水底に届く光の歌を。

泉紫織

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5章 現実

5-1

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 朝起きてすぐの僕の仕事は、まず家中のカーテンを開けること。母さんは布団から起き上がれないから、僕が開けないといけない。いつもはまた朝が来てしまったのか、と憂鬱な気分で雪の世界と部屋を繋げるのだ。
 でも、今日は違う。決意を抱いて、勢いよくシャッと開ける。盛岡の冬は長いけれど、雪はまだ降り積もっているけれど、日が昇るのは段々と早くなってきているのを感じる。間違いなく、春がすぐそこまで来ている。
「母さん、朝だよ。今から朝食作って持ってくるから、待ってて」
「ごめんねぇ、雪斗、ごめんねぇ、月斗つきと
 うわごとのような母さんの謝罪に、心臓が潰れそうになる。ちなみに、月斗というのは兄ちゃんの名前だ。
 キッチンに向かい、炊飯器からご飯をよそう。残ったご飯はラップで保存して食器棚の上に置いておく。暖房を入れたばかりのリビングは歯がガチガチ鳴るくらい寒いし、手も凍りそうなくらい冷たい。っていうかもう凍っていると言っても過言ではないと思う。保温された米があげる湯気に手を当てて、ちょっとだけ温まった。
 シリコン製の電子レンジを使う調理器具で、温泉卵もどきを作って、納豆パックを冷蔵庫から取り出す。いつもやっていることだ。時間はそんなにかからない。それでも、長い時間家事をやっているような気がする。
 お盆にそれぞれお茶碗、卵、納豆を乗せて、母の寝室に持って行った。
「母さん、朝食持ってきたよ。体起こせる?」
 目が虚ろでどこを見ているかわからない母さんは僕の支えを借りてゆっくりと体を起こし、僕がスプーンで掬ったご飯を少しずつ食べる。
 全く会話ができないわけじゃないし、食事も睡眠も取ることはできている。専門機関に相談したこともあったが、本人の意志で前を向かない限り寝たきりの生活は治らないと言われた。本当か?と疑いもしたが、僕には正しい判断が何かわからなかったから、それを信じることにした。僕だってまだ前を向けているわけじゃないから、僕より辛いであろう母さんに前を向くことを強制するのは酷だと思って、何も言わずにただ世話をすることを選んできた。
「……母さん、食べ終わったら話があるんだ」
 タイミングを掴んで、こう伝える。死んだような瞳が少し動いて、僕を捉えた。ドキリとする。ここ数ヶ月でこんなことはなかった。
「わかったわ」
 いつもより少ししっかりした声で返事をされて面食らう。世界が心臓の音に支配される。そうか、僕は今緊張しているんだ。それはそうだ。数ヶ月ぶりの対話になるのだから。この先どうなるかを決める、重要な転換点。
 母さんは固まった卵が好きだから、食べさせるのが簡単だ。割らないように気をつける必要がない。僕は半熟の方が好きだけれど。そういえば、兄ちゃんも固い卵が好きだったなぁと思い出す。目頭が熱くなった。どうやらここ最近はすぐに泣いてしまうみたいだ。
 そんな固い卵を食べさせる手も緊張で細かに震えている。
 このあとなんて言って話し始めるかを考えていると、いつもは途方もなく長く感じられる食事の時間が、あっという間に終わってしまった。
「——この間、学校で講演会があったんだ。津波で家族を亡くした方が喋っていて、僕はその中の言葉に大切なことを気付かされた。それで、母さんとちゃんと喋ろうと思って」
 話し出した僕に母さんは耳を傾けているようだ。「家族を亡くした」のところで明らかに母さんの顔が苦しそうに歪む。わかるよ、母さん。僕だって苦しいんだから。
「その人は『死者を想うことができるのは生者だけだ』って言っていたんだ。そこで僕は気づいた。兄ちゃんのことを、兄ちゃんが生きた証を繋いでいけるのは生きている僕たちだけなんだって。僕はここ数ヶ月ずっと苦しかったよ。なんで兄ちゃんは僕たちを残して死んじゃったんだろうって。僕も同じところに行きたいって何回も思った。でも、母さんはもっと苦しいだろうし、父さんだって苦しかっただろうし、だから僕は我慢してた。僕が苦しんじゃダメだ、僕は頑張らないといけないんだって思ってた」
 話しながら僕は、布団に横たわる母さんの華奢な手を両手で掴んだ。
「でも、でも、兄ちゃんを弔うことができるのは、僕たちだけなんだよ。父さんはどっかに行っちゃった。家族を元に戻すことを諦めたんだと思う。それは許せないけど、残されたのは僕と母さんだけなんだ。その事実は変わらない。この2人で、兄ちゃんの死と向き合うしかないんだ」
 溢れる感情が透明な粒になって頬を伝って母さんの腕に流れ落ちた。気づけば、母さんの目からも涙が溢れていた。母さんは葬式の日以来泣けていないはずだ。僕が無理やり兄ちゃんの死の話を出したから、久しく何にも動いていなかった感情が揺れているのだろう。
 申し訳ない気持ちが出てくる。酷なことをしている自覚はある。でも、僕がここで思いをぶつけるのをやめてしまったら、きっとこの家族は崩壊の一途を辿るだけだ。多分、分岐点にいるんだと思う。どうなるかわからない未来に強張る体を叱咤して、さらなる思いを紡ぐ。踏みとどまりそうになるのを、莉音の言葉を思い出して必死で進む。それが「現実を生きる」ということなのだろう。
