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第54話 屋上、いつもの席で
学園の門をくぐった瞬間、アトラスは胸の奥で小さく息を吐いた。
石畳の感触も、行き交う制服の擦れる音も、遠くから聞こえる笑い声も――すべて、いつも通りだ。まるで何事もなかったかのように、学園は淡々と日常を続けている。
けれど、当たり前の顔をして過ぎていくものほど、時に残酷だ。
(戻ってきたんだな)
そう思った途端、心のどこかが、ふっと軽くなるのがわかった。ユーグラス伯爵領で感じた張り詰めた空気も、硬い扉の音も、言葉の一つひとつが誰かの人生を左右するあの緊張も――ここにはない。
それでも、戻ってきた自分が「前と同じ」かと問われれば、違うとしか言えなかった。
授業の合間に交わされる視線は、相変わらず多い。剣術大会の準優勝という“話題”は、まだ新しい。だがその視線の中には、ほんのわずか、別の色が混じっている気がした。
(……気のせいじゃないな)
サリーナのこと。ユーグラス伯爵家のこと。王宮監査官が動いたという噂は、学園という閉じた世界にも、遅れて必ず届く。誰も確かなことは知らない。それでも、聞き齧った断片だけで、勝手に物語を作り、勝手に納得していく。
――だからこそ、記録は必要なのだ。
昼休みが来ると、アトラスは自然な足取りで屋上へ向かった。階段を上がり、重たい扉を押し開く。風が頬を撫でる。少し冷たいが、嫌ではない。
屋上には、いつもの場所がある。
日当たりが良く、手すりの影がほどよく落ちる角。そこへ腰を下ろし、鞄から弁当を取り出す。そして、もう一つ――薄い革表紙のノートを引き出した。
メモ帳。
それは、アトラスにとって、長い間ただの習慣だった。気になった言葉、耳に入った噂、誰かの評価。理由があるわけでも、使い道があるわけでもなく、書き留めてきた。むしろ、使うために書いたことなど、ほとんどない。
けれど今は――
指先で紙を押さえ、ペン先を落とした瞬間、ふと考える。
(もしも、使えることがあるのなら)
あの日、記録が人を追い詰める刃にもなり得ると、自分は知った。同時に、記録が嘘を逃さず、真実を繋ぎ、誰かを救う力になることも、知ってしまった。
(そして、この情報が――誰かの人生を変えるのであれば)
だから、今日は少しだけ、メモの取り方が違った。
たとえば、ただ「誰が誰と話していた」と書くのではなく、そこに漂っていた空気や、相手の言葉の癖まで拾う。何気ない一言に、どんな意図が滲んでいたのか。聞き手がどう反応したのか。ほんの些細な“引っかかり”を、後で見返せるように。
弁当を一口食べる。噛みしめながら、また書く。
屋上の風の音に混じって、遠くで鐘が鳴った気がした。その時だった。
扉が開く音がして、足音が近づいてくる。
振り向くまでもない。あの歩幅と、躊躇のない気配は、一人しかいない。
「久しぶりだな」
第二王子マクシムが、屋上の光の中を歩いてきた。
同じ二年生。けれど、立ち姿にある“場”の作り方が違う。本人が望む望まないに関わらず、人が自然に視線を向けてしまう。そういう種類の人間だ。
マクシムはアトラスの前で立ち止まり、軽く顎を上げた。
「エヴァリーン殿とユーグラス伯爵領へ行っていたと、報告は聞いたぞ」
アトラスはペンを置き、短く頭を下げた。
「ご心配をおかけしました」
「心配、というより興味だ。お前がわざわざ同行する案件は、だいたい面倒な匂いがする」
淡々とした言い方なのに、なぜか笑いが混じる。
アトラスは少しだけ視線を逸らし、言葉を選んだ。
「……殿下が采配されたのではないのですか」
マクシムが目を細める。
「ん? ああ……バレているか」
「はい。なんとなく、わかりました」
王子が、動く。しかも、直接ではなく、手を伸ばした先で状況を整える。今回の件は、そういう気配が最初からあった。フォレスト公爵が動けたこと、監査官が迷いなく入ったこと、そしてハイノスが“王宮と公爵からの命”として補佐官に据えられたこと。
どれも偶然とは思えなかった。
マクシムは屋上の手すりに肘をつき、空を見上げるようにして言った。
「これから我が国をな、変えていきたいと思ってな」
風が吹き、マクシムの髪がわずかに揺れる。
「女性ばかりが割を食う。そういう部分を変えていければいいなと思ってな」
その言葉は、屋上の空気に落ちて――意外なほど、軽かった。軽薄という意味ではない。重く、正しく、立派な理念は、時に聞く側の心を押し潰す。だがマクシムの言葉は、押し付けではなく、ただ“決意の報告”だった。
アトラスは、息を飲みかけて、やめた。
「……殿下」
そう呼んだ瞬間、マクシムが眉を寄せた。
「マクシムと呼べと言ってるだろう」
「は、はあ……マクシムでん――」
「だから、マクシムだ」
言い切る声に、妙な強さがあった。
「しかし……」
アトラスは困惑したまま口を開きかける。だが、マクシムは先回りするように、少しだけ声を落とした。
「しかし、じゃない。お前には、これからも横に並び立ってもらいたいからな」
横に。
