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第4話 公爵家からの呼び出し
翌朝。
いつも通り、寝ぼけ眼で分厚い本を開き、誰に咎められるでもなく静かに過ごす――それがショウイン侯爵家三男、アトラスの日常だった。
期待もされず、叱責もされず、ただ「勉強でもしておけ」と言われて生きてきた彼の朝は、いつも同じ。
だが、その日は違った。
「アトラーース!!」
扉を叩き割らんばかりの声とともに、次兄ハイノスが怒鳴り込んできた。
ベッドの上で本を読んでいたアトラスは、のんきにページをめくる手を止め、ぽかんと顔を上げる。
「……お久しぶりです、兄上。えっと……ハイノス兄上、ですよね?」
「当たり前だ!」
顔を真っ赤にしたハイノスは、畳みかけるように叫んだ。
「それよりお前、今フォレスト公爵家からお迎えが来ている! “アトラスを出せ”と直々におっしゃっているんだ!」
「え? 何のご用事でしょう?」
「私が知るはずがないだろう! 一体何をしでかしたんだ、お前は!」
「え……いえ、その……特に何も……していないと、思うんですけど……」
「もういい! さっさと支度をして奥の間まで来い!」
ハイノスは吐き捨てるように言い、扉を勢いよく閉めて去っていった。
廊下を去りながら、拳を握りしめる。
(ああ、こんな日に限って兄上は家にいないし……いや、いても“まあいいじゃないか”で済ませるだけだ。役には立たん!)
こみ上げる苛立ちに胃がきりきりと痛む。
(今まで兄上だけが胃痛の元だったのに……アトラスまでも……! くそっ、この調子でいけば胃の次は髪まで犠牲に……いや、髪だけは死守してみせる!)
真剣な覚悟を胸に、ハイノスは頭を抱えた。
一方その頃、アトラスはため息をつき、ボサボサの頭をかいた。
「ああ……面倒だ。休みの日に、なんだろう……」
ぶつぶつ呟きながら、ようやくノロノロと支度を始める。
◇
奥の間に向かうと、フォレスト公爵家の紋章を胸に刻んだ老執事が静かに一礼した。
「お待ちしておりました、ショウイン侯爵家三男アトラス様。ご同行を願えますでしょうか」
「え、あ、はい……」
執事の後ろをついて屋敷を出ると、黒塗りの馬車が待っていた。
扉が開かれ、アトラスは鞄を抱え直し、段差を確かめたつもりで足を掛け――
「わっ……!」
踏み外しかけた体を、執事の手がすっと支える。
「……す、すみません。ありがとうございます」
頬を赤くして頭を下げ、馬車に腰を下ろす。
膝の上で鞄を抱えながら小さく呟いた。
「……なんで僕は、いつもこういうところで失敗しちゃうんだろうなあ」
馬車は石畳を静かに進み、やがてフォレスト公爵家の壮麗な門をくぐる。
◇
重厚な扉が開かれると、吹き抜けの玄関ホールが広がった。
大理石の床、左右に伸びる大階段、燭台の光が壁の絵画を照らす。
その中心に――エヴァリーンがいた。
深緑のドレスに身を包み、背筋を伸ばして立つ姿。
アトラスの目には輪郭がぼやけて細部まではわからない。けれど、不思議と「光の中に立つ女神様」のように見えた。
「ようこそいらしてくださいました。……あのときのノートの持ち主、ショウイン侯爵家のアトラス様ですね」
澄んだ声に、アトラスは慌てて頭を下げる。
「は、はい。僕、アトラスと申します」
◇
客間に通される。深いソファ、香り高い茶器。慣れない空気に、アトラスは鞄を膝に抱えたまま小さく身を縮めた。
そのとき――
「おお、こいつが例の三男坊か!」
ドカドカと大股で入ってきたのは、フォレスト公爵本人だった。
従者も侍女も慌てて頭を下げる中、公爵は構わずアトラスの前まで来る。
「よくやったな、小僧! あのボンクラ王子の茶番をぶち壊してくれたとは!
ふん、あんな阿呆と縁が切れたのは我が家にとって幸運だ。エヴァリーンもせいせいしただろう?」
アトラスは思わず鞄を抱きしめ直し、目を瞬かせる。
「え、えっと……その……」
横でエヴァリーンが小さくため息をつき、口元に微笑を浮かべた。
「お父様、けれどセドリックが“わたくしを子爵家へ移す”などと口走っておりましたわ」
「はっ!」
公爵は鼻で笑う。
「そんなもの、認めるはずがないだろう! 跡継ぎも家の行く末も、すべて私が決める。出来の悪い弟の戯言など、聞くだけ無駄だ!」
「お父様……もう少しお言葉をお選びになったほうがよろしいかと」
「何だ、事実だろうが!」
公爵はますます声を張り上げる――が、すぐにふっと立ち上がった。
「さて、私はこれから王宮の会合だ。長居はできん。だが礼だけは言わせてもらおう。アトラス、よくやった。お前のおかげで我が家は救われた」
大股に歩きかけ、振り返る。
「ああ、そうだ。今日は泊まっていけ。夕食も一緒にとろうではないか!」
「え、えっと……僕なんかが……」
「決まりだ!」
手をひらひらと振って、公爵はあっという間に去っていった。重い扉が閉まる。
エヴァリーンが小さく笑う。
「ふふ……お父様はいつもあんな感じなのです。お気になさらず」
「は、はい……」
「それと――改めて。あのときのノート、ありがとう。あなたが差し出してくれなければ、わたくしは理不尽を受け入れさせられていたかもしれません」
「い、いえ。僕はただ、書いていただけで……」
エヴァリーンは侍女に目で合図を送った。奥の扉が開き、背筋の伸びた壮年の男と、革の道具箱を抱えた従者が姿を見せる。
「紹介しますわ。王都でも評判の眼鏡矯正師です。――あなた、遠くのものがよく見えていないのでしょう?」
アトラスは目を丸くする。
「えっ……な、なぜ」
「わたくしにノートを渡そうとして、侍女に差し出したでしょう。……あの瞬間に気づきましたの」
矯正師が恭しく会釈した。
「では、少々拝見いたします」
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