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エドゥアール、18歳 ①
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ざわざわというざわめきが、波の押し寄せるさざめきのように聞こえる。
つまりは、エドゥアールにとっては、何ら意味をなさない音ということだ。
その中で、意味を持つ音が耳に届いた。
「殿下」
エドゥアールは振り返り、その声の主を探す。
いや、探すまでもない。
人の波の中で、彼女はすぐに見つかった。
「リシェーナ」
思わず、微笑みが零れた。
不思議なことに、エドゥアールの目は、彼女の存在を捉えやすくできているらしい。
視界の中で、彼女という存在だけが、鮮明だ。
リシェーナ・ブラッドベル。
紅の獅子――ジオーク・ブラッドベルの妻である彼女は、今日も夫であるブラッドベル卿に付き添われていた。
ブラッドベル卿は、幼い女の子と手を繋いでいる。
ブラッドベル夫妻の、娘御だ。
リシェーナは、エドゥアールに近づいてくると、屈託のない笑顔を見せる。
「御婚約おめでとうございます」
「ありがとう」
複雑な思いがないわけではないが、エドゥアールはそれを心の中に押しとどめて、微笑む。
そう。 今日は、エドゥアールの婚約記念の祝いなのだ。
王宮内の広間には、人が溢れていて、息苦しさのあまり――…ああ、いや、後ろめたさだろうか――バルコニーに退避しようかと思っていたところだった。
でも、リシェーナのおかげで呼吸がしやすくなった。
もう少し、婚約を喜ぶ殿下を演じていられそうだと思う。
「殿下、おめでとうございます。 シェリー、殿下にご挨拶」
「でんか、おめでとうございます」
ブラッドベル卿に促されて、娘御――シェリーナと言ったか――がエドゥアールを見上げて口にした。
ぎゅっとブラッドベル卿の手を握っているところを見ると、緊張しているのだろう。
けれど、気後れした様子はない。
どちらかというと、性質はブラッドベル卿寄りなのかもしれない、と思いながら、エドゥアールは身を屈めてシェリーナに目線を合わせた。
「ありがとう。 タルトやジュレは好きかな。 プディングやビスコッティもあるよ。 楽しんで行って」
途端、シェリーナの顔が輝いた。
リシェーナと同じ色の瞳をきらきらさせながら、父親であるブラッドベル卿を振り仰ぐ。
娘のきらきら光線を受けたブラッドベル卿は、ふっと吹き出すように笑って、リシェーナを見た。
「リシェ、シェリーとデザート食べに行ってくるね。 人が多いけど、大丈夫?」
はぐれないか、という意味でブラッドベル卿は訊いたのだろう。
リシェーナは杞憂だとばかりに微笑んだ。
「大丈夫。 貴方は目立つから」
「そうだね」
リシェーナの返答に、ブラッドベル卿も優しい笑みを見せる。
エドゥアールの両親は、年季の入った夫婦のような、友人のような気安さがあるけれど、ブラッドベル夫妻は、いつまでも恋人同士のような甘酸っぱい空気がある。
共にいることで、恋が愛に変わり、絆に変質していったのがエドゥアールの両親だとすれば、ブラッドベル夫妻は家族愛の中にいつまでも恋する気持ちが残っているのだろう。
だから、エドゥアールは、ブラッドベル夫妻の間に、割って入る気が起きなかったのだと思う。
そんなことを考えながら、エドゥアールはブラッドベル卿とシェリーナの遠ざかる後ろ姿を見送り、リシェーナを見た。
昔は、見上げていたリシェーナの顔を、今は見下ろせるくらいになったのが、不思議な気分だ。
「…娘御は、パパっ子か?」
問えば、エドゥアールの口から出た「パパっ子」という言葉が面白かったのか、リシェーナは笑った。
その目は、夫と娘の後ろ姿を見つめ続けている。
「そうです。 彼のことが大好き。 わたしとよく似てます」
リシェーナは、素直だ。
十以上も年上の女性に、【素直】という言い方は適切ではないかもしれないが、エドゥアールには未だ、それ以外の言葉が見つけられずにいる。
リシェーナは、夫であるブラッドベル卿を好きな気持ちを、隠したり殺したりはしない。
そして、エドゥアールは、そんなリシェーナのことが、未だに好きなのだ。
だから、静かに微笑む。
「…そうか」
つまりは、エドゥアールにとっては、何ら意味をなさない音ということだ。
その中で、意味を持つ音が耳に届いた。
「殿下」
エドゥアールは振り返り、その声の主を探す。
いや、探すまでもない。
人の波の中で、彼女はすぐに見つかった。
「リシェーナ」
思わず、微笑みが零れた。
不思議なことに、エドゥアールの目は、彼女の存在を捉えやすくできているらしい。
視界の中で、彼女という存在だけが、鮮明だ。
リシェーナ・ブラッドベル。
紅の獅子――ジオーク・ブラッドベルの妻である彼女は、今日も夫であるブラッドベル卿に付き添われていた。
ブラッドベル卿は、幼い女の子と手を繋いでいる。
ブラッドベル夫妻の、娘御だ。
リシェーナは、エドゥアールに近づいてくると、屈託のない笑顔を見せる。
「御婚約おめでとうございます」
「ありがとう」
複雑な思いがないわけではないが、エドゥアールはそれを心の中に押しとどめて、微笑む。
そう。 今日は、エドゥアールの婚約記念の祝いなのだ。
王宮内の広間には、人が溢れていて、息苦しさのあまり――…ああ、いや、後ろめたさだろうか――バルコニーに退避しようかと思っていたところだった。
でも、リシェーナのおかげで呼吸がしやすくなった。
もう少し、婚約を喜ぶ殿下を演じていられそうだと思う。
「殿下、おめでとうございます。 シェリー、殿下にご挨拶」
「でんか、おめでとうございます」
ブラッドベル卿に促されて、娘御――シェリーナと言ったか――がエドゥアールを見上げて口にした。
ぎゅっとブラッドベル卿の手を握っているところを見ると、緊張しているのだろう。
けれど、気後れした様子はない。
どちらかというと、性質はブラッドベル卿寄りなのかもしれない、と思いながら、エドゥアールは身を屈めてシェリーナに目線を合わせた。
「ありがとう。 タルトやジュレは好きかな。 プディングやビスコッティもあるよ。 楽しんで行って」
途端、シェリーナの顔が輝いた。
リシェーナと同じ色の瞳をきらきらさせながら、父親であるブラッドベル卿を振り仰ぐ。
娘のきらきら光線を受けたブラッドベル卿は、ふっと吹き出すように笑って、リシェーナを見た。
「リシェ、シェリーとデザート食べに行ってくるね。 人が多いけど、大丈夫?」
はぐれないか、という意味でブラッドベル卿は訊いたのだろう。
リシェーナは杞憂だとばかりに微笑んだ。
「大丈夫。 貴方は目立つから」
「そうだね」
リシェーナの返答に、ブラッドベル卿も優しい笑みを見せる。
エドゥアールの両親は、年季の入った夫婦のような、友人のような気安さがあるけれど、ブラッドベル夫妻は、いつまでも恋人同士のような甘酸っぱい空気がある。
共にいることで、恋が愛に変わり、絆に変質していったのがエドゥアールの両親だとすれば、ブラッドベル夫妻は家族愛の中にいつまでも恋する気持ちが残っているのだろう。
だから、エドゥアールは、ブラッドベル夫妻の間に、割って入る気が起きなかったのだと思う。
そんなことを考えながら、エドゥアールはブラッドベル卿とシェリーナの遠ざかる後ろ姿を見送り、リシェーナを見た。
昔は、見上げていたリシェーナの顔を、今は見下ろせるくらいになったのが、不思議な気分だ。
「…娘御は、パパっ子か?」
問えば、エドゥアールの口から出た「パパっ子」という言葉が面白かったのか、リシェーナは笑った。
その目は、夫と娘の後ろ姿を見つめ続けている。
「そうです。 彼のことが大好き。 わたしとよく似てます」
リシェーナは、素直だ。
十以上も年上の女性に、【素直】という言い方は適切ではないかもしれないが、エドゥアールには未だ、それ以外の言葉が見つけられずにいる。
リシェーナは、夫であるブラッドベル卿を好きな気持ちを、隠したり殺したりはしない。
そして、エドゥアールは、そんなリシェーナのことが、未だに好きなのだ。
だから、静かに微笑む。
「…そうか」
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