1 / 87
序曲
第1話 魔術師の帰還 1
しおりを挟む
今は昔、魔法は交響によって成っていた。
響き合う音楽が、すべての魔法の源だった。
歌うことが、奏でることが、魔法を形づくる。
その法の真髄は音楽の流れ、〈流〉と呼ばれていた。
天空の山の端に、白昼の月がかかる。晴れた空のもと、月の横顔に並ぶようにして、硝子の塔がきらめいていた。はるかな山々の上に建つ城塞都市の塔だ。
山並みをのぞむ高原の道に、黒馬に乗った旅人がたたずんでいた。春風に吹かれながら、向かう先の都市をじっと見すえる。
この国の王都だ。
城下で暮らす者が都の外に出ることは、ほぼない。
馬上の若者も、本来なら旅をする身分ではない。流れるようになびく黒髪も、紫と緑の衣も汚れひとつなく、性別を凌駕した端正な顔にはこの世ならざるものを見通すまなざしが宿り、魔術を修める者なのだろうと一目でわかる。
胸元の銀の刺繍は、宮廷魔術師の証だった。
「もうすぐだ、〈麗星〉〈櫂覇〉」
従えた二つの〈流〉は、魔術師が乗る馬の左右にひかえ、交響を奏でている。
頼もしい旅の仲間は、馬の斜めうしろをついてまわり、そのときどきで歌っている。主人の魔術師にしか聴かせない交響曲を。ひとりは麗しい夜空の流星劇のように、ひとりは大海原を悠々と櫂で制す神話の船のように。
「行くぞ」
振り向いて呼びかけると、交響がわっと活気づいた。
〈流〉は音楽の精霊といわれる。目には見えず、すべての人に聴こえるわけでもない。街の産業の礎ともなる魔法の力で、思念は持たないといわれていた。
名をつけて親しく語りかけるなど、児戯にも思えた。
それでも二人の従者は旅をともにするうち、すっかり魔術師の仲間になっていた。崖から落ちかけた馬を引きあげ、他の街の門を門番なしに開けてみせ、その日の体に栄養をくみあげる。
魔術師はそうやって旅をしてきた。
二人の力があれば、天上の城までもひとっ跳びだ、はやる心は流れくる曲のはざまに想いを揺らす。
会いたい人がいた。二人の旅の仲間をまっさきに紹介して歌を聴かせたい人が。それが叶うかは会ってみないとわからない、〈流〉の声を聴ける者は限られるから。あの方の力はどこまでそれを受けとるだろう。
はっ、と馬の脇腹に足を振りおろし、魔術師は二つの交響を従え、街へと至る道を駆けた。
*
──御影が、帰ってくる。
その噂は王宮中を駆けめぐり、人々の心に春風を吹きこんだ。だが国王の子、静湖の胸中に吹きあれたのは、風どころではない。
──御影が、帰ってくるんだ……!
片時も気は休まらず、その言葉ばかりくりかえす。二年ぶりの再会。昨冬に十三になった静湖はもはや幼い子ではないが、大人のように二年を短いと言えるはずはない。御影の旅立ちを見送ってから、人生がひとつ巡ったかと思うほどだ。
長かった、待ちわびていた。
その御影が、やっと──。
それでも静湖は、自室の鏡の前で暗く沈んだ顔をしていた。
膝下まであるドレスの裾をひらりと揺らしもせず。靴下もはかず、舶来品の貝殻を結いあわせた髪飾りも置いたまま。
母譲りという青い髪を整える時間は、静湖の心の支えだった。だがいつものように髪を編みこむ気にはなれなかった。
大人と並べばまだ低い背丈。ほっそりとした手足は白く、着飾れば誰もが嫌味なく称賛のまなざしを向ける。といっても、もう長いことこの装束で出歩くことはなかった。
「こんなものっ」
静湖はドレスを脱ぎすて、大きな寝台に勢いよく体を飛びこませた。
部屋の半分に広がる硝子窓は、空が淡く染まりだした様を映している。
時は、夜明け前。
「御影は、あの向こうから帰ってくる……」
