『婚約なんて予定にないんですが!? 転生モブの私に公爵様が迫ってくる』

ヤオサカ

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第7話 “特別”なんて、いらないと思っていた

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 交流会の会場に流れる空気は、夕方が近づくにつれ少しずつ柔らかくなっていた。

 緊張していた貴族たちの表情も、音楽やお茶と共に和らぎ、あちらこちらで笑い声が混じる。まるで、堅い布がふわりとほぐれていくようだった。

 私も最初の緊張が少しだけ解けてきて、人の波に少しずつ慣れてきたところだった。

「ティナさん、ですよね?」

 不意に後ろから名前を呼ばれて振り返ると、見慣れない女性が立っていた。二十代半ばくらい。深緑色のドレスに身を包んだ知的な雰囲気の人だ。

「はい、そうですが……?」

「はじめまして。私はアリーヌ・モルトン。今回は彫刻を出展しています。あなたの絵、とても素敵でした」

「あ、ありがとうございます……」

「風を描くって、すごく難しいと思うの。でもあなたの絵は、風そのものじゃなくて、風を感じた空気が描かれている。見ていて、心がすっと軽くなるのよ」

 思わぬ言葉に、私は思わず目を見張った。

「……そんなふうに、見てくださってありがとうございます。私、自分の絵が人に何かを伝えられるって、最近やっと少しだけ思えるようになって」

「その感覚、大事にしたほうがいいわ。自分の感情がそのまま誰かに届くって、すごいことよ」

 アリーヌさんはそう言って、にっこりと笑った。まっすぐな目が、少しだけジークハルトに似ているように感じた。

「ところで、もう少しで展示の見直しがあるの。私はこの後、次の交流展の選抜を見に行くから、また会えるといいわね」

「えっ……また?」

「この場で終わると思っていなかったら、それはもう“次”が始まってるってことよ」

 彼女の後ろ姿を見送りながら、私は胸の奥に静かに熱を感じていた。

 “また会えるといい”——その言葉は、私にとって小さな希望の種だった。



 会場の片隅に設けられたサロン席に腰を下ろすと、クラリスが運んでくれたお茶の香りが心を落ち着けてくれた。

「お疲れではありませんか?」

「ううん、大丈夫。少しだけ……足が痛いかな」

「それは立ちっぱなしでしたからね。けれど、お嬢様の絵の前には、何人もの方が立ち止まっていらっしゃいました」

「……うん、見てもらえるって、すごいことなんだなって思った」

 紅茶を口にしながら、私は視線を遠くに向けた。初めて出展した会で、こんなにも多くの人と接点が持てるなんて思っていなかった。

「昔の私なら、たぶん見られることを怖がって逃げてた。……でも、今は少し違う」

「お嬢様は、確かに変わってこられました」

 クラリスのその言葉に、私は自分の胸に手を当てた。

 変わったのだろうか。変わりたいと、思っているのかもしれない。



 それからしばらくして、再びジークハルトが私のもとに現れた。

「お疲れではないかい?」

「少しだけ。でも、大丈夫です。ジークさんも、お仕事の合間に?」

「今日は完全に君の絵のために時間を空けたんだ。仕事のことは忘れることにしている」

「……そんなこと、簡単に言えちゃうんですね」

「いや、簡単に言えるのは君の前だからだよ。たとえば宮廷では、こんな言葉は出てこない」

「……そっか。じゃあ、ちょっとだけ得した気分です」

 彼の口元がふっと緩んだ。私は、会場の端にある庭へ続く扉に目を向けた。

「……あの、外、少しだけ歩きませんか?」

「いいのかい?」

「うん。会場にいたままだと、ちょっと緊張が取れなくて」

 ジークは頷いて、私に手を差し出した。

 その手を取るのは、ほんの少しだけ勇気がいった。けれど私は、確かにその温もりを感じながら立ち上がった。



 庭はすっかり春の香りで満ちていた。

 石畳の小道をゆっくりと歩きながら、ジークハルトと並ぶのは初めてのことだった。私より頭ひとつ分ほど高い彼の横顔が、穏やかな光を受けてやわらかく見えた。

「こうして歩くのは、なんだか不思議ですね」

「そうかい?」

「あなたは公爵家の嫡男で、私は……モブの妹だったんですよ?」

「モブ?」

「えっと、前に話した“別の世界”での話です。私は原作に出てくる主人公の姉の、ただの引き立て役で」

 ジークは黙って、歩みを止めた。そして私の方をまっすぐに見た。

「ティナ。君は“ただの”何かじゃない。君が君として描く絵が、人の心を動かしている」

「でも……私、あまりにも普通で、何もできなくて」

「“特別”なんて、無理に持とうとしなくていい。僕は、君の静かな強さが好きだ」

 胸がぎゅっと締めつけられた。

「……好き、って」

「感情として、好ましいと思っている。……もう少し端的に言えば、君に惹かれている」

 私は言葉を失って、その場に立ち尽くした。

「……ごめんなさい、急に……」

「大丈夫。驚いたけど、嫌じゃない……です」

 その答えが、自分の口から自然に出てきたことに、一番驚いたのは私だったかもしれない。

 春の風が、スカートの裾を揺らす。さっきまで“特別”なんて望んでいなかったのに、今は——ほんの少しだけ、特別になってもいいかもしれないと思っていた。
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