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第3話:嘘つきたちの晩餐会
第3話:嘘つきたちの晩餐会
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玄関の鍵を回す音が、やけに部屋の奥まで響いた。
湊は靴を脱ぎながらスマホを見て、通知の赤い丸を指先で潰す。昼に上げた写真の「いいね」が、じわじわ伸びている。
「ただいまー」
返事はない。代わりに、リビングのテレビの音だけが「今日の特集は――」と勝手に盛り上がっていた。
廊下を抜けると、ダイニングのテーブルが妙に整っている。木目の上に、黒いトレーがいくつも並び、透明な蓋の下で惣菜が光っていた。ローストビーフ、海老のマリネ、彩りのいいサラダ、握り寿司。どれもデパ地下の匂いがする。
湊は鼻を鳴らして笑う。
「うわ、今日もパーティーじゃん」
キッチンの方から、母の声が飛んだ。姿は見えない。水の音だけが続いている。
「冷蔵庫に入らなかったの。適当に食べて」
「了解。適当得意」
湊は椅子を引いて座り、スマホのカメラを起動した。照明の角度を変えるように、トレーを少しずらす。
「これ、映えるな……。ちょい待って、今――」
「写真撮るなら、早くして。あなたの父、すぐ食べるから」
「え、父さんいるの?」
湊が顔を上げると、ダイニングの端の席に父がいた。スーツのネクタイを緩めたまま、ノートパソコンを開いている。画面の青白い光が頬骨を照らして、口元は動かない。
「おかえり」
視線は画面から外れない。
「ただいま。ねえ、これ今日の? 豪華すぎ」
「経費で落ちるやつだ」
父は箸を取り、寿司を一貫口に運びながら、キーボードを叩いた。噛む音も、飲み込む音も聞こえない。代わりに「カタカタ」が規則正しい。
湊は肩をすくめる。
「経費って寿司いけんの? 最強じゃん」
「会食の余りだ」
「余りでこの量って、会食どんだけ」
湊は笑いながら、スマホで数枚撮る。画面の中の食卓は、やたらと美しい。現実の匂いと温度が消えて、平面のキラキラだけが残る。
母がキッチンから出てきた。エプロンはしていない。手にはグラスと、錠剤のシート。母はそれを口に放り込み、グラスの水で流し込んだ。
湊は箸を振る。
「薬? 風邪?」
「違う。いつもの」
母は椅子に座らず、テーブルの端でローストビーフを一枚つまんだ。指先で折り、口に入れる。噛みながら、スマホをスワイプする。
「ねえ、母さん。これ、どこの? 今度部活の――」
「レシートは冷蔵庫の横。要るなら持っていって」
「いやレシートじゃなくて店名」
「書いてあるでしょ」
母はローストビーフをもう一枚つまみ、今度は半分だけ食べて皿に戻した。視線はスマホに落ちたまま。
湊は「ま、いっか」と言うみたいに、寿司を一貫つまんだ。口に入れて、もぐもぐする。
「……うん。うまい。うまい……はず」
父がキーボードを止めずに言った。
「味、分かるのか」
「分かるって! たぶん!」
湊は笑って、海老のマリネを口に運ぶ。酸味が舌に刺さる。けど、それを「おしゃれ」と呼べば勝ちだ。
「これ、酸っぱ……いや、爽やか。爽やか系」
母が短く息を吐いた。笑いともため息ともつかない。
「あなたのコメント、いつも薄いのよね」
「薄くないし。シンプルイズベストってやつ」
湊はスマホを見せびらかすように掲げた。
「ほら、これ上げたら伸びるって。『平日なのにデパ地下フルコース』とか。いいね増えるやつ」
父が画面を見ずに言う。
「承認欲求」
「うるさいな。時代だよ、時代」
母はローストビーフのトレーの蓋を閉め、テーブルの隅に寄せた。
「食べるなら、ちゃんと食べて。片付けるの面倒だから」
「え、母さん食べないの?」
「あとでいい」
母は立ち上がり、再びキッチンへ戻った。水の音がまた始まる。蛇口の音が、テレビの笑い声に混ざって、ダイニングの空気を薄く削っていく。
父は寿司のトレーに手を伸ばし、二貫、三貫と無言で減らしていく。口の動きは最小限で、画面の数字だけが彼を動かしている。
湊は箸を止めて、ふとテーブルの真ん中を見る。四人掛けの席のうち、向かいの椅子が空いている。背もたれに、学校のプリントが何枚か引っかかっていた。
「……あれ、姉ちゃんは?」
母の声がキッチンから返ってくる。
「まだ。塾」
「塾って、何時だよ」
「あなたも塾行けば?」
「行ってるし! 行ってるけど! 俺は家で食う派!」
湊は勢いよく寿司を口に入れて、頬を膨らませた。
「ほら、家の飯って落ち着くじゃん」
父が一瞬だけ湊を見た。目の奥が、画面の光より冷たい。
「家の飯?」
湊はもぐもぐしながら親指を立てる。
「豪華だし。最高」
母がキッチンから顔だけ出した。目が合う前に、湊は笑って誤魔化す。
「最高って言っとけば丸く収まるって、俺の人生の知恵」
母は何か言いかけて、唇を閉じた。代わりに、咳払いの音が小さく落ちる。すぐにまた水の音に消えた。
湊は気にせず、サラダのトレーを手前に引いた。フォークを探して、見当たらず、箸で葉っぱをつまむ。
「フォークないの? まあ箸でいけるけど」
父が言う。
「ある。引き出し」
「引き出しって、どれ」
「右から二番目」
湊が立ち上がって引き出しを開けると、きれいに並んだカトラリーが出てきた。使われた形跡が薄い。銀色が冷たく光っている。
湊はフォークを一本取り、戻って座る。
「すげえ、ホテルみたい」
父が「そうか」とだけ言った。
湊はサラダを口に運び、噛みながらスマホをいじる。指先で文章を打っては消す。
「『家族で晩餐会』……は、嘘っぽいな」
テレビが派手に笑う。父のキーボードがそれに被さる。キッチンの水が細く続く。
湊は画面に「平日なのに贅沢」と打ち、投稿ボタンの手前で止めた。
一瞬だけ、向かいの空席がやけに広く見えた。
「……ま、いっか。映えれば」
湊は投稿して、寿司をもう一貫つまんだ。口に入れた瞬間、父のスマホが鳴った。父は「今、食事中」とは言わず、すぐに立ち上がる。
「電話。先に行く」
「え、もう? まだ半分も――」
父は答えず、スーツの上着を掴んで玄関へ向かった。ドアが閉まる音が、また部屋の奥まで響いた。
湊は箸を止めて、母の方を見た。
「父さん、食事中でも出るんだな」
キッチンから、母の声が薄く返る。
「いつもよ」
湊は頷いて、サラダをもう一口。
「社会人って大変だなー。俺も将来、寿司食いながら仕事すんのかな」
返事はない。水の音が、少しだけ強くなった。
湊はそれを「洗い物頑張ってんな」と勝手に解釈して、スマホの「いいね」の数字が増えるのを眺めた。食卓の上では、蓋が閉じられたトレーが、まるで誰かの席を守るみたいに整列していた。
部室の扉を開けると、昼の光が斜めに差し込んで、机の上の紙コップがやけに白く見えた。壁際の棚には、誰が持ち込んだのか分からない空の瓶や、色褪せたメニュー表が並んでいる。
