟と甥姪と合わせておもちゃにして楽しんでいる。
茶の小さな手が頬に触れてくる。彼は言葉より先に動くほう。
「猫を超えたからね、中身はまだひよのほうが大人だよ」
七海は猫を抱き上げ、頬ずりをする。見かけもまだ毛の長い猫のほうが大きい。
猫の顔の横に吹き出しが見えた。
『くるしゅうない、俺様はいつまでも可愛いからな』そいつらを抱っこできるうちはするがよい、余裕すら見せる猫は確かに大人だ。
茶の小さな手が猫をなで、もうひとつの黒の手が慎一郎の髪に伸びる。
と、おもむろに髪を引っ張った。
「いっ」
「あれ、…ちがー?」
小首をかしげて、さらに引っ張る。ああ、女の子は容赦ない。もう一人も確かめるように髪を掴んで引っ張る。
「いったた」
両側から引っ張られ、身動きが取れない。
「ほんもぉ?」
「ダメッ……アキの抜け毛はこのせいじゃないから」
「あこちゃ? あこちゃはおはげ」
「……おにばー」
「ハゲじゃないでしょ、うすげ」
「うしゅ…かっぱ」
「いっ」
「めっ」
七海に注意され、一度は離れた手が場所を変え、またぐいっと掴んで引っ張る。七海もまたダメっと叱り、引き剥がす。七海の態度は猫に対するそれと同じだ。
「こーぉりたーなーぽーへっ」
「へっ」
『呪いは(己が)頭に還る』curses return upon the heads (of those that curse)そう言いたいらしい。慎一郎と七海が目を見合わせる。と、七海は首を振り、慎一郎が頷く。
俺が教えたんじゃない。わかってる。千晶でもないだろう。
小さな子相手にも容赦なくあれこれ吹き込む輩に、二人とも心当たりが在りすぎた。
そしてまた、神のみつかいの小さな手が慎一郎の髪に伸びる。右から、左から。
「…もうやめて」
「ぬけなーぃ」
「……」
「一本だけつまんでごらん。束でつかむと作用点が分散――」
「七海くん?」
慎一郎は降参と、一旦屈んで二人を降ろすと、今度は背中に飛びつかれる。
「しんちゃおうまさんして」
「……」
もう乗ってるだろ、毟られるよりましかと、膝と手を床に付くと更に重みがもう一人分加わる。やれやれと左手と右足、右足左足とを動かすと、背後から気配を感じる。
「…写真は撮らないでよ」
「ははっ、一緒にちゃぷちゃぷしておいで」
大天使は右手を後ろに回したまま、脇をすり抜け、左手で風呂場へ続く扉を開けた。
「おふろいやぁ」
「ごー」
「着替え出しておきますから。さぁさ、行って」
「七海くん、先に手順を説明してくれないか」
「あなたも昔子供だった」
いつも完璧な手引きをみせる七海が、にっこり笑って放りだした。
「えっ…」
七海の腕から降りていたひよが先導する。
棚の上で寝ていた黒猫が片目を開け、これからの惨事を予感し、また閉じた。
七海もこのあとにおこるだろう狂乱に笑いをこらえながら、右手に隠していたスマホを黒猫へ、それから、おうまさんたちに向けた。
*
自立行動に移った生物はほほえましく、そしておそろしい。
未経験者が教科書を放り投げ、経験者も途方に暮れるのはもうすこし先のこと。
「まとまった力は必要でしょう、悪い奴らはいずれ自壊するにしてもね」
ここでやめてしまえば、事業まるっと売り払ってしまえば、慎一郎の一瞬の揺れを、七海は読み取った。
利益の出ている今、売り抜けるのはマネーゲームとしては正しい。現実には議題に挙げることすらできず、―― 精々早めにリタイアをし、そのあとは無人島ひとつ買って暮らして行けたら――、これではどこかの現経営者と同じではないか。
思うだけなら自由、そして自由を許さない自分がいる。
否応なく役割を与えられた人間が、その役目を離れると自我の崩壊が起きる。役を奪われるより、自ら降りる選択をしたものは自己の存在を否定する結果すら招きかねない。
七海は留めに煽ってみせた。
「あいつらが潰されたら?」
誰が? 誰に? 何に? 彼の言葉は二重にも三重にも聞こえる。正義と力は結ばれる必要がある、ならば正義とは?