虚ろな目で寝台から身を乗りだして、硝子の向こうを見渡す。都を囲む城壁の向こうは、山々と高原が広がっている。街にも遠景にも動くものはなく、青い水底に眠るようだ。
静湖は再び起きだすと、そろそろと衣装箪笥の前に歩いていった。戸を開けて、半分を占める女ものの服をまとめて引っつかんだ。
ばさり、と乱暴に床に投げだす。
荒い息を落ちつかせながら、静湖はそれらを無言で見おろした。
夜明け前の冷えた部屋で、絨毯の上に散乱した服たちは、消えそうな色あいをしていた。レース編みも飾りボタンも、すぐに破いてしまえそうだ。
それから静湖は男ものの服を着て、隣室から持ちこんだ荷車に散らかったものを載せた。
軽く旋律を口ずさめば、ふっと荷台が軽くなる。静湖はそれを押して、密かに階下へ運びだした。堀のそばに持ちこんで、燃やしてしまうつもりだった。
*
初恋は幼い頃だった、と認められるほど、静湖は愛を感じやすい質ではない。それでもこの想いはどう考えても慕うだけのものを超えていたし、その恋はとても幼くしてはじまったことになる。
恋は静湖をからめとり、もはや袖を通す服すら選ばせてはくれない。
そんなことではいけない、わかっている。
御影への想いは、断ち切らなくては。
*
響き合う音楽が、すべての魔法の源だった。
歌うことが、奏でることが、魔法を形づくる。
その法の真髄は音楽の流れ、〈流〉と呼ばれていた。
天空の山の端に、白昼の月がかかる。晴れた空のもと、月の横顔に並ぶようにして、硝子の塔がきらめいていた。はるかな山々の上に建つ城塞都市の塔だ。
山並みをのぞむ高原の道に、黒馬に乗った旅人がたたずんでいた。春風に吹かれながら、向かう先の都市をじっと見すえる。
この国の王都だ。
城下で暮らす者が都の外に出ることは、ほぼない。
馬上の若者も、本来なら旅をする身分ではない。流れるようになびく黒髪も、紫と緑の衣も汚れひとつなく、性別を凌駕した端正な顔にはこの世ならざるものを見通すまなざしが宿り、魔術を修める者なのだろうと一目でわかる。
胸元の銀の刺繍は、宮廷魔術師の証だった。
「もうすぐだ、〈麗星〉〈櫂覇〉」
従えた二つの〈流〉は、魔術師が乗る馬の左右にひかえ、交響を奏でている。
頼もしい旅の仲間は、馬の斜めうしろをついてまわり、そのときどきで歌っている。主人の魔術師にしか聴かせない交響曲を。ひとりは麗しい夜空の流星劇のように、ひとりは大海原を悠々と櫂で制す神話の船のように。
「行くぞ」
振り向いて呼びかけると、交響がわっと活気づいた。
〈流〉は音楽の精霊といわれる。目には見えず、すべての人に聴こえるわけでもない。街の産業の礎ともなる魔法の力で、思念は持たないといわれていた。
名をつけて親しく語りかけるなど、児戯にも思えた。
それでも二人の従者は旅をともにするうち、すっかり魔術師の仲間になっていた。崖から落ちかけた馬を引きあげ、他の街の門を門番なしに開けてみせ、その日の体に栄養をくみあげる。
魔術師はそうやって旅をしてきた。
二人の力があれば、天上の城までもひとっ跳びだ、はやる心は流れくる曲のはざまに想いを揺らす。
会いたい人がいた。二人の旅の仲間をまっさきに紹介して歌を聴かせたい人が。それが叶うかは会ってみないとわからない、〈流〉の声を聴ける者は限られるから。あの方の力はどこまでそれを受けとるだろう。
はっ、と馬の脇腹に足を振りおろし、魔術師は二つの交響を従え、街へと至る道を駆けた。
*
──御影が、帰ってくる。
その噂は王宮中を駆けめぐり、人々の心に春風を吹きこんだ。だが国王の子、静湖の胸中に吹きあれたのは、風どころではない。
──御影が、帰ってくるんだ……!
