『婚約なんて予定にないんですが!? 転生モブの私に公爵様が迫ってくる』

ヤオサカ

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第1話 今世こそ、のんびり静かに暮らすはずだったのに

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 目を覚ました瞬間、私は天井の高さにぎょっとした。真っ白で彫刻のように美しい装飾が施された天井。それを見たとき、自分がどこか異世界にいることを、否応なしに理解させられた。

「ここ、どこ……?」

 喉が乾いていた。身体は重いのに、心は妙に静かだった。

 病院のベッドではない。ここは小説の中——正確には、私がかつて読んでいた乙女系の恋愛小説の世界だった。

 気づいたのは鏡を見た時。焦茶の瞳に、アイスブルーのセミロングの髪。小説に登場していた“あの妹”の容姿そのままだった。

 私は——ティナ・ミルフォードになっていた。

 
 

 転生先がライト文芸の世界だったと気づいたとき、最初は混乱した。でも少しして、ふと思ったのだ。

 「これはもう、静かに生きるチャンスなんじゃないか」と。

 ティナ・ミルフォード。彼女は美人で優秀な姉セリーナの“妹”として生まれ、原作ではモブ同然の立ち位置。伯爵家に嫁いで、平穏に人生を終える脇役だった。つまり、目立たずのんびりと生きていくには最高のポジションだ。

(前世はイラストレーターで食べていけず、コンビニでバイトして過労で倒れたっけ……)

 そんな過去を持つ私にとって、この世界は神様からのご褒美のようにも思えた。だからこそ、私は決めていた。

 ——「今世では絶対、目立たずに、静かに暮らしてみせる」

 

「ティナ、今日は調子はどう?」

 やわらかな声に振り返ると、姉のセリーナが窓辺から微笑んでいた。透き通るような金髪に、澄んだブルーの瞳。まさに絵に描いたような“貴族の淑女”。原作小説の主人公として描かれていた彼女は、実際に会ってみると、さらに美しかった。

「うん、大丈夫。今日はアトリエで、花のスケッチを描こうと思ってるの」

「そう……あの温室のラベンダーね? あれ、今とても綺麗よ」

 セリーナの声は落ち着いていて優しく、私をそっと包むようだった。小説では、完璧すぎて近寄りがたい印象だったけれど、実際の彼女は違う。妹の私に対して、とても丁寧に接してくれるのだ。

「セリーナ姉さまは? 今日はどこかへお出かけ?」

「ええ。王宮で小さなお茶会があるの。少しだけ顔を出してくるわ」

 さらりと、でも嫌味なく言えるのが彼女のすごいところ。こういう所作の積み重ねが“ヒロイン力”なのだろう。

 
 温室兼アトリエは、父が私のために作ってくれた。ガラス張りの天井からは自然光がたっぷりと差し込み、花々の香りが空気に溶けている。白い木のイーゼルを立て、スケッチブックを広げると、不思議と心が落ち着いた。

(この時間が、いちばん好き)

 私は鉛筆を走らせながら、淡い紫の花びらの曲線を追っていく。静かな風、鳥のさえずり、そして絵を描く感覚——このひとときが、私にとっての宝物だった。

「ティナ、いるかい?」

 屋敷の中庭から、聞き慣れた兄の声が響いた。ユリウス・ミルフォード。明るくて社交的で、兄妹の中ではいちばん“普通”に見える人。だけど、その柔らかさが家族を支えてくれている。

「アトリエにいるよ、ユリウス兄さま」

 返事をすると、扉が開いて兄が顔を出した。そしてその隣に、見慣れない青年が立っていた。

「紹介するよ。ジークハルト・レイヴン公爵家の嫡男で、俺の友人。今は王都で外交の勉強をしててね」

 彼は軽く礼をした。黒髪を短く整え、濃いブルーの瞳が静かにこちらを見ている。立ち姿が整いすぎていて、まるで肖像画から抜け出したようだった。

「はじめまして。ティナ・ミルフォードです。……兄と、仲良くしてくださってありがとうございます」

 私は深く頭を下げた。すると彼は、ふっと目元だけで微笑んだ。

「こちらこそ、ユリウスとは長い付き合いです。……それにしても、これは君の絵かい?」

 ジークハルトの視線が、私の描きかけのスケッチに向いた。私は思わず、身体を少し引いてしまった。

「あ、はい……下手ですが……」

 その瞬間だった。彼の瞳が、ふとやわらいだ気がした。

「……とても、いい絵だ。静かで、やさしい印象を受ける」

 鼓動が跳ねた。声は低く落ち着いているのに、不思議な温度がこもっている。

「ありがとうございます。でも、本当に趣味の範囲で……」

「趣味だからこそ、伝わる感情もある」

 彼はそう言って、もう一度私に微笑んだ。

 それは、原作の中では見たことのない表情だった。

(……え、ちょっと待って。そんな展開、原作にはなかったよね?)

 私はそっと、鉛筆を握る手に力を込めた。

 静かに、のんびり暮らすはずだった。だけど今、確かに物語が、少しだけ軌道を外れて動き始めたような気がした——。
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