「現実を生きる僕たちは、現実と向き合わなきゃダメなんだ。だから僕は、兄ちゃんの死と向き合うことにしたよ。そして、母さんと向き合うことにした。これまでずっと逃げていたけど、もう逃げないって決めたんだ。……母さん。僕は母さんに、僕と一緒に前を向いてほしい」
 流れ落ちる涙は止まることなく、次から次へと粒が生み出されていく。
「子どもを亡くした、それも自殺で亡くした母さんの痛みを全部わかるなんて言わない。でも、それでも、——わかるよ」
 僕の精一杯の声に応えるように、母さんがゆっくりと起き上がった。僕の支えなく、自力で。そして、僕の体を両手で抱きしめた。力が全然入っていないけれど、力を入れようとしているのが感じられた。
「……僕たちは、いつまでも下を向いているわけにはいかないんだ!」
 僕は年頃の「恥ずかしい」とかいう感情を捨てて、母さんをぎゅっと抱きしめ返した。
 わかってよ、母さん。一緒に、前を向こうよ。
「ごめんなさい、雪斗。辛い思いをたくさんさせてごめんなさい」
「謝らなくていいんだ、母さん。誰も悪くないんだから。現実は目を背けたくなるようなことばっかり起きる。僕だってこれまでずっと目を逸らしてきた。居心地のいい夢にずっといられたらって思うよ。ずっと忘れていたいって。それでも、僕たちが生きているのはどうやったってリアルだ」
 途中から、自分に向けて言い聞かせているようにも思えてきた。そうだ、僕たちはどうしたって生きている人間なのだから。この世界と向き合わなきゃいけないんだ。
「うん、うん。お母さんもずっと目を逸らしてきた。あれから、起きあがろうとしても、この部屋から出たら、月斗との思い出が蘇ってきて、動きたくなかった。月斗がもういないっていう現実を受け入れたくなかった。それで、家のことも私のことも、全部雪斗に任せてしまっていた。罪悪感を感じていたのに、体は思うように動いてくれなくて。本当にごめんなさい。雪斗も苦しかったのにね、私は本当にひどい母親ね……」
 ボロボロ泣きながら、母さんが言葉を紡ぐ。久しぶりに母さんの声をこれだけ長い文章で聞いた。少し掠れた密度の薄い、儚くて綺麗な声。
「そんなこと言わないでくれよ!これから前を向けばいいんだから。今からでも遅くない。少しずつで、いいから……」
「そうよね——ああ、月斗、月斗、どうして自殺なんてしたの……?もう戻ってきてはくれないの?大学なんて行かなくてもよかったのに。就職だってできなかったら家に戻ってくればよかったのに。母さん、月斗のためだったらパートでもなんでも稼ぎに出るのに。生きてさえいれば、生きていてくれれば……どうして?ああ、どうしてなの……」
 母さんは声をあげて泣き出した。悲しみが痛いほど伝わってくる。
 葬式以来、兄ちゃんの死の話が出ると目も口も閉ざして全てをシャットアウトしてしまっていた母さんはもういない。
「そうだよね、母さん。生きてさえいれば、そして僕たちに相談してくれていれば、何か解決のしようがあったのかもしれないのに。でも、きっと兄ちゃんは本当に苦しかったんだよ。解放されに行ったんだ。きっと天国で僕たちを見てくれているよ」
 でもやっぱり、戻ってきてほしいよ、兄ちゃん。僕たちを置いていかないでよ、こんなにも大好きなのに。
 たくさん、思い出が浮かんでくる。幼い頃、買ってもらったおもちゃが壊れてしまって泣いていた僕に、自分のおもちゃをくれたこと。小学生の頃、テレビのチャンネル争いでよく喧嘩していたこと。ゲームをやりすぎると父さんに怒られて取り上げられてしまうから、お互いにゲームをやっていることを父さんに見つからないように協力したこと。中学に入って、難しい数学の問題にぶつかった時、丁寧に順を追って教えてくれたこと。どれも温かくて幸せな時間だった。
 同時に、たくさん、後悔も浮かんでくる。あの時、兄ちゃんに感謝を伝えていれば。もっとたくさん話していれば。盛岡に帰ってきてくれた時にこぼした就活への不安にもっと真剣に向き合っていれば。——年頃で、恥ずかしくて伝えられなかった「大好き」という言葉を、もっと伝えていれば。
 それから、僕はその日は学校に行かず、ずっと母さんと抱きしめ合って泣き続けた。
「お母さん、今日から少しずつ自分のことやるわ。すぐに全部こなすのは難しいかもしれない。雪斗にはまだたくさん迷惑をかけると思う。でも、頑張るから許してくれるかしら?」
「もちろん。許すとか許さないじゃないよ。一緒に頑張ろう。でも、無理はしちゃダメだからね」
 母さんまで無理をしていなくなってしまったら、僕は本当にひとりぼっちなのだから。
 これからは、2人で支え合って生きていかなければならない、この残酷な世界を。
 いや、この世界は残酷なだけではなく、綺麗だ。窓を見遣ると雪は止んでいて、太陽がまばゆい白い光が世界を照らしていた。窓の外の景色は、はっと息を呑むほど美しかった。
 吹雪は終わったんだ。兄ちゃんとの思い出は胸に抱えたまま。後悔も抱えたまま、僕たちは今日からまた、一歩一歩確かに歩き続ける。美しい銀世界に足跡を残しながら。
 ——ありがとう、莉音。君のおかげで、僕は大切なことに気づけた。言いたかったことをちゃんと伝えられた。君は僕にとって、吹雪を抜けるための光だ。
 莉音に対する温かい想いがまた膨らんで、夜が待ち遠しくなった。


 

❆。:*.゚
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