【完結・番外編更新中】断罪劇をぶち壊したのは、すみっこのメモ魔です 〜気付けばとんでもないことになっていた〜

桜野なつみ

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第5話 鮮やかな視界


「さて、窓の外、遠くをご覧ください」

矯正師に促されるまま、アトラスは窓の外へ視線を向けた。
朝の日差しを浴びて、王都の石造りの街並みが広がっている。

「……あの、白いの、なんでしょう。鳥、ですか?」

矯正師は目を瞬かせた。
「白いの、とは? あれは鐘楼の時計でございます」

「えっ……! あれ、時計ですか」

矯正師は頷き、手際よくレンズを入れ替えながら言葉を続ける。
「やはり強い近視でいらっしゃる。遠くは霞んで見えるはずですな」

アトラスは照れたように頬を掻いた。
「……やっぱり、ずっとおかしいなとは思ってたんです。黒板の字がぜんぜん読めなくて、いつも耳で覚えてましたから」

矯正師は苦笑し、レンズを調整する。
「それを“おかしいな”で済ませてしまわれるとは」

やがて矯正師は満足げに頷いた。
「ちょうど良い度数が出ました。今から急ぎで作らせましょう。明朝には仕上がります。本日は仮の眼鏡をお貸しします」

エヴァリーンが微笑む。
「ですので、今日は我が家でゆっくりとなさってください。ショウイン家にはこちらから使いを出しておきますわ」

アトラスはおそるおそる仮の眼鏡を受け取り、耳に掛けた。
その瞬間――世界が変わった。
鐘楼の文字が一つひとつ見える。庭に咲く花が色ごとに揺れ、葉の一枚一枚が光を受けて煌めいている。

そして、正面に立つエヴァリーンを見た。
今まで霞んでいた輪郭が、鮮やかに結ばれる。
端正な横顔、透き通る瞳、凛とした佇まい――。

「……美しい」

思わずこぼれた言葉に、自分で気づいて耳まで真っ赤になった。
「あ、いえっ! 景色が……景色が美しいっていう意味で……!」

「ふふ。ありがとうございます」
エヴァリーンは柔らかな笑みを浮かべ、そっと問いかけた。
「よろしければ、このあと――図書館をご覧になります?」

「えっ、いいんですか」
アトラスは仮の眼鏡をつるを直しながら、こくりと頷いた。



フォレスト家の図書館。
高い天井まで届く書架がずらりと並び、革装の背表紙や金の箔押しが整然と並ぶ。
足を踏み入れた瞬間、アトラスの瞳は子供のように輝いた。

「……ああ、すごい。本当に、なんでも見える……!」
彼は思わず息をのんだ。
「あんなところに――ロッソ語の原典があります!」

「あなた、ロッソ語が読めるの?」
エヴァリーンが驚いたように問いかける。

「辞典を片手に少しずつ……気づいたら、あまり難しくないものなら」
アトラスは照れ笑いを浮かべ、さらに視線を走らせる。
「その隣はビアンコ語の詩篇集。……こちらはネロ語の年代記ですよね」

「正解ですわ」
エヴァリーンは愉快そうに微笑んだ。

アトラスは書架を見上げ、思わず背伸びをした。
「うわ……あんな上の段、初めてはっきり見えました。あれは……『大陸古代植物誌』!」
気づけば梯子に足をかけていた。

これまで目が悪く、怖くて登れなかった梯子。
だが今日は違った。
視界に映る段差を確かめながら、慎重に登っていく。
指先で触れた背表紙をそっと引き抜き、抱きかかえる。

「取れた……!」
小さく呟き、胸に抱いたその瞬間、彼の世界がひとつ広がった気がした。



机に本を広げたアトラスは、夢中になってページを繰り始めた。
眼鏡越しに映る細やかな文字や挿絵が、鮮やかに彼の頭の中に飛び込んでくる。
やがてエヴァリーンの存在をすっかり忘れ、ただ本と向き合っていた。

その間に、彼女は使用人にお茶を命じ、向かいのソファに腰を下ろして静かに本を開いていた。
しばらくしてふと顔を上げたアトラスは、対面でページを繰るエヴァリーンの姿を見て息をのむ。

光に照らされた横顔は神々しいほど美しく、静けさの中にただ一人、凛として存在していた。
気づかれまいと慌てて視線を逸らす――だが、遅かった。

「……何か?」
顔を上げたエヴァリーンが、微笑みを浮かべて問いかける。

アトラスは真っ赤になり、手近な本を持ち上げて顔を隠した。
「い、いえっ! なんでもありません!」

その仕草に、エヴァリーンはクスッと笑って再び本へと視線を落とす。
アトラスも、胸の鼓動を抑えながら本へ目を戻した。

――やがて、二人の間に穏やかな時間が流れた。
ページをめくる音だけが響き、静かな空気の中で、アトラスは自分の世界がどんどん広がっていくのを確かに感じていた。



視界が開けたその瞬間から、彼の世界は静かに新しい輪郭を描き始めた。
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