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第2話 私の絵に興味があるようで
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温室の中に、風がひとつ通り抜けたような感覚が残っていた。
「……すごく落ち着いた方だったね」
アトリエから戻る道すがら、私は兄ユリウスにそう声をかけた。まだ少し鼓動が早くて、自分でもどうしてなのかわからなかった。
「ジークのことか? ああ見えて、根は意外と理屈っぽいぞ。貴族らしいというより、ちょっとずれてるというか……感性派ってやつだな」
「へえ、そんなふうには見えなかった」
「まあ、本人が気を許した相手じゃないと見せないんだろうけどな。ティナにも興味あるみたいだったし」
「えっ、なにそれ……」
私が立ち止まると、兄は肩をすくめて悪戯っぽく笑った。ジークハルトが興味……そんなはずない。私が何かしたわけでも、特別なことを言ったわけでもない。ただ、絵を見て微笑んでくれただけ。
でもその笑みが、どうしてかずっと胸の奥に残っている。
庭の小道を歩きながら、私はそっと頬に触れた。少し熱を持っている気がするのは、風のせいだけじゃない気がした。
翌朝、窓を開けるとすっきりとした空が広がっていた。鳥の声が聞こえ、草の香りが風に乗ってくる。少し肌寒いけれど、気持ちのいい朝だった。
「おはようございます、ティナお嬢様」
「おはよう、クラリス」
部屋に朝食を運んできてくれたのは、長年仕えてくれている侍女のクラリスだった。セリーナ姉さま付きのメイドが三人もいるのに比べ、私にはこのクラリス一人。でもそれが、私にはちょうど良かった。
「お加減はいかがですか? 昨日はお客様がいらしていて、少しお疲れになったのではと……」
「ううん、大丈夫。むしろ楽しかったくらい」
クラリスは少し目を丸くした後、ふふっと柔らかく笑った。
「それはようございました。レイヴン公爵家の嫡男様とお会いになられたのですよね? 噂ではとても冷静で近寄りがたいお方と聞いておりましたが」
「うーん……確かに、そう見えるかも。でも優しかったよ。私の絵を見て、感想をくれたの」
「まあ、それは素敵ですね。お嬢様の絵は、私も大好きです。どこか心があたたかくなるんです」
クラリスの言葉に、私は少しだけ恥ずかしくなって、紅茶に口をつけてごまかした。
「……ありがと」
前世では、描いた絵にこうして言葉をもらえる機会なんて滅多になかった。ましてや「心があたたかくなる」なんて、誰かに言ってもらえるなんて。
もしかして、この世界に生まれ変わって——私は、絵で誰かと繋がれるようになったのかもしれない。
午前中は母の誘いで、花の手入れを手伝うことになった。庭師さんと一緒に苗を植え替える作業は、想像していたよりもずっと楽しかった。
「ティナ、あなたは指先が器用なのね。絵も細やかで美しいと思っていたけれど、こういうところにも現れるのね」
「えっ、そうかな……。でも、母さまの方がずっと慣れてると思うよ」
「ふふ、それは年の功よ」
母の笑い方はいつもやわらかくて、どこか音楽のようだった。こうして庭に出て、土に触れる時間も悪くない。
「……ところで、ユリウスから聞いたわ。昨日の訪問のこと」
「うん……驚いた。急に連れてこられて」
「レイヴン家は格式高い家柄だけど、あの青年は落ち着いていて物腰も丁寧。よく育っているわ。セリーナの婚約の話も進んでいるから、そろそろあなたにも話が来てもおかしくはないのだけれど……」
母のその言葉に、私は思わず植えかけていた苗を落としそうになった。
「えっ、ちょ、ちょっと待って。わたし、まだそんな……っ」
「まだ決まったわけではないけれど、頭の片隅には入れておいてね。あなたのことを気に入っているようだと、兄様も言っていたし……」
「それは、絵の話でしょ!?」
「絵を通じて心が動くなら、それもまた立派な出会いのひとつじゃなくて?」
母の言葉に反論できず、私は花の苗に視線を落とすしかなかった。
……婚約? 私が? 公爵家と?
そもそも、この人生は“のんびり静かに暮らす”って決めていたのに。予定なんて、どこにもなかったのに。
「……婚約なんて、予定にないんだけどなあ」
小さくつぶやいた言葉は、土の中に吸い込まれていった。
午後になっても、なんとなく落ち着かず、私はまた温室のアトリエにこもることにした。今日は色を塗る気分ではなくて、鉛筆で淡い輪郭をなぞるだけ。
ラベンダーの花。昨日、ジークハルトが見つめていた絵と同じモチーフ。
——とても、いい絵だ。
彼の低く静かな声が思い出されて、手が止まる。
思えば、前世では誰かにこうして正面から褒められることって、あまりなかった。絵の仕事はもらえても、それは注文通りの仕事であって、私の“心”を見てくれるものじゃなかった。
だけどジークハルトは、絵の中にある私の静かな時間を見てくれた。
「……変なの」
私は首をふって、自分を宥めるように目を閉じた。
彼とはもう会うこともないかもしれない。けれど、それでも——昨日のあのひとときは、私の中で小さな灯火のように、じんわりとあたたかく燃えていた。
「……すごく落ち着いた方だったね」
アトリエから戻る道すがら、私は兄ユリウスにそう声をかけた。まだ少し鼓動が早くて、自分でもどうしてなのかわからなかった。
「ジークのことか? ああ見えて、根は意外と理屈っぽいぞ。貴族らしいというより、ちょっとずれてるというか……感性派ってやつだな」
「へえ、そんなふうには見えなかった」
「まあ、本人が気を許した相手じゃないと見せないんだろうけどな。ティナにも興味あるみたいだったし」
「えっ、なにそれ……」
私が立ち止まると、兄は肩をすくめて悪戯っぽく笑った。ジークハルトが興味……そんなはずない。私が何かしたわけでも、特別なことを言ったわけでもない。ただ、絵を見て微笑んでくれただけ。
でもその笑みが、どうしてかずっと胸の奥に残っている。
庭の小道を歩きながら、私はそっと頬に触れた。少し熱を持っている気がするのは、風のせいだけじゃない気がした。
翌朝、窓を開けるとすっきりとした空が広がっていた。鳥の声が聞こえ、草の香りが風に乗ってくる。少し肌寒いけれど、気持ちのいい朝だった。
「おはようございます、ティナお嬢様」
「おはよう、クラリス」
部屋に朝食を運んできてくれたのは、長年仕えてくれている侍女のクラリスだった。セリーナ姉さま付きのメイドが三人もいるのに比べ、私にはこのクラリス一人。でもそれが、私にはちょうど良かった。
「お加減はいかがですか? 昨日はお客様がいらしていて、少しお疲れになったのではと……」
「ううん、大丈夫。むしろ楽しかったくらい」
クラリスは少し目を丸くした後、ふふっと柔らかく笑った。
「それはようございました。レイヴン公爵家の嫡男様とお会いになられたのですよね? 噂ではとても冷静で近寄りがたいお方と聞いておりましたが」
「うーん……確かに、そう見えるかも。でも優しかったよ。私の絵を見て、感想をくれたの」
「まあ、それは素敵ですね。お嬢様の絵は、私も大好きです。どこか心があたたかくなるんです」
クラリスの言葉に、私は少しだけ恥ずかしくなって、紅茶に口をつけてごまかした。
「……ありがと」
前世では、描いた絵にこうして言葉をもらえる機会なんて滅多になかった。ましてや「心があたたかくなる」なんて、誰かに言ってもらえるなんて。
もしかして、この世界に生まれ変わって——私は、絵で誰かと繋がれるようになったのかもしれない。
午前中は母の誘いで、花の手入れを手伝うことになった。庭師さんと一緒に苗を植え替える作業は、想像していたよりもずっと楽しかった。
「ティナ、あなたは指先が器用なのね。絵も細やかで美しいと思っていたけれど、こういうところにも現れるのね」
「えっ、そうかな……。でも、母さまの方がずっと慣れてると思うよ」
「ふふ、それは年の功よ」
母の笑い方はいつもやわらかくて、どこか音楽のようだった。こうして庭に出て、土に触れる時間も悪くない。
「……ところで、ユリウスから聞いたわ。昨日の訪問のこと」
「うん……驚いた。急に連れてこられて」
「レイヴン家は格式高い家柄だけど、あの青年は落ち着いていて物腰も丁寧。よく育っているわ。セリーナの婚約の話も進んでいるから、そろそろあなたにも話が来てもおかしくはないのだけれど……」
母のその言葉に、私は思わず植えかけていた苗を落としそうになった。
「えっ、ちょ、ちょっと待って。わたし、まだそんな……っ」
「まだ決まったわけではないけれど、頭の片隅には入れておいてね。あなたのことを気に入っているようだと、兄様も言っていたし……」
「それは、絵の話でしょ!?」
「絵を通じて心が動くなら、それもまた立派な出会いのひとつじゃなくて?」
母の言葉に反論できず、私は花の苗に視線を落とすしかなかった。
……婚約? 私が? 公爵家と?
そもそも、この人生は“のんびり静かに暮らす”って決めていたのに。予定なんて、どこにもなかったのに。
「……婚約なんて、予定にないんだけどなあ」
小さくつぶやいた言葉は、土の中に吸い込まれていった。
午後になっても、なんとなく落ち着かず、私はまた温室のアトリエにこもることにした。今日は色を塗る気分ではなくて、鉛筆で淡い輪郭をなぞるだけ。
ラベンダーの花。昨日、ジークハルトが見つめていた絵と同じモチーフ。
——とても、いい絵だ。
彼の低く静かな声が思い出されて、手が止まる。
思えば、前世では誰かにこうして正面から褒められることって、あまりなかった。絵の仕事はもらえても、それは注文通りの仕事であって、私の“心”を見てくれるものじゃなかった。
だけどジークハルトは、絵の中にある私の静かな時間を見てくれた。
「……変なの」
私は首をふって、自分を宥めるように目を閉じた。
彼とはもう会うこともないかもしれない。けれど、それでも——昨日のあのひとときは、私の中で小さな灯火のように、じんわりとあたたかく燃えていた。
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