その言葉が、胸のどこかに引っかかった。王子の横に並ぶなど、普通は望まない。望んだ瞬間、あまりにも多くの責任が背負わされる。
けれどマクシムは、当然のことのように言う。
「だから、マクシムと呼べ」
アトラスは、短く息を吐いて頷いた。
「……はい、マクシム」
たったそれだけの呼び方の変化が、距離を変える。誰かを“殿下”と呼ぶのは、壁を作ることでもある。自分が下であると宣言し、相手を上に置く。そこに安全がある代わりに、責任は置いていかれる。
マクシムは壁を壊したかったのだろうか。それとも、壊させたかったのか。
答えはわからない。
だが、わかったことは一つある。
(……この人は、本気だ)
マクシムは空を見たまま、唐突に話題を変えた。
「それで、だ」
その声の温度が、ぐっと下がる。何か企んでいる時の声だ。
「お前、エヴァリーン殿を剣の修行に誘っただろう?」
アトラスは思わず目を見開いた。
「え? なんでそれを……」
マクシムが得意げに口角を上げる。
「お前ほどじゃないが、俺も地獄耳でな!」
そして、言い切った。
「それ、俺も混ぜろ!」
アトラスは言葉を失い、瞬きをした。
屋上の風が、変な間を誤魔化すように吹き抜ける。
「ええっ……? 母上の特訓ですよ?」
「いいんだ、混ぜろ」
迷いのない声だった。
「女性の剣も見てみたい」
アトラスは、頭の中で母――カトリーヌの姿を思い浮かべた。普段は穏やかで、淡い微笑みを絶やさない人だ。だが剣を持つと、空気が変わる。戦場の匂いがするというか、どこか“生存のための剣”になる。
「……すごく、変わってますよ、母上の剣は。何せ、辺境の剣ですから」
アトラスがそう言うと、マクシムは頷いた。
「ああ、知っている。だからこそだ」
知っている、という言葉が軽くない。王子の知っているは、噂ではなく情報だ。どこまで調べているのかと思うと、背筋が少し寒くなる。
アトラスは小さく息を吐いて、諦めたように頷いた。
「……はい、わかりました。今日の放課後に、エヴァリーン様がいらっしゃいますが」
「では、俺も行かせてもらおう!」
言い終える前に決まっている勢いだった。
アトラスは思わず確認した。
「いいんですか? そんな急に」
マクシムは、ふふん、と鼻で笑う。
「うちもな、兄上に仕事を押し付けて良いことになってな」
その一言で、嫌な予感がした。
「……シスタン殿下ですか?」
「そうだ」
マクシムは、あっさりと言う。
「どうやら時間ができたらしく、兄上がやってくれることになったらしい」
アトラスは一瞬、言葉に詰まった。
「そ、そうですか……」
あの第一王子が、時間ができた。しかも“仕事をやってくれる”。その文言だけを聞くと平和だが、裏に何があるのかを考え出すと胃が痛くなる。ハイノス兄上の胃薬棚が頭をよぎった。
マクシムは楽しそうに続ける。
「だから今日から俺も、お前の家に行くからな!」
宣言だ。
アトラスは、短く頷いた。
「わかりました」
返事をした瞬間、妙に胸の奥が落ち着いた。断れないからではない。断る理由がないからだ。
エヴァリーンが強くなろうとしている。母、カトリーヌはそれを受け止める。そこにマクシムが入ることで、きっと何かが変わる。少なくとも、“女性の剣”を見たいという言葉は、軽い好奇心ではない。
(変えていくって言った、その延長なんだ)
アトラスは、膝の上のノートに視線を落とした。
今の会話を、記録する。
――第二王子マクシム。昼休み、屋上にて。
――女性が割を食う国の仕組みを変えたいという意志。
――剣の修行に興味。エヴァリーンの鍛錬に同席希望。
――「横に並び立つ」という言葉。
ペン先が止まる。
(もしこれが、誰かの人生を変えるなら)
この言葉を、どう書き留めるべきだろう。政治的な野心と書けば安っぽい。理想と書けば美しくなりすぎる。だが、確かにこの男の中には、変えたいという熱がある。
アトラスは、最後に一行だけ付け加えた。
――この意志は、冗談ではない。
書き終えたところで、マクシムが覗き込むようにして言った。
「……相変わらず書くな」
「習慣です」
「その習慣が、国を動かす時代になるかもしれんぞ」
軽く言っているようで、軽くない。
アトラスはノートを閉じ、弁当の残りに手を伸ばした。
屋上の風が、少しだけ温くなった気がした。
午後の授業が始まる鐘が鳴る。
日常は、また何事もなかったかのように動き出す。
けれど、アトラスの中では、確かに何かが変わっていた。
放課後。
ショウイン侯爵家で、エヴァリーンが剣を取る。
母――カトリーヌが、その前に立つ。
そこに、第二王子マクシムも加わる。
そして――自分も。
(……記録するだけじゃ、足りないな)
剣を持つ手の感覚。
息の詰まる距離。
踏み込み一つで変わる、相手の重心。
それらは、紙の上では完全には残らない。
だからこそ、自分の身体で知る必要がある。
(見て、聞いて、そして――立つ)
前に出る者の横に立つために。
支える者として、同じ場に立つために。
アトラスは、膝の上のノートを閉じた。
今日は、ここまででいい。
剣を握る時間は、記録ではなく、自分自身に刻む。
そのすべてが、いつか言葉になると信じて。
彼は立ち上がり、空を一