余命半年の僕は、君を英雄にするために「裏切り者」の汚名を着る

深渡 ケイ

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第6章

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 第6章

 余命一ヶ月。

 医師がそう告げたとき、俺は頷いた。驚きも嘆きも、演技の範囲で十分だった。数字として受け取るほうが楽だ。時間は資源で、資源は配分するものだ。――そういう顔をしていれば、誰も俺の心臓の奥で何が潰れているかを見抜けない。

 石化は腹部まで達していた。右脚から始まり、膝、腿、腰骨の内側へと、冷えた石の輪郭がじわじわと臓腑を囲い込む。呼吸のたびに、内側から砕けた陶器の破片を擦り合わせるような痛みが走る。四肢の感覚は薄れ、代わりに激痛だけが鮮明になる。矛盾しているが、呪いとはそういうものだ。

 食事も喉を通らない。

 正確に言えば、通る。胃は働く。だが、口に入れた瞬間、味が遠い。噛むという動作が、どこか他人のもののように遅れて感じられる。俺は「贅沢をしすぎて胃が弱った」と笑ってみせた。貴族の宴席で、皿を残すことは罪だ。だから罪を別の罪で塗りつぶす。

 鏡に映る俺は、確かに少し丸くなったように見える。そう見せるために衣服も選んだ。腹部の石化が進むと、身体の線が妙に硬くなる。それを「太った」と誤認させる。侍従たちは俺の服のサイズを変え、俺の嘘を補強してくれる。彼らは俺が金と権力の亡者だと信じている。信じたいものを信じるのが人間だ。俺はそこに乗る。

 未来予知の呪いは、今日も淡々と映像を落としてくる。

 レナが死ぬ未来。その条件は、俺が真実を語ること。俺が彼女に「俺はお前を守るために悪役を演じている」と言った瞬間、世界は最短距離で彼女の死に向かう。何度も見た。何度も見て、何度も胃の奥が冷えた。

 最初は理解できなかった。言葉は救いになると、どこかで信じていたからだ。だが、予知は残酷なほど論理的だった。

 真実を知ったレナは、俺を救おうとする。救おうとする彼女は、政治の泥に踏み込む。踏み込んだ瞬間、王国の腐敗が牙を剥く。勇者は魔王よりも人間に殺される。そういう未来だ。

 俺の沈黙だけが、彼女を生かす。

 ならば俺は、沈黙で世界を組み立て直すしかない。

 そのために必要な最後の舞台は、明白だった。

 ――全人類の敵。

 勇者が討つべき、唯一の標的。

 俺がそれになればいい。

 貴族たちの不正を握り潰すことは、簡単だった。俺は元・軍の事務員で、数字と帳簿と命令系統の癖を知っている。彼らがどこで金を抜き、どの部隊を架空にし、どの孤児院に寄付したふりをして、実際にはどの家の地下金庫に流したか。書類の整合性を取るふりをして、矛盾点を繋げ、線にする。線は網になる。網は首を絞める縄になる。

 俺がそれを握っていると知れば、貴族たちは俺を殺すか、買収する。

 買収は不可能だと、彼らはすぐに悟った。俺が欲しいのは金ではない。権力でもない。俺が欲しいのは、レナの未来だ。だが、それは彼らの理解の外にある。理解できないものは、恐怖になる。

 恐怖は暴力を呼ぶ。

 俺はその暴力を、予定表に記入した。

「今夜、暗殺が来る」

 予知がそう告げる前から、俺は知っていた。彼らの手口は決まっている。毒、火、刺客、事故に見せかけた落馬。選択肢の中で最も成功率が高いものを選ぶ。合理主義者を気取るなら、相手も合理的だと仮定するのが筋だ。

 だから俺は先に裏切った。

 裏切った、という言葉は便利だ。俺が何をしたかを一言で塗りつぶす。貴族たちにとっても、民衆にとっても。

 俺は議会の場で、彼らの不正の証拠を机の上に並べた。羊皮紙の束、封蝋、軍の印章、会計報告の写し、処刑されたはずの兵の給与台帳。誰が見ても言い逃れできないように、順番まで整えた。

