2 / 27
Яainy, Rainy
Яainy
しおりを挟む
麗人には、プロポーズをされた。
天音は、プロポーズを受けた。
それは、前段階の話。
プロポーズをされてから、天音が麗人のご家族へ挨拶をしに行くのに、一ヶ月程度かかった。
問題のその日――先週末の日曜日だ――は、麗人のご家族にご挨拶に行った。 麗人は実家暮らしで、天音が麗人の家に行ったのはその日が初めて。 それまではデートといえばいつも外か、天音のアパートだったのだ。
麗人の家には、お祖父様とお祖母様、ご両親がいて、非常に緊張した。 けれど、特段問題と言った問題もなく、ご挨拶を終えて、ほっと安堵して、終えた日曜日。 次の週の日曜日には、天音の両親に二人で挨拶に行く予定だった。 というのに。
急に、麗人と連絡が取れなくなった。
訳がわからなくて、でも、職場に押しかけるのは迷惑だと思い、これもまた迷惑だと思いつつ、麗人の家まで行ってみた。
家には上げてもらえなかった。 玄関にも、だ。 外で話をしようと言われて、玄関を目の前にした扉のところで話をすることになった。
ラインはブロック、電話は着信拒否、メールも受信拒否。
それを平気でやってのけた麗人は、そのときもへらへらと笑っていた。
「母さんが、成田家の嫁には、最初から家に入ってもらわないと困るって言っててさ。 成田家の嫁として相応しくないって」
意味が、わからなかった。
だって、ふたりで新しくアパートを借りて暮らすって、ふたりで話し合って決めたのではなかったか。
その話は、同じ家に住んでいたご両親にはしていなかったと?
いや、それ以上に。
ふたりで話し合って決めた、ふたりの将来のことが、彼の母親のたった一言で、簡単に覆ってしまうものなのか。
それがきっと、何よりもショックだったのだと思う。
彼にとって天音とは、その程度の存在だったのか。
嘘でも、いいから、夫となる人には、天音の味方になって欲しかった。
だって、夫が天音の味方になってくれなかったら、この先の人生で誰が天音の味方になってくれるというのだろう。
麗人が、「母さんが」と言うのを、天音は今まで、親孝行なんだな、とか、家族思いなんだな、という認識でしか聞いてこなかった。 けれど、もしかすると、彼はマザコンだったのか。
彼がマザコンだろうと、それは大きな問題ではない。
問題なのは、いざというとき、彼は、天音ではなく、母親を優先する人間だということと、天音はきっとそれには耐えられないということだ。
「どうぞ」
低くて優しい声に、天音は意識を引き戻された。
気づけば、目の前の扉が開かれていて、ぐす、と鼻を啜りながら、天音は開かれた扉の向こうを見た。
そこは、玄関だ。
今、天音は榊課長のご自宅の前にいる。
泣かれても迷惑なだけなのに、榊課長は迷惑そうな様子一つ見せずに、天音に付き添ってくれていた。
流れるように動く人の波の中で、立ち止まったままの、天音と、それに付き添ってくれている、榊課長。
自分が、人の波の中の一人であれば、迷惑だと思っただろう。
だから、不謹慎なのはわかっているけれど、まるで、世界中に二人だけのような、錯覚に陥った。
だから往来でわんわんと泣けたのだと思うし、よく考えずにそのまま榊課長に促されるままにタクシーに乗って、榊課長のお住まいのマンションへと辿り着いた。
どういう流れで榊課長のマンションに向かうことになったのかはよく覚えていない。
ただ、混乱しきってとりとめのない天音の話を、「うん、うん」と相槌を打ちながら聞いてくれる榊課長の存在に、救われていた。
榊課長は、榊課長のスーツの上着を肩からかけた天音の背中に、そっと手を添える。
「入っていいよ、そのまま帰らせるわけにはいかないから」
「ありがとう、ございます」
応じて、一歩玄関に足を踏み入れようとして、天音はハッとした。
榊課長が扉を開けたまま押さえた左手の薬指の、光を反射してきらめく指輪に気づいたからだ。
天音は、もう一度、玄関に視線を走らせる。
そこに、女物の靴はなかった。
ということは、榊課長の奥様は、まだ帰ってこられていないということだ。 知らないうちに、知らない女が家に入ったとなっては、きっと榊課長の奥様は、いい気はしないだろう。
そう思ったから、天音は榊課長を見上げる。
「あの、でも、奥様が」
ここまで言えば、その先は察してもらえる。
だから、言葉を切ったのだが、榊課長はなぜかきょとんとした顔をしている。
よもや、これ以上言葉を重ねないと、わかってもらえないのだろうか。
天音が、口を開こうとしたときだ。
榊課長は何か閃いたような、腑に落ちたような顔をして、一つ頷いた。
「ああ、間宮さんも、これを真に受けていたのか」
言いながら、薄く笑んだ榊課長が自分の左手の薬指に光る指輪に視線を流すものだから、天音は目を瞬かせてしまった。
「え?」
真に受ける、とは一体どういう意味だろう。
思ったことは声に出ていたのか、表情から察してくれたのか、榊課長は薄く笑んだままで付け加えてくれた。
「これは、意味のないものだから」
「意味の、ない?」
榊課長が追加説明をしてくれたのにも関わらず、天音はまだ意味がわからずに、榊課長の言葉を反駁するしかない。
そうすれば、榊課長は、もっとわかりやすい言葉を天音にくれた。
「俺は、結婚なんてしたことはないよ」
これも、また、衝撃だった。
天音は、驚きのままに、目を見張る。 咄嗟に返す言葉もなかった。
だって、榊課長は結婚していると、奥様がいると、会社ではそのように、皆から認識されている。
けれど、今、本当の話かどうかは別にしても、榊課長は今だけでなく過去の結婚も否定する発言をされた。
いや、こんな話で嘘をついたとして、榊課長には何もメリットはない。
では、どうして、榊課長は周囲に結婚していると思われ、尚且つそれを知りながら黙認してきたのか――…。
そんなことを考えることに意識を傾けていた天音の背を、軽く榊課長の手が押した。
「早く入って。 君に風邪を引かせるわけにはいかない」
戸惑いつつも、天音は榊課長を見上げた。
「では、彼女さん、が」
奥様がいないとすれば、それはきっと、彼女さんとのペアリングだろう。
そう思ったのだが、榊課長はまた微笑む。
「彼女でもない。 いるはずのない存在をいるように見せかけるのに、非常に効果的なものだね、指輪というものは」
天音は、プロポーズを受けた。
それは、前段階の話。
プロポーズをされてから、天音が麗人のご家族へ挨拶をしに行くのに、一ヶ月程度かかった。
問題のその日――先週末の日曜日だ――は、麗人のご家族にご挨拶に行った。 麗人は実家暮らしで、天音が麗人の家に行ったのはその日が初めて。 それまではデートといえばいつも外か、天音のアパートだったのだ。
麗人の家には、お祖父様とお祖母様、ご両親がいて、非常に緊張した。 けれど、特段問題と言った問題もなく、ご挨拶を終えて、ほっと安堵して、終えた日曜日。 次の週の日曜日には、天音の両親に二人で挨拶に行く予定だった。 というのに。
急に、麗人と連絡が取れなくなった。
訳がわからなくて、でも、職場に押しかけるのは迷惑だと思い、これもまた迷惑だと思いつつ、麗人の家まで行ってみた。
家には上げてもらえなかった。 玄関にも、だ。 外で話をしようと言われて、玄関を目の前にした扉のところで話をすることになった。
ラインはブロック、電話は着信拒否、メールも受信拒否。
それを平気でやってのけた麗人は、そのときもへらへらと笑っていた。
「母さんが、成田家の嫁には、最初から家に入ってもらわないと困るって言っててさ。 成田家の嫁として相応しくないって」
意味が、わからなかった。
だって、ふたりで新しくアパートを借りて暮らすって、ふたりで話し合って決めたのではなかったか。
その話は、同じ家に住んでいたご両親にはしていなかったと?
