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番外編2
冬はつとめて・6
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次の日、そう言えば何時に来てとか、具体的な約束はしていなかったことに思い至った。我ながら間抜けな話だ。
でも、いつまでも寝ているわけにはいかない。この休みの間に、原稿を仕上げるのだ。
起きて顔を洗い、洗濯機を回している間に朝ご飯を食べる。
軽く掃除機をかけてからパソコンを立ち上げると、来客を告げるチャイムが鳴った。
ドアスコープを覗くと、晶が外に立っていた。昨日貸したマフラーを首に巻いている。
「おはよう。早いね」
ドアを開けて、晶を中に入れる。
「あ、ごめんなさい。迷惑だった?」
「ううん、大丈夫。時間言わなかったし」
時間は十時前。常識的な時間だろう。そんなふうにして、毎日一緒に作業をした。
大晦日と正月も、彼女は現れた。
「家族と過ごさなくていいの?」
燈子も実家には帰らないつもりだったので、人の事は言えないが。
「あたしはあの家の家族じゃないし、いない方がいいから、いいの」
黙々とタブレットを見つめて手を動かす様子に、それ以上聞けなくて、燈子は無理矢理自分の作業に集中する。燈子はペン入れを終わらせ、背景や台詞を入れていく。晶も燈子に教わりながら、ベタやトーン以外にも、使えそうな著作権フリーの背景素材を探したりと、楽しそうだった。
その甲斐あって、三が日の終わる頃、原稿はほぼ完成した。
二人は満面の笑みでハイタッチを交わすのだった。
次の朝、長いようで短かった連休が終わり、燈子は出勤だった。身支度を整えて、寒さに挑むように玄関のドアを開けると、晶がいた。ちょうど背伸びをして、チャイムを鳴らそうとしていたようだ。晶は思いもかけず開いたドアに驚いて、笑顔を浮かべた。
「あ、おはよう、おねえさん」
今朝の晶は、真新しいベージュのダッフルコートを着ていた。今日は早くから雪が降っていた。冷たい空気が二人を包む。燈子は驚きながらも、にこりと笑みを浮かべる。
「ごめんね、今日はこれから仕事なんだけど……」
言いかけると、晶は首を横に振る。それから、どこか神妙な顔で口を開いた。
「今日でさよならなの。引っ越すことになったから」
「え……」
突然の別れの言葉に、燈子は少なからずショックを受けている自分に気が付いた。
「随分急だね……。親御さんの仕事の都合とか?」
やや呆然としながら聞くと、晶は首を横に振る。
「ううん、違う家に行くの。今度は受験生のおにいさんがいないおうちだといいなあ」
宙に向けて呟いて、晶は燈子に向き直る。
「ココアもレモネードも、ごはんもおいしかったよ。ありがと、おねえさん。漫画、続きも描いたら教えてね」
早口でそれだけ言って、くるりと背を向けると、晶は駆け去っていった。振り返ることなく。燈子は呆然とそれを見送った。
あとは最終チェックをして入稿して、本ができたら一番に彼女に見せようと思っていたのに。
教えてと言われても、連絡先を知らない。
言い忘れたのか、ただの社交辞令だったのか。子供の言うことだから、案外何も深いことは考えていないのかもしれない。
でも、どうすれば漫画の続きを晶に届けられるか、燈子は考えていた。
有名になれば――いや、たとえ有名になれなくても、描き続けていれば、きっとあの子に届くだろうか。
見つけてもらえるように、描き続けてやろう。燈子は、そう決心した。雪はしんしんと降り積もり、晶の足跡を消していった。
* * *
「昴さん、それ何?」
冬休みのある日、晶が受験勉強の合間に飲み物でももらおうとリビングに下りると、昴がソファに座って、何やら厚めの雑誌らしきものをめくっていた。人がしていることにいちいち干渉しないのが、今晶が暮らす下宿・桜華堂の暗黙のルールだが、ふと目に留まったページが気になって、声をかけてしまった。
「同人誌即売会のカタログだよ」