湊はスマホを握ったまま、いつもの癖で画面を一度点けた。通知はない。なのに指が勝手にスクロールする。
「来た来た」紬が先に声を上げた。椅子にちょこんと座って、両手で膝を押さえている。「湊くん、今日の“映え”は何?」
「え、今日?」湊は勢いで笑った。「今日も任せろ。映えの神が降りてるから」
「神って」紬が肩を揺らす。「じゃあ、神のおすすめ。聞かせて」
蓮は窓際の席で腕を組んだまま、目だけで湊を見ている。机の上には、いつものペットボトルの水。ラベルが剥がされていて、妙に無機質だった。
湊は椅子を引いて座り、スマホを机に置いた。画面を伏せる。指紋がついた黒が、部室の空気を吸い込むみたいだった。
「映える料理ってさ」湊は言いかけて、舌が引っかかった。「……ほら、あるじゃん。チーズがびよーんって伸びるやつとか」
「びよーん」紬がすぐ復唱する。「いいね。びよーんは正義」
「……だろ?」湊は笑ってみせたが、続きが出てこない。
頭の中には、写真で見た断面、湯気、照明の当て方、店の角度。なのに、肝心の“味”の言葉が空っぽだった。
紬が身を乗り出す。「それで? チーズの下は? パン? お肉? 何が隠れてるの?」
「隠れてるっていうか……」湊は喉の奥を指で押される感じがして、咳払いで誤魔化した。「えーと、なんか、めっちゃ……濃い」
蓮が小さく鼻で笑った。「語彙が小学生か」
「うるせ」湊は反射で言い返す。「濃いは濃いだろ。濃いのは強い」
「強い」紬がまた拾って、楽しそうに頷く。「濃い、強い、びよーん。今日の三点セットだね」
「……いや、そうじゃなくて」湊は頭をかいた。勢いで乗り切るはずが、机の木目がやけに細かく見える。「もっとこう……香りとか、食感とか、あるじゃん」
「あるある」紬が目を輝かせた。「香り! 食感! そこ! 湊くんの得意分野!」
「得意……」湊は笑いながら、目線を泳がせた。
得意分野。そう言われると、途端に足元がぐらつく。写真は撮れる。言葉も、盛ろうと思えば盛れる。でも、盛ったところで、誰の腹も膨れない。
湊はスマホを指でトントンと叩いた。起動しない画面を叩くのは、意味がないのに。
「……俺さ」湊は軽く言うつもりで口を開いた。「映えって、結局、見た目じゃん?」
「うん」紬が即答する。「でも、見た目って、入口だよ。入口が良いと、入ってみたくなる」
「入口」湊は復唱した。うまいこと言うな、と半分感心して、半分刺さる。
蓮が言った。「入口だけ派手で、中身が空っぽの店もある」
「お前、今日やたら刺してくるな」湊は肩をすくめた。「なんかあった?」
「別に」蓮は視線を外した。
その瞬間、紬が喉の奥を押さえるように指を添えた。笑いながら、短く咳をする。すぐに手を下ろして、何事もなかったみたいに口角を上げる。
「大丈夫?」湊は軽く聞いた。「乾燥してる? 加湿器いる?」
「いらないいらない」紬は手を振る。「部室の乾燥くらい、私のテンションで潤うから」
「それは科学を超えてる」湊は笑った。笑って、そこで止まった。
潤う。満たす。膨れる。そういう言葉が、部室の空気に浮かんだまま、どこにも着地しない。
紬が机の上のノートを開いた。表紙には『晩餐会メモ』と丸っこい字。「じゃあ今日のお題、変えよっか」
「え?」湊が顔を上げる。
「“映える料理”じゃなくて」紬はペン先で小さな丸を描いた。「湊くんが、本当に『うまい』って思ったやつ」
蓮が一瞬、湊の方を見る。目の奥が動く。試すみたいな、確認するみたいな。
湊は「うまい」と口の中で転がした。いつもなら、適当に店名を出して、断面がどうとか、光がどうとか言えばいい。けど、今日はそれが急に面倒くさかった。
「……うまい、か」湊は背もたれに寄りかかった。「俺、味とか正直よく分かんねえんだよな」
紬の目が丸くなる。「え、そうなの?」
「そう」湊は笑って誤魔化すつもりで笑えなかった。口元だけが動く。「写真は分かる。光とか構図とか。でも味って、なんか……正解がないじゃん」
「あるよ」蓮が即座に言う。「お前がうまいと思ったらそれが正解だろ」
「……それ、急に優等生」湊は言って、少しだけ救われた気がして、またむず痒くなる。「でもさ、うまいって言っても、俺のうまいって薄いんだよ」
「薄い?」紬が首を傾げる。
「薄い」湊は頷く。自分で言っておきながら、喉の奥が乾いた。「なんか、みんなみたいに語れない。『これ、バターの香りが~』とか、『余韻が~』とか。そういうの」
紬はペンを置いて、机に頬杖をついた。「じゃあ、語れないままでいいよ」
「え」
「湊くんの言葉って、いつも速いじゃん」紬は指で空中をトントン叩く。「速くて、派手で、楽しくて。だからみんな寄ってくる。でも今日は、止まってる」
湊は思わず笑った。「止まってるって、俺のWi-Fiかよ」
「そうそう」紬が笑う。笑いながら、呼吸が一瞬だけ浅くなる。次の瞬間、いつも通りの声に戻った。「止まってる湊くん、珍しい。だから、見てみたい」
蓮がぼそっと言う。「無理すんな」
「してねえよ」湊は反射で返してから、自分で「してねえ」が雑だと思った。無理。してないと言い切るほど、元気でもない。
湊は机の端を指でなぞった。木のささくれが引っかかる。痛いほどじゃない。けど、気になる。
「……映えってさ」湊は言い直した。「嘘じゃん。まあ、嘘っていうか……盛るじゃん」
「盛るのは料理も一緒」紬が言う。「塩ひとつまみ、とか。バター多め、とか。盛り付け、とか」
「それ、料理の“盛る”だろ」湊はツッコんだ。
「同じだよ」紬は平然と返す。「だって、誰かに食べてほしいから盛るんでしょ? 誰かに見てほしいから盛るんでしょ?」
湊は言葉に詰まった。見てほしい。誰に。何を。
蓮が椅子を少し引いた。ギ、と床が鳴る。「……結局、お前は誰に食わせたいんだよ」
「食わせるって言い方」湊は笑って、笑いが途切れた。「誰に、か……」
紬は湊の顔を覗き込む。目が近い。部室の光を受けて、瞳の中に小さく窓が映っている。
「答え、今じゃなくていいよ」紬は言う。「でも、ここではさ。嘘ついても、ちゃんと味がないと、すぐバレるよ?」
「……こええ部活だな」湊は言った。軽口のつもりだったのに、声が少しだけ掠れた。
紬が笑って、机の上のメモに新しい丸を描いた。「じゃあ今日の晩餐会は、“湊くんの薄いうまい”でいこう」
「薄いうまいって、メニュー名最悪だろ」
「でも、気になる」紬は胸の前で手を合わせる。「薄いのにうまいって、なに?」
蓮が短く言った。「白粥」
「それは薄すぎる!」湊が即ツッコむ。
紬が笑いすぎて、また小さく咳をした。口元を押さえた指先が一瞬だけ白くなる。すぐに手を離して、いつもの調子で言う。
「じゃあ、湊くん。白粥以外で。薄いのにうまい、話して」
湊は天井を見上げた。蛍光灯がジッと鳴っている。頭の中の“映える”写真が、ゆっくり剥がれていく。
「……俺んちの」湊はぽつりと出した。「昔、ばあちゃんが作ってた味噌汁」
蓮の視線が止まる。
紬の笑いが、少しだけ静かになる。「うん」
「具、豆腐だけでさ」湊は言いながら、自分でも意外だった。そんな話、SNSじゃ一回もしたことがない。「味噌も薄い。なのに、なんか……うまいんだよ。飲むと、腹が落ち着く」
「それそれ」紬が嬉しそうに頷く。「落ち着く、って味。いい」
「映えないけどな」湊は言って、肩の力が少し抜けた。「写真にしたら地味すぎて死ぬ」
「死なない」紬が即答する。「地味でも、うまいは生きる」
蓮が「……」と息を吐いた。笑ってはいないけど、さっきより刺が引っ込んだ気がした。
湊は自分の言葉が部室の中でちゃんと形になったのを感じて、少しだけ安心した。スマホに触れないまま、続ける。
「味噌汁の湯気ってさ、なんか……白いじゃん。あれ、冬の朝だと、部屋の冷えた空気に混ざって、見えなくなるんだよ。で、見えなくなった瞬間に、あ、飲んだんだなって分かる」
紬の目が細くなる。笑っているのに、瞬きがゆっくりだ。
「……いい匂い、した?」紬が聞く。
「した」湊は即答した。「味噌の匂い。あと、豆腐の……匂いっていうか、あの、あったかい匂い」
「豆腐のあったかい匂い」紬が繰り返す。「それ、食べたい」
湊は「食べたい」を軽く受け取って、笑った。「今度、豆腐だけの味噌汁、映えさせてやるよ。白い湯気をキラキラに撮って」
「湯気をキラキラに」紬が手を叩く。「それ、神の仕事だ」
「神に任せろ」湊は言った。
その言葉に、蓮が小さく眉を動かした。紬は笑っている。けど、笑いの途中で喉に何か引っかかったみたいに、一瞬だけ呼吸が止まる。
湊はそれを「笑いすぎ」と決めつけて、机の上のスマホを裏返した。
画面はまだ黒いままなのに、部室の空気はさっきより温かかった。湊はその温かさに甘えるみたいに、もう少しだけ、嘘じゃない話を探しにいった。
「じゃ、次。湊くんね」
紬が指先で机をとん、と叩く。放課後の部室。机の上には何もないのに、そこだけ皿が置かれたみたいに空気が整う。
「え、俺? いや、俺の飯の記憶って、映えないっつーか……」
「映えなくていいよ。お腹いっぱいになれるやつがいい」
「聞いて、湊」蓮が腕を組んだまま、視線だけで刺してくる。「嘘ついたら出てけ」
「嘘つかねーよ。てか、嘘つくほどのネタがない」
湊はスマホを机に置いた。反射で画面が光って、すぐ消える。無音が一瞬だけ挟まる。
「じゃあ……えーっと……」
言いかけて、湊は笑ってしまった。笑いの理由を自分でもうまく説明できない。喉の奥が、くすぐったい。
「オムライス、かな」
「オムライス!」紬の目が丸くなる。「王道!」
「王道なんだけどさ。うちのは……形が、すげー雑」
「雑?」紬が身を乗り出す。「どんな?」
湊は手で空中に楕円を描こうとして、途中で歪んだ。
「こう……楕円になりたい何か。端っこが破れてて、中のケチャップライスがちょっと見えてる」
「それ、戦場帰りのオムライスじゃん」紬が笑う。
「戦場帰り!」湊もつられて笑う。「そう、それ。で、卵の色も均一じゃなくてさ。焼きすぎて茶色いとこあったり」
蓮が鼻で笑った。「下手すぎだろ」
「だろ? ほんと下手。なのにさ……」
湊は言いながら、指先が無意識に机の上をなぞっていた。ケチャップの線を引くみたいに。
「上にケチャップで文字書いてあんだよ。毎回」
「文字?」紬がぱっと顔を上げる。
「あー……うん。『みなと』って」
その瞬間、紬の笑いが一拍だけ遅れた。目元が少しだけ固まって、すぐほどける。咳払いみたいに小さく息を吐いて、紬は明るい声を作り直した。
「かわいい。ケチャップで名前って、反則だよ」
「反則って何の反則だよ」
「おいしいの反則」
湊は肩をすくめた。「いや、味は……正直、わかんねえ。ケチャップ味だし」
「わかんなくてもいい」紬は頷く。「その文字、湊くんは見た?」
「見た見た。最初はさ、『なんだこれ』って思った。ダサいし。小学生かよって」
「でも?」
「でも、食うじゃん。で、スプーン入れるじゃん」
湊はスプーンを持つ真似をして、空中のオムライスにそっと触れるふりをした。
「文字から崩れるの。『み』の上から、ぐしゃって」
「うわー」紬が小さく声を漏らす。「それ、罪悪感」
「罪悪感ってほどじゃねえけど、なんか……一瞬、手が止まる」
「止まるんだ」紬が嬉しそうに笑う。「止まるってことは、味以外のものを食べてる」
蓮が口を挟む。「また変なこと言ってる」
「変じゃないよ」紬はすぐ返す。「文字は、湊くんのためにある。『あなたに作った』っていう味」
湊は「うわ」と顔をしかめた。「そういうの、恥ずいって」
「恥ずいのがいいの」紬が指を立てる。「恥ずいのは栄養」
「栄養になるか」
「なる!」
部室の窓から斜めの光が差して、机の木目がやけにくっきり見えた。湊はその木目を見ながら、続けた。
「母ちゃん、仕事でさ。帰るの遅い日が多くて。オムライスって言っても、たぶん……冷蔵庫の残り物ぶっこんだだけのやつ」
「残り物は最高」紬が即答する。「物語が混ざる」
「物語って、冷蔵庫の中の物語?」
「そう。昨日のハムとか、昨日のごはんとか、昨日の疲れとか」
紬は笑いながら言ったのに、最後の言葉のところで声がほんの少しだけ薄くなった。湊は気づかないふりで、いや、ふりでもなく普通に流した。
「疲れは混ぜんなよ。味落ちるだろ」
「落ちる味もあるよ」紬が言って、すぐ「でも、そこが好き」と付け足す。
蓮が視線を逸らして、窓の方を見た。何か言いかけた口が閉じる。代わりに、短く息を吐いた。
「で?」蓮がぶっきらぼうに戻す。「そのオムライス、うまかったのか」
「うまいとかじゃなくてさ……」
湊は首の後ろをかいた。言うつもりじゃなかった言葉が、喉の方から勝手に上がってくる。
「食卓、静かだったんだよ。テレビの音だけで。俺、スマホいじってて。母ちゃん、キッチンでガチャガチャやってて」
紬は頷きながら、湊の言葉を一つも落とさないように目で受け取っている。
「で、皿が出てきて。オムライスが変な形で。『みなと』ってケチャップで書いてあって」
湊は笑ってしまう。照れ隠しの笑いだ。
「それ見た瞬間だけ、なんか……『あ、俺、ここにいるわ』って思った」
紬の目が細くなる。笑ってるのに、奥が濡れたみたいに光る。紬は瞬きを一回、丁寧にしてから言った。
「いただきます、した?」
「した……と思う。たぶん」
「ちゃんと、言った?」
「え、言ったって。小さい声で。恥ずいし」
「小さい声でもいい」紬が胸の前で手を合わせる真似をする。「小さい声の『いただきます』、大好物」
「大好物って言うな」
蓮がぽつりと言う。「……その文字、毎回書いてたのか」
「毎回っていうか、たまに。母ちゃんの気分。たぶん」
「たぶん多いな、お前」
「だって覚えてねえもん。俺、味オンチだし」
「味オンチでも覚えてるじゃん」紬がすぐ拾う。「形と文字と、止まったスプーン。全部、味だよ」
湊は「へー」と適当に相槌を打った。「じゃあ、今ので紬の腹、膨れた?」
「うん」紬は即答した。けれど、言い終わりに唇の端が少しだけ白くなる。紬はそれを隠すみたいに、笑いを大きくした。
「もう、オムライス一個分くらい。しかも戦場帰りのやつ」
「なら良かった」湊は安心したように背もたれに寄りかかる。「俺の貧相な記憶でも役に立つんだな」
蓮が低く言う。「貧相って言うな」
「え、だって貧相だろ?」
「……貧相でも、食える」蓮は短く吐き捨てるみたいに言って、紬の方を見た。「な」
紬は頷いて、机の上の何もない皿に向かって、指先でそっとケチャップの文字をなぞるような仕草をした。
「ごちそうさま。湊くんの『みなと』、甘かった」
「ケチャップだからな」
「そうじゃない甘さ」
湊は「はいはい」と笑って受け流す。紬も笑う。蓮も、ほんの少しだけ口角が動く。
その笑いの隙間に、紬がもう一度だけ、喉の奥を押さえるように小さく咳をした。すぐに「平気」と言う前に、湊が先に言った。
「風邪? 部室寒いもんな。窓閉めるわ」
「うん、お願い」
紬は笑ったまま頷き、湊の話の続きを待つみたいに、両手を膝の上で行儀よく揃えた。
湊がスマホを伏せると、机の上の光がすっと消えた。代わりに、部室の窓から夕方の薄いオレンジが差し込んで、紙コップの水面が小さく揺れた。
「で? 湊くんの“映え”じゃないやつ、聞かせて」
紬は椅子に浅く腰かけ、前のめりになった。笑ってるのに、目だけが真剣で、まるで鍋のふたが開く瞬間を待つみたいにきらきらしている。
湊は肩をすくめる。
「期待しないで。俺の飯の思い出、マジで地味だから」
「地味、最高」
「褒めてないだろそれ」
蓮が壁にもたれて腕を組んだまま、鼻で笑う。
「どうせ『高級焼肉でとろけました』とか言うんだろ。お前のSNS、そういうのばっかだし」
「言わねえよ。……言わねえ、けど」
湊は言いかけて、喉の奥が引っかかった。言葉が、急に冷蔵庫の奥の残り物みたいに出しづらくなる。
紬が小さく首をかしげる。
「けど?」
「けど、そういうの、別に……食ってない」
「え」
「え、って言うなよ。ほら、あるじゃん。みんなで行った風、みたいな」
蓮の視線が鋭くなる。
「は?」
湊は手のひらをひらひらさせた。
「いや、待て。犯罪じゃない。……いや、SNS的には犯罪か? でもさ、例えばさ」
湊は机の端を指でトントン叩きながら、早口になった。
「放課後にコンビニで買ったチキンとおにぎり。あれを、店の外のベンチで食うじゃん。で、写真だけ撮る。角度変えて、ライト当てて、背景に駅前のイルミ入れて。加工して」
「……」
「それで『最高の夜』って書く。家帰ったら、結局それ、半分くらい残ってる。腹減ってんのに、なんか食う気にならなくて」
紬の目が、さらに開いた。瞬きが少なくなる。
湊は苦笑した。
「うち、飯って……そもそも、みんな揃わないし。親は親で忙しいし、俺は俺で、勝手に食って勝手に片付けて。味とか、正直わかんない。わかろうともしてなかった」
蓮が眉を寄せる。
「……それを、わざわざ盛るのかよ」
「盛るっつーか、盛らないと……何もないから」
湊は言ってから、しまったと思った。自分で自分の腹の中を開けたみたいで、急に寒い。
だから、すぐに笑って誤魔化した。
「ほら、俺って空っぽじゃん。空っぽだと“いいね”入んないからさ。詰め物してんの。映えってやつ」
紬が、ふっと息を吸った。
「……それ」
「え?」
紬の口元が、ゆっくり上がった。笑顔なのに、泣きそうな形に見えて、湊は反射で目をそらしそうになる。
でも紬は、湊から目を外さなかった。
「それよ。それが食べたかったの」
「……食べたかった?」
「うん。湊くんの“詰め物”じゃないほう」
湊は思わず笑ってしまう。
「いやいや、こんなんご馳走じゃないだろ。貧相だぞ? コンビニのチキンだぞ?」
「コンビニのチキン、最高じゃん」
「話聞いてた?」
「聞いてた。だから最高」
紬は両手を胸の前でぎゅっと握った。指先が白くなるほど力が入っているのに、声は軽い。
「チキンの、衣のさ。カリッて割れる音、想像できる。中、熱くて、ちょっとだけ油が指につくやつ。おにぎりは……海苔がしっとりしてて、米がぎゅってしてる」
「……」
湊の脳内に、さっきまでどうでもよかったはずの光景が立ち上がる。冬の駅前、イルミの青白い光。ベンチの冷たさ。紙袋の温度。口に入れた瞬間の、妙に強い塩気。
「でね」
紬は続けた。舌が、見えない皿の上をなぞるみたいに言葉を並べる。
「半分残るのも、いい。お腹が空いてるのに食べられないって、そういうことだもん。……そういう夜、ある」
最後の一言だけ、ほんの少し小さくなった。笑顔はそのままなのに、喉の奥に砂が混じったみたいな音。
湊は「あるある」と軽く頷いてしまう。
「あるな。意味わかんねーのに、ある」
蓮が、黙ったまま紬を見ていた。目線が、湊じゃなく紬の口元に落ちて、すぐ逸れる。
紬は、机の上の紙コップに手を伸ばした。持ち上げる途中で、一瞬だけ指が止まる。指先が震えたように見えた。
湊は気づかないふりをして、わざと明るく言った。
「ほら、どう? 満腹になった? 俺の貧相セットで」
紬は紙コップをそっと置き直して、笑った。
「うん。すごく、おいしい」
「マジかよ。じゃあ俺、才能あるじゃん。“貧相の盛り付け”の才能」
「ある。天才」
「やめろ、照れる」
蓮が小さく舌打ちした。
「……くだらねぇ」
「くだらなくないよ」
紬はすぐ返した。声は柔らかいのに、芯が硬い。
「みんな、盛ってる。盛って、嘘ついて、でも……その嘘の下に、本当がある。湊くんの本当、今、ちゃんと味した」
湊は頭をかいた。
「味って言われてもなあ。俺、味オンチだし」
「味オンチでも、語れる。湊くんの言葉、ちゃんと噛める」
紬が笑うたび、頬が少しだけ青白く見える。夕方の光のせいだ、と湊は勝手に納得した。
「じゃあさ」
湊は勢いで机に肘をついて、前のめりになる。
「次、もっと地味なの出すわ。家の冷蔵庫の奥にある、謎のタッパーの話とか」
「聞きたい!」
「やめとけ、食中毒の物語だぞ」
「物語なら平気」
「最強かよ」
紬の目がまた輝いた。まるで、空っぽの皿が「次も」って音を立てたみたいに。
蓮はため息をついて、窓の外を見た。
「……お前ら、ほんと変な部だな」
「今さら?」
湊が言うと、紬がくすくす笑う。
その笑いの途中で、紬は小さく咳をした。掌で口元を隠す動きが、やけに手慣れて見えた。
湊は軽く言う。
「咳、流行ってんの?」
「流行ってないよ。私の、いつもの」
「そっか。じゃあ、次の皿いくぞ、部長」