いや、それ以上に。
ふたりで話し合って決めた、ふたりの将来のことが、彼の母親のたった一言で、簡単に覆ってしまうものなのか。
それがきっと、何よりもショックだったのだと思う。
彼にとって天音とは、その程度の存在だったのか。
嘘でも、いいから、夫となる人には、天音の味方になって欲しかった。
だって、夫が天音の味方になってくれなかったら、この先の人生で誰が天音の味方になってくれるというのだろう。
麗人が、「母さんが」と言うのを、天音は今まで、親孝行なんだな、とか、家族思いなんだな、という認識でしか聞いてこなかった。 けれど、もしかすると、彼はマザコンだったのか。
彼がマザコンだろうと、それは大きな問題ではない。
問題なのは、いざというとき、彼は、天音ではなく、母親を優先する人間だということと、天音はきっとそれには耐えられないということだ。
「どうぞ」
低くて優しい声に、天音は意識を引き戻された。
気づけば、目の前の扉が開かれていて、ぐす、と鼻を啜りながら、天音は開かれた扉の向こうを見た。
そこは、玄関だ。
今、天音は榊課長のご自宅の前にいる。
泣かれても迷惑なだけなのに、榊課長は迷惑そうな様子一つ見せずに、天音に付き添ってくれていた。
流れるように動く人の波の中で、立ち止まったままの、天音と、それに付き添ってくれている、榊課長。
自分が、人の波の中の一人であれば、迷惑だと思っただろう。
だから、不謹慎なのはわかっているけれど、まるで、世界中に二人だけのような、錯覚に陥った。
だから往来でわんわんと泣けたのだと思うし、よく考えずにそのまま榊課長に促されるままにタクシーに乗って、榊課長のお住まいのマンションへと辿り着いた。
どういう流れで榊課長のマンションに向かうことになったのかはよく覚えていない。
ただ、混乱しきってとりとめのない天音の話を、「うん、うん」と相槌を打ちながら聞いてくれる榊課長の存在に、救われていた。
榊課長は、榊課長のスーツの上着を肩からかけた天音の背中に、そっと手を添える。
「入っていいよ、そのまま帰らせるわけにはいかないから」
「ありがとう、ございます」
応じて、一歩玄関に足を踏み入れようとして、天音はハッとした。
榊課長が扉を開けたまま押さえた左手の薬指の、光を反射してきらめく指輪に気づいたからだ。
天音は、もう一度、玄関に視線を走らせる。
そこに、女物の靴はなかった。
ということは、榊課長の奥様は、まだ帰ってこられていないということだ。 知らないうちに、知らない女が家に入ったとなっては、きっと榊課長の奥様は、いい気はしないだろう。
そう思ったから、天音は榊課長を見上げる。
「あの、でも、奥様が」
ここまで言えば、その先は察してもらえる。
だから、言葉を切ったのだが、榊課長はなぜかきょとんとした顔をしている。
よもや、これ以上言葉を重ねないと、わかってもらえないのだろうか。
天音が、口を開こうとしたときだ。
榊課長は何か閃いたような、腑に落ちたような顔をして、一つ頷いた。
「ああ、間宮さんも、これを真に受けていたのか」
言いながら、薄く笑んだ榊課長が自分の左手の薬指に光る指輪に視線を流すものだから、天音は目を瞬かせてしまった。
「え?」
真に受ける、とは一体どういう意味だろう。
思ったことは声に出ていたのか、表情から察してくれたのか、榊課長は薄く笑んだままで付け加えてくれた。
「これは、意味のないものだから」
「意味の、ない?」
榊課長が追加説明をしてくれたのにも関わらず、天音はまだ意味がわからずに、榊課長の言葉を反駁するしかない。
そうすれば、榊課長は、もっとわかりやすい言葉を天音にくれた。
「俺は、結婚なんてしたことはないよ」
これも、また、衝撃だった。
天音は、驚きのままに、目を見張る。 咄嗟に返す言葉もなかった。
だって、榊課長は結婚していると、奥様がいると、会社ではそのように、皆から認識されている。
けれど、今、本当の話かどうかは別にしても、榊課長は今だけでなく過去の結婚も否定する発言をされた。
いや、こんな話で嘘をついたとして、榊課長には何もメリットはない。
では、どうして、榊課長は周囲に結婚していると思われ、尚且つそれを知りながら黙認してきたのか――…。
そんなことを考えることに意識を傾けていた天音の背を、軽く榊課長の手が押した。
「早く入って。 君に風邪を引かせるわけにはいかない」
戸惑いつつも、天音は榊課長を見上げた。
「では、彼女さん、が」
奥様がいないとすれば、それはきっと、彼女さんとのペアリングだろう。
そう思ったのだが、榊課長はまた微笑む。
「彼女でもない。 いるはずのない存在をいるように見せかけるのに、非常に効果的なものだね、指輪というものは」
0
あなたにおすすめの小説
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜
瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。
まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。
息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。
あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。
夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで……
夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる