2 / 12
第2話:冷めたピザと優越感
第2話:冷めたピザと優越感
しおりを挟む
湊は両手にでかい箱を抱えたまま、最後の晩餐部の部室の戸を肘で押し開けた。
「よっしゃ、持ってきたぞー!」
段ボールが擦れる音といっしょに、部室の空気が一段あたたかい匂いに変わる。チーズと油と、胡椒っぽい香り。湊はそのまま机の上に箱をどん、と置いた。
「宅配ピザ。L。テンション上げてこ」
紬は窓際の椅子に座っていた。いつものように背筋はすっと伸びていて、髪もきれいにまとめている。けれど、湊の声に、目だけが一瞬こちらを向いたきり、笑わなかった。
「……」
湊は箱のふたに手をかけたまま、止まる。
「え、反応薄っ。ピザだぞ? 高校生の正義だぞ?」
蓮が壁際から歩いてきた。机の端に肘をついて、湊の手元を見下ろす。その目が、刃物みたいに冷たかった。
「お前、何してんだ」
「何って、差し入れ。部活っぽいだろ。パーティしようぜ、パーティ」
湊は笑って、ふたを開けた。
中から、湯気はほとんど出ない。届けてもらってから少し寄り道したせいで、チーズは固まりかけていた。それでも、赤と白と茶色のジャンクな色は強い。
「うわ、うまそ」
湊が一切れ持ち上げた瞬間、蓮の視線がさらに重くなった。
「……殺すぞ」
「えっ、なに、冗談きつ」
湊はピザを宙で止めたまま、笑ってごまかそうとする。蓮の顔は笑っていない。
「ここに、持ち込むな」
「え、でもさ、『最後の晩餐部』だよ? 晩餐って言ったら食べ物じゃん。名前負けしてるぞ」
「名前を盾にすんな」
蓮の声は低い。部室の時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
湊はピザを皿に戻し、急に思い出したように紬を見る。
「紬先輩、ピザ嫌いだった? いや、嫌いって人あんまいないよな。アレルギーとか?」
紬は口元だけ動かして、いつもの調子を探すみたいに笑った。
「……嫌いじゃないよ」
声が少し細い。湊は気づいたようで、気づかないまま頷く。
「だよな! じゃあ、よかった。ほら、今日はさ、みんなで——」
「湊」
蓮が名前を呼ぶ。短く、切るように。
「紬に、食わせる気か」
「え? 食わせるって……食うだろ、ピザは」
湊は言いながら、紬の机の上を見た。いつもある、透明なボトルと細いチューブ。机の横に置いた小さなバッグ。そこから、消毒みたいな匂いがかすかにする。
「……あ」
湊は軽く手を叩いた。
「そっか、部室飲食禁止とか? 学校のルール?」
蓮の眉がぴくりと動いた。怒りの方向がずれていく音がした。
「違う」
「じゃあ何。俺、なんか地雷踏んだ?」
湊は笑いを足して場を軽くしようとする。紬が、机の端を指でなぞった。爪が白くなるまで、きゅっと。
「湊くん」
紬の声が呼ぶ。湊が顔を上げると、紬は目尻を上げてみせた。けれど、笑いが届く前に、喉の奥で何かが引っかかるみたいに一度だけ息が詰まった。
「……パーティ、いいね」
「だろ? ほら、そういうことよ!」
湊は勢いを取り戻して、箱をくるりと回して紬の方へ向けた。
「じゃあさ、食べる代わりに、聞くやつ。やろうぜ」
蓮が睨む。
「……聞くやつ?」
「ほら、昨日のやつ。『言葉の料理』? あれ。俺、今日ネタ持ってきた。ピザの話、めっちゃできる」
湊は自分の胸を指さして、どや顔を作る。
「まずさ、箱開けた瞬間の匂いがさ——」
「待て」
蓮が机の端を指で叩いた。コン、と乾いた音。
「お前、勝手に始めんな」
「え、なんで? 部長もいいって言ったじゃん」
湊が紬を見る。紬は頷いた。頷きは小さく、肩の動きも小さい。湊はそれを「遠慮」だと決めつける。
「先輩、遠慮すんなって。俺、話すの得意だから」
「得意じゃねえだろ」
蓮が吐き捨てる。
「え、ひど。SNSで飯テロやってる俺を舐めるな」
湊はスマホを取り出して、ピザを上から撮ろうと構えた。
「見て、これ。光の角度——」
「撮るな」
蓮の手が伸びて、スマホのレンズの前にすっと入る。指が震えているのが一瞬見えた。
湊は目を瞬かせる。
「え、なんで。映えだぞ? 部活の記録にもなるし」
「記録してどうすんだよ」
「いや、部活ってそういうもんだろ。文化部って、なんかそれっぽい写真あると強いじゃん。入部希望とか増えるし」
蓮は黙ったまま、紬の方を見る。その目が「大丈夫か」と言っているみたいで、湊は勝手に「心配性だな」と解釈した。
「蓮、過保護すぎ。部長、守られキャラ?」
「……蓮はね」
紬が笑ってみせる。笑いの途中で、唇の端がほんの少しだけ乾いたまま止まる。
「昔から、怒る担当」
「ほらな。怒り担当だって」
湊は蓮に肩をぶつけるふりをした。蓮は動かない。
「で、湊くん。ピザの話、するの?」
紬が促す。促す声が少し急いでいる。湊はそれを「楽しみにしてる」に変換する。
「するする! まずさ、冷めたピザってあるじゃん?」
「……あるね」
「冷めてるのに、なんか妙にうまい瞬間あるんだよ。部活帰りの夜とかさ、机に置きっぱのやつ。チーズ固まってんのに、噛むと『あ、これこれ』ってなる」
湊は一切れを指で持ち上げて、空中で軽く揺らした。チーズは伸びない。ぱきっと切れそうな硬さ。
「で、そこにタバスコぶっかける。俺は二周。いや三周」
「自慢すんな」
蓮が小さく言う。
「自慢だよ? 辛さ耐性って男の優越感じゃん」
湊は言い切って、自分で笑う。紬の肩がふ、と揺れた。笑ったのか、咳をこらえたのか、判別がつかないくらい小さな揺れ。
「……優越感」
紬がその言葉を舌の上で転がすみたいに繰り返す。
「そう。だってさ、熱々のうまいピザなんてみんな好きじゃん。冷めたやつを『いや、これもアリ』って言えるの、ちょっと大人っぽくね?」
「意味わかんねえ」
蓮が呆れたように言う。けど視線はまだ鋭い。ピザ箱と紬の間を、壁みたいに遮って立っている。
湊はそれを「ツンデレ」だと思うことにした。
「まあまあ。でさ、冷めたピザの最高ポイントは、耳。カリカリになってるとテンション上がる」
紬は頷きながら、机の上の透明なボトルに指を添えた。その指先が一瞬だけ白くなって、すぐ戻る。
「……耳、ね」
「そう。耳ってさ、みんな残すじゃん。俺、あれ残すやつ信用できない」
「お前、誰に喧嘩売ってんだ」
「蓮?」
「俺は残さねえ」
「じゃあ信用できるな!」
湊が指を立てると、紬が小さく笑った。笑い声は軽い。でも、その笑いの終わりに、空白が一拍だけ落ちた。
湊は気づかず、勢いのまま続ける。
「で、最後にさ。冷めたピザって、レンチンすると負けなんだよ」
「負け?」
「そう。冷めたまま食うから勝ち。わかる?」
紬は首を傾げた。頬の色がほんの少し薄い。窓から入る光のせいだと湊は思った。
「……勝ち負け、あるんだ」
「あるある。自分に勝つんだよ。『温めたほうがうまい』って常識に」
蓮が低く息を吐いた。笑いでもため息でもない音。
「……くだらねえ」
「くだらないのがいいんだって。部活だぞ?」
湊は箱の中のピザを見下ろし、もう一度だけ紬を見る。
「先輩、どう? 今のでちょっと腹、満たされた?」
紬は一瞬、答えを探すみたいに目を伏せた。まばたきが遅い。次に顔を上げたとき、いつもの明るさが戻っている。
「うん。……少し、あったかくなった」
「だろ!」
湊は拳を握って勝利宣言みたいに言った。
「よし、じゃあ次は俺の人生最高のペペロンチーノの話するわ。あれはやばい。マジで」
蓮が小さく舌打ちした。
「……調子乗んな」
「乗るだろ、これは。だって俺、役に立ってるし」
湊は笑いながら、ピザ箱のふたをそっと閉じた。冷めた匂いだけが、部室に残ったまま消えない。
紬はその匂いを吸い込むみたいに、静かに息をした。蓮の視線は、ピザではなく紬の喉元に刺さっていた。湊だけが、それを「相変わらず怖いな」で片づけて、次の話の助走をつけた。
教室の隅に置かれた折りたたみ机の上には、昨日の冷めたピザの箱がまだ鎮座していた。油の膜が固まって、蛍光灯の光を鈍く跳ね返している。
湊はスマホをかざして角度を探し、箱の端をちょいと持ち上げた。
「うわ、逆に映える。『冷めても青春』って感じ」
「それはただの手抜きだよ」蓮が即ツッコむ。
「手抜きも才能だろ」
「才能をそんな方向に使うな」
紬は机の向こうで椅子に座り、ピザの匂いに鼻先だけ近づけて、くすっと笑った。
「冷めたピザって、なんでこんなに『昨日』の味がするんだろうね」
「昨日の味って何だよ」湊が笑う。
「わかんない? 放課後の廊下の空気とか、帰り道の風とか、そういうの」
「詩人か」
「部長です」
紬は胸を張った……ように見えたが、その動きの途中で一瞬だけ呼吸が引っかかった。咳ではない。小さく、喉の奥で何かが擦れる音。湊はそれを「笑いすぎ」と解釈して、ピザ箱の写真を撮った。
「よし。今日の部活、これで始めるか。最後の晩餐部、開店!」
「ピザは出してないけどね」紬が言って、指で机をトントン叩く。「今日のゲスト、来るって連絡あった?」
「え、ゲスト?」湊がスマホから顔を上げる。
「うん。『食べ物の失敗で心が折れた』って。心が折れたなら、うちの出番でしょ」
蓮が腕を組んだ。「また妙な客を呼び込むなよ」
「妙じゃないよ。食べ物で凹むの、普通だよ」紬が言う。「ほら、湊くんだって『いいね』が減ると死にそうな顔するし」
「してねーし。……してるかも」
「ほら」
そんなやりとりの最中、教室の戸が控えめに二回ノックされた。
「ど、どうぞ……?」
紬の声はいつもより少しだけ細い。湊は「部長モードの演技かな」と思いながら、戸の方を見た。
入ってきたのは一年生くらいの女子だった。制服の袖が少し長く、両手で紙袋を抱えている。紙袋の口から、甘い匂いがふわっと漂った。
「ここ……最後の晩餐部、ですか」
「いらっしゃい!」紬が片手を上げた。「ようこそ。今日のメニューは、あなたの話です」
「は、話……」
女子は一歩で止まって、紙袋を抱え直す。視線が床に落ちて、肩が小さくすぼむ。
湊が先に口を挟んだ。
「大丈夫大丈夫。宗教じゃないから」
蓮が即座に湊の頭を小突いた。「余計に怪しいわ」
「いてっ。だって初見だと怪しいだろ」
紬が笑って、女子に椅子を勧めた。「座って。名前、聞いてもいい?」
「……小春です。一年の、相沢小春」
「相沢さんね。私は紬、部長。こっちは湊、こっちは蓮。で、その紙袋は……」
小春は紙袋をちらっと見て、顔を赤くした。
「クッキー、作ったんです。……作ろうと、したんです」
「『しようとした』の過去形、重いな」湊が言うと、蓮にまた肘で小突かれた。
「おい、空気読め」
「読んでる。読んでるから軽くしてる」
紬が小春に目を向ける。「誰かにあげる予定だったの?」
小春は小さく頷いた。
「バレンタイン……じゃないですけど。先輩に、部活でお世話になってて……。手作りの方が、気持ちが伝わるかなって」
「いいじゃん」湊が言う。「気持ちって、だいたい手作りの方が伝わる。たぶん」
「たぶんって言うな」蓮が言う。
小春は紙袋を膝の上に置いて、指先で紙をくしゃっとさせた。
「でも、失敗して……。焦げて、割れて、苦くて。見た目も、なんか……石みたいで」
「石!」湊が吹き出しかけて、慌てて口を手で塞ぐ。
「笑っていいよ……」小春の声がさらに小さくなる。「私も、笑ったから。出来上がったの見て」
紬が身を乗り出した。「見せてくれる?」
小春は躊躇してから、紙袋の口をそっと開いた。中にはラップに包まれた塊がいくつも入っている。確かにクッキーというより、色の濃い瓦せんべいの破片に近い。ところどころ黒く、端が鋭い。
湊は正直な第一印象を飲み込んで、別の言葉を探した。
「……渋い。玄人っぽい」
「嘘つくな」蓮が言う。
「嘘じゃない。こういうの、カフェで『ビタークッキー』って言って売ってるかもしれないだろ」
「売ってない」
小春が俯いて、肩が震えた。笑っているのか泣いているのか、境目がわからない揺れ方だった。
紬は笑いながらも、声を柔らかくした。
「相沢さん。クッキーって、どんな味にしたかったの?」
「……バターの匂いがして、サクサクで。噛んだら、ちょっとだけ甘くて……。口の中が、あったかくなるやつ」
「うんうん」
「でも、出来たのは……苦くて、硬くて。食べたら、喉が……」小春は言いかけて、言葉を切った。「……とにかく、最悪で」
紬は頷いたあと、机の上の冷めたピザ箱を指で軽く叩いた。
「じゃあさ。相沢さんの『本当のクッキー』、ここで作り直そう。焼かないけど」
「焼かない?」
「話で焼くの」紬が言う。「相沢さんが作りたかったクッキーを、湊くんが写真みたいに言葉にする。私が食べる。蓮がツッコむ。完璧」
「俺、ツッコミ担当固定なんだ」蓮がぼそっと言う。
湊は胸を張った。「任せろ。俺、説明得意。映えも得意」
「映えいらないです……」小春が弱々しく言う。
「いるって。言葉にも映えはある」湊はスマホを置き、両手を広げた。「よし。相沢さん、キッチンの状況教えて。バターは常温? オーブン何度? 砂糖は何入れた?」
小春は驚いた顔で瞬きをしてから、少しずつ言葉を出し始めた。
「バター……冷蔵庫から出してすぐでした。急いでて」
「うん、カチカチだな」
「オーブンは……二百度にしました。早く焼けるかなって」
蓮が思わず眉を上げた。「それは……」
「熱い!」湊が言って先に結論を出す。「情熱が熱すぎたんだよ。先輩への」
小春が小さく笑った。「……そうかもしれないです」
紬がその笑いを受け取るように頷いた。「いいね。じゃあ、その『熱すぎた情熱』が、クッキーをどう変えたか。湊くん、料理して」
湊は一度目を閉じて、空気を吸った。ピザの油の匂いと、焦げた甘い匂いが混ざる。
「えーと……まず、冷たいバター。ボウルの中で、砂糖と混ぜようとしても、バターが抵抗する。固い塊が、スプーンに当たって『コン』って音がする」
小春の指先が紙袋の縁から離れ、膝の上で揃った。
「混ざらないから、力を入れる。腕が疲れて、焦る。焦ると、砂糖がボウルの外に散って、白い粉がテーブルに雪みたいに落ちる」
「雪、いいね」紬が言う。唇が少しだけ乾いているのを、湊は「冬だから」と勝手に納得した。
「で、そこに卵入れて……たぶん分離する。黄色いのと白いのと、バターの塊が仲悪くなる」
蓮が口を挟む。「分離って言い方、友情破綻みたいだな」
「仲直りさせるには、時間がいるんだよ」湊が続ける。「でも相沢さんは急いでる。だから、粉をドバッと入れる。粉が舞って、鼻に入って、くしゃみが出そうになる」
小春が頷きながら、目を丸くした。「……そうです。くしゃみ、出ました」
「ほら当たった」湊が指を鳴らす。「で、生地はまとまらない。ボソボソ。手のひらに張り付く。だけど、先輩の顔が頭に浮かぶから、無理やり丸める」
紬が、ふっと目を細めた。「先輩の顔、どんな?」
小春は一瞬固まり、頬が赤くなって視線が泳いだ。
「……笑うと、えくぼができる人です。部活で、失敗しても『次いこ』って言ってくれて」
「えくぼクッキーだ」湊が言う。
「何それ」蓮が言う。
「えくぼみたいに、ちょっと凹みがある丸いやつ。かわいいだろ」
小春が、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。「本当は……そういう形にしたかったです」
「うん。で、オーブン二百度」湊が両手を合わせる。「熱風が、情熱のビンタ。外側から先に固まって、表面がすぐ色づく。いい匂いが一瞬だけして、『成功した!』って思う」
小春は息を飲んだ。
「でも、タイマーが鳴る前に、焦げの匂いが来る。甘い匂いじゃなくて、苦い匂い。扉を開けた瞬間、熱が顔に当たって、目がしみる。天板の上で、クッキーが……黒い影みたいになってる」
小春の唇がきゅっと結ばれた。紬はその表情を見つめたまま、口元だけで笑った。
「うん。そこまで、いい。で、相沢さんはどうした?」
小春は声を絞り出すように言った。
「……一枚、食べました。味見しないと、渡せないから」
「偉い」湊が言う。
「苦くて、硬くて……。でも、飲み込もうとして、喉が……」小春はそこで止まり、手で口元を押さえた。「……変な話ですよね」
紬はすぐに首を振った。「変じゃない。食べ物って、喉を通るかどうか、けっこう大事」
その言い方が、どこかだけ妙に慎重だった。紬は笑っているのに、まばたきが一拍遅れる。湊は「部長、真面目スイッチ入ったな」と思って、流れを明るく戻そうとした。
「じゃあさ、相沢さん。失敗クッキーを『渡す』って選択肢もあるよ」
小春が目を上げた。「え……?」
「だって、話としては最高じゃん。『情熱二百度で焦げました』って。絶対ウケる」
蓮が呆れた顔をする。「お前、恋を漫才にするな」
「でも、笑ってくれる先輩なんだろ?」湊が言う。「『次いこ』って言うタイプなら、焦げも『次いこ』って言うって」
小春の目が揺れた。「……でも、恥ずかしいです。手作りって、ちゃんとしてないと……」
紬がゆっくり頷いた。「ちゃんとしてなくても、気持ちは入ってるよ。入れすぎて二百度になっただけ」
「部長も結局そこなんだ」蓮が言う。
紬は軽く肩をすくめた。その動きの最後に、手が胸元へ行きかけて、すぐ膝に戻る。ほんの一瞬の迷い。湊は見たが、意味を拾わなかった。
「相沢さん」紬が言う。「渡す前に、もう一回だけ『理想のクッキー』を、ここで食べさせて」
「食べさせて……?」
「うん。私、食べるの得意だから」
小春は困ったように笑った。「でも、クッキーは……これしか」
「だから、話」紬が指を立てる。「相沢さんが、成功したクッキーを焼けた世界線を話して。湊くんが盛る。蓮が止める。私が満腹になる」
「盛るな」蓮が言う。
「盛るのが俺の仕事」湊が言う。
小春はしばらく迷ってから、小さく息を吐いた。
「……じゃあ。成功した世界線、話します」
紬が頷く。「いってらっしゃい」
小春は紙袋を抱えたまま、目を閉じた。
「バターは、ちゃんと常温で……指で押したら、へこむくらい。砂糖と混ぜると、色が少し白くなって……ふわってするんです」
「ふわ、いい」湊がすかさず拾う。「泡みたいに軽くなるやつな」
「卵は、少しずつ入れて……ちゃんと混ざって。粉は、ふるって……」小春の声が少しずつ滑らかになる。「生地が、手のひらにまとまって、べたべたしなくて。触ると、柔らかいのに……ちゃんと形が残って」
紬はその言葉を一つずつ噛むみたいに、頷きながら聞いている。喉が鳴る音が、かすかにした。湊は「腹減ったのかな」と思った。ピザの箱をちらっと見る。
小春が続ける。
