『婚約なんて予定にないんですが!? 転生モブの私に公爵様が迫ってくる』

ヤオサカ

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第4話 この絵を、誰かに見せてもいいですか

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 ラベンダーのスケッチを仕上げた翌朝、私は少しだけ、心の中がふわりと軽くなっていた。

 理由ははっきりしない。ただ、昨日のジークハルトの言葉が、やわらかく胸に残っていたのだ。

 ——「絵は、君そのものだ。静かで優しくて、だけど芯がある」

「……芯がある、かあ」

 ぽつりとつぶやいて、私は頬杖をついた。自分に“芯”があるなんて、思ったこともなかった。

 誰かにそう見えたのだとしたら、それはきっと——絵が、私の心を代弁してくれているからだ。

「芯なんて、あるのかな……。ねえ、クラリスはどう思う?」

「芯でございますか?」

 クラリスは紅茶を注ぎながら、少しだけ首を傾げた。

「はい。お嬢様は、とても静かな方ではありますが、芯の強さも確かにお持ちです。優しさの奥に、譲れないものがある。それが、私には見えるのです」

「……そっか」

 私はスプーンで軽くカップを回しながら、クラリスの言葉をかみしめた。

 譲れないもの。そう、たとえば——“今世では静かに生きる”という意思も、そのひとつだった。

 でも、絵が誰かの心に届くなら。昨日のように、優しく誰かの記憶を揺らすなら。私は少しだけ、その“譲れないもの”の形を変えてみたくなる。

「クラリス。私ね、ジークハルト様に絵を推薦されそうになったの。ある屋敷の文化交流会に、って」

「まあ……それは光栄なお話ですね」

「うん……でも、怖いの。前に出るのも、注目されるのも、本当は避けたいと思ってたから」

 クラリスはそっと私のカップにもう一度紅茶を注ぎ、ふっと微笑んだ。

「注目されることと、心が届くことは、似ているようで違います。お嬢様はただ、誰かに伝えたいだけではありませんか?」

「……それ、ちゃんとわかってたの?」

「長くお仕えしていますから」

「……ありがとう」

 そう言って私は、少しだけ照れながらクラリスに微笑み返した。


 午前中、庭に出てスケッチをしていたら、姉のセリーナがふいに姿を現した。緩やかな日傘を差して、ゆったりと歩く姿は、やっぱり絵になる人だと思う。

「ティナ。昨日、ジークハルト様がおいでだったのでしょう?」

「……うん。兄様と一緒に、応接間に」

「彼、少しだけ変わったわね。以前よりも、表情がやわらかくなっていた」

 私は一瞬、答えに迷った。けれど、セリーナの顔が穏やかだったから、正直に話すことにした。

「……私の絵を見て、何かを思い出してくれたみたい。お母様のこと、だったかな」

「そう。あの方は、感情を見せないけれど、根は繊細なのよ。……あなたの絵が、届いたのね」

 セリーナの声はどこか嬉しそうで、誇らしげでもあった。私は目を伏せて、手元のスケッチに視線を落とした。

「絵を、見せるのって、やっぱり緊張する。でも、昨日みたいなことがあるなら……」

「自分を表す方法って、人それぞれだもの。私が言葉で伝えるのが得意でも、あなたは筆で気持ちを描ける」

「姉さま……」

「その違いが、あなたの価値よ」

 私は思わず息をのんだ。セリーナは昔から完璧な人だったけれど、今の彼女は姉として、ただ優しく私の背を押してくれていた。

「……文化交流会に、出してみようかな。こわいけど、ちょっとだけ、出してみたいと思ってる」

「その“ちょっとだけ”が、大事よ」

 セリーナは日傘の下から、柔らかく微笑んだ。

「よかった。私は、あなたが一歩踏み出す姿を、そばで見ていたいと思っていたの」



 夕方になり、ユリウス兄さまが部屋にやってきた。ドアをノックせずに開けるあたり、昔からの癖だ。

「おーい、入っていいか?」

「もう入ってるよ」

「お、気づかれたか。ティナはほんと耳がいいなあ」

「……で、何か用?」

「ジークから連絡が来てさ。絵の件、あいつ本気で嬉しそうだった。お前が前向きに考えてくれてるって伝えたら、珍しく口数が増えてたぞ」

「そうなんだ……」

 私は机の上に置いていたスケッチブックを閉じて、小さく息をついた。

「……少しずつ、変わっていけたらって思う。私も、この世界で絵を描いて生きていくなら」

「いいじゃないか。変わるってのは、怖いけど面白いもんだ」

 ユリウスはそう言って、私の頭をくしゃりと撫でた。

「……なにそれ」

「久しぶりに、妹らしい反応が見られて嬉しい兄心だよ」

 私は苦笑しながらも、ほんの少しだけ、心が軽くなった気がした。



 夜、アトリエのキャンドルに火を灯しながら、私はふと思う。

 “静かに暮らす”ことが、私の願いだった。でも、絵を通して誰かと心を通わせることもまた——穏やかな幸福の形なのかもしれない。

「……この絵を、誰かに見せても、いいかな」

 その声は誰に向けたものでもない。けれど、自分の中に少しずつ芽生えている“答え”を確かめるような呟きだった。

 明日、ジークハルトに返事をしよう。
 私の“のんびりした日々”は、少しずつ形を変えながら続いていくのだ。
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