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第3話 静かな筆先に、彼の視線
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ラベンダーを描いたはずのスケッチブックを閉じて、私は軽くため息をついた。
心のどこかが落ち着かない。昨日の母の言葉のせいか、あるいはジークハルトの視線の余韻が残っているせいか。どちらにしても、この世界の“予定外”が私の中に静かに波紋を広げていた。
もう一度、筆を取ろうとしたときだった。アトリエの扉をノックする音がした。
「失礼します、ティナお嬢様。レイヴン公爵家のジークハルト様が再びお越しです」
「……えっ?」
思わず声が上ずった。クラリスの言葉を聞き間違えたかと思ったけれど、彼女は静かに頷いている。
「お兄様と一緒に、応接間にいらっしゃいます」
「そ、そう……わかったわ。すぐに行くわね」
動揺をごまかすように椅子から立ち上がり、スカートの裾を整えた。手が少しだけ震えていた。
ほんの一度の出会い。たったそれだけで、もう一度訪ねてくるものなの? それとも、あの絵が——私の描いたあの一枚が、そんなに何かを引き寄せたの?
深呼吸をして、私は応接間へと向かった。
「やあ、ティナ。突然ですまなかったね」
応接間に入ると、ユリウスと並んで座っていたジークハルトが立ち上がり、丁寧に礼をしてくれた。昨日と同じ、落ち着いた色のジャケットに白いシャツ。けれど不思議と、少しだけ印象が柔らかくなった気がする。
「いえ、こちらこそ。ようこそいらっしゃいました」
私も礼を返すと、ジークハルトは小さく微笑んだ。
「昨日見せてもらった絵が、どうしても忘れられなくてね。改めて、お礼を言いたかった」
「お礼……?」
「君が描いたあのラベンダー、実は僕の母が好きだった花なんだ。もう亡くなって何年も経つが、あの絵を見たとき、不思議と彼女の声が心に浮かんできた」
私は言葉を失った。
彼の静かな声と、記憶をたぐるような目の色。そこに宿っていたのは、昨日見た“感心”ではなく、もっと深い“感情”だった。
「そう……だったんですね。そんな……私の絵で、何か届いたなら……嬉しいです」
声が震えないように気をつけながら答えると、ジークハルトはすっと視線を落とした。
「ティナ嬢。僕はね、感情を表に出すのが得意じゃない。けれど、昨日は本当に、心が動いたんだ」
「……ありがとうございます」
目を伏せたまま、私は自分の膝に置いた手にそっと力を込めた。
絵が、誰かの心に届いた。しかも、それはジークハルトという人の大切な記憶に触れた。
——絵って、こんなふうに誰かの時間と繋がれるものなんだ。
その喜びと、ほんの少しの怖さが胸に宿る。こんなふうに、人と深く関わることに、まだ慣れていないから。
「それでね、ティナ」
横で話を聞いていたユリウスが声を挟む。
「実はジークが、絵の相談をしたいって言ってるんだ」
「相談……ですか?」
ジークハルトが軽く頷いた。
「近いうちに、ある屋敷で開かれる小さな文化交流会があるんだ。そこに飾る絵を探していてね。よければ、君の作品を推薦したいと思っている」
「えっ……わたしの……絵を……?」
「もちろん、強制するつもりはない。ただ、君の絵が、もっと多くの人に見てもらえたらと思っている」
私は思わずユリウスに視線を向けた。兄は笑いながら肩をすくめた。
「ティナが嫌なら断っていい。けど、そういう形で絵が広がるのは、前世じゃなかなか経験できなかったんじゃないか?」
その言葉に、私は小さく息を呑んだ。
前世——原田あかりとしての人生。イラストレーターとして細々と仕事をしながら、評価よりも納期や仕様に追われる毎日。絵が“心に届いた”と感じられたことは、ほんの一握りしかなかった。
「……考えてみます」
それだけ言うのが精一杯だった。
ジークハルトはそれ以上何も言わず、ただ静かに頷いた。
「ありがとう。それだけでも、嬉しい」
その穏やかな声に、私はまた胸の奥が温かくなるのを感じた。
夕暮れが近づく頃、私はまた温室にいた。
さっきジークハルトが帰るとき、彼はふとこんなことを言った。
「絵は、君そのものだ。静かで優しくて、だけど芯がある」
そう言った彼の目はまっすぐで、少しも迷いがなかった。
「私、そんなふうに……見えてるのかな……」
アトリエの窓から、西日が差し込んでいる。柔らかな光が、私のスケッチブックを照らした。
まだ、何も決めたわけじゃない。
でも、もし——あの人となら。
そんな未来を、少しだけ、思い描いてしまった。
心のどこかが落ち着かない。昨日の母の言葉のせいか、あるいはジークハルトの視線の余韻が残っているせいか。どちらにしても、この世界の“予定外”が私の中に静かに波紋を広げていた。
もう一度、筆を取ろうとしたときだった。アトリエの扉をノックする音がした。
「失礼します、ティナお嬢様。レイヴン公爵家のジークハルト様が再びお越しです」
「……えっ?」
思わず声が上ずった。クラリスの言葉を聞き間違えたかと思ったけれど、彼女は静かに頷いている。
「お兄様と一緒に、応接間にいらっしゃいます」
「そ、そう……わかったわ。すぐに行くわね」
動揺をごまかすように椅子から立ち上がり、スカートの裾を整えた。手が少しだけ震えていた。
ほんの一度の出会い。たったそれだけで、もう一度訪ねてくるものなの? それとも、あの絵が——私の描いたあの一枚が、そんなに何かを引き寄せたの?
深呼吸をして、私は応接間へと向かった。
「やあ、ティナ。突然ですまなかったね」
応接間に入ると、ユリウスと並んで座っていたジークハルトが立ち上がり、丁寧に礼をしてくれた。昨日と同じ、落ち着いた色のジャケットに白いシャツ。けれど不思議と、少しだけ印象が柔らかくなった気がする。
「いえ、こちらこそ。ようこそいらっしゃいました」
私も礼を返すと、ジークハルトは小さく微笑んだ。
「昨日見せてもらった絵が、どうしても忘れられなくてね。改めて、お礼を言いたかった」
「お礼……?」
「君が描いたあのラベンダー、実は僕の母が好きだった花なんだ。もう亡くなって何年も経つが、あの絵を見たとき、不思議と彼女の声が心に浮かんできた」
私は言葉を失った。
彼の静かな声と、記憶をたぐるような目の色。そこに宿っていたのは、昨日見た“感心”ではなく、もっと深い“感情”だった。
「そう……だったんですね。そんな……私の絵で、何か届いたなら……嬉しいです」
声が震えないように気をつけながら答えると、ジークハルトはすっと視線を落とした。
「ティナ嬢。僕はね、感情を表に出すのが得意じゃない。けれど、昨日は本当に、心が動いたんだ」
「……ありがとうございます」
目を伏せたまま、私は自分の膝に置いた手にそっと力を込めた。
絵が、誰かの心に届いた。しかも、それはジークハルトという人の大切な記憶に触れた。
——絵って、こんなふうに誰かの時間と繋がれるものなんだ。
その喜びと、ほんの少しの怖さが胸に宿る。こんなふうに、人と深く関わることに、まだ慣れていないから。
「それでね、ティナ」
横で話を聞いていたユリウスが声を挟む。
「実はジークが、絵の相談をしたいって言ってるんだ」
「相談……ですか?」
ジークハルトが軽く頷いた。
「近いうちに、ある屋敷で開かれる小さな文化交流会があるんだ。そこに飾る絵を探していてね。よければ、君の作品を推薦したいと思っている」
「えっ……わたしの……絵を……?」
「もちろん、強制するつもりはない。ただ、君の絵が、もっと多くの人に見てもらえたらと思っている」
私は思わずユリウスに視線を向けた。兄は笑いながら肩をすくめた。
「ティナが嫌なら断っていい。けど、そういう形で絵が広がるのは、前世じゃなかなか経験できなかったんじゃないか?」
その言葉に、私は小さく息を呑んだ。
前世——原田あかりとしての人生。イラストレーターとして細々と仕事をしながら、評価よりも納期や仕様に追われる毎日。絵が“心に届いた”と感じられたことは、ほんの一握りしかなかった。
「……考えてみます」
それだけ言うのが精一杯だった。
ジークハルトはそれ以上何も言わず、ただ静かに頷いた。
「ありがとう。それだけでも、嬉しい」
その穏やかな声に、私はまた胸の奥が温かくなるのを感じた。
夕暮れが近づく頃、私はまた温室にいた。
さっきジークハルトが帰るとき、彼はふとこんなことを言った。
「絵は、君そのものだ。静かで優しくて、だけど芯がある」
そう言った彼の目はまっすぐで、少しも迷いがなかった。
「私、そんなふうに……見えてるのかな……」
アトリエの窓から、西日が差し込んでいる。柔らかな光が、私のスケッチブックを照らした。
まだ、何も決めたわけじゃない。
でも、もし——あの人となら。
そんな未来を、少しだけ、思い描いてしまった。
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