『婚約なんて予定にないんですが!? 転生モブの私に公爵様が迫ってくる』

ヤオサカ

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第10話 姉さまの未来と、私の筆先

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「もう、春の匂いがしますね」

 アトリエの窓を開けた瞬間、クラリスがふっとそう言った。
 まだ肌寒い空気の中に、たしかにやわらかい風の香りが混じっている。

「そうだね。昨日までとは少し違う気がする」

 私は筆を持ったまま立ち上がり、窓辺に近づいた。
 淡い光が庭の花々を照らしていて、つぼみがひとつ、ほころびかけているのが見えた。

(春が、始まるんだ)

 王宮の“春の宮廷花祭”に飾る絵——私はいま、それを描いている。

 出展が決まってから毎日、アトリエにこもって筆を動かしていた。
 心を込めて描こうと思うと、思った以上に時間がかかる。
 でも、それが楽しかった。

「こうして描いていると、絵って、私そのものなんだなって思います」

「そうですね。お嬢様の気持ちは、筆の先に全部現れています」

 クラリスの言葉に、私は微笑んだ。
 描きたいのは、“始まり”。
 だからこの絵は、何も咲いていないように見える庭に、そっと風が吹いて、花が咲く直前を切り取っている。

 希望と、緊張と、静かな勇気。
 今の私を映す景色だった。



 その日の午後、セリーナ姉さまが庭にいると聞いて、私は手を止めて会いに行った。

「姉さま」

「ティナ。来てくれたのね」

 姉はベンチに座って空を見上げていた。いつものように完璧に着こなしたドレス。けれど、その表情には、ほんのわずかな揺らぎがあった。

「何かあったんですか?」

「……正式に、婚約が発表されることになったの」

「王太子殿下と?」

 姉は頷いた。

「もう逃げられないわね。ずっと覚悟はしていたけれど、いざ現実になると、何かが胸に引っかかるの」

 私はそっと隣に腰を下ろした。

「それは……迷ってるんですか?」

「いいえ。迷いはない。でも……自分が“決められた役割”の中で生きていることに、ふと虚しさを覚えることがあるの」

 その言葉が、静かに胸に響いた。

「姉さま。私ね、ジークさんから“描きたいなら描いて”って言われたの。無理に期待に応えようとしなくていいって」

「……それは、素敵な言葉ね」

「だから私も、姉さまに言いたい。決められた道の中でも、自分らしくいられることがあると思うの」

「……ありがとう。ティナも、ずいぶん強くなったのね」

 姉の横顔は、どこか安堵しているようにも見えた。

 私たちは、やっと“姉と妹”として向き合えるようになった気がした。



 夜、ユリウス兄さまが、やや眉をひそめて私の部屋に来た。

「ティナ。……ジークの家の話、聞いてるか?」

「ジークさんの?」

「少し、良からぬ噂が流れ始めてる」

 兄の顔が、いつになく真剣だった。

「彼が婚約を断っていること。君と何度も会っていること。……それを不快に思ってる貴族もいるらしい」

「……そんな」

「もちろん、ジークは気にしてないって言ってたけど。あいつの性格だからな。でも、ティナ。君が傷つく可能性もある。覚悟しておいたほうがいい」

 私は静かに頷いた。

 この世界は、物語の中で読んだ“美しい貴族社会”だけじゃない。
 しがらみも、見えない壁も、たくさんある。

「でも、私は……ジークさんの言葉を信じたい。描くことも、想うことも、どちらも自分の意志で選びたいの」

「そうか……なら、兄として応援するよ。けど何かあったら、必ず言えよ」

「うん。ありがとう、兄さま」

 ユリウスは軽く私の頭を撫でると、部屋を出ていった。



 アトリエに戻り、私はキャンドルに火を灯した。
 まだ完成していない絵の前に立つ。
 そこに描かれているのは、芽吹きの直前の草花、光に照らされた空、そっと流れる風。

「……この絵が、私の答え」

 ジークさんと向き合うこと。
 姉さまの選んだ道を、そばで応援すること。
 そして、私自身が絵とともに歩いていくこと。

 すべてを込めて、この一枚を仕上げたい。

 筆を取ると、緊張も迷いも、すべてが絵の具の中に溶けていった。
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