昴はそう言って、雑誌の表紙を見せてくれる。名前だけは聞いたことのある、大規模なオタクイベントと呼ばれるそれの名前が、そこにあった。
そこへ、通りかかった那由多が口を挟んでくる。
「同人誌って、えっちなやつでしょ? 昴君ってば、女子の前でそういう話するんじゃないわよ」
那由多があからさまに顔をしかめて引く仕草をするが、昴は憤慨して言い返す。
「違います! それは偏見! ……その、自分で本を作って売るっていうやり方もあるんだなって思って。どんな感じなのか、一回行ってみようかと」
昴は、学生ながら新人賞を取った、プロの小説家だった。しかし、ペンネームで活動しているらしく、その名前も著書も教えてくれないので、どんなものを書いているのか、晶は知らない。
「へえ、なるほど」
那由多は近寄ってきて、その雑誌を覗き込んだ。
晶は二人の会話には参加せず、気になったそのページに目を落としていた。それは、「今回注目のサークル」と銘打って、インタビューが載っているページのようだった。
「この漫画、どっかで見たことある気がするんだよね……」
正確に言うと、漫画ではなくて絵柄だが。呟くと、昴が答える。
「SNSとかで話題になってるし、それでじゃない?」
「うーん……違うと思う……」
晶は眉間に皺を寄せて、その記事を凝視する。
どうやらその漫画は、近頃SNSで人気を博し、出版社から書籍化の打診も来ているらしい。でも晶はSNSは見ないし、アカウントも持っていなかった。
「……あ」
しばらく考えて、思い出した。思い返せば随分斜に構えた生意気な子供だったなと思うあの頃。
「このイベントって、いつ? あたしも行きたい」
突然の晶の申し出に、昴は目を丸くする。
「え? すごい人混みだよ? 電車も混むし。受験勉強だってあるでしょ」
「一日くらい大丈夫だもん」
行って、この漫画の作者が、あの時のお姉さんかどうか確かめよう。そして、あのお姉さんだったら、自分のことを覚えているかはわからないけれど、もう一度、ちゃんとお礼を言いたいと思った。
返しそびれていたマフラーは、クリーニングに出してとってあるけれど、今更返されても困るだろうか。代わりにプレゼントするには何がいいかなと考えて、心が躍るのだった。
『冬はつとめて』了
でも、いつまでも寝ているわけにはいかない。この休みの間に、原稿を仕上げるのだ。
起きて顔を洗い、洗濯機を回している間に朝ご飯を食べる。
軽く掃除機をかけてからパソコンを立ち上げると、来客を告げるチャイムが鳴った。
ドアスコープを覗くと、晶が外に立っていた。昨日貸したマフラーを首に巻いている。
「おはよう。早いね」
ドアを開けて、晶を中に入れる。
「あ、ごめんなさい。迷惑だった?」
「ううん、大丈夫。時間言わなかったし」
時間は十時前。常識的な時間だろう。そんなふうにして、毎日一緒に作業をした。
大晦日と正月も、彼女は現れた。
「家族と過ごさなくていいの?」
燈子も実家には帰らないつもりだったので、人の事は言えないが。
「あたしはあの家の家族じゃないし、いない方がいいから、いいの」
黙々とタブレットを見つめて手を動かす様子に、それ以上聞けなくて、燈子は無理矢理自分の作業に集中する。燈子はペン入れを終わらせ、背景や台詞を入れていく。晶も燈子に教わりながら、ベタやトーン以外にも、使えそうな著作権フリーの背景素材を探したりと、楽しそうだった。
その甲斐あって、三が日の終わる頃、原稿はほぼ完成した。
二人は満面の笑みでハイタッチを交わすのだった。
次の朝、長いようで短かった連休が終わり、燈子は出勤だった。身支度を整えて、寒さに挑むように玄関のドアを開けると、晶がいた。ちょうど背伸びをして、チャイムを鳴らそうとしていたようだ。晶は思いもかけず開いたドアに驚いて、笑顔を浮かべた。
「あ、おはよう、おねえさん」
今朝の晶は、真新しいベージュのダッフルコートを着ていた。今日は早くから雪が降っていた。冷たい空気が二人を包む。燈子は驚きながらも、にこりと笑みを浮かべる。
「ごめんね、今日はこれから仕事なんだけど……」
言いかけると、晶は首を横に振る。それから、どこか神妙な顔で口を開いた。