「これが何だか分かるか」

 俺は笑った。笑う練習は、鏡の前で何度もした。冷たい笑い。人を見下す笑い。人の命を数字に換算する笑い。

 貴族たちの顔色が変わる。汗。唾。怒り。恐怖。俺はそれらを観察しながら、胸の奥で別のものを押し殺す。――吐き気だ。痛みだ。孤独だ。

「魔王軍の残党が、王国の中枢に巣食っていた。そういうことにしておこう」

 ざわめきが走った。

「お前は何を言っている、アルト・ヴァルケン!」

 誰かが叫ぶ。俺はその声の主の名前を知っている。彼は孤児院の寄付金を横領し、代わりに子どもを奴隷商に流していた。俺はその帳簿も持っている。だが、今それを暴く必要はない。

「俺が魔王軍の残党だ」

 俺は言った。舌が乾く。喉が痛い。腹部の石が、内側から臓器を押し上げるように重い。だが声は平坦に出た。演技は体調に左右されない。むしろ、痛みがあるほうが顔が固まって都合がいい。

「お前たちの不正は、俺が全部握り潰した。証拠はここにあるが、王国には渡さない。渡せば内輪揉めで国が割れる。魔王軍の残党として、俺が全部持っていく」

「待て! それでは――」

「そうだ。お前たちは助かる。だが代わりに、俺が全ての罪を背負う」

 俺は立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、妙に大きく聞こえた。足の感覚はほとんどない。立っているのかどうかさえ曖昧だ。だが、倒れるわけにはいかない。倒れた瞬間、俺は弱者になる。弱者は同情される。同情は真実に近づく。真実はレナの死に繋がる。

「王国は腐っている。魔王がいなくとも、人間は人間を食う。なら、俺が魔王になればいい」

 沈黙。誰も言葉を出せない。理解できないからだ。理解されないことは、孤独だ。だが俺は孤独に慣れている。慣れたふりをするのが上手いだけかもしれないが。

「明日から俺は独立勢力として動く。王国の命令は受けない。軍の補給線も、税の流れも、俺が握る」

「反逆だぞ!」

「反逆で結構」

 俺は肩をすくめた。痛みで肩が震えそうになるのを、呼吸で押さえた。

「俺を討ちたければ討て。だが、討てるのは勇者だけだ。貴族の剣は、民衆のために振るわれない」

 その言葉で、彼らの顔に別の恐怖が浮かんだ。勇者レナ。民衆の希望。彼女が動けば、彼らの権力は揺らぐ。だから彼らは、勇者を利用したい。だが勇者は利用されない。少なくとも、今のレナは。

 俺はそれを、彼女の瞳で知っている。

 あの放火の夜。群衆の中で、俺を見たレナの目。怒りと正義と、裏切られた痛み。あれは刃だ。俺に向けられた刃だ。俺はその刃で斬られるために、ここまで来た。

 議会を出た瞬間、背中に視線が刺さった。憎しみ。恐怖。軽蔑。――そして、どこかに安堵が混じる。俺が全てを背負って消えてくれるなら、彼らは今日も生きられる。

 俺はその安堵を許した。許すことで、俺の役割が確定する。俺は彼らの罪を守る盾ではない。だが結果として、彼らは守られる。世界は矛盾でできている。

 独立勢力の拠点は、古い城だった。王都の外れ、かつて魔王軍の侵攻を想定して築かれたが、実戦では使われなかった石の塊。皮肉だ。人間のために築かれた要塞が、人間の敵の玉座になる。

 玉座の間は広く、寒かった。火を焚けば煙が上がる。煙は目立つ。目立てば、討伐が早まる。早まれば、俺の準備が間に合わない。だから火は焚かない。寒さは我慢だ。石化していく身体には、寒さも熱さも鈍い。痛みだけがある。

