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第五話 父の帰還
しおりを挟むエミリオが付き添い、ミリアーナを乗せた学園の馬車が館に滑り込んだその時、もう一台の馬車が玄関前に止まった。
そこから降り立ったのは、庭師マルコと、一人の薬師――ファオであった。
「……エミリオ!?」
初老の薬師が目を見開いた。
「ファオ先生……!」
驚きの声を返したのは、その弟子であるエミリオだった。
二人の視線が同時に向いた。
エミリオに抱えられている少女――ミリアーナ。
「……ミリアーナ様? どうして……」
ファオの声が揺れる。
「学園で倒れまして。私が付き添いで連れて帰りました」
エミリオの答えに、ファオの表情が険しくなる。
その横でマルコが、帽子を取り、深く頭を下げた。
「私は庭師のマルコと申します……。お嬢様の調子があまりにも悪そうでしたので、勝手ながらファオ先生をお呼びしました。……お二人はお知り合いだったのですね」
「そうか……いや、今は何より休ませねば。彼女の部屋はどこだ?」
その問いに、エントランスに出てきた新しい使用人が一礼して答えた。
「ミリアーナ様のお部屋はこちらでございます」
“お嬢様”ではなく、“ミリアーナ様”。
ただそれだけの違いが、三人の胸に重く響いた。
案内されたのは、侯爵家の娘にふさわしい二階の部屋ではなく、西庭に面した一階の小部屋。
扉を開けた瞬間、光の乏しい空気が流れ出す。簡素な寝具と粗末な家具。小さなテーブルには冷めたスープの器と硬いパンの欠片が残されていた。
「……まさか、ここが……」
エミリオが絶句し、ファオは眉間に深い皺を寄せた。
マルコは拳を握りしめ、低く呟く。
「……お嬢様……。なぜ、私にさえ何も……」
部屋の隅には薬の調合台。乾いた瓶、すり鉢、煮出し鍋がきちんと並べられている。
その片隅に、小さな紙片が貼られた瓶が置かれていた。
――「今週分 アル様用」
震える筆跡。
「……この体調で……まだ作っていたのか……」
ファオは瓶を抱きしめるように握り、声を震わせた。
「何か、彼女の体調の変化がわかるものなどはないか…」
エミリオは部屋を見渡すが、がらんとしている部屋には日記などは見当たらない。
そこでファオが、調合台にある革表紙の厚いノートを指差す。
「あのノートは、ミリアーナ嬢が私のところに来る度に持参し、記入していたものだ。中に日記のようなものを走り書きしているのをみた事がある」
ノートは何冊も積まれていた。背表紙には「作成記録」と記されている。
エミリオはためらいながら手を伸ばす。
「……薬の調合記録のようですね。彼女にはすまないが、何か手がかりがあるかもしれない。最新版だけ確認させてもらいます」
「いいだろう。……少しでも、彼女の状況を知りたい」
ファオの声は苦しげだった。
ページを繰ると、緻密な分量や工夫が整然と記されている。
「蜂蜜を増やして飲みやすく」「煎じ時間を三分延ばす」――その合間に、かすれた走り書きが目を刺した。
――「ここ数日、頭の痛みが強い」
――「吐き気のせいで試飲できなかった」
――「手が震えて字が歪む。すぐ治ればいいのだが」
読み進めるごとに、その記録は乱れ、最後の方は解読困難なほど字が崩れていた。
「……これは……」
エミリオは顔を上げられなかった。
「ファオ先生、この症状は……」
差し出された記述に、ファオの顔はさらに硬くなる。
「……ここまで進んでいるのに、なぜ……」
その呟きに、マルコが唇を震わせた。
「お嬢様は何度か、医者にかかりたいとルクレツィア様にお願いされていました。ですが“必要ない、気のせいだ”と……。それに旦那様が戦っておられるのだから、心配はかけられぬと……」
エミリオは歯を食いしばる。
「……今は言っても詮ない。できることをしよう」
「そうだ。私たちで支えるしかない」
ファオが深く頷いた。
二人はそれぞれの医院に使いを走らせ、必要な薬と看護師を呼び寄せた。
侯爵邸を臨時の診療所とし、ミリアーナの枕元に付き添った。
――それから五日が過ぎた、その夜。
玄関に複数の馬の嘶きと人々のざわめきが響いた。
ロベルトが、弟ダニエルと数人の騎士を伴い、領地から戻ってきたのだ。
本来なら片道七日はかかる距離。
学園から急使が領地に届くのに七日、さらに戻るのに七日――それが常であった。
だが今回は、王家の援軍により隣国の策謀が露見し、侯爵家の当主らは急ぎ帰還を命じられていた。
その途上で偶然にも学園の急使と行き合い、ミリアーナの異変を記した手紙を受け取ったのだ。
ロベルトはただちに騎馬で進軍を離脱し、無理を重ねて駆けに駆け、五日目の夜には館へと戻った。
馬から飛び降りたロベルトは、泥に汚れた長靴のまま階段を駆け上がった。
「ミリアーナ!」
叫びながら扉を開け放ったその先――そこにいたのは、カリナとエドアルドだった。
豪奢なソファーに並んで座る二人。
部屋には、かつてセラフィーナが娘のために整えた品々がそのまま残っている。
「……なぜ……ここに……ここに貴様らがいる!」
その声は雷のように響き、空気が凍りついた。
「ミリアーナ様は……こちらではなく……」
背後から、使用人がおずおずと告げる。
「西庭の、小部屋に……」
その瞬間、彼の表情が凍りついた。
胸を抉られる痛みに顔を歪め、踵を返すと、狂おしい勢いで廊下を駆け抜けていく。
その騒ぎに驚き、女主人の部屋からルクレツィアが姿を現した。
戻ってきたロベルトを見て、顔色を失い、呆然と呟く。
「……なんで……あいつは生きてるの?」
その声は、背後に控えていた王国騎士団の耳に、はっきりと届いていた。
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