『婚約なんて予定にないんですが!? 転生モブの私に公爵様が迫ってくる』

ヤオサカ

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第8話 私は姉さまの影じゃない

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 文化交流会の翌日、ミルフォード家の屋敷は驚くほど静かだった。
 賑やかな会場から一転、庭に流れる風の音がやけにやさしく耳に残る。

「なんだか、夢みたいだったなあ……」

 アトリエの椅子に座り、ぼんやりと窓の外を眺めながらつぶやいた。
 昨日のことが、まるで舞台の上で演じられた劇のように、現実味のない記憶として脳裏に浮かぶ。

 けれど、絵は本当に飾られていた。
 誰かがそれを見て、言葉をかけてくれた。
 そして——ジークハルトが、私に“惹かれている”と言った。

(……現実、なんだよね)

 ほっぺたをつねってみても、もちろん目は覚めなかった。
 代わりにクラリスがそっと紅茶を差し出してくれた。

「お嬢様。お疲れではありませんか?」

「うん。疲れてるはずなのに、なんか気持ちだけが元気っていうか……ふわふわしてる」

「それはきっと、良い刺激だったのでしょう。お嬢様が何かを得て帰ってきた証拠です」

「……そっか」

 カップを持つ指先が、わずかに震えていた。
 それが緊張のせいなのか、嬉しさのせいなのか、自分でもわからない。

 でも確かに、心のどこかが変わっていた。



 昼過ぎ、セリーナ姉さまが私の部屋を訪ねてきた。

「少しだけ、お話ししてもいいかしら?」

「うん。どうぞ、姉さま」

 セリーナは静かに腰を下ろし、いつもより少しだけ砕けた表情を見せた。

「昨日のあなた、とても綺麗だったわ」

「えっ……」

「自分の足で立って、自分の絵を見ているあなたの姿。私は少し、嫉妬しそうになったのよ」

「……嫉妬?」

「ええ。私は昔から“王太子の婚約者”という立場で、常に期待に応えるように動いてきた。でも昨日のあなたは、誰のためでもなく、自分の意思でそこに立っていた」

 セリーナの言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。

「でも……私は、ずっと姉さまの影だと思ってた。姉さまは完璧で、誰もが憧れて……」

「完璧に見せるために、どれだけ自分を押し殺してきたか。あなたは知らないでしょう?」

「……」

「それでも私は、妹としてのあなたが羨ましかったの。誰かに守られて、自由に絵を描いて。けれど昨日、初めて思ったわ。あなたはただ守られているんじゃなく、自分で光を選んで歩き始めたんだって」

 私は何も言えず、ただ姉の顔を見つめていた。
 初めて見る表情だった。
 完璧な姉ではなく、私と同じように迷い、揺れる一人の“女の子”の顔。

「……姉さま」

「うん?」

「私、姉さまの影じゃないって、思ってもいい?」

 セリーナは目を細めて微笑んだ。

「もちろんよ、ティナ」

 その一言に、胸の奥がふっと軽くなる。

 誰かの陰でなく、自分として——私も立っていいのだと、やっと思えた。



 夕方、ユリウス兄さまがジークハルトからの手紙を持ってきた。

「ジークから預かった。……お前に直接渡してくれってさ」

 封を切ると、丁寧な筆跡でこう綴られていた。

 拝啓 ティナ・ミルフォード嬢へ

 昨日は貴重な一日をありがとう。
 君の絵が多くの人に見られたこと、そして何より君自身がそれを受け止めた姿が、私には何より眩しく映った。

 今はまだ、これ以上のことを急ぐつもりはない。
 けれど、もし君がこれからも絵を描いていく中で、誰かと心を通わせたいと思ったとき——
 その“誰か”に、私を思い浮かべてもらえたら嬉しい。

 風の季節はこれから。
 また近いうちに、お会いできることを願っています。

 ジークハルト・レイヴン

 私は手紙を胸に抱え、深く息を吸い込んだ。

 特別な言葉ではない。けれど、その一文字一文字が、まるで絵の具のように、私の心にやさしく染みていく。

「……誰かと心を通わせたいと思ったとき」

 そのときは、きっと——

「ジークさんの顔が、浮かぶかもしれない」

 ふと漏れたその言葉は、夕暮れの光に溶けていった。



 夜、アトリエに一人で戻ると、私は新しいスケッチブックを開いた。
 描きたいものが、たくさんあった。

 風の音。春の庭。姉の微笑み。そして——手紙の最後に書かれていた名前。

 一枚一枚、丁寧に。

「“私”として、生きていこう」

 小さな決意を胸に、私は筆を走らせた。
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