 俺は玉座に座った。

 背もたれが硬い。背中の傷が、落梁を受けた場所が、じくじくと疼く。血がまだ完全には止まっていないのだろう。包帯の下で、温いものがゆっくりと広がる感覚がある。だがそれも、遠い。石化が感覚を奪っていく。

「魔王よりも孤独な王」

 誰かがそう呼ぶだろうか。呼ばれないだろう。民衆にとって、俺はただの悪だ。貴族にとって、俺は便利な怪物だ。レナにとって、俺は――裏切り者だ。

 それでいい。

 それで、いいはずだ。

 夜、喀血した。

 最初は咳だと思った。喉が乾いて、空気が刺さる。だが咳の奥から鉄の味が湧き上がり、掌に赤黒いものが落ちた。血は温かい。温かさだけは、まだ分かる。生きている証拠だ。嫌になる。

 俺は布で口元を拭い、誰にも見られないようにそれを燃やした。痕跡は残さない。弱さは見せない。弱さは同情を呼ぶ。同情は――レナの手を鈍らせる。

 鈍らせてはいけない。

 俺は机に向かった。玉座の間の隅に置かれた古い書記机。インク壺、羽ペン、羊皮紙。軍の事務室と同じ道具だ。俺はここでも結局、書類を書いている。剣ではなく、文字で人を殺す。文字で自分を殺す。

 レナ宛の手紙を書く。

 届かない手紙だ。届けない手紙だ。封をして、どこかに隠す。俺が死んだ後、誰かが偶然見つけるかもしれない。見つけないかもしれない。だが、それでいい。目的は伝えることではない。俺が、最後まで俺でいることだ。

 羽ペンを持つ手が震えた。寒さではない。痛みでもない。恐怖だ。

 死が怖い。

 俺は合理主義者を演じている。死を資源の枯渇として扱い、交換可能なものとして計算する。だが本当は、死は計算できない。死は未知だ。未知は恐怖だ。

 俺は、レナのいない世界を想像できない。

 それでも、彼女が生きるなら、俺のいない世界でいい。

 羊皮紙に、最初の文字を書く。

「レナへ」

 そこまで書いて、手が止まった。愛している、と書きたかった。会いたい、と書きたかった。あの夜、俺を見た目の奥に残っていた微かな信頼を、もう一度だけ呼び戻したかった。

 だが、それを書けば、もし手紙が届いたとき、彼女の心は揺れる。揺れれば、彼女は真実を探す。真実は彼女を殺す。

 だから書けない。

 俺は、政治的助言だけを書く。

「王都の評議会は、表向きの敵より内部の利害で動く。正義を掲げるなら、彼らの『面子』を奪うな。奪えば、彼らは国を売ってでも君を潰す」

 書きながら、笑いそうになった。俺が誰に助言している? 勇者に政治の泥を避けろと? 避ければ救えない人がいる。踏み込めば死ぬ。どちらも地獄だ。

「君が信頼できるのは、立場ではなく行動だ。肩書きは裏切る。帳簿は嘘をつく。だが、飢えた子にパンを割る手は嘘をつかない」

 俺はそこで、喉の奥が詰まった。あの放火の夜、俺が救った少女の顔が浮かぶ。泣きながら俺に縋ろうとした手を、俺は叩き落とした。暴言を吐いた。群衆の憎悪を集めるために。

 あの子の手は嘘をついていなかった。俺の手だけが嘘をついた。

「君の剣は、誰かの復讐の道具にするな。復讐は甘い。甘いものは、君の視界を曇らせる」

 復讐。レナは俺を裁くと誓った。正義として。だがその正義には、裏切られた痛みが混じっている。混じっていることが悪いとは言えない。人間だから。だが、俺は彼女に曇ってほしくない。曇った剣は、間違ったものを斬る。