片時も気は休まらず、その言葉ばかりくりかえす。二年ぶりの再会。昨冬に十三になった静湖はもはや幼い子ではないが、大人のように二年を短いと言えるはずはない。御影の旅立ちを見送ってから、人生がひとつ巡ったかと思うほどだ。
長かった、待ちわびていた。
その御影が、やっと──。
それでも静湖は、自室の鏡の前で暗く沈んだ顔をしていた。
膝下まであるドレスの裾をひらりと揺らしもせず。靴下もはかず、舶来品の貝殻を結いあわせた髪飾りも置いたまま。
母譲りという青い髪を整える時間は、静湖の心の支えだった。だがいつものように髪を編みこむ気にはなれなかった。
大人と並べばまだ低い背丈。ほっそりとした手足は白く、着飾れば誰もが嫌味なく称賛のまなざしを向ける。といっても、もう長いことこの装束で出歩くことはなかった。
「こんなものっ」
静湖はドレスを脱ぎすて、大きな寝台に勢いよく体を飛びこませた。
部屋の半分に広がる硝子窓は、空が淡く染まりだした様を映している。
時は、夜明け前。
「御影は、あの向こうから帰ってくる……」
虚ろな目で寝台から身を乗りだして、硝子の向こうを見渡す。都を囲む城壁の向こうは、山々と高原が広がっている。街にも遠景にも動くものはなく、青い水底に眠るようだ。
静湖は再び起きだすと、そろそろと衣装箪笥の前に歩いていった。戸を開けて、半分を占める女ものの服をまとめて引っつかんだ。
ばさり、と乱暴に床に投げだす。
荒い息を落ちつかせながら、静湖はそれらを無言で見おろした。
夜明け前の冷えた部屋で、絨毯の上に散乱した服たちは、消えそうな色あいをしていた。レース編みも飾りボタンも、すぐに破いてしまえそうだ。
それから静湖は男ものの服を着て、隣室から持ちこんだ荷車に散らかったものを載せた。
軽く旋律を口ずさめば、ふっと荷台が軽くなる。静湖はそれを押して、密かに階下へ運びだした。堀のそばに持ちこんで、燃やしてしまうつもりだった。
*
初恋は幼い頃だった、と認められるほど、静湖は愛を感じやすい質ではない。それでもこの想いはどう考えても慕うだけのものを超えていたし、その恋はとても幼くしてはじまったことになる。
恋は静湖をからめとり、もはや袖を通す服すら選ばせてはくれない。
そんなことではいけない、わかっている。
御影への想いは、断ち切らなくては。
*
0
あなたにおすすめの小説
冷徹団長の「ここにいろ」は、騎士団公認の“抱きしめ命令”です
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー全16話+後日談5話⭐︎
王都最硬派、規律と責任の塊――騎士団長ヴァルド・アークライトは、夜の見回り中に路地で“落とし物”を拾った。
……いや、拾ったのは魔物の卵ではなく、道端で寝ていた少女だった。しかも目覚めた彼女は満面の笑みで「落とし物です!拾ってくださってありがとうございます!」と言い張り、団長の屋敷を“保護施設”だと勘違いして、掃除・料理・当番表作りに騎士の悩み相談まで勝手に開始。
追い出せば泣く、士気は落ちる、そして何より――ヴァルド自身の休息が、彼女の存在に依存し始めていく。
無表情のまま「危ないから、ここにいろ」と命令し続ける団長に、周囲はざわつく。「それ、溺愛ですよ」
騎士団内ではついに“団長語翻訳係”まで誕生し、命令が全部“愛の保護”に変換されていく甘々溺愛コメディ!
捨てられた王妃は情熱王子に攫われて
きぬがやあきら
恋愛
厳しい外交、敵対勢力の鎮圧――あなたと共に歩む未来の為に手を取り頑張って来て、やっと王位継承をしたと思ったら、祝賀の夜に他の女の元へ通うフィリップを目撃するエミリア。
貴方と共に国の繁栄を願って来たのに。即位が叶ったらポイなのですか?
猛烈な抗議と共に実家へ帰ると啖呵を切った直後、エミリアは隣国ヴァルデリアの王子に攫われてしまう。ヴァルデリア王子の、エドワードは影のある容姿に似合わず、強い情熱を秘めていた。私を愛しているって、本当ですか? でも、もうわたくしは誰の愛も信じたくないのです。
疑心暗鬼のエミリアに、エドワードは誠心誠意向に向き合い、愛を得ようと少しずつ寄り添う。一方でエミリアの失踪により国政が立ち行かなくなるヴォルティア王国。フィリップは自分の功績がエミリアの内助であると思い知り――
ざまあ系の物語です。
拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました
星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎
王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝――
路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。
熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。
「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」
甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。
よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、
気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて――
しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!?
「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」
年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。
ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
私の存在
戒月冷音
恋愛
私は、一生懸命生きてきた。
何故か相手にされない親は、放置し姉に顎で使われてきた。
しかし15の時、小学生の事故現場に遭遇した結果、私の生が終わった。
しかし、別の世界で目覚め、前世の知識を元に私は生まれ変わる…
【完結】悪役令嬢の身代わりで処刑されかけた侍女、悪人面強面騎士にさらわれる。
雨宮羽那
恋愛
侍女リーリエは、処刑される予定の主・エリーゼと容姿がそっくりだったせいで、身代わりとして処刑台へ立たされていた。
(私はエリーゼ様じゃないわ!)と心の中で叫んだ瞬間、前世の記憶がよみがえり、ここが読みかけだった悪役令嬢ものの小説の世界だと気づく。
しかも小説ではエリーゼが処刑されるはずなのに、リーリエが処刑されかけているという最悪の展開。
絶体絶命の瞬間、リーリエの前に現れたのは強面で悪人面の騎士ガウェイン。
彼はなぜかリーリエを抱えあげ連れ去ってしまい――?
◇◇◇◇
※全5話
※AI不使用です。
※「小説家になろう」「エブリスタ」様にも掲載しております。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる