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エドゥアール、5歳 ②
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急に、父の手が伸びてきて、エドゥアールの頭をわしわしと撫でた。
いつもなら、父に頭を撫でられるのは嬉しいのだが、今日はなんだか恥ずかしいような気がする。
でも、その恥ずかしさも、すぐに消えた。
今、父は、ブラッドベル夫人に、エドゥアールのディストニア語の教師を、依頼したのだろうか?
じわじわと、自分の頬が熱を持つのを感じる。
どうして、今日、自分が呼ばれて、ブラッドベル夫人と引き合わされたのか、と思っていたけれど、そういうことだったのか。
ブラッドベル夫人は、今日限りのお客様ではないことがわかって、胸が弾むような感じがする。
ちら、と見ると、エドゥアールの正面にお行儀よく――というのは年上の女性にあれなのだが――座ったブラッドベル夫人は、ジッとエドゥアールを凝視している。
厳しい声を上げたのは、ブラッドベル卿だ。
眉間には、皺まで寄せられている。
「どうしてリシェなんですか」
「仕方ないだろう? 我が妃が、息子と娘を連れて、ディストニアに外遊に行くんだ、と言って聞かないんだから」
やれやれ、と父は肩を竦めている。
エドゥアールの母が、ディストニアにこだわるのには、理由がある。
母の妹で、エドゥアールと妹のフレンティーナにとっては叔母にあたるひとが、ディストニアの国王陛下に嫁いでいるらしいのだ。
母は、そのひとに、エドゥアールとフレンティーナを会わせたいらしい。
折角外遊に行くなら、言葉もわかったほうが楽しいと思うのです、お母様は言語が苦手だから話せないけれど、というのは、母の言だ。
だから、父は、エドゥアールをディストニア語に触れさせようというのだろう。
だが、父の説明に、ブラッドベル卿は納得しなかったらしい。
「答えになっていません。 おれだって、ディストニア語は話せます」
ディストニア語の教師に、ということは、ブラッドベル夫人はディストニア語を話せるのだろうが、ブラッドベル卿もディストニア語を話せるらしい。
仏頂面と言って差し支えないブラッドベル卿にも、父はゆったりと構えたままで相変わらず笑顔だ。
「ゆくゆくは、娘のディストニア語の教師もお願いすることになるだろうし、そうなると女性の方が理想的だとは思わないか?」
ここで、ブラッドベル卿はぐっと言葉に詰まったようだった。
確かに今の時代、男児の教師が女性であることに問題はないが、女児の教師が男性であることは望ましくないとされている。
「それに、こんなところにいていいのか? お前には日々の業務があるだろう」
にこにこと爽やかに微笑む父に言われたブラッドベル卿は、隣に座るブラッドベル夫人に向き直った。
「リシェは、どうしたい?」
「リシェ」
ぽそり、と自分の口から、綺麗な音の羅列が零れた。
先程も、ブラッドベル卿が口にした、綺麗な音。
それは、ブラッドベル夫人の名前なのだろうか。
そう考えていると、傍らに座る父がエドゥアールに教えてくれた。
「ブラッドベル夫人のことだよ」
その声は、決して大きくはなかったのだが、ブラッドベル夫人の耳にも届いたらしい。
エドゥアールの正面のブラッドベル夫人が、にこりと微笑んだ。
「はい、リシェーナ・ブラッドベルです」
「リシェーナ」
彼女が口にした彼女の名前を、エドゥアールも口にする。
綺麗な音の羅列だ。
彼女らしい、と思う。
そして、気づく。 【リシェ】というのは、ブラッドベル卿が呼ぶ、夫人の愛称のようだ。
エドゥアールとしては、彼女の名をただ反復しただけのつもりだったのだが、彼女はエドゥアールが彼女を呼んだと認識したらしい。
「はい、王子様」
微笑んで、そう、返事をした。
年上の女性に言うのも、本当にあれだとは思うのだが、それがあまりに可愛くて、エドゥアールはまた心臓が跳ねるのを感じる。
「??」
心臓がおかしくなったのかもしれない、と手の平で胸のあたりを撫でていると、笑みを含んだブラッドベル卿の声がした。
「殿下、だよ、リシェ」
リシェーナは、目をぱちぱちと瞬かせて、首を傾げた。
「王子様、ではない? デンカ?」
リシェーナはもしかすると、根っからのフレンティア人ではないのかもしれない。
エドゥアールが、リシェーナの話し方に覚えた違和感は、フレンティア語を母国語としない、というところから生じているのかもしれない、とここでエドゥアールは思い至る。
もしかして、リシェーナはディストニアの人間だったのだろうか。
「【王子様】の、畏まった言い方」
リシェーナのした問いに、ブラッドベル卿は面倒くさがる様子もなく、説明を加える。
父に向けていたのとは打って変わった、優しくて慈愛に満ちた視線だ、と思うし、優しくて甘い声だ、と思った。
ブラッドベル卿から説明を受けたリシェーナは、それでも【殿下】についてよくわからなかったらしく、問いを重ねる。
「かしこまった? 困ったの?」
何だか的外れで可愛らしい問いだが、リシェーナは真面目に尋ねているらしい。
それがわかるから、父は咳ばらいをして、笑いそうになったのを誤魔化したのだろう。
ブラッドベル卿は、そんなリシェーナとずっと付き合って来て、そういった問いには慣れっこらしい。
リシェーナの問いを笑うでも茶化すでも正すでもなく、優しく、リシェーナに微笑みかけた。
「大丈夫、誰も困ってないよ。 あ、リシェーナが可愛くて、おれが少し困ってるかも。 お家に帰ったら、もう一度説明するね。 今は、【王子様】でいいよ。 …ですよね?」
最後の問いは、ブラッドベル卿から父へと投げられた。
問いの形を取ってはいるが、何となく、圧が込められている気がする。
エドゥアールは、再認識した。
どうやら、このブラッドベル卿は本当に、国王を国王とも思っていないらしい。
そして、国王陛下である父も、それでいいと思っているのだろう。
ブラッドベル卿の言動に何を言うでもなく、頷く。
「ああ、構わないよ」
ブラッドベル卿は、ちらとリシェーナを気にすると、父の側に少しだけ身を乗り出し、声を潜めて早口になった。
「リシェは、フレンティア語の日常会話は問題ないですが、難しい言葉はわかりませんよ。 あと、敬語は苦手です」
恐らく、ブラッドベル卿は、自身の発言をリシェーナに聞かせたくなかったのだろう。
だがそれは、リシェーナを悪く言う意図で発せられたものではない。
ブラッドベル卿は、リシェーナをエドゥアールの教師にすることを、父に諦めさせたいから言ったのだろう。
そして、父はそれをお見通しだったのか、快活に笑い飛ばした。
「ははは、敬語が苦手か。 なら、お前と同じじゃないか」
いつもなら、父に頭を撫でられるのは嬉しいのだが、今日はなんだか恥ずかしいような気がする。
でも、その恥ずかしさも、すぐに消えた。
今、父は、ブラッドベル夫人に、エドゥアールのディストニア語の教師を、依頼したのだろうか?
じわじわと、自分の頬が熱を持つのを感じる。
どうして、今日、自分が呼ばれて、ブラッドベル夫人と引き合わされたのか、と思っていたけれど、そういうことだったのか。
ブラッドベル夫人は、今日限りのお客様ではないことがわかって、胸が弾むような感じがする。
ちら、と見ると、エドゥアールの正面にお行儀よく――というのは年上の女性にあれなのだが――座ったブラッドベル夫人は、ジッとエドゥアールを凝視している。
厳しい声を上げたのは、ブラッドベル卿だ。
眉間には、皺まで寄せられている。
「どうしてリシェなんですか」
「仕方ないだろう? 我が妃が、息子と娘を連れて、ディストニアに外遊に行くんだ、と言って聞かないんだから」
やれやれ、と父は肩を竦めている。
エドゥアールの母が、ディストニアにこだわるのには、理由がある。
母の妹で、エドゥアールと妹のフレンティーナにとっては叔母にあたるひとが、ディストニアの国王陛下に嫁いでいるらしいのだ。
母は、そのひとに、エドゥアールとフレンティーナを会わせたいらしい。
折角外遊に行くなら、言葉もわかったほうが楽しいと思うのです、お母様は言語が苦手だから話せないけれど、というのは、母の言だ。
だから、父は、エドゥアールをディストニア語に触れさせようというのだろう。
だが、父の説明に、ブラッドベル卿は納得しなかったらしい。
「答えになっていません。 おれだって、ディストニア語は話せます」
ディストニア語の教師に、ということは、ブラッドベル夫人はディストニア語を話せるのだろうが、ブラッドベル卿もディストニア語を話せるらしい。
仏頂面と言って差し支えないブラッドベル卿にも、父はゆったりと構えたままで相変わらず笑顔だ。
「ゆくゆくは、娘のディストニア語の教師もお願いすることになるだろうし、そうなると女性の方が理想的だとは思わないか?」
ここで、ブラッドベル卿はぐっと言葉に詰まったようだった。
確かに今の時代、男児の教師が女性であることに問題はないが、女児の教師が男性であることは望ましくないとされている。
「それに、こんなところにいていいのか? お前には日々の業務があるだろう」
にこにこと爽やかに微笑む父に言われたブラッドベル卿は、隣に座るブラッドベル夫人に向き直った。
「リシェは、どうしたい?」
「リシェ」
ぽそり、と自分の口から、綺麗な音の羅列が零れた。
先程も、ブラッドベル卿が口にした、綺麗な音。
それは、ブラッドベル夫人の名前なのだろうか。
そう考えていると、傍らに座る父がエドゥアールに教えてくれた。
「ブラッドベル夫人のことだよ」
その声は、決して大きくはなかったのだが、ブラッドベル夫人の耳にも届いたらしい。
エドゥアールの正面のブラッドベル夫人が、にこりと微笑んだ。
「はい、リシェーナ・ブラッドベルです」
「リシェーナ」
彼女が口にした彼女の名前を、エドゥアールも口にする。
綺麗な音の羅列だ。
彼女らしい、と思う。
そして、気づく。 【リシェ】というのは、ブラッドベル卿が呼ぶ、夫人の愛称のようだ。
エドゥアールとしては、彼女の名をただ反復しただけのつもりだったのだが、彼女はエドゥアールが彼女を呼んだと認識したらしい。
「はい、王子様」
微笑んで、そう、返事をした。
年上の女性に言うのも、本当にあれだとは思うのだが、それがあまりに可愛くて、エドゥアールはまた心臓が跳ねるのを感じる。
「??」
心臓がおかしくなったのかもしれない、と手の平で胸のあたりを撫でていると、笑みを含んだブラッドベル卿の声がした。
「殿下、だよ、リシェ」
リシェーナは、目をぱちぱちと瞬かせて、首を傾げた。
「王子様、ではない? デンカ?」
リシェーナはもしかすると、根っからのフレンティア人ではないのかもしれない。
エドゥアールが、リシェーナの話し方に覚えた違和感は、フレンティア語を母国語としない、というところから生じているのかもしれない、とここでエドゥアールは思い至る。
もしかして、リシェーナはディストニアの人間だったのだろうか。
「【王子様】の、畏まった言い方」
リシェーナのした問いに、ブラッドベル卿は面倒くさがる様子もなく、説明を加える。
父に向けていたのとは打って変わった、優しくて慈愛に満ちた視線だ、と思うし、優しくて甘い声だ、と思った。
ブラッドベル卿から説明を受けたリシェーナは、それでも【殿下】についてよくわからなかったらしく、問いを重ねる。
「かしこまった? 困ったの?」
何だか的外れで可愛らしい問いだが、リシェーナは真面目に尋ねているらしい。
それがわかるから、父は咳ばらいをして、笑いそうになったのを誤魔化したのだろう。
ブラッドベル卿は、そんなリシェーナとずっと付き合って来て、そういった問いには慣れっこらしい。
リシェーナの問いを笑うでも茶化すでも正すでもなく、優しく、リシェーナに微笑みかけた。
「大丈夫、誰も困ってないよ。 あ、リシェーナが可愛くて、おれが少し困ってるかも。 お家に帰ったら、もう一度説明するね。 今は、【王子様】でいいよ。 …ですよね?」
最後の問いは、ブラッドベル卿から父へと投げられた。
問いの形を取ってはいるが、何となく、圧が込められている気がする。
エドゥアールは、再認識した。
どうやら、このブラッドベル卿は本当に、国王を国王とも思っていないらしい。
そして、国王陛下である父も、それでいいと思っているのだろう。
ブラッドベル卿の言動に何を言うでもなく、頷く。
「ああ、構わないよ」
ブラッドベル卿は、ちらとリシェーナを気にすると、父の側に少しだけ身を乗り出し、声を潜めて早口になった。
「リシェは、フレンティア語の日常会話は問題ないですが、難しい言葉はわかりませんよ。 あと、敬語は苦手です」
恐らく、ブラッドベル卿は、自身の発言をリシェーナに聞かせたくなかったのだろう。
だがそれは、リシェーナを悪く言う意図で発せられたものではない。
ブラッドベル卿は、リシェーナをエドゥアールの教師にすることを、父に諦めさせたいから言ったのだろう。
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