咲いても散らぬ、恋の花。

環名

文字の大きさ
17 / 18

エドゥアール、18歳 ②

しおりを挟む
 予感は、していた。
 リシェーナではない別の女性との婚約を決めたときに、覚悟も、した。

 今日、この日を境に、エドゥアールを取り巻く様々なものは、ゆっくりとだが変わっていくだろう。
 自分も変わらなければならない。

 今日を境に、自分はただの男から、婚約者のいる男、に変わるのだ。
 だから、と理由をつけて、エドゥアールは噛み締めるようにリシェーナの名を呼んだ。


「リシェーナ」


 夫と娘の後ろ姿を追っていたリシェーナの顔がエドゥアールを見上げ、小さく微笑む。
「はい、殿下」


 今しか、言えないことだ、と思ったから。
 だから、と理由をつけて、エドゥアールは自分の願いを口にした。
 最初で、最後の、願いを。


「今だけでいい。 僕を、王子様と呼んでくれないか? 初めて、会ったときのように」


 リシェーナの顔が、ぽかんとした。
 不思議なことを言われた、と思っているのが手に取るようにわかるが、発言を取り消す気にはならなかった。
 じっと、エドゥアールが待っていると、リシェーナは不思議そうにしながらも、呼んでくれた。


「王子様?」


 柔らかで、耳に心地いい、その音。
 忘れないように、記憶に留めて、耳に焼きつけておこう、と思う。
 こみ上げるようで、堪らない気持ちになりながらも、一つ大きく呼吸をして、自分を落ち着ける。
 そして、感謝を述べた。
「…ありがとう」


 ずっと、リシェーナの王子様になりたかった。


 幼い頃は、無条件に、なれるものだと思っていた。
 初めて会ったとき、エドゥアールはリシェーナに「王子様」と呼ばれた。
 実は今まで、エドゥアールは誰にも、そのように呼びかけられたことはなかったのだ。

 年の近い貴族の子どもたちは、エドゥアールに合う前に、エドゥアールが【殿下】だと教えられるのか、エドゥアールを「殿下」と呼んできた。
 二度目に会ったとき、彼女は自宅でブラッドベル卿から「王子様」と「殿下」の違いを教えられたのか、エドゥアールのことを「殿下」と呼んだ。
 それから彼女はずっと、エドゥアールのことを、「殿下」と呼んでいる。


 初めて出逢ったあの日、リシェーナに「王子様」と呼ばれたエドゥアールは、自分が彼女の、【王子様】であるかのように錯覚したのだと、思う。
 それは、彼女のせいではない。


 リシェーナと結婚することは、エドゥアールには許されない。
 それ以前に、彼女には、彼女の王子様ではなく、騎士がいた。
 彼女にとっての、最愛の相手が。


 エドゥアールは、リシェーナが好きだが、ブラッドベル卿と共にいるリシェーナのことは、もっと好きなのだ。
 更に言うなら、ブラッドベル卿と一緒にいるリシェーナが、一番綺麗だとも思う。


 その、リシェーナの幸せを、壊そうとは思わなかった。
 父と母がよく言うように「推しの笑顔が生きる活力」で「推しの幸せが私の幸せ」なのだから。
 だから、立場上、もう公の場では呼べないだろう、彼女の名前を味わうように舌に乗せ、彼女に誓う。


「ありがとう、リシェーナ。 僕は、きっと、いい王になる」


 君の、ために。
 その言葉は、呑み込んだ。
 それは、絶対に口に出してはならない言葉だからだ。
 リシェーナにとっての、いい王でいるために。


 きょとんとした顔でエドゥアールの一世一代の告白を聞いていたリシェーナが、ふっと笑った。
「何か、おかしかったか?」
 何か、気づかれただろうか、とエドゥアールは焦ったのだが、リシェーナはふるふると首を横に振って、顔を上げる。
 微笑んで、頷いてくれた。
「なれますよ、王子様なら。 だって、もう、いい王子様ですもの」


 彼女は、何気なく口にしたのだろう。
 だがそれは、エドゥアールにとって、最上の言葉だった。
 その言葉を噛みしめ、目を閉じる。


 きっと、彼女以上に特別に想える女性に、出逢うことはないだろう。
 それを、残念だとは思わない。


 エドゥアールは、もう自分の腕の中にすっぽりと収めることができるであろうリシェーナの身体を、抱きしめたい衝動を何とか押しとどめ、線を引く。
 決別する。


「ありがとう、ブラッドベル夫人」

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

拝啓、婚約者さま

松本雀
恋愛
――静かな藤棚の令嬢ウィステリア。 婚約破棄を告げられた令嬢は、静かに「そう」と答えるだけだった。その冷静な一言が、後に彼の心を深く抉ることになるとも知らずに。

あなたが決めたことよ

アーエル
恋愛
その日は私の誕生日パーティーの三日前のことでした。 前触れもなく「婚約の話は無かったことにしよう」と言われたのです。 ‪✰他社でも公開

嫌われたと思って離れたのに

ラム猫
恋愛
 私は、婚約者のカイルに嫌われたと思った。冷たくそっけなく、近づくたびに避けられる日々。  距離を置くことを選び、留学の準備も進めて心を落ち着かせようとするけれど——。

真実の愛を見つけたとおっしゃるので

あんど もあ
ファンタジー
貴族学院のお昼休みに突然始まった婚約破棄劇。 「真実の愛を見つけた」と言う婚約者にレイチェルは反撃する。

なくなって気付く愛

戒月冷音
恋愛
生まれて死ぬまで…意味があるのかしら?

【完結】恋が終わる、その隙に

七瀬菜々
恋愛
 秋。黄褐色に光るススキの花穂が畦道を彩る頃。  伯爵令嬢クロエ・ロレーヌは5年の婚約期間を経て、名門シルヴェスター公爵家に嫁いだ。  愛しい彼の、弟の妻としてーーー。  

行かないで、と言ったでしょう?

松本雀
恋愛
誰よりも愛した婚約者アルノーは、華やかな令嬢エリザベートばかりを大切にした。 病に臥せったアリシアの「行かないで」――必死に願ったその声すら、届かなかった。 壊れた心を抱え、療養の為訪れた辺境の地。そこで待っていたのは、氷のように冷たい辺境伯エーヴェルト。 人を信じることをやめた令嬢アリシアと愛を知らず、誰にも心を許さなかったエーヴェルト。 スノードロップの咲く庭で、静かに寄り添い、ふたりは少しずつ、互いの孤独を溶かしあっていく。 これは、春を信じられなかったふたりが、 長い冬を越えた果てに見つけた、たったひとつの物語。

【完結】その人が好きなんですね?なるほど。愚かな人、あなたには本当に何も見えていないんですね。

新川ねこ
恋愛
ざまぁありの令嬢もの短編集です。 1作品数話(5000文字程度)の予定です。

処理中です...