「今日でさよならなの。引っ越すことになったから」
「え……」
突然の別れの言葉に、燈子は少なからずショックを受けている自分に気が付いた。
「随分急だね……。親御さんの仕事の都合とか?」
やや呆然としながら聞くと、晶は首を横に振る。
「ううん、違う家に行くの。今度は受験生のおにいさんがいないおうちだといいなあ」
宙に向けて呟いて、晶は燈子に向き直る。
「ココアもレモネードも、ごはんもおいしかったよ。ありがと、おねえさん。漫画、続きも描いたら教えてね」
早口でそれだけ言って、くるりと背を向けると、晶は駆け去っていった。振り返ることなく。燈子は呆然とそれを見送った。
あとは最終チェックをして入稿して、本ができたら一番に彼女に見せようと思っていたのに。
教えてと言われても、連絡先を知らない。
言い忘れたのか、ただの社交辞令だったのか。子供の言うことだから、案外何も深いことは考えていないのかもしれない。
でも、どうすれば漫画の続きを晶に届けられるか、燈子は考えていた。
有名になれば――いや、たとえ有名になれなくても、描き続けていれば、きっとあの子に届くだろうか。
見つけてもらえるように、描き続けてやろう。燈子は、そう決心した。雪はしんしんと降り積もり、晶の足跡を消していった。
* * *
「昴さん、それ何?」
冬休みのある日、晶が受験勉強の合間に飲み物でももらおうとリビングに下りると、昴がソファに座って、何やら厚めの雑誌らしきものをめくっていた。人がしていることにいちいち干渉しないのが、今晶が暮らす下宿・桜華堂の暗黙のルールだが、ふと目に留まったページが気になって、声をかけてしまった。
「同人誌即売会のカタログだよ」
昴はそう言って、雑誌の表紙を見せてくれる。名前だけは聞いたことのある、大規模なオタクイベントと呼ばれるそれの名前が、そこにあった。
そこへ、通りかかった那由多が口を挟んでくる。
「同人誌って、えっちなやつでしょ? 昴君ってば、女子の前でそういう話するんじゃないわよ」
那由多があからさまに顔をしかめて引く仕草をするが、昴は憤慨して言い返す。
「違います! それは偏見! ……その、自分で本を作って売るっていうやり方もあるんだなって思って。どんな感じなのか、一回行ってみようかと」
昴は、学生ながら新人賞を取った、プロの小説家だった。しかし、ペンネームで活動しているらしく、その名前も著書も教えてくれないので、どんなものを書いているのか、晶は知らない。
「へえ、なるほど」
那由多は近寄ってきて、その雑誌を覗き込んだ。
晶は二人の会話には参加せず、気になったそのページに目を落としていた。それは、「今回注目のサークル」と銘打って、インタビューが載っているページのようだった。
「この漫画、どっかで見たことある気がするんだよね……」
正確に言うと、漫画ではなくて絵柄だが。呟くと、昴が答える。
「SNSとかで話題になってるし、それでじゃない?」
「うーん……違うと思う……」
晶は眉間に皺を寄せて、その記事を凝視する。
どうやらその漫画は、近頃SNSで人気を博し、出版社から書籍化の打診も来ているらしい。でも晶はSNSは見ないし、アカウントも持っていなかった。
「……あ」
しばらく考えて、思い出した。思い返せば随分斜に構えた生意気な子供だったなと思うあの頃。
「このイベントって、いつ? あたしも行きたい」
突然の晶の申し出に、昴は目を丸くする。
「え? すごい人混みだよ? 電車も混むし。受験勉強だってあるでしょ」
「一日くらい大丈夫だもん」
行って、この漫画の作者が、あの時のお姉さんかどうか確かめよう。そして、あのお姉さんだったら、自分のことを覚えているかはわからないけれど、もう一度、ちゃんとお礼を言いたいと思った。
返しそびれていたマフラーは、クリーニングに出してとってあるけれど、今更返されても困るだろうか。代わりにプレゼントするには何がいいかなと考えて、心が躍るのだった。
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