「魔王軍の残党を名乗る者が現れたなら、背後の資金の流れを追え。魔力ではなく金が戦を動かす」

 黒幕。まだ見えない黒幕。貴族たちの不正を握り潰したことで、俺は一つの蓋を閉めた。だが、閉めた蓋の下に何があるかは、予知がまだ教えてくれない。あるいは、教えない。未来予知は万能ではない。俺が見えるのは、レナの死に繋がる道筋だけだ。

 だから俺は、彼女が生き残るための地図を残す。

「君が孤立したとき、味方を増やすより先に、敵の数を数えろ。敵の数を数えられない戦場では、勇気はただの自殺だ」

 書き終えたとき、紙の上には冷たい文字だけが並んでいた。愛の言葉は一つもない。名前を呼ぶ以外、彼女に触れる言葉がない。

 胸が痛い。石化の痛みとは違う。胸の内側が、空洞になっていく痛みだ。

 俺は手紙を折り、封をした。封蝋を垂らす手が、また震えた。火を使うのは嫌だったが、封蝋には火が要る。小さな火を灯し、蝋が溶ける匂いを嗅いだ。甘い匂いだ。甘いものは視界を曇らせる、と俺は書いたばかりだ。

 封に、俺の家紋は押さない。押せば、俺がレナに何かを伝えようとしたことが露見する。露見すれば、誰かが先に手紙を読む。読めば、内容を改竄される。改竄されれば、彼女は誤った地図を持つ。

 だから、無印の封にした。誰のものでもない手紙。誰にも届かない手紙。

 机の引き出しの奥、二重底のさらに奥にそれを隠した。俺が死んだ後、城が荒らされれば、見つかる確率は高い。だが見つけるのは、運だ。運に頼るな、と俺はいつも言ってきた。最後に運に頼るのか、と自嘲したくなる。

 玉座に戻る途中、足がもつれた。

 倒れそうになり、壁に手をついた。石の冷たさが掌に伝わるはずなのに、伝わらない。感覚がない。だが痛みだけが走る。骨の奥を釘で打たれるような痛み。俺は息を殺し、顔を上げた。誰もいない。見られていない。なら、少しだけ歪んでもいい。

 俺は壁に額をつけた。

 怖い。

 死が怖い。

 レナに会えないのが怖い。

 俺が何も言わずに死んだら、彼女は俺を憎んだまま生きる。憎しみは彼女を強くするかもしれない。だが同時に、彼女の心を削る。俺は彼女の心を削って生き延びさせる。そんな救いがあるか。

 ある。あると信じるしかない。

 未来予知は、俺に救いの形を教えてくれなかった。ただ、「これを言えば死ぬ」とだけ教えた。なら、言わなければいい。沈黙は、唯一の選択肢だ。

 玉座に座り、俺は目を閉じた。

 遠くで雷鳴がした。雨が降る。雨は血の匂いを薄める。戦の前の雨は、いつもそうだ。

 レナは来る。

 彼女は俺を討つ。

 そのとき俺は、最後まで冷徹な合理主義者でいなければならない。涙を見せてはいけない。謝ってはいけない。許しを乞うてはいけない。真実を匂わせてもいけない。

 ただ、悪として死ぬ。

 悪として死ねば、彼女は英雄として生きる。

 英雄として生きれば、彼女は人々に利用される。利用されるなら、俺の助言が役に立つかもしれない。役に立たなくてもいい。彼女が生きてさえいれば。

 喉の奥がまた熱くなり、俺は口元を押さえた。血が指の間から滲む。暗い赤。俺はそれを見つめながら、笑った。

「時間切れが近いな」

 誰に言うでもなく呟いた声は、玉座の間に吸い込まれた。返事はない。王は孤独だ。魔王よりも孤独な王。俺はその玉座に座り、世界の憎悪を待つ。

 レナ。

 お前が俺を憎むことが、お前を生かす。

 だから、頼む。

 最後まで俺を信じるな。

 そして、生きろ。
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