「カズが言ってた『お前の外に正義を求めるな』」
誰かの受け売りだろうけどね、そう嘯く七海も確かなこころの強さを持つ。だからだろうか、本来彼のような鋭い人間には気を許さないはずなのに、ふと気づけば何の計算もなく対峙してしまっている。むしろさらけ出したい自分がいるような気にすらさせられる。そんな甘さをもう一人の自分が嘲笑う。
慎一郎の心の葛藤さえ見透かしたように、穏やかに微笑む七海、の、その背後のガラス戸の内側から覗く顔がみっつ。
下から毛色は白、茶、黒。
昼寝から目覚めたようだ。
「なぁぁぁっお」
慎一郎が手を振ると、先に大猫がすすっと滑り出てきた。実物は毛先の黒味が強く、銀色だ。
紙袋のにおいを嗅ぎ前足を掛けると、幼児二人も身体を揺らしながら、てとてと、と近づいてきた。
「……」
「…しんちゃ? ほんもぉ?」
上から下までじっくり観察する茶♂と、まっすぐ顔を見つめる黒♀。男児のパンツと女児のワンピースが同柄布地で、猫もお揃いのカラーをしている。そんなお年頃。
「ほんものだよ」
身を屈めた慎一郎に小さな手が伸びる。慎一郎も手を伸ばし、ふたりを抱き上げる。
なぜ人はちいさいものを抱っこしたがるのか。
慎一郎は考える間もなく自然と手が出た自分に驚き、その重みと熱とにおいに、抱いていたはずの曲者感が吹き飛ぶ。
「意外と重くて、軽いね」
わずかな戸惑いと照れくささから出た言葉を、七海は当然のように笑って、流した。
難しく考えなくてもいい、そんな微笑みだ。
彼は当初の拒否感が嘘のように、甲斐甲斐しく世話をし、日々の成長を観察し記録している。嬉々としたその姿は、まるで二十数年前の宇宙人のようであり。そして当の兄は弟と甥姪と合わせておもちゃにして楽しんでいる。
茶の小さな手が頬に触れてくる。彼は言葉より先に動くほう。
「猫を超えたからね、中身はまだひよのほうが大人だよ」
七海は猫を抱き上げ、頬ずりをする。見かけもまだ毛の長い猫のほうが大きい。
猫の顔の横に吹き出しが見えた。
『くるしゅうない、俺様はいつまでも可愛いからな』そいつらを抱っこできるうちはするがよい、余裕すら見せる猫は確かに大人だ。
茶の小さな手が猫をなで、もうひとつの黒の手が慎一郎の髪に伸びる。
と、おもむろに髪を引っ張った。
「いっ」
「あれ、…ちがー?」
小首をかしげて、さらに引っ張る。ああ、女の子は容赦ない。もう一人も確かめるように髪を掴んで引っ張る。
「いったた」
両側から引っ張られ、身動きが取れない。
「ほんもぉ?」
「ダメッ……アキの抜け毛はこのせいじゃないから」
「あこちゃ? あこちゃはおはげ」
「……おにばー」
「ハゲじゃないでしょ、うすげ」
「うしゅ…かっぱ」
「いっ」
「めっ」
七海に注意され、一度は離れた手が場所を変え、またぐいっと掴んで引っ張る。七海もまたダメっと叱り、引き剥がす。七海の態度は猫に対するそれと同じだ。
「こーぉりたーなーぽーへっ」
「へっ」
『呪いは(己が)頭に還る』curses return upon the heads (of those that curse)そう言いたいらしい。慎一郎と七海が目を見合わせる。と、七海は首を振り、慎一郎が頷く。
俺が教えたんじゃない。わかってる。千晶でもないだろう。
小さな子相手にも容赦なくあれこれ吹き込む輩に、二人とも心当たりが在りすぎた。
そしてまた、神のみつかいの小さな手が慎一郎の髪に伸びる。右から、左から。
「…もうやめて」
「ぬけなーぃ」
「……」
「一本だけつまんでごらん。束でつかむと作用点が分散――」
「七海くん?」
慎一郎は降参と、一旦屈んで二人を降ろすと、今度は背中に飛びつかれる。
「しんちゃおうまさんして」
「……」
もう乗ってるだろ、毟られるよりましかと、膝と手を床に付くと更に重みがもう一人分加わる。やれやれと左手と右足、右足左足とを動かすと、背後から気配を感じる。
「…写真は撮らないでよ」
「ははっ、一緒にちゃぷちゃぷしておいで」
大天使は右手を後ろに回したまま、脇をすり抜け、左手で風呂場へ続く扉を開けた。
「おふろいやぁ」
「ごー」
「着替え出しておきますから。さぁさ、行って」
「七海くん、先に手順を説明してくれないか」
「あなたも昔子供だった」
いつも完璧な手引きをみせる七海が、にっこり笑って放りだした。
「えっ…」
七海の腕から降りていたひよが先導する。
棚の上で寝ていた黒猫が片目を開け、これからの惨事を予感し、また閉じた。
七海もこのあとにおこるだろう狂乱に笑いをこらえながら、右手に隠していたスマホを黒猫へ、それから、おうまさんたちに向けた。
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