紬は頷いた。頷き方が、ほんの少しだけ遅かった。けれど目は、さっきよりもずっと、満腹の光をしていた。
湊は靴を脱ぎながらスマホを見て、通知の赤い丸を指先で潰す。昼に上げた写真の「いいね」が、じわじわ伸びている。
「ただいまー」
返事はない。代わりに、リビングのテレビの音だけが「今日の特集は――」と勝手に盛り上がっていた。
廊下を抜けると、ダイニングのテーブルが妙に整っている。木目の上に、黒いトレーがいくつも並び、透明な蓋の下で惣菜が光っていた。ローストビーフ、海老のマリネ、彩りのいいサラダ、握り寿司。どれもデパ地下の匂いがする。
湊は鼻を鳴らして笑う。
「うわ、今日もパーティーじゃん」
キッチンの方から、母の声が飛んだ。姿は見えない。水の音だけが続いている。
「冷蔵庫に入らなかったの。適当に食べて」
「了解。適当得意」
湊は椅子を引いて座り、スマホのカメラを起動した。照明の角度を変えるように、トレーを少しずらす。
「これ、映えるな……。ちょい待って、今――」
「写真撮るなら、早くして。あなたの父、すぐ食べるから」
「え、父さんいるの?」
湊が顔を上げると、ダイニングの端の席に父がいた。スーツのネクタイを緩めたまま、ノートパソコンを開いている。画面の青白い光が頬骨を照らして、口元は動かない。
「おかえり」
視線は画面から外れない。
「ただいま。ねえ、これ今日の? 豪華すぎ」
「経費で落ちるやつだ」
父は箸を取り、寿司を一貫口に運びながら、キーボードを叩いた。噛む音も、飲み込む音も聞こえない。代わりに「カタカタ」が規則正しい。
湊は肩をすくめる。
「経費って寿司いけんの? 最強じゃん」
「会食の余りだ」
「余りでこの量って、会食どんだけ」
湊は笑いながら、スマホで数枚撮る。画面の中の食卓は、やたらと美しい。現実の匂いと温度が消えて、平面のキラキラだけが残る。
母がキッチンから出てきた。エプロンはしていない。手にはグラスと、錠剤のシート。母はそれを口に放り込み、グラスの水で流し込んだ。
湊は箸を振る。
「薬? 風邪?」
「違う。いつもの」
母は椅子に座らず、テーブルの端でローストビーフを一枚つまんだ。指先で折り、口に入れる。噛みながら、スマホをスワイプする。
「ねえ、母さん。これ、どこの? 今度部活の――」
「レシートは冷蔵庫の横。要るなら持っていって」
「いやレシートじゃなくて店名」
「書いてあるでしょ」
母はローストビーフをもう一枚つまみ、今度は半分だけ食べて皿に戻した。視線はスマホに落ちたまま。
湊は「ま、いっか」と言うみたいに、寿司を一貫つまんだ。口に入れて、もぐもぐする。
「……うん。うまい。うまい……はず」
父がキーボードを止めずに言った。
「味、分かるのか」
「分かるって! たぶん!」
湊は笑って、海老のマリネを口に運ぶ。酸味が舌に刺さる。けど、それを「おしゃれ」と呼べば勝ちだ。
「これ、酸っぱ……いや、爽やか。爽やか系」
母が短く息を吐いた。笑いともため息ともつかない。
「あなたのコメント、いつも薄いのよね」
「薄くないし。シンプルイズベストってやつ」
湊はスマホを見せびらかすように掲げた。
「ほら、これ上げたら伸びるって。『平日なのにデパ地下フルコース』とか。いいね増えるやつ」
父が画面を見ずに言う。
「承認欲求」
「うるさいな。時代だよ、時代」
母はローストビーフのトレーの蓋を閉め、テーブルの隅に寄せた。
「食べるなら、ちゃんと食べて。片付けるの面倒だから」
「え、母さん食べないの?」
「あとでいい」
母は立ち上がり、再びキッチンへ戻った。水の音がまた始まる。蛇口の音が、テレビの笑い声に混ざって、ダイニングの空気を薄く削っていく。
父は寿司のトレーに手を伸ばし、二貫、三貫と無言で減らしていく。口の動きは最小限で、画面の数字だけが彼を動かしている。
湊は箸を止めて、ふとテーブルの真ん中を見る。四人掛けの席のうち、向かいの椅子が空いている。背もたれに、学校のプリントが何枚か引っかかっていた。
「……あれ、姉ちゃんは?」
母の声がキッチンから返ってくる。
「まだ。塾」
「塾って、何時だよ」
「あなたも塾行けば?」
「行ってるし! 行ってるけど! 俺は家で食う派!」
湊は勢いよく寿司を口に入れて、頬を膨らませた。
「ほら、家の飯って落ち着くじゃん」
父が一瞬だけ湊を見た。目の奥が、画面の光より冷たい。
「家の飯?」
湊はもぐもぐしながら親指を立てる。
「豪華だし。最高」
母がキッチンから顔だけ出した。目が合う前に、湊は笑って誤魔化す。
「最高って言っとけば丸く収まるって、俺の人生の知恵」
母は何か言いかけて、唇を閉じた。代わりに、咳払いの音が小さく落ちる。すぐにまた水の音に消えた。
湊は気にせず、サラダのトレーを手前に引いた。フォークを探して、見当たらず、箸で葉っぱをつまむ。
「フォークないの? まあ箸でいけるけど」
父が言う。
「ある。引き出し」
「引き出しって、どれ」
「右から二番目」
湊が立ち上がって引き出しを開けると、きれいに並んだカトラリーが出てきた。使われた形跡が薄い。銀色が冷たく光っている。
湊はフォークを一本取り、戻って座る。
「すげえ、ホテルみたい」
父が「そうか」とだけ言った。
湊はサラダを口に運び、噛みながらスマホをいじる。指先で文章を打っては消す。
「『家族で晩餐会』……は、嘘っぽいな」
テレビが派手に笑う。父のキーボードがそれに被さる。キッチンの水が細く続く。
湊は画面に「平日なのに贅沢」と打ち、投稿ボタンの手前で止めた。
一瞬だけ、向かいの空席がやけに広く見えた。
「……ま、いっか。映えれば」
湊は投稿して、寿司をもう一貫つまんだ。口に入れた瞬間、父のスマホが鳴った。父は「今、食事中」とは言わず、すぐに立ち上がる。
「電話。先に行く」
「え、もう? まだ半分も――」
父は答えず、スーツの上着を掴んで玄関へ向かった。ドアが閉まる音が、また部屋の奥まで響いた。
湊は箸を止めて、母の方を見た。
「父さん、食事中でも出るんだな」
キッチンから、母の声が薄く返る。
「いつもよ」
湊は頷いて、サラダをもう一口。
「社会人って大変だなー。俺も将来、寿司食いながら仕事すんのかな」
返事はない。水の音が、少しだけ強くなった。
湊はそれを「洗い物頑張ってんな」と勝手に解釈して、スマホの「いいね」の数字が増えるのを眺めた。食卓の上では、蓋が閉じられたトレーが、まるで誰かの席を守るみたいに整列していた。
部室の扉を開けると、昼の光が斜めに差し込んで、机の上の紙コップがやけに白く見えた。壁際の棚には、誰が持ち込んだのか分からない空の瓶や、色褪せたメニュー表が並んでいる。
湊はスマホを握ったまま、いつもの癖で画面を一度点けた。通知はない。なのに指が勝手にスクロールする。
「来た来た」紬が先に声を上げた。椅子にちょこんと座って、両手で膝を押さえている。「湊くん、今日の“映え”は何?」
「え、今日?」湊は勢いで笑った。「今日も任せろ。映えの神が降りてるから」
「神って」紬が肩を揺らす。「じゃあ、神のおすすめ。聞かせて」
蓮は窓際の席で腕を組んだまま、目だけで湊を見ている。机の上には、いつものペットボトルの水。ラベルが剥がされていて、妙に無機質だった。
湊は椅子を引いて座り、スマホを机に置いた。画面を伏せる。指紋がついた黒が、部室の空気を吸い込むみたいだった。
「映える料理ってさ」湊は言いかけて、舌が引っかかった。「……ほら、あるじゃん。チーズがびよーんって伸びるやつとか」
「びよーん」紬がすぐ復唱する。「いいね。びよーんは正義」
「……だろ?」湊は笑ってみせたが、続きが出てこない。
頭の中には、写真で見た断面、湯気、照明の当て方、店の角度。なのに、肝心の“味”の言葉が空っぽだった。
紬が身を乗り出す。「それで? チーズの下は? パン? お肉? 何が隠れてるの?」
「隠れてるっていうか……」湊は喉の奥を指で押される感じがして、咳払いで誤魔化した。「えーと、なんか、めっちゃ……濃い」
蓮が小さく鼻で笑った。「語彙が小学生か」
「うるせ」湊は反射で言い返す。「濃いは濃いだろ。濃いのは強い」
「強い」紬がまた拾って、楽しそうに頷く。「濃い、強い、びよーん。今日の三点セットだね」
「……いや、そうじゃなくて」湊は頭をかいた。勢いで乗り切るはずが、机の木目がやけに細かく見える。「もっとこう……香りとか、食感とか、あるじゃん」
「あるある」紬が目を輝かせた。「香り! 食感! そこ! 湊くんの得意分野!」
「得意……」湊は笑いながら、目線を泳がせた。
得意分野。そう言われると、途端に足元がぐらつく。写真は撮れる。言葉も、盛ろうと思えば盛れる。でも、盛ったところで、誰の腹も膨れない。
湊はスマホを指でトントンと叩いた。起動しない画面を叩くのは、意味がないのに。
「……俺さ」湊は軽く言うつもりで口を開いた。「映えって、結局、見た目じゃん?」
「うん」紬が即答する。「でも、見た目って、入口だよ。入口が良いと、入ってみたくなる」
「入口」湊は復唱した。うまいこと言うな、と半分感心して、半分刺さる。
蓮が言った。「入口だけ派手で、中身が空っぽの店もある」
「お前、今日やたら刺してくるな」湊は肩をすくめた。「なんかあった?」
「別に」蓮は視線を外した。
その瞬間、紬が喉の奥を押さえるように指を添えた。笑いながら、短く咳をする。すぐに手を下ろして、何事もなかったみたいに口角を上げる。
「大丈夫?」湊は軽く聞いた。「乾燥してる? 加湿器いる?」
「いらないいらない」紬は手を振る。「部室の乾燥くらい、私のテンションで潤うから」
「それは科学を超えてる」湊は笑った。笑って、そこで止まった。
潤う。満たす。膨れる。そういう言葉が、部室の空気に浮かんだまま、どこにも着地しない。
紬が机の上のノートを開いた。表紙には『晩餐会メモ』と丸っこい字。「じゃあ今日のお題、変えよっか」
「え?」湊が顔を上げる。
「“映える料理”じゃなくて」紬はペン先で小さな丸を描いた。「湊くんが、本当に『うまい』って思ったやつ」
蓮が一瞬、湊の方を見る。目の奥が動く。試すみたいな、確認するみたいな。
湊は「うまい」と口の中で転がした。いつもなら、適当に店名を出して、断面がどうとか、光がどうとか言えばいい。けど、今日はそれが急に面倒くさかった。
「……うまい、か」湊は背もたれに寄りかかった。「俺、味とか正直よく分かんねえんだよな」
紬の目が丸くなる。「え、そうなの?」
「そう」湊は笑って誤魔化すつもりで笑えなかった。口元だけが動く。「写真は分かる。光とか構図とか。でも味って、なんか……正解がないじゃん」
「あるよ」蓮が即座に言う。「お前がうまいと思ったらそれが正解だろ」
「……それ、急に優等生」湊は言って、少しだけ救われた気がして、またむず痒くなる。「でもさ、うまいって言っても、俺のうまいって薄いんだよ」
「薄い?」紬が首を傾げる。
「薄い」湊は頷く。自分で言っておきながら、喉の奥が乾いた。「なんか、みんなみたいに語れない。『これ、バターの香りが~』とか、『余韻が~』とか。そういうの」
紬はペンを置いて、机に頬杖をついた。「じゃあ、語れないままでいいよ」
「え」
「湊くんの言葉って、いつも速いじゃん」紬は指で空中をトントン叩く。「速くて、派手で、楽しくて。だからみんな寄ってくる。でも今日は、止まってる」
湊は思わず笑った。「止まってるって、俺のWi-Fiかよ」
「そうそう」紬が笑う。笑いながら、呼吸が一瞬だけ浅くなる。次の瞬間、いつも通りの声に戻った。「止まってる湊くん、珍しい。だから、見てみたい」
蓮がぼそっと言う。「無理すんな」
「してねえよ」湊は反射で返してから、自分で「してねえ」が雑だと思った。無理。してないと言い切るほど、元気でもない。
湊は机の端を指でなぞった。木のささくれが引っかかる。痛いほどじゃない。けど、気になる。
「……映えってさ」湊は言い直した。「嘘じゃん。まあ、嘘っていうか……盛るじゃん」
「盛るのは料理も一緒」紬が言う。「塩ひとつまみ、とか。バター多め、とか。盛り付け、とか」
「それ、料理の“盛る”だろ」湊はツッコんだ。
「同じだよ」紬は平然と返す。「だって、誰かに食べてほしいから盛るんでしょ? 誰かに見てほしいから盛るんでしょ?」
湊は言葉に詰まった。見てほしい。誰に。何を。
蓮が椅子を少し引いた。ギ、と床が鳴る。「……結局、お前は誰に食わせたいんだよ」
「食わせるって言い方」湊は笑って、笑いが途切れた。「誰に、か……」
紬は湊の顔を覗き込む。目が近い。部室の光を受けて、瞳の中に小さく窓が映っている。
「答え、今じゃなくていいよ」紬は言う。「でも、ここではさ。嘘ついても、ちゃんと味がないと、すぐバレるよ?」
「……こええ部活だな」湊は言った。軽口のつもりだったのに、声が少しだけ掠れた。
紬が笑って、机の上のメモに新しい丸を描いた。「じゃあ今日の晩餐会は、“湊くんの薄いうまい”でいこう」
「薄いうまいって、メニュー名最悪だろ」
「でも、気になる」紬は胸の前で手を合わせる。「薄いのにうまいって、なに?」
蓮が短く言った。「白粥」
「それは薄すぎる!」湊が即ツッコむ。
紬が笑いすぎて、また小さく咳をした。口元を押さえた指先が一瞬だけ白くなる。すぐに手を離して、いつもの調子で言う。
「じゃあ、湊くん。白粥以外で。薄いのにうまい、話して」
湊は天井を見上げた。蛍光灯がジッと鳴っている。頭の中の“映える”写真が、ゆっくり剥がれていく。
「……俺んちの」湊はぽつりと出した。「昔、ばあちゃんが作ってた味噌汁」
蓮の視線が止まる。
紬の笑いが、少しだけ静かになる。「うん」
「具、豆腐だけでさ」湊は言いながら、自分でも意外だった。そんな話、SNSじゃ一回もしたことがない。「味噌も薄い。なのに、なんか……うまいんだよ。飲むと、腹が落ち着く」
「それそれ」紬が嬉しそうに頷く。「落ち着く、って味。いい」
「映えないけどな」湊は言って、肩の力が少し抜けた。「写真にしたら地味すぎて死ぬ」
「死なない」紬が即答する。「地味でも、うまいは生きる」
蓮が「……」と息を吐いた。笑ってはいないけど、さっきより刺が引っ込んだ気がした。
湊は自分の言葉が部室の中でちゃんと形になったのを感じて、少しだけ安心した。スマホに触れないまま、続ける。
「味噌汁の湯気ってさ、なんか……白いじゃん。あれ、冬の朝だと、部屋の冷えた空気に混ざって、見えなくなるんだよ。で、見えなくなった瞬間に、あ、飲んだんだなって分かる」
紬の目が細くなる。笑っているのに、瞬きがゆっくりだ。
「……いい匂い、した?」紬が聞く。
「した」湊は即答した。「味噌の匂い。あと、豆腐の……匂いっていうか、あの、あったかい匂い」
「豆腐のあったかい匂い」紬が繰り返す。「それ、食べたい」
湊は「食べたい」を軽く受け取って、笑った。「今度、豆腐だけの味噌汁、映えさせてやるよ。白い湯気をキラキラに撮って」
「湯気をキラキラに」紬が手を叩く。「それ、神の仕事だ」
「神に任せろ」湊は言った。
その言葉に、蓮が小さく眉を動かした。紬は笑っている。けど、笑いの途中で喉に何か引っかかったみたいに、一瞬だけ呼吸が止まる。
湊はそれを「笑いすぎ」と決めつけて、机の上のスマホを裏返した。
画面はまだ黒いままなのに、部室の空気はさっきより温かかった。湊はその温かさに甘えるみたいに、もう少しだけ、嘘じゃない話を探しにいった。
「じゃ、次。湊くんね」
紬が指先で机をとん、と叩く。放課後の部室。机の上には何もないのに、そこだけ皿が置かれたみたいに空気が整う。
「え、俺? いや、俺の飯の記憶って、映えないっつーか……」
「映えなくていいよ。お腹いっぱいになれるやつがいい」
「聞いて、湊」蓮が腕を組んだまま、視線だけで刺してくる。「嘘ついたら出てけ」
「嘘つかねーよ。てか、嘘つくほどのネタがない」
湊はスマホを机に置いた。反射で画面が光って、すぐ消える。無音が一瞬だけ挟まる。
「じゃあ……えーっと……」
言いかけて、湊は笑ってしまった。笑いの理由を自分でもうまく説明できない。喉の奥が、くすぐったい。
「オムライス、かな」
「オムライス!」紬の目が丸くなる。「王道!」
「王道なんだけどさ。うちのは……形が、すげー雑」
「雑?」紬が身を乗り出す。「どんな?」
湊は手で空中に楕円を描こうとして、途中で歪んだ。
「こう……楕円になりたい何か。端っこが破れてて、中のケチャップライスがちょっと見えてる」
「それ、戦場帰りのオムライスじゃん」紬が笑う。
「戦場帰り!」湊もつられて笑う。「そう、それ。で、卵の色も均一じゃなくてさ。焼きすぎて茶色いとこあったり」
蓮が鼻で笑った。「下手すぎだろ」
「だろ? ほんと下手。なのにさ……」
湊は言いながら、指先が無意識に机の上をなぞっていた。ケチャップの線を引くみたいに。
「上にケチャップで文字書いてあんだよ。毎回」
「文字?」紬がぱっと顔を上げる。
「あー……うん。『みなと』って」
その瞬間、紬の笑いが一拍だけ遅れた。目元が少しだけ固まって、すぐほどける。咳払いみたいに小さく息を吐いて、紬は明るい声を作り直した。
「かわいい。ケチャップで名前って、反則だよ」
「反則って何の反則だよ」
「おいしいの反則」
湊は肩をすくめた。「いや、味は……正直、わかんねえ。ケチャップ味だし」
「わかんなくてもいい」紬は頷く。「その文字、湊くんは見た?」
「見た見た。最初はさ、『なんだこれ』って思った。ダサいし。小学生かよって」
「でも?」
「でも、食うじゃん。で、スプーン入れるじゃん」
湊はスプーンを持つ真似をして、空中のオムライスにそっと触れるふりをした。
「文字から崩れるの。『み』の上から、ぐしゃって」
「うわー」紬が小さく声を漏らす。「それ、罪悪感」
「罪悪感ってほどじゃねえけど、なんか……一瞬、手が止まる」
「止まるんだ」紬が嬉しそうに笑う。「止まるってことは、味以外のものを食べてる」
蓮が口を挟む。「また変なこと言ってる」
「変じゃないよ」紬はすぐ返す。「文字は、湊くんのためにある。『あなたに作った』っていう味」
湊は「うわ」と顔をしかめた。「そういうの、恥ずいって」
「恥ずいのがいいの」紬が指を立てる。「恥ずいのは栄養」
「栄養になるか」
「なる!」
部室の窓から斜めの光が差して、机の木目がやけにくっきり見えた。湊はその木目を見ながら、続けた。
「母ちゃん、仕事でさ。帰るの遅い日が多くて。オムライスって言っても、たぶん……冷蔵庫の残り物ぶっこんだだけのやつ」
「残り物は最高」紬が即答する。「物語が混ざる」
「物語って、冷蔵庫の中の物語?」
「そう。昨日のハムとか、昨日のごはんとか、昨日の疲れとか」
紬は笑いながら言ったのに、最後の言葉のところで声がほんの少しだけ薄くなった。湊は気づかないふりで、いや、ふりでもなく普通に流した。
「疲れは混ぜんなよ。味落ちるだろ」
「落ちる味もあるよ」紬が言って、すぐ「でも、そこが好き」と付け足す。
蓮が視線を逸らして、窓の方を見た。何か言いかけた口が閉じる。代わりに、短く息を吐いた。
「で?」蓮がぶっきらぼうに戻す。「そのオムライス、うまかったのか」
「うまいとかじゃなくてさ……」
湊は首の後ろをかいた。言うつもりじゃなかった言葉が、喉の方から勝手に上がってくる。
「食卓、静かだったんだよ。テレビの音だけで。俺、スマホいじってて。母ちゃん、キッチンでガチャガチャやってて」
紬は頷きながら、湊の言葉を一つも落とさないように目で受け取っている。
「で、皿が出てきて。オムライスが変な形で。『みなと』ってケチャップで書いてあって」
湊は笑ってしまう。照れ隠しの笑いだ。
「それ見た瞬間だけ、なんか……『あ、俺、ここにいるわ』って思った」
紬の目が細くなる。笑ってるのに、奥が濡れたみたいに光る。紬は瞬きを一回、丁寧にしてから言った。
「いただきます、した?」
「した……と思う。たぶん」
「ちゃんと、言った?」
「え、言ったって。小さい声で。恥ずいし」
「小さい声でもいい」紬が胸の前で手を合わせる真似をする。「小さい声の『いただきます』、大好物」
「大好物って言うな」
蓮がぽつりと言う。「……その文字、毎回書いてたのか」
「毎回っていうか、たまに。母ちゃんの気分。たぶん」
「たぶん多いな、お前」
「だって覚えてねえもん。俺、味オンチだし」
「味オンチでも覚えてるじゃん」紬がすぐ拾う。「形と文字と、止まったスプーン。全部、味だよ」
湊は「へー」と適当に相槌を打った。「じゃあ、今ので紬の腹、膨れた?」
「うん」紬は即答した。けれど、言い終わりに唇の端が少しだけ白くなる。紬はそれを隠すみたいに、笑いを大きくした。
「もう、オムライス一個分くらい。しかも戦場帰りのやつ」
「なら良かった」湊は安心したように背もたれに寄りかかる。「俺の貧相な記憶でも役に立つんだな」
蓮が低く言う。「貧相って言うな」
「え、だって貧相だろ?」
「……貧相でも、食える」蓮は短く吐き捨てるみたいに言って、紬の方を見た。「な」
紬は頷いて、机の上の何もない皿に向かって、指先でそっとケチャップの文字をなぞるような仕草をした。
「ごちそうさま。湊くんの『みなと』、甘かった」
「ケチャップだからな」
「そうじゃない甘さ」
湊は「はいはい」と笑って受け流す。紬も笑う。蓮も、ほんの少しだけ口角が動く。
その笑いの隙間に、紬がもう一度だけ、喉の奥を押さえるように小さく咳をした。すぐに「平気」と言う前に、湊が先に言った。
「風邪? 部室寒いもんな。窓閉めるわ」
「うん、お願い」
紬は笑ったまま頷き、湊の話の続きを待つみたいに、両手を膝の上で行儀よく揃えた。
湊がスマホを伏せると、机の上の光がすっと消えた。代わりに、部室の窓から夕方の薄いオレンジが差し込んで、紙コップの水面が小さく揺れた。
「で? 湊くんの“映え”じゃないやつ、聞かせて」
紬は椅子に浅く腰かけ、前のめりになった。笑ってるのに、目だけが真剣で、まるで鍋のふたが開く瞬間を待つみたいにきらきらしている。
湊は肩をすくめる。
「期待しないで。俺の飯の思い出、マジで地味だから」
「地味、最高」
「褒めてないだろそれ」
蓮が壁にもたれて腕を組んだまま、鼻で笑う。
「どうせ『高級焼肉でとろけました』とか言うんだろ。お前のSNS、そういうのばっかだし」
「言わねえよ。……言わねえ、けど」
湊は言いかけて、喉の奥が引っかかった。言葉が、急に冷蔵庫の奥の残り物みたいに出しづらくなる。
紬が小さく首をかしげる。
「けど?」
「けど、そういうの、別に……食ってない」
「え」
「え、って言うなよ。ほら、あるじゃん。みんなで行った風、みたいな」
蓮の視線が鋭くなる。
「は?」
湊は手のひらをひらひらさせた。
「いや、待て。犯罪じゃない。……いや、SNS的には犯罪か? でもさ、例えばさ」
湊は机の端を指でトントン叩きながら、早口になった。
「放課後にコンビニで買ったチキンとおにぎり。あれを、店の外のベンチで食うじゃん。で、写真だけ撮る。角度変えて、ライト当てて、背景に駅前のイルミ入れて。加工して」
「……」
「それで『最高の夜』って書く。家帰ったら、結局それ、半分くらい残ってる。腹減ってんのに、なんか食う気にならなくて」
紬の目が、さらに開いた。瞬きが少なくなる。
湊は苦笑した。
「うち、飯って……そもそも、みんな揃わないし。親は親で忙しいし、俺は俺で、勝手に食って勝手に片付けて。味とか、正直わかんない。わかろうともしてなかった」
蓮が眉を寄せる。
「……それを、わざわざ盛るのかよ」
「盛るっつーか、盛らないと……何もないから」
湊は言ってから、しまったと思った。自分で自分の腹の中を開けたみたいで、急に寒い。
だから、すぐに笑って誤魔化した。
「ほら、俺って空っぽじゃん。空っぽだと“いいね”入んないからさ。詰め物してんの。映えってやつ」
紬が、ふっと息を吸った。
「……それ」
「え?」
紬の口元が、ゆっくり上がった。笑顔なのに、泣きそうな形に見えて、湊は反射で目をそらしそうになる。
でも紬は、湊から目を外さなかった。
「それよ。それが食べたかったの」
「……食べたかった?」
「うん。湊くんの“詰め物”じゃないほう」
湊は思わず笑ってしまう。
「いやいや、こんなんご馳走じゃないだろ。貧相だぞ? コンビニのチキンだぞ?」
「コンビニのチキン、最高じゃん」
「話聞いてた?」
「聞いてた。だから最高」
紬は両手を胸の前でぎゅっと握った。指先が白くなるほど力が入っているのに、声は軽い。
「チキンの、衣のさ。カリッて割れる音、想像できる。中、熱くて、ちょっとだけ油が指につくやつ。おにぎりは……海苔がしっとりしてて、米がぎゅってしてる」
「……」
湊の脳内に、さっきまでどうでもよかったはずの光景が立ち上がる。冬の駅前、イルミの青白い光。ベンチの冷たさ。紙袋の温度。口に入れた瞬間の、妙に強い塩気。
「でね」
紬は続けた。舌が、見えない皿の上をなぞるみたいに言葉を並べる。
「半分残るのも、いい。お腹が空いてるのに食べられないって、そういうことだもん。……そういう夜、ある」
最後の一言だけ、ほんの少し小さくなった。笑顔はそのままなのに、喉の奥に砂が混じったみたいな音。
湊は「あるある」と軽く頷いてしまう。
「あるな。意味わかんねーのに、ある」
蓮が、黙ったまま紬を見ていた。目線が、湊じゃなく紬の口元に落ちて、すぐ逸れる。
紬は、机の上の紙コップに手を伸ばした。持ち上げる途中で、一瞬だけ指が止まる。指先が震えたように見えた。
湊は気づかないふりをして、わざと明るく言った。
「ほら、どう? 満腹になった? 俺の貧相セットで」
紬は紙コップをそっと置き直して、笑った。
「うん。すごく、おいしい」
「マジかよ。じゃあ俺、才能あるじゃん。“貧相の盛り付け”の才能」
「ある。天才」
「やめろ、照れる」
蓮が小さく舌打ちした。
「……くだらねぇ」
「くだらなくないよ」
紬はすぐ返した。声は柔らかいのに、芯が硬い。
「みんな、盛ってる。盛って、嘘ついて、でも……その嘘の下に、本当がある。湊くんの本当、今、ちゃんと味した」
湊は頭をかいた。
「味って言われてもなあ。俺、味オンチだし」
「味オンチでも、語れる。湊くんの言葉、ちゃんと噛める」
紬が笑うたび、頬が少しだけ青白く見える。夕方の光のせいだ、と湊は勝手に納得した。
「じゃあさ」
湊は勢いで机に肘をついて、前のめりになる。
「次、もっと地味なの出すわ。家の冷蔵庫の奥にある、謎のタッパーの話とか」
「聞きたい!」
「やめとけ、食中毒の物語だぞ」
「物語なら平気」
「最強かよ」
紬の目がまた輝いた。まるで、空っぽの皿が「次も」って音を立てたみたいに。
蓮はため息をついて、窓の外を見た。
「……お前ら、ほんと変な部だな」
「今さら?」
湊が言うと、紬がくすくす笑う。
その笑いの途中で、紬は小さく咳をした。掌で口元を隠す動きが、やけに手慣れて見えた。
湊は軽く言う。
「咳、流行ってんの?」
「流行ってないよ。私の、いつもの」
「そっか。じゃあ、次の皿いくぞ、部長」
紬は頷いた。頷き方が、ほんの少しだけ遅かった。けれど目は、さっきよりもずっと、満腹の光をしていた。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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