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第53話 王都へ
馬車は、静かに街道を進んでいた。
窓の外を流れていく景色を眺めながら、アトラスは膝の上で指を組み、向かいの席に座る二人を見ていた。
エヴァリーンとサリーナは並んで腰掛け、いつの間にか肩の力を抜き、穏やかな空気をまとっている。
交わされているのは、重い話ではなかった。
領地のことでも、裁きのことでもない。
以前立ち寄った菓子店の話。
王都で評判になっている、新しい店のこと。
帰ったら一緒に行きましょう、とエヴァリーンが言い、サリーナが少し照れたように頷く。
話題は自然と、ドレスや装身具へと移っていった。
卒業夜会の話が出ると、サリーナの声がわずかに弾む。
新鋭のデザイナーが入った店があるらしい。若いのに、その人に合うものを不思議なほど正確に見抜くのだという。
それなら、それに合わせる宝石は――と、エヴァリーンが楽しげに続けた。
アトラスは、そのやり取りを黙って聞いていた。
(……こういう会話、初めてかもしれない)
自分の家には、兄しかいない。
母はいるが、菓子やドレスの話を、息子たちに向けてする人ではなかった。
食卓では、どちらかというと仕事や政治の話が多く、剣の話が交じることも珍しくない。
それが、彼にとっては当たり前の光景だった。
だから、目の前で交わされる会話は、どこか別世界のもののように感じられた。
軽やかで、どこか甘い香りを伴っている。
未来を楽しみにする声が、無理なく、自然に混じっている。
その視線に気づいたのだろう。
エヴァリーンが、ふっとこちらを見て微笑んだ。
「……あら、ごめんなさい。私たちばかりで話をしてしまって。退屈でしたわよね?」
その言葉に、サリーナもアトラスを見る。
アトラスは、ほんの少し考えてから、正直に答えた。
「いえ。僕の家では聞かない種類の会話なので、とても面白いです」
それは取り繕いでも、遠慮でもなかった。
エヴァリーンは一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく頷く。
「そうね。アトラス様のところは、ご兄弟ばかりですものね……お母様とも、あまりこういうお話はなさらないの?」
アトラスは首を傾げた。
「母上は……そうですね。お菓子やドレスなどの話は、僕たちにはしませんでした」
思い返しながら、言葉を探す。
「どういう会話をしていたか……正直、あまり気にしていなかったので」
一瞬、考え込んでから、ふと思い出したように続ける。
「……あ。以前、エヴァリーン様から頂いた眼鏡を、初めてかけた時のことですが。母上の目尻に皺があるのに気づいて、つい口に出してしまって」
言い終える前に、エヴァリーンの表情が変わった。
「アトラス様」
その声は柔らかいが、きっぱりとしている。
「それは……二度と口にしない方がよろしくてよ」
サリーナが思わず口元を押さえ、くすりと笑った。
アトラスは素直に頷く。
「はい。兄上たちにも、同じことを言われました」
馬車の中に、控えめなくすくすという笑いが落ちる。
しばし、その余韻が残ったあと、アトラスはぽつりと続けた。
「母上は、どちらかというと……剣の話をしていることが多いですね。今でも我が家で鍛錬をしているので」
その言葉に、エヴァリーンが目を輝かせる。
「まあ……それは素敵ですわね」
「素敵なのかどうかは……ただ、元気な母上です」
そう言ってから、ふと思い出したように続ける。
「あ、そういえば。王都に戻ったら、エヴァリーン様を鍛錬に誘うように、と言われていたのでした」
「え?」
サリーナが、思わず声を上げる。
「公爵様の了承は取ってある、と申しておりました」
エヴァリーンの表情が、ぱっと明るくなった。
「……あら。嬉しいわ。ぜひ、お邪魔させていただくわ」
その言葉に、アトラスは小さく頷いた。
馬車は、王都へ向かって進み続ける。
サリーナは、これから領主になる。
エヴァリーンもまた、公爵の地位へと座るだろう。
ハイノスは、官僚としてこの国を静かに支える。
そして自分は――
(……僕は、相変わらず、少し外側だな)
そんなふうに思いながらも、不思議と寂しさはなかった。
記録する者として。
見て、聞いて、残す者として。
誰かが前に立つために、後ろで光を当てる役割があることを、アトラスはもう知っている。
馬車が、王都の門をくぐる。
それぞれの役割が、静かに、しかし確かに、動き出していた。
窓の外を流れていく景色を眺めながら、アトラスは膝の上で指を組み、向かいの席に座る二人を見ていた。
エヴァリーンとサリーナは並んで腰掛け、いつの間にか肩の力を抜き、穏やかな空気をまとっている。
交わされているのは、重い話ではなかった。
領地のことでも、裁きのことでもない。
以前立ち寄った菓子店の話。
王都で評判になっている、新しい店のこと。
帰ったら一緒に行きましょう、とエヴァリーンが言い、サリーナが少し照れたように頷く。
話題は自然と、ドレスや装身具へと移っていった。
卒業夜会の話が出ると、サリーナの声がわずかに弾む。
新鋭のデザイナーが入った店があるらしい。若いのに、その人に合うものを不思議なほど正確に見抜くのだという。
それなら、それに合わせる宝石は――と、エヴァリーンが楽しげに続けた。
アトラスは、そのやり取りを黙って聞いていた。
(……こういう会話、初めてかもしれない)
自分の家には、兄しかいない。
母はいるが、菓子やドレスの話を、息子たちに向けてする人ではなかった。
食卓では、どちらかというと仕事や政治の話が多く、剣の話が交じることも珍しくない。
それが、彼にとっては当たり前の光景だった。
だから、目の前で交わされる会話は、どこか別世界のもののように感じられた。
軽やかで、どこか甘い香りを伴っている。
未来を楽しみにする声が、無理なく、自然に混じっている。
その視線に気づいたのだろう。
エヴァリーンが、ふっとこちらを見て微笑んだ。
「……あら、ごめんなさい。私たちばかりで話をしてしまって。退屈でしたわよね?」
その言葉に、サリーナもアトラスを見る。
アトラスは、ほんの少し考えてから、正直に答えた。
「いえ。僕の家では聞かない種類の会話なので、とても面白いです」
それは取り繕いでも、遠慮でもなかった。
エヴァリーンは一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく頷く。
「そうね。アトラス様のところは、ご兄弟ばかりですものね……お母様とも、あまりこういうお話はなさらないの?」
アトラスは首を傾げた。
「母上は……そうですね。お菓子やドレスなどの話は、僕たちにはしませんでした」
思い返しながら、言葉を探す。
「どういう会話をしていたか……正直、あまり気にしていなかったので」
一瞬、考え込んでから、ふと思い出したように続ける。
「……あ。以前、エヴァリーン様から頂いた眼鏡を、初めてかけた時のことですが。母上の目尻に皺があるのに気づいて、つい口に出してしまって」
言い終える前に、エヴァリーンの表情が変わった。
「アトラス様」
その声は柔らかいが、きっぱりとしている。
「それは……二度と口にしない方がよろしくてよ」
サリーナが思わず口元を押さえ、くすりと笑った。
アトラスは素直に頷く。
「はい。兄上たちにも、同じことを言われました」
馬車の中に、控えめなくすくすという笑いが落ちる。
しばし、その余韻が残ったあと、アトラスはぽつりと続けた。
「母上は、どちらかというと……剣の話をしていることが多いですね。今でも我が家で鍛錬をしているので」
その言葉に、エヴァリーンが目を輝かせる。
「まあ……それは素敵ですわね」
「素敵なのかどうかは……ただ、元気な母上です」
そう言ってから、ふと思い出したように続ける。
「あ、そういえば。王都に戻ったら、エヴァリーン様を鍛錬に誘うように、と言われていたのでした」
「え?」
サリーナが、思わず声を上げる。
「公爵様の了承は取ってある、と申しておりました」
エヴァリーンの表情が、ぱっと明るくなった。
「……あら。嬉しいわ。ぜひ、お邪魔させていただくわ」
その言葉に、アトラスは小さく頷いた。
馬車は、王都へ向かって進み続ける。
サリーナは、これから領主になる。
エヴァリーンもまた、公爵の地位へと座るだろう。
ハイノスは、官僚としてこの国を静かに支える。
そして自分は――
(……僕は、相変わらず、少し外側だな)
そんなふうに思いながらも、不思議と寂しさはなかった。
記録する者として。
見て、聞いて、残す者として。
誰かが前に立つために、後ろで光を当てる役割があることを、アトラスはもう知っている。
馬車が、王都の門をくぐる。
それぞれの役割が、静かに、しかし確かに、動き出していた。
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