「丸めて、ちょっとだけ押して……えくぼみたいに。天板に並べると、同じ形が並んで、かわいくて」
「それ、写真撮りたい」湊が言う。
「撮らないでください!」小春が即ツッコみ、三人の空気がぱっと軽くなる。
蓮が鼻で笑った。「今のツッコミ、悪くない」
小春は照れて、慌てて話を戻した。
「オーブンは……百七十度。時間は……ちゃんと守って。焼けてくると、部屋が甘い匂いでいっぱいになって……。扉を開けたら、表面が少しだけきつね色で」
紬が小さく息を吸った。笑っているのに、口元の力が少しだけ抜ける。湊はそれを「うまそうすぎて溶けてる」と判断した。
「で、冷まして……一枚、割ると」小春が指で空を割る仕草をする。「中が、ほろって。サク、って音がして。噛むと、バターの匂いが……ふわって」
紬が両手を胸の前で合わせた。「いただきます」
「え、今?」湊が言う。
「今食べた」紬が言って笑った。「相沢さんのクッキー、あったかい。口の中が」
小春の目が少し潤んだように見えたが、彼女は笑って誤魔化した。
「……そんな風に言ってもらえると、救われます」
蓮が小さく言う。「救われるのは、渡す相手じゃなくて自分だろ」
小春は頷いた。「はい……。私、失敗した自分が嫌で。先輩に嫌われるとかより、そっちが怖かった」
湊は椅子にもたれて、軽く手を振った。
「失敗って、ネタだよ。ネタは強い。SNSでも強い」
蓮が睨む。「またSNSに繋げるな」
「だって俺の世界観がそれなんだもん」
紬が笑って、机を軽く叩いた。「じゃあ決まり。相沢さん、これ……焦げクッキー。渡すか、渡さないか。どっちにする?」
小春は紙袋を見下ろし、しばらく黙った。ラップ越しに黒い影が揺れる。
やがて、小春は顔を上げた。
「……渡します」
「よし」湊が言う。「その時のセリフ、決めようぜ」
「セリフ……?」
紬が身を乗り出す。「『情熱二百度で焼きました』」
「それはやめてください!」小春が即答した。
蓮が珍しく提案する。「普通に『作ってみました。失敗したけど』でいいだろ」
湊が首を振る。「弱い。ここは攻める。『次は百七十度でリベンジします』」
小春が笑いながら首を振った。「それも恥ずかしい……」
紬が指を一本立てた。「じゃあ、これ。『味見したら、ちょっと苦かったです。でも、気持ちは甘いです』」
小春は一瞬固まり、次の瞬間、吹き出した。
「……それ、言える人、強すぎます」
「強くなろう」湊が言う。
蓮が呆れた顔で天井を見る。「この部、変な強さ要求してくるな」
紬は笑ったまま、ふっと視線を落とした。机の端に置かれた小さな水筒に手を伸ばし、口をつける。中身は透明で、飲むというより喉を湿らせる程度だった。
湊はそれを見て、「部長も乾燥対策してんだな」と軽く思い、スマホを取り出した。
「じゃ、相沢さんの『焦げクッキー奮闘記』、今日の部活ログにしていい? 顔は出さない。文章だけ」
小春は迷ってから、頷いた。
「……はい。誰かが、失敗してもいいって思えるなら」
「いいね、増えるわ」湊が言う。
蓮が即座に言い返す。「お前が増やすな。相沢さんの背中を押せ」
「押してる押してる。ほら、今、めっちゃ押してる」
紬が小春に微笑んだ。
「相沢さん。次は百七十度でも二百度でも、どっちでもいいよ。大事なのは、渡しに行くってこと。食べ物って、誰かのところまで運んで、初めて完成するから」
小春は紙袋を胸に抱え直し、深く頷いた。
「……行ってきます」
「いってらっしゃい」紬が言う。
小春が教室を出ていくと、甘い焦げの匂いだけが少し残った。
湊は椅子を回して、紬を見た。
「部長、今日も絶好調だな。話食べて生きてる感じ」
「うん。生きてる」紬は笑って言った。
その笑いの後、ほんの一拍だけ、呼吸の間が空いた。湊はその空白を、ピザ箱の写真のキャプションに使えそうだと思った。
「よし、次のゲストも呼ぼうぜ。失敗した奴、世の中に無限にいるだろ」
蓮がため息をついた。「お前が一番失敗してる」
「失敗は伸びしろだって」
紬が小さく頷き、机の上のピザ箱を指で押した。
「じゃあ、冷めたピザも……誰かの話にしたら、あったかくなるかな」
「なるなる」湊が即答した。「俺が盛るから」
「盛るなって」蓮が言う。
三人の声が重なって、教室の隅が少しだけ賑やかになった。冷めたピザの箱は、相変わらずそこにあるのに。匂いだけが、なぜか少しだけ温かく感じられた。
湊がスマホをしまうより早く、紬は机の端に置かれた紙袋を見つけて、ぱっと目を輝かせた。
「それ、クッキー?」
声をかけられた女子生徒が、紙袋を抱え直す。制服の袖口に粉砂糖みたいな白いものがついていた。
「え、あ……文化祭の試作で……余ったから」
「余ったって言い方、切ない。見せて、見せて」
紬は椅子を引いて、机に頬杖をつく。まるで推理ショーの開幕みたいな顔だ。
湊は小声で蓮に囁いた。
「なに、部活勧誘? 『最後の晩餐部』ってクッキーも食うの?」
蓮は目を逸らしたまま、短く吐き捨てる。
「食わねぇよ」
「え、じゃあ何すんの」
「見てろ」
女子生徒が恐る恐る紙袋を開けると、透明な袋に入ったクッキーが数枚。星形、丸、ハート。焼き色が少し濃いのも混じっている。
紬は目を細めた。だが、クッキーそのものには触れない。匂いを嗅ぐわけでもない。ただ、袋の結び目のリボンをじっと見る。
「赤いリボン。しかも二重結び。結び目、きれい」
「え……そこ?」
湊が思わず言うと、紬は湊の方を見て、口角を上げた。
「そこ。食の探偵は、現場を見るの」
「探偵って……」
女子生徒が困ったように笑う。
「別に、そんな大した……」
「大したこと、あるよ」
紬の声は軽いのに、言葉だけが妙にまっすぐ刺さった。
「これ、誰のために作ったの?」
「え?」
「自分が食べたいから、じゃないよね。リボンつけるの、手間だし」
女子生徒の目が泳いだ。
「……友だちに、っていうか……」
「友だち、誰。名前じゃなくて、関係」
「え、関係……」
紬は指を一本立てる。
「まず、文化祭の試作。余った。なのにリボン。ここ、矛盾。余りものに飾りしない。つまり、最初から『渡す前提』で作った。余ったは照れ隠し」
湊は蓮の顔を見る。蓮は無表情のまま、でもほんの少し肩の力が抜けている。
「で、渡す相手は……たぶん、先輩」
「えっ」
女子生徒が声を裏返した。
「なんで分かるの!?」
「二重結び。解くときにほどけにくい。大人っぽく見せたいけど、不器用なのがバレたくない人がする結び方。あと、星形多め。かわいいより、元気っぽい。『私、明るいです』って言いたいときの形」
「そんなの……」
「好きな人に渡すとき、明るく見せたいでしょ?」
紬はさらっと言って、机に頬杖を戻した。女子生徒の耳が赤くなる。
湊は思わず笑ってしまう。
「やば。名探偵すぎる。紬、エスパー?」
「エスパーじゃない。質問上手」
紬はクッキーの袋に視線を落とし、次は焼き色の濃い一枚に目を止めた。
「焦げてるのが混じってる。オーブンの前でずっと見てた?」
「……うん。途中で取り出すタイミング分かんなくて」
「見てたのに焦がすの、あるある。緊張してたんだね。渡す相手、怖い人?」
「怖くない! 怖くないけど……」
女子生徒は唇を噛んで、すぐに言い直した。
「……部活の先輩。すごい上手で、近づくと緊張する」
「ほら」
紬は楽しそうに頷く。なのに、その指先が机の端をきゅっと掴んだのを、湊は見逃した。見逃したというより、見ても何とも思わなかった。
「で、どんな想いで作ったの?」
紬の問いに、女子生徒はクッキーの袋を胸に抱える。
「……ありがとうって。いつも、片付け手伝ってくれて。私、ミスばっかで……」
「ありがとう、ね」
紬はその言葉を口の中で転がすみたいに、ゆっくり繰り返した。
「それ、味。甘いだけじゃない。後味があったかい」
湊が首を傾げる。
「後味って、食ってないのに?」
紬は湊に向けて、いたずらっぽく目を細めた。
「言葉で食べるの。湊くんも、昨日ピザの話してたでしょ。あれ、ちょっとしょっぱかった」
「え、なんで? 俺、普通に——」
「冷めてたから」
紬が言うと、蓮が「……」と息を飲むのが見えた。
湊は笑って手を振る。
「いや、あれは俺が取りに行くの遅かっただけだって。俺のせい。ピザに罪はない」
紬はふっと笑った。笑ったのに、喉の奥で小さく空気が引っかかる音がした。
「……ん、けほ」
ほんの一回。紬は口元を押さえ、すぐに手を離す。
「大丈夫?」
湊が軽く聞くと、紬は親指を立てた。
「大丈夫大丈夫。探偵、推理で喉乾くの」
「探偵って喉乾くんだ」
「乾くよ。だって、言葉を食べるから」
紬は女子生徒に顔を向け直す。
「その『ありがとう』、先輩に言えそう?」
女子生徒は目を伏せて、小さく頷いた。
「……言う。渡すとき、言う」
「よし。じゃあ、最後の晩餐部からのアドバイス」
紬は机に肘をついて、身を乗り出す。
「『余ったから』は言わない。ちゃんと、『あなたに』って言う」
「う、うん……」
「焦げたのも入れていい。失敗も一緒に渡すと、ほんとになるから」
「ほんと?」
「ほんと。だって、それもあなたが作った味だもん」
女子生徒の目が少し潤んで、慌てて笑って誤魔化した。
「なんか……変な部活。ありがと」
「変なのは褒め言葉」
紬は胸を張る。だが、その背筋が一瞬だけ力を失って、椅子の背にもたれた。すぐに起き直し、何事もなかったように手をひらひら振る。
「行ってらっしゃい。成功したら、報告に来て」
女子生徒が去っていくと、湊は机に身を乗り出した。
「紬、マジで何者? クッキー見ただけで恋バナ当てるの、反則だろ」
「見ただけじゃないよ。聞いたの」
「聞き方がズルいんだよ。誘導尋問」
「誘導じゃない。食べたいところを聞いただけ」
湊は「食べたいところって何だよ」と笑いながら、蓮を見る。
「なあ蓮、これ部活? 『食の探偵ごっこ』部?」
蓮は目線だけで湊を刺してから、紬に向けて短く言った。
「……無茶すんな」
「無茶してない」
紬は即答し、湊に向けて指を鳴らす。
「湊くん。次は君の番。君の“冷めたピザ”の続きを聞かせて」
「え、俺? 昨日ので終わりじゃないの?」
「終わりじゃないよ。冷めたピザの続きには、必ず“誰のため”がある」
紬は笑う。その笑顔が、妙に眩しい。
湊は肩をすくめた。
「誰のため、ねぇ。……とりあえず、俺のフォロワーのため?」
「それは嘘」
紬の返しが速すぎて、湊は吹き出した。
「え、ひど! 俺、今の結構本音——」
「本音は、もうちょい奥」
紬は机の上で指を組む。
「ほら。食の探偵に、供述して?」
教室の窓から差し込む午後の光が、机の上の紙皿を白く照らしていた。
湊が買ってきたピザの箱は、もう開けっぱなしで、ふわっとした匂いは薄れている。代わりに、段ボールとチーズの冷えた匂いが残っていた。
「でさ、あの時の給食のカレーがさ!」
二年の男子が身振り手振りで語る。隣の女子が「盛りすぎ!」とツッコミを入れて笑う。
「カレーって、あれだよね。揚げパンとセットの日、神だった」
「わかる! あの揚げパン、砂糖が指にべったべたでさ」
「でもそれがうまいんだよ!」
最後の晩餐部の机の周りは、なぜか小さな食堂みたいに賑やかだった。食べ物はほとんど動いてないのに、言葉だけが湯気みたいに立っていく。
紬は椅子にちょこんと座り、頬杖をついて聞いている。目が、話している子の口元を追いかけるように揺れて、時々ふっと細くなる。
「……うん。いい。今の“砂糖が指にべったべた”最高。指先まで甘いって、ちゃんと伝わった」
「伝わったって何だよ、食レポ芸人かよ」
「芸人だったら食べられるのにねえ」
紬が笑う。笑い声が軽く跳ねて、教室の隅の空気が少し明るくなる。
蓮が腕を組んだまま、斜めに口を曲げる。
「紬、満足したか」
「んー、八分目。あと二口くらい」
「二口って何の単位だよ」
湊が突っ込むと、紬は指を二本立てて、真面目な顔で言った。
「二口は二口。物語は噛む回数で入ってくるから」
「意味わかんねえのに、なんかそれっぽいのやめろ」
「それっぽさ、大事」
紬が湊の方に視線を寄せる。笑っているのに、目の奥が少しだけ遠い。湊はそれを「部長モード」だと雑に分類して、流した。
「じゃ、次は湊。何かないの?」
「俺? え、俺は……」
湊は机の上のピザ箱を見た。さっきまで「映え」しか考えてなくて、角度とか光とか、そんなことばかり気にしていた箱。
ふと、指で箱の端を押す。段ボールが少し湿って、冷たかった。
「……あれ」
「どうしたの?」
「いや、これ……」
湊は蓋を持ち上げる。中のピザは、チーズが固まって、表面がテカりを失っていた。端っこは乾いて、切れ目のところに冷えた油が薄く溜まっている。
「完全に冷めてるわ」
「今さら気づいたのかよ」
蓮が呆れた声で言う。
「え、でも箱、あったかかった気がしたんだけど」
「気のせいだろ。お前の見栄の熱だ」
「見栄の熱って何だよ。新しいな」
湊は笑いながら、ピザの一切れを持ち上げた。持ち上げた瞬間、チーズが伸びない。伸びないことに、なぜか小さくショックを受ける。
「……伸びない」
「伸びないチーズは、心も伸びない」
紬が真顔で言って、すぐに吹き出した。
「うそ、今の適当。ごめん」
「適当すぎるだろ!」
みんなが笑う。湊も笑って、笑いながら、ピザを見下ろした。
写真なら、まだいける。角度とフィルターで、湯気なんか後から足せる。チーズの艶だって、加工で作れる。
でも、今ここで「うまそうだろ」って差し出すには、これはあまりにも正直だった。
「……これ、温め直す?」
湊が言うと、蓮が即答した。
「レンジねえよ」
「詰んだ」
「詰んでないよ」
紬がふわっと首を振る。ピザに視線を落とすのに、どこか優しい。
「冷めたピザって、好き。部活帰りの体育館の裏とか、コンビニの前とか」
「それ、好きなのシチュエーションじゃん」
「うん。味じゃなくて、そこにいる人」
紬はそう言って、指先で机をとんとんと叩いた。合図みたいに。
「ねえ湊。冷めたピザの話、して」
「え、話?」
「そう。食べるんじゃなくて、思い出として。湊の冷めたピザ」
湊は一瞬、言葉に詰まった。冷めたピザの思い出なんて、別に特別じゃない。むしろ、どうでもいい。
……どうでもいい、はずだった。
「冷めたピザってさ」
湊はピザの端を指で押して、少し硬い生地の感触を確かめる。指に油が薄くついて、光った。
「買ってすぐは、たぶんめっちゃうまいじゃん。でも、友達と喋ってるとさ、いつの間にか冷めてて」
「喋ってると冷める。いいね」
紬が嬉しそうに頷く。
湊は、なんとなく続けた。
「冷めてるのに、食べると……意外と、悪くない。あ、でもそれは、喋ってたからかも」
「喋ってたから、悪くない」
紬がそのまま言葉を反芻する。口の中で転がすみたいに。
蓮が、少しだけ目を細めた。湊は気づかない。
「湊、もうちょい具体的に」
「具体的にって……」
湊はピザの断面を見て、適当に言おうとして、やめた。適当に言うと、紬が「うん」って笑ってくれるのは分かる。でも、なんかそれはズルい気がした。
「……箱開けた瞬間、湯気が出ないの。で、チーズが伸びない。なのに、手は油でベタベタになる」
「ベタベタ、大好き」
紬が即答して、みんながまた笑う。
「いや好きポイントそこかよ」
湊が突っ込むと、紬は笑いながら咳をひとつした。小さく、喉の奥で引っかかるみたいな音。
「……けほ。うん、そこ。指先のベタベタって、ちゃんと食べた証拠だから」
蓮が一瞬だけ視線を落として、すぐ元に戻す。湊は「笑いすぎたか?」くらいに思って、特に気にしない。
「証拠、ねえ」
湊は自分の指を見た。油が光っている。これ、写真に写したら、たぶん汚く見える。加工で消したくなるやつ。
でも紬は、そのベタベタを「証拠」って言った。
「で? 湊の冷めたピザ、誰と食べたの?」
紬がさらっと聞く。
湊は、言いかけて止まった。
誰と――って言われて、頭に浮かんだのは、家のリビングのテーブルだった。テレビの音だけがして、会話がなくて、ピザの箱だけが置かれている光景。
湊は反射で笑った。
「……まあ、いろいろ」
「いろいろって便利な味付けだね」
紬が言って、湊の逃げ道を塞がないまま、笑いに変える。
「じゃあ、次は“いろいろ”の中でいちばんマシなやつ」
「マシって言うなよ!」
「マシはマシ。おいしいときも、マシなときもある」
紬が両手を合わせるみたいにして、目を閉じた。
「いただきます」
誰もピザを口に運んでいないのに、その言葉だけが机の上に落ちる。湊は、なぜか背筋が少し伸びた。
紬が目を開ける。
「……うん。今の、満腹。九分目」
「早っ」
「湊の話、油が光ってた。よかった」
「褒め方が独特すぎる」
湊はピザを見て、もう一度蓋を閉めた。冷めたままの箱が、さっきより少しだけ重く感じる。
「映え、ってさ」
湊がぽつりと言う。
「うん?」
「温かく見せるのは、できるじゃん。加工とかで」
「できるね」
「でも……温かかった、って思えるのは、たぶん別」
湊がそう言うと、蓮が小さく鼻で笑った。
「今ごろ気づいたのかよ」
「うるせえな。今ごろでいいだろ」
紬は、湊の言葉を聞いて、口元だけで笑った。目が少しだけ潤んだように見えたけど、光のせいかもしれない。
「湊、いいね。それ、すごくいい味」
「味わかるのかよ」
「わかるよ。言葉の味は」
紬はそう言って、背もたれに軽く寄りかかった。肩の力が抜けたみたいに。
その瞬間だけ、笑いの輪の中心から紬がふっと遠のいたように見えて、湊は慌てて手を叩いた。
「よし! 次、誰だよ。あと一口ぶん、話せるやつ!」
「俺、いける!」
「私も!」
声が上がって、また机の周りが賑やかになる。
紬はその騒がしさを受け取るみたいに、ゆっくり頷いた。指先が膝の上で、細く握られて、ほどける。
湊は冷めたピザ箱を抱え直しながら、心の中でだけ言う。
これ、写真にするなら、もっと上手く撮れる。
でも、さっきの「いただきます」は、加工できない。たぶん。
「よっしゃ、持ってきたぞー!」
段ボールが擦れる音といっしょに、部室の空気が一段あたたかい匂いに変わる。チーズと油と、胡椒っぽい香り。湊はそのまま机の上に箱をどん、と置いた。
「宅配ピザ。L。テンション上げてこ」
紬は窓際の椅子に座っていた。いつものように背筋はすっと伸びていて、髪もきれいにまとめている。けれど、湊の声に、目だけが一瞬こちらを向いたきり、笑わなかった。
「……」
湊は箱のふたに手をかけたまま、止まる。
「え、反応薄っ。ピザだぞ? 高校生の正義だぞ?」
蓮が壁際から歩いてきた。机の端に肘をついて、湊の手元を見下ろす。その目が、刃物みたいに冷たかった。
「お前、何してんだ」
「何って、差し入れ。部活っぽいだろ。パーティしようぜ、パーティ」
湊は笑って、ふたを開けた。
中から、湯気はほとんど出ない。届けてもらってから少し寄り道したせいで、チーズは固まりかけていた。それでも、赤と白と茶色のジャンクな色は強い。
「うわ、うまそ」
湊が一切れ持ち上げた瞬間、蓮の視線がさらに重くなった。
「……殺すぞ」
「えっ、なに、冗談きつ」
湊はピザを宙で止めたまま、笑ってごまかそうとする。蓮の顔は笑っていない。
「ここに、持ち込むな」
「え、でもさ、『最後の晩餐部』だよ? 晩餐って言ったら食べ物じゃん。名前負けしてるぞ」
「名前を盾にすんな」
蓮の声は低い。部室の時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
湊はピザを皿に戻し、急に思い出したように紬を見る。
「紬先輩、ピザ嫌いだった? いや、嫌いって人あんまいないよな。アレルギーとか?」
紬は口元だけ動かして、いつもの調子を探すみたいに笑った。
「……嫌いじゃないよ」
声が少し細い。湊は気づいたようで、気づかないまま頷く。
「だよな! じゃあ、よかった。ほら、今日はさ、みんなで——」
「湊」
蓮が名前を呼ぶ。短く、切るように。
「紬に、食わせる気か」
「え? 食わせるって……食うだろ、ピザは」
湊は言いながら、紬の机の上を見た。いつもある、透明なボトルと細いチューブ。机の横に置いた小さなバッグ。そこから、消毒みたいな匂いがかすかにする。
「……あ」
湊は軽く手を叩いた。
「そっか、部室飲食禁止とか? 学校のルール?」
蓮の眉がぴくりと動いた。怒りの方向がずれていく音がした。
「違う」
「じゃあ何。俺、なんか地雷踏んだ?」
湊は笑いを足して場を軽くしようとする。紬が、机の端を指でなぞった。爪が白くなるまで、きゅっと。
「湊くん」
紬の声が呼ぶ。湊が顔を上げると、紬は目尻を上げてみせた。けれど、笑いが届く前に、喉の奥で何かが引っかかるみたいに一度だけ息が詰まった。
「……パーティ、いいね」
「だろ? ほら、そういうことよ!」
湊は勢いを取り戻して、箱をくるりと回して紬の方へ向けた。
「じゃあさ、食べる代わりに、聞くやつ。やろうぜ」
蓮が睨む。
「……聞くやつ?」
「ほら、昨日のやつ。『言葉の料理』? あれ。俺、今日ネタ持ってきた。ピザの話、めっちゃできる」
湊は自分の胸を指さして、どや顔を作る。
「まずさ、箱開けた瞬間の匂いがさ——」
「待て」
蓮が机の端を指で叩いた。コン、と乾いた音。
「お前、勝手に始めんな」
「え、なんで? 部長もいいって言ったじゃん」
湊が紬を見る。紬は頷いた。頷きは小さく、肩の動きも小さい。湊はそれを「遠慮」だと決めつける。
「先輩、遠慮すんなって。俺、話すの得意だから」
「得意じゃねえだろ」
蓮が吐き捨てる。
「え、ひど。SNSで飯テロやってる俺を舐めるな」
湊はスマホを取り出して、ピザを上から撮ろうと構えた。
「見て、これ。光の角度——」
「撮るな」
蓮の手が伸びて、スマホのレンズの前にすっと入る。指が震えているのが一瞬見えた。
湊は目を瞬かせる。
「え、なんで。映えだぞ? 部活の記録にもなるし」
「記録してどうすんだよ」
「いや、部活ってそういうもんだろ。文化部って、なんかそれっぽい写真あると強いじゃん。入部希望とか増えるし」
蓮は黙ったまま、紬の方を見る。その目が「大丈夫か」と言っているみたいで、湊は勝手に「心配性だな」と解釈した。
「蓮、過保護すぎ。部長、守られキャラ?」
「……蓮はね」
紬が笑ってみせる。笑いの途中で、唇の端がほんの少しだけ乾いたまま止まる。
「昔から、怒る担当」
「ほらな。怒り担当だって」
湊は蓮に肩をぶつけるふりをした。蓮は動かない。
「で、湊くん。ピザの話、するの?」
紬が促す。促す声が少し急いでいる。湊はそれを「楽しみにしてる」に変換する。
「するする! まずさ、冷めたピザってあるじゃん?」
「……あるね」
「冷めてるのに、なんか妙にうまい瞬間あるんだよ。部活帰りの夜とかさ、机に置きっぱのやつ。チーズ固まってんのに、噛むと『あ、これこれ』ってなる」
湊は一切れを指で持ち上げて、空中で軽く揺らした。チーズは伸びない。ぱきっと切れそうな硬さ。
「で、そこにタバスコぶっかける。俺は二周。いや三周」
「自慢すんな」
蓮が小さく言う。
「自慢だよ? 辛さ耐性って男の優越感じゃん」
湊は言い切って、自分で笑う。紬の肩がふ、と揺れた。笑ったのか、咳をこらえたのか、判別がつかないくらい小さな揺れ。
「……優越感」
紬がその言葉を舌の上で転がすみたいに繰り返す。
「そう。だってさ、熱々のうまいピザなんてみんな好きじゃん。冷めたやつを『いや、これもアリ』って言えるの、ちょっと大人っぽくね?」
「意味わかんねえ」
蓮が呆れたように言う。けど視線はまだ鋭い。ピザ箱と紬の間を、壁みたいに遮って立っている。
湊はそれを「ツンデレ」だと思うことにした。
「まあまあ。でさ、冷めたピザの最高ポイントは、耳。カリカリになってるとテンション上がる」
紬は頷きながら、机の上の透明なボトルに指を添えた。その指先が一瞬だけ白くなって、すぐ戻る。
「……耳、ね」
「そう。耳ってさ、みんな残すじゃん。俺、あれ残すやつ信用できない」
「お前、誰に喧嘩売ってんだ」
「蓮?」
「俺は残さねえ」
「じゃあ信用できるな!」
湊が指を立てると、紬が小さく笑った。笑い声は軽い。でも、その笑いの終わりに、空白が一拍だけ落ちた。
湊は気づかず、勢いのまま続ける。
「で、最後にさ。冷めたピザって、レンチンすると負けなんだよ」
「負け?」
「そう。冷めたまま食うから勝ち。わかる?」
紬は首を傾げた。頬の色がほんの少し薄い。窓から入る光のせいだと湊は思った。
「……勝ち負け、あるんだ」
「あるある。自分に勝つんだよ。『温めたほうがうまい』って常識に」
蓮が低く息を吐いた。笑いでもため息でもない音。
「……くだらねえ」
「くだらないのがいいんだって。部活だぞ?」
湊は箱の中のピザを見下ろし、もう一度だけ紬を見る。
「先輩、どう? 今のでちょっと腹、満たされた?」
紬は一瞬、答えを探すみたいに目を伏せた。まばたきが遅い。次に顔を上げたとき、いつもの明るさが戻っている。
「うん。……少し、あったかくなった」
「だろ!」
湊は拳を握って勝利宣言みたいに言った。
「よし、じゃあ次は俺の人生最高のペペロンチーノの話するわ。あれはやばい。マジで」
蓮が小さく舌打ちした。
「……調子乗んな」
「乗るだろ、これは。だって俺、役に立ってるし」
湊は笑いながら、ピザ箱のふたをそっと閉じた。冷めた匂いだけが、部室に残ったまま消えない。
紬はその匂いを吸い込むみたいに、静かに息をした。蓮の視線は、ピザではなく紬の喉元に刺さっていた。湊だけが、それを「相変わらず怖いな」で片づけて、次の話の助走をつけた。
教室の隅に置かれた折りたたみ机の上には、昨日の冷めたピザの箱がまだ鎮座していた。油の膜が固まって、蛍光灯の光を鈍く跳ね返している。
湊はスマホをかざして角度を探し、箱の端をちょいと持ち上げた。
「うわ、逆に映える。『冷めても青春』って感じ」
「それはただの手抜きだよ」蓮が即ツッコむ。
「手抜きも才能だろ」
「才能をそんな方向に使うな」
紬は机の向こうで椅子に座り、ピザの匂いに鼻先だけ近づけて、くすっと笑った。
「冷めたピザって、なんでこんなに『昨日』の味がするんだろうね」
「昨日の味って何だよ」湊が笑う。
「わかんない? 放課後の廊下の空気とか、帰り道の風とか、そういうの」
「詩人か」
「部長です」
紬は胸を張った……ように見えたが、その動きの途中で一瞬だけ呼吸が引っかかった。咳ではない。小さく、喉の奥で何かが擦れる音。湊はそれを「笑いすぎ」と解釈して、ピザ箱の写真を撮った。
「よし。今日の部活、これで始めるか。最後の晩餐部、開店!」
「ピザは出してないけどね」紬が言って、指で机をトントン叩く。「今日のゲスト、来るって連絡あった?」
「え、ゲスト?」湊がスマホから顔を上げる。
「うん。『食べ物の失敗で心が折れた』って。心が折れたなら、うちの出番でしょ」
蓮が腕を組んだ。「また妙な客を呼び込むなよ」
「妙じゃないよ。食べ物で凹むの、普通だよ」紬が言う。「ほら、湊くんだって『いいね』が減ると死にそうな顔するし」
「してねーし。……してるかも」
「ほら」
そんなやりとりの最中、教室の戸が控えめに二回ノックされた。
「ど、どうぞ……?」
紬の声はいつもより少しだけ細い。湊は「部長モードの演技かな」と思いながら、戸の方を見た。
入ってきたのは一年生くらいの女子だった。制服の袖が少し長く、両手で紙袋を抱えている。紙袋の口から、甘い匂いがふわっと漂った。
「ここ……最後の晩餐部、ですか」
「いらっしゃい!」紬が片手を上げた。「ようこそ。今日のメニューは、あなたの話です」
「は、話……」
女子は一歩で止まって、紙袋を抱え直す。視線が床に落ちて、肩が小さくすぼむ。
湊が先に口を挟んだ。
「大丈夫大丈夫。宗教じゃないから」
蓮が即座に湊の頭を小突いた。「余計に怪しいわ」
「いてっ。だって初見だと怪しいだろ」
紬が笑って、女子に椅子を勧めた。「座って。名前、聞いてもいい?」
「……小春です。一年の、相沢小春」
「相沢さんね。私は紬、部長。こっちは湊、こっちは蓮。で、その紙袋は……」
小春は紙袋をちらっと見て、顔を赤くした。
「クッキー、作ったんです。……作ろうと、したんです」
「『しようとした』の過去形、重いな」湊が言うと、蓮にまた肘で小突かれた。
「おい、空気読め」
「読んでる。読んでるから軽くしてる」
紬が小春に目を向ける。「誰かにあげる予定だったの?」
小春は小さく頷いた。
「バレンタイン……じゃないですけど。先輩に、部活でお世話になってて……。手作りの方が、気持ちが伝わるかなって」
「いいじゃん」湊が言う。「気持ちって、だいたい手作りの方が伝わる。たぶん」
「たぶんって言うな」蓮が言う。
小春は紙袋を膝の上に置いて、指先で紙をくしゃっとさせた。
「でも、失敗して……。焦げて、割れて、苦くて。見た目も、なんか……石みたいで」
「石!」湊が吹き出しかけて、慌てて口を手で塞ぐ。
「笑っていいよ……」小春の声がさらに小さくなる。「私も、笑ったから。出来上がったの見て」
紬が身を乗り出した。「見せてくれる?」
小春は躊躇してから、紙袋の口をそっと開いた。中にはラップに包まれた塊がいくつも入っている。確かにクッキーというより、色の濃い瓦せんべいの破片に近い。ところどころ黒く、端が鋭い。
湊は正直な第一印象を飲み込んで、別の言葉を探した。
「……渋い。玄人っぽい」
「嘘つくな」蓮が言う。
「嘘じゃない。こういうの、カフェで『ビタークッキー』って言って売ってるかもしれないだろ」
「売ってない」
小春が俯いて、肩が震えた。笑っているのか泣いているのか、境目がわからない揺れ方だった。
紬は笑いながらも、声を柔らかくした。
「相沢さん。クッキーって、どんな味にしたかったの?」
「……バターの匂いがして、サクサクで。噛んだら、ちょっとだけ甘くて……。口の中が、あったかくなるやつ」
「うんうん」
「でも、出来たのは……苦くて、硬くて。食べたら、喉が……」小春は言いかけて、言葉を切った。「……とにかく、最悪で」
紬は頷いたあと、机の上の冷めたピザ箱を指で軽く叩いた。
「じゃあさ。相沢さんの『本当のクッキー』、ここで作り直そう。焼かないけど」
「焼かない?」
「話で焼くの」紬が言う。「相沢さんが作りたかったクッキーを、湊くんが写真みたいに言葉にする。私が食べる。蓮がツッコむ。完璧」
「俺、ツッコミ担当固定なんだ」蓮がぼそっと言う。
湊は胸を張った。「任せろ。俺、説明得意。映えも得意」
「映えいらないです……」小春が弱々しく言う。
「いるって。言葉にも映えはある」湊はスマホを置き、両手を広げた。「よし。相沢さん、キッチンの状況教えて。バターは常温? オーブン何度? 砂糖は何入れた?」
小春は驚いた顔で瞬きをしてから、少しずつ言葉を出し始めた。
「バター……冷蔵庫から出してすぐでした。急いでて」
「うん、カチカチだな」
「オーブンは……二百度にしました。早く焼けるかなって」
蓮が思わず眉を上げた。「それは……」
「熱い!」湊が言って先に結論を出す。「情熱が熱すぎたんだよ。先輩への」
小春が小さく笑った。「……そうかもしれないです」
紬がその笑いを受け取るように頷いた。「いいね。じゃあ、その『熱すぎた情熱』が、クッキーをどう変えたか。湊くん、料理して」
湊は一度目を閉じて、空気を吸った。ピザの油の匂いと、焦げた甘い匂いが混ざる。
「えーと……まず、冷たいバター。ボウルの中で、砂糖と混ぜようとしても、バターが抵抗する。固い塊が、スプーンに当たって『コン』って音がする」
小春の指先が紙袋の縁から離れ、膝の上で揃った。
「混ざらないから、力を入れる。腕が疲れて、焦る。焦ると、砂糖がボウルの外に散って、白い粉がテーブルに雪みたいに落ちる」
「雪、いいね」紬が言う。唇が少しだけ乾いているのを、湊は「冬だから」と勝手に納得した。
「で、そこに卵入れて……たぶん分離する。黄色いのと白いのと、バターの塊が仲悪くなる」
蓮が口を挟む。「分離って言い方、友情破綻みたいだな」
「仲直りさせるには、時間がいるんだよ」湊が続ける。「でも相沢さんは急いでる。だから、粉をドバッと入れる。粉が舞って、鼻に入って、くしゃみが出そうになる」
小春が頷きながら、目を丸くした。「……そうです。くしゃみ、出ました」
「ほら当たった」湊が指を鳴らす。「で、生地はまとまらない。ボソボソ。手のひらに張り付く。だけど、先輩の顔が頭に浮かぶから、無理やり丸める」
紬が、ふっと目を細めた。「先輩の顔、どんな?」
小春は一瞬固まり、頬が赤くなって視線が泳いだ。
「……笑うと、えくぼができる人です。部活で、失敗しても『次いこ』って言ってくれて」
「えくぼクッキーだ」湊が言う。
「何それ」蓮が言う。
「えくぼみたいに、ちょっと凹みがある丸いやつ。かわいいだろ」
小春が、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。「本当は……そういう形にしたかったです」
「うん。で、オーブン二百度」湊が両手を合わせる。「熱風が、情熱のビンタ。外側から先に固まって、表面がすぐ色づく。いい匂いが一瞬だけして、『成功した!』って思う」
小春は息を飲んだ。
「でも、タイマーが鳴る前に、焦げの匂いが来る。甘い匂いじゃなくて、苦い匂い。扉を開けた瞬間、熱が顔に当たって、目がしみる。天板の上で、クッキーが……黒い影みたいになってる」
小春の唇がきゅっと結ばれた。紬はその表情を見つめたまま、口元だけで笑った。
「うん。そこまで、いい。で、相沢さんはどうした?」
小春は声を絞り出すように言った。
「……一枚、食べました。味見しないと、渡せないから」
「偉い」湊が言う。
「苦くて、硬くて……。でも、飲み込もうとして、喉が……」小春はそこで止まり、手で口元を押さえた。「……変な話ですよね」
紬はすぐに首を振った。「変じゃない。食べ物って、喉を通るかどうか、けっこう大事」
その言い方が、どこかだけ妙に慎重だった。紬は笑っているのに、まばたきが一拍遅れる。湊は「部長、真面目スイッチ入ったな」と思って、流れを明るく戻そうとした。
「じゃあさ、相沢さん。失敗クッキーを『渡す』って選択肢もあるよ」
小春が目を上げた。「え……?」
「だって、話としては最高じゃん。『情熱二百度で焦げました』って。絶対ウケる」
蓮が呆れた顔をする。「お前、恋を漫才にするな」
「でも、笑ってくれる先輩なんだろ?」湊が言う。「『次いこ』って言うタイプなら、焦げも『次いこ』って言うって」
小春の目が揺れた。「……でも、恥ずかしいです。手作りって、ちゃんとしてないと……」
紬がゆっくり頷いた。「ちゃんとしてなくても、気持ちは入ってるよ。入れすぎて二百度になっただけ」
「部長も結局そこなんだ」蓮が言う。
紬は軽く肩をすくめた。その動きの最後に、手が胸元へ行きかけて、すぐ膝に戻る。ほんの一瞬の迷い。湊は見たが、意味を拾わなかった。
「相沢さん」紬が言う。「渡す前に、もう一回だけ『理想のクッキー』を、ここで食べさせて」
「食べさせて……?」
「うん。私、食べるの得意だから」
小春は困ったように笑った。「でも、クッキーは……これしか」
「だから、話」紬が指を立てる。「相沢さんが、成功したクッキーを焼けた世界線を話して。湊くんが盛る。蓮が止める。私が満腹になる」
「盛るな」蓮が言う。
「盛るのが俺の仕事」湊が言う。
小春はしばらく迷ってから、小さく息を吐いた。
「……じゃあ。成功した世界線、話します」
紬が頷く。「いってらっしゃい」
小春は紙袋を抱えたまま、目を閉じた。
「バターは、ちゃんと常温で……指で押したら、へこむくらい。砂糖と混ぜると、色が少し白くなって……ふわってするんです」
「ふわ、いい」湊がすかさず拾う。「泡みたいに軽くなるやつな」
「卵は、少しずつ入れて……ちゃんと混ざって。粉は、ふるって……」小春の声が少しずつ滑らかになる。「生地が、手のひらにまとまって、べたべたしなくて。触ると、柔らかいのに……ちゃんと形が残って」
紬はその言葉を一つずつ噛むみたいに、頷きながら聞いている。喉が鳴る音が、かすかにした。湊は「腹減ったのかな」と思った。ピザの箱をちらっと見る。
小春が続ける。
「丸めて、ちょっとだけ押して……えくぼみたいに。天板に並べると、同じ形が並んで、かわいくて」
「それ、写真撮りたい」湊が言う。
「撮らないでください!」小春が即ツッコみ、三人の空気がぱっと軽くなる。
蓮が鼻で笑った。「今のツッコミ、悪くない」
小春は照れて、慌てて話を戻した。
「オーブンは……百七十度。時間は……ちゃんと守って。焼けてくると、部屋が甘い匂いでいっぱいになって……。扉を開けたら、表面が少しだけきつね色で」
紬が小さく息を吸った。笑っているのに、口元の力が少しだけ抜ける。湊はそれを「うまそうすぎて溶けてる」と判断した。
「で、冷まして……一枚、割ると」小春が指で空を割る仕草をする。「中が、ほろって。サク、って音がして。噛むと、バターの匂いが……ふわって」
紬が両手を胸の前で合わせた。「いただきます」
「え、今?」湊が言う。
「今食べた」紬が言って笑った。「相沢さんのクッキー、あったかい。口の中が」
小春の目が少し潤んだように見えたが、彼女は笑って誤魔化した。
「……そんな風に言ってもらえると、救われます」
蓮が小さく言う。「救われるのは、渡す相手じゃなくて自分だろ」
小春は頷いた。「はい……。私、失敗した自分が嫌で。先輩に嫌われるとかより、そっちが怖かった」
湊は椅子にもたれて、軽く手を振った。
「失敗って、ネタだよ。ネタは強い。SNSでも強い」
蓮が睨む。「またSNSに繋げるな」
「だって俺の世界観がそれなんだもん」
紬が笑って、机を軽く叩いた。「じゃあ決まり。相沢さん、これ……焦げクッキー。渡すか、渡さないか。どっちにする?」
小春は紙袋を見下ろし、しばらく黙った。ラップ越しに黒い影が揺れる。
やがて、小春は顔を上げた。
「……渡します」
「よし」湊が言う。「その時のセリフ、決めようぜ」
「セリフ……?」
紬が身を乗り出す。「『情熱二百度で焼きました』」
「それはやめてください!」小春が即答した。
蓮が珍しく提案する。「普通に『作ってみました。失敗したけど』でいいだろ」
湊が首を振る。「弱い。ここは攻める。『次は百七十度でリベンジします』」
小春が笑いながら首を振った。「それも恥ずかしい……」
紬が指を一本立てた。「じゃあ、これ。『味見したら、ちょっと苦かったです。でも、気持ちは甘いです』」
小春は一瞬固まり、次の瞬間、吹き出した。
「……それ、言える人、強すぎます」
「強くなろう」湊が言う。
蓮が呆れた顔で天井を見る。「この部、変な強さ要求してくるな」
紬は笑ったまま、ふっと視線を落とした。机の端に置かれた小さな水筒に手を伸ばし、口をつける。中身は透明で、飲むというより喉を湿らせる程度だった。
湊はそれを見て、「部長も乾燥対策してんだな」と軽く思い、スマホを取り出した。
「じゃ、相沢さんの『焦げクッキー奮闘記』、今日の部活ログにしていい? 顔は出さない。文章だけ」
小春は迷ってから、頷いた。
「……はい。誰かが、失敗してもいいって思えるなら」
「いいね、増えるわ」湊が言う。
蓮が即座に言い返す。「お前が増やすな。相沢さんの背中を押せ」
「押してる押してる。ほら、今、めっちゃ押してる」
紬が小春に微笑んだ。
「相沢さん。次は百七十度でも二百度でも、どっちでもいいよ。大事なのは、渡しに行くってこと。食べ物って、誰かのところまで運んで、初めて完成するから」
小春は紙袋を胸に抱え直し、深く頷いた。
「……行ってきます」
「いってらっしゃい」紬が言う。
小春が教室を出ていくと、甘い焦げの匂いだけが少し残った。
湊は椅子を回して、紬を見た。
「部長、今日も絶好調だな。話食べて生きてる感じ」
「うん。生きてる」紬は笑って言った。
その笑いの後、ほんの一拍だけ、呼吸の間が空いた。湊はその空白を、ピザ箱の写真のキャプションに使えそうだと思った。
「よし、次のゲストも呼ぼうぜ。失敗した奴、世の中に無限にいるだろ」
蓮がため息をついた。「お前が一番失敗してる」
「失敗は伸びしろだって」
紬が小さく頷き、机の上のピザ箱を指で押した。
「じゃあ、冷めたピザも……誰かの話にしたら、あったかくなるかな」
「なるなる」湊が即答した。「俺が盛るから」
「盛るなって」蓮が言う。
三人の声が重なって、教室の隅が少しだけ賑やかになった。冷めたピザの箱は、相変わらずそこにあるのに。匂いだけが、なぜか少しだけ温かく感じられた。
湊がスマホをしまうより早く、紬は机の端に置かれた紙袋を見つけて、ぱっと目を輝かせた。
「それ、クッキー?」
声をかけられた女子生徒が、紙袋を抱え直す。制服の袖口に粉砂糖みたいな白いものがついていた。
「え、あ……文化祭の試作で……余ったから」
「余ったって言い方、切ない。見せて、見せて」
紬は椅子を引いて、机に頬杖をつく。まるで推理ショーの開幕みたいな顔だ。
湊は小声で蓮に囁いた。
「なに、部活勧誘? 『最後の晩餐部』ってクッキーも食うの?」
蓮は目を逸らしたまま、短く吐き捨てる。
「食わねぇよ」
「え、じゃあ何すんの」
「見てろ」
女子生徒が恐る恐る紙袋を開けると、透明な袋に入ったクッキーが数枚。星形、丸、ハート。焼き色が少し濃いのも混じっている。
紬は目を細めた。だが、クッキーそのものには触れない。匂いを嗅ぐわけでもない。ただ、袋の結び目のリボンをじっと見る。
「赤いリボン。しかも二重結び。結び目、きれい」
「え……そこ?」
湊が思わず言うと、紬は湊の方を見て、口角を上げた。
「そこ。食の探偵は、現場を見るの」
「探偵って……」
女子生徒が困ったように笑う。
「別に、そんな大した……」
「大したこと、あるよ」
紬の声は軽いのに、言葉だけが妙にまっすぐ刺さった。
「これ、誰のために作ったの?」
「え?」
「自分が食べたいから、じゃないよね。リボンつけるの、手間だし」
女子生徒の目が泳いだ。
「……友だちに、っていうか……」
「友だち、誰。名前じゃなくて、関係」
「え、関係……」
紬は指を一本立てる。
「まず、文化祭の試作。余った。なのにリボン。ここ、矛盾。余りものに飾りしない。つまり、最初から『渡す前提』で作った。余ったは照れ隠し」
湊は蓮の顔を見る。蓮は無表情のまま、でもほんの少し肩の力が抜けている。
「で、渡す相手は……たぶん、先輩」
「えっ」
女子生徒が声を裏返した。
「なんで分かるの!?」
「二重結び。解くときにほどけにくい。大人っぽく見せたいけど、不器用なのがバレたくない人がする結び方。あと、星形多め。かわいいより、元気っぽい。『私、明るいです』って言いたいときの形」
「そんなの……」
「好きな人に渡すとき、明るく見せたいでしょ?」
紬はさらっと言って、机に頬杖を戻した。女子生徒の耳が赤くなる。
湊は思わず笑ってしまう。
「やば。名探偵すぎる。紬、エスパー?」
「エスパーじゃない。質問上手」
紬はクッキーの袋に視線を落とし、次は焼き色の濃い一枚に目を止めた。
「焦げてるのが混じってる。オーブンの前でずっと見てた?」
「……うん。途中で取り出すタイミング分かんなくて」
「見てたのに焦がすの、あるある。緊張してたんだね。渡す相手、怖い人?」
「怖くない! 怖くないけど……」
女子生徒は唇を噛んで、すぐに言い直した。
「……部活の先輩。すごい上手で、近づくと緊張する」
「ほら」
紬は楽しそうに頷く。なのに、その指先が机の端をきゅっと掴んだのを、湊は見逃した。見逃したというより、見ても何とも思わなかった。
「で、どんな想いで作ったの?」
紬の問いに、女子生徒はクッキーの袋を胸に抱える。
「……ありがとうって。いつも、片付け手伝ってくれて。私、ミスばっかで……」
「ありがとう、ね」
紬はその言葉を口の中で転がすみたいに、ゆっくり繰り返した。
「それ、味。甘いだけじゃない。後味があったかい」
湊が首を傾げる。
「後味って、食ってないのに?」
紬は湊に向けて、いたずらっぽく目を細めた。
「言葉で食べるの。湊くんも、昨日ピザの話してたでしょ。あれ、ちょっとしょっぱかった」
「え、なんで? 俺、普通に——」
「冷めてたから」
紬が言うと、蓮が「……」と息を飲むのが見えた。
湊は笑って手を振る。
「いや、あれは俺が取りに行くの遅かっただけだって。俺のせい。ピザに罪はない」
紬はふっと笑った。笑ったのに、喉の奥で小さく空気が引っかかる音がした。
「……ん、けほ」
ほんの一回。紬は口元を押さえ、すぐに手を離す。
「大丈夫?」
湊が軽く聞くと、紬は親指を立てた。
「大丈夫大丈夫。探偵、推理で喉乾くの」
「探偵って喉乾くんだ」
「乾くよ。だって、言葉を食べるから」
紬は女子生徒に顔を向け直す。
「その『ありがとう』、先輩に言えそう?」
女子生徒は目を伏せて、小さく頷いた。
「……言う。渡すとき、言う」
「よし。じゃあ、最後の晩餐部からのアドバイス」
紬は机に肘をついて、身を乗り出す。
「『余ったから』は言わない。ちゃんと、『あなたに』って言う」
「う、うん……」
「焦げたのも入れていい。失敗も一緒に渡すと、ほんとになるから」
「ほんと?」
「ほんと。だって、それもあなたが作った味だもん」
女子生徒の目が少し潤んで、慌てて笑って誤魔化した。
「なんか……変な部活。ありがと」
「変なのは褒め言葉」
紬は胸を張る。だが、その背筋が一瞬だけ力を失って、椅子の背にもたれた。すぐに起き直し、何事もなかったように手をひらひら振る。
「行ってらっしゃい。成功したら、報告に来て」
女子生徒が去っていくと、湊は机に身を乗り出した。
「紬、マジで何者? クッキー見ただけで恋バナ当てるの、反則だろ」
「見ただけじゃないよ。聞いたの」
「聞き方がズルいんだよ。誘導尋問」
「誘導じゃない。食べたいところを聞いただけ」
湊は「食べたいところって何だよ」と笑いながら、蓮を見る。
「なあ蓮、これ部活? 『食の探偵ごっこ』部?」
蓮は目線だけで湊を刺してから、紬に向けて短く言った。
「……無茶すんな」
「無茶してない」
紬は即答し、湊に向けて指を鳴らす。
「湊くん。次は君の番。君の“冷めたピザ”の続きを聞かせて」
「え、俺? 昨日ので終わりじゃないの?」
「終わりじゃないよ。冷めたピザの続きには、必ず“誰のため”がある」
紬は笑う。その笑顔が、妙に眩しい。
湊は肩をすくめた。
「誰のため、ねぇ。……とりあえず、俺のフォロワーのため?」
「それは嘘」
紬の返しが速すぎて、湊は吹き出した。
「え、ひど! 俺、今の結構本音——」
「本音は、もうちょい奥」
紬は机の上で指を組む。
「ほら。食の探偵に、供述して?」
教室の窓から差し込む午後の光が、机の上の紙皿を白く照らしていた。
湊が買ってきたピザの箱は、もう開けっぱなしで、ふわっとした匂いは薄れている。代わりに、段ボールとチーズの冷えた匂いが残っていた。
「でさ、あの時の給食のカレーがさ!」
二年の男子が身振り手振りで語る。隣の女子が「盛りすぎ!」とツッコミを入れて笑う。
「カレーって、あれだよね。揚げパンとセットの日、神だった」
「わかる! あの揚げパン、砂糖が指にべったべたでさ」
「でもそれがうまいんだよ!」
最後の晩餐部の机の周りは、なぜか小さな食堂みたいに賑やかだった。食べ物はほとんど動いてないのに、言葉だけが湯気みたいに立っていく。
紬は椅子にちょこんと座り、頬杖をついて聞いている。目が、話している子の口元を追いかけるように揺れて、時々ふっと細くなる。
「……うん。いい。今の“砂糖が指にべったべた”最高。指先まで甘いって、ちゃんと伝わった」
「伝わったって何だよ、食レポ芸人かよ」
「芸人だったら食べられるのにねえ」
紬が笑う。笑い声が軽く跳ねて、教室の隅の空気が少し明るくなる。
蓮が腕を組んだまま、斜めに口を曲げる。
「紬、満足したか」
「んー、八分目。あと二口くらい」
「二口って何の単位だよ」
湊が突っ込むと、紬は指を二本立てて、真面目な顔で言った。
「二口は二口。物語は噛む回数で入ってくるから」
「意味わかんねえのに、なんかそれっぽいのやめろ」
「それっぽさ、大事」
紬が湊の方に視線を寄せる。笑っているのに、目の奥が少しだけ遠い。湊はそれを「部長モード」だと雑に分類して、流した。
「じゃ、次は湊。何かないの?」
「俺? え、俺は……」
湊は机の上のピザ箱を見た。さっきまで「映え」しか考えてなくて、角度とか光とか、そんなことばかり気にしていた箱。
ふと、指で箱の端を押す。段ボールが少し湿って、冷たかった。
「……あれ」
「どうしたの?」
「いや、これ……」
湊は蓋を持ち上げる。中のピザは、チーズが固まって、表面がテカりを失っていた。端っこは乾いて、切れ目のところに冷えた油が薄く溜まっている。
「完全に冷めてるわ」
「今さら気づいたのかよ」
蓮が呆れた声で言う。
「え、でも箱、あったかかった気がしたんだけど」
「気のせいだろ。お前の見栄の熱だ」
「見栄の熱って何だよ。新しいな」
湊は笑いながら、ピザの一切れを持ち上げた。持ち上げた瞬間、チーズが伸びない。伸びないことに、なぜか小さくショックを受ける。
「……伸びない」
「伸びないチーズは、心も伸びない」
紬が真顔で言って、すぐに吹き出した。
「うそ、今の適当。ごめん」
「適当すぎるだろ!」
みんなが笑う。湊も笑って、笑いながら、ピザを見下ろした。
写真なら、まだいける。角度とフィルターで、湯気なんか後から足せる。チーズの艶だって、加工で作れる。
でも、今ここで「うまそうだろ」って差し出すには、これはあまりにも正直だった。
「……これ、温め直す?」
湊が言うと、蓮が即答した。
「レンジねえよ」
「詰んだ」
「詰んでないよ」
紬がふわっと首を振る。ピザに視線を落とすのに、どこか優しい。
「冷めたピザって、好き。部活帰りの体育館の裏とか、コンビニの前とか」
「それ、好きなのシチュエーションじゃん」
「うん。味じゃなくて、そこにいる人」
紬はそう言って、指先で机をとんとんと叩いた。合図みたいに。
「ねえ湊。冷めたピザの話、して」
「え、話?」
「そう。食べるんじゃなくて、思い出として。湊の冷めたピザ」
湊は一瞬、言葉に詰まった。冷めたピザの思い出なんて、別に特別じゃない。むしろ、どうでもいい。
……どうでもいい、はずだった。
「冷めたピザってさ」
湊はピザの端を指で押して、少し硬い生地の感触を確かめる。指に油が薄くついて、光った。
「買ってすぐは、たぶんめっちゃうまいじゃん。でも、友達と喋ってるとさ、いつの間にか冷めてて」
「喋ってると冷める。いいね」
紬が嬉しそうに頷く。
湊は、なんとなく続けた。
「冷めてるのに、食べると……意外と、悪くない。あ、でもそれは、喋ってたからかも」
「喋ってたから、悪くない」
紬がそのまま言葉を反芻する。口の中で転がすみたいに。
蓮が、少しだけ目を細めた。湊は気づかない。
「湊、もうちょい具体的に」
「具体的にって……」
湊はピザの断面を見て、適当に言おうとして、やめた。適当に言うと、紬が「うん」って笑ってくれるのは分かる。でも、なんかそれはズルい気がした。
「……箱開けた瞬間、湯気が出ないの。で、チーズが伸びない。なのに、手は油でベタベタになる」
「ベタベタ、大好き」
紬が即答して、みんながまた笑う。
「いや好きポイントそこかよ」
湊が突っ込むと、紬は笑いながら咳をひとつした。小さく、喉の奥で引っかかるみたいな音。
「……けほ。うん、そこ。指先のベタベタって、ちゃんと食べた証拠だから」
蓮が一瞬だけ視線を落として、すぐ元に戻す。湊は「笑いすぎたか?」くらいに思って、特に気にしない。
「証拠、ねえ」
湊は自分の指を見た。油が光っている。これ、写真に写したら、たぶん汚く見える。加工で消したくなるやつ。
でも紬は、そのベタベタを「証拠」って言った。
「で? 湊の冷めたピザ、誰と食べたの?」
紬がさらっと聞く。
湊は、言いかけて止まった。
誰と――って言われて、頭に浮かんだのは、家のリビングのテーブルだった。テレビの音だけがして、会話がなくて、ピザの箱だけが置かれている光景。
湊は反射で笑った。
「……まあ、いろいろ」
「いろいろって便利な味付けだね」
紬が言って、湊の逃げ道を塞がないまま、笑いに変える。
「じゃあ、次は“いろいろ”の中でいちばんマシなやつ」
「マシって言うなよ!」
「マシはマシ。おいしいときも、マシなときもある」
紬が両手を合わせるみたいにして、目を閉じた。
「いただきます」
誰もピザを口に運んでいないのに、その言葉だけが机の上に落ちる。湊は、なぜか背筋が少し伸びた。
紬が目を開ける。
「……うん。今の、満腹。九分目」
「早っ」
「湊の話、油が光ってた。よかった」
「褒め方が独特すぎる」
湊はピザを見て、もう一度蓋を閉めた。冷めたままの箱が、さっきより少しだけ重く感じる。
「映え、ってさ」
湊がぽつりと言う。
「うん?」
「温かく見せるのは、できるじゃん。加工とかで」
「できるね」
「でも……温かかった、って思えるのは、たぶん別」
湊がそう言うと、蓮が小さく鼻で笑った。
「今ごろ気づいたのかよ」
「うるせえな。今ごろでいいだろ」
紬は、湊の言葉を聞いて、口元だけで笑った。目が少しだけ潤んだように見えたけど、光のせいかもしれない。
「湊、いいね。それ、すごくいい味」
「味わかるのかよ」
「わかるよ。言葉の味は」
紬はそう言って、背もたれに軽く寄りかかった。肩の力が抜けたみたいに。
その瞬間だけ、笑いの輪の中心から紬がふっと遠のいたように見えて、湊は慌てて手を叩いた。
「よし! 次、誰だよ。あと一口ぶん、話せるやつ!」
「俺、いける!」
「私も!」
声が上がって、また机の周りが賑やかになる。
紬はその騒がしさを受け取るみたいに、ゆっくり頷いた。指先が膝の上で、細く握られて、ほどける。
湊は冷めたピザ箱を抱え直しながら、心の中でだけ言う。
これ、写真にするなら、もっと上手く撮れる。
でも、さっきの「いただきます」は、加工できない。たぶん。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
M性に目覚めた若かりしころの思い出 その2
kazu106
青春
わたし自身が生涯の性癖として持ち合わせるM性について、終活的に少しづつ綴らせていただいてます。
荒れていた地域での、高校時代の体験になります。このような、古き良き(?)時代があったことを、理解いただけましたらうれしいです。
一部、フィクションも交えながら、述べさせていただいてます。フィクション/ノンフィクションの境界は、読んでくださった方の想像におまかせいたします。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
失恋中なのに隣の幼馴染が僕をかまってきてウザいんですけど?
さいとう みさき
青春
雄太(ゆうた)は勇気を振り絞ってその思いを彼女に告げる。
しかしあっさりと玉砕。
クールビューティーで知られる彼女は皆が憧れる存在だった。
しかしそんな雄太が落ち込んでいる所を、幼馴染たちが寄ってたかってからかってくる。
そんな幼馴染の三大女神と呼ばれる彼女たちに今日も翻弄される雄太だったのだが……
病み上がりなんで、こんなのです。
プロット無し、山なし、谷なし、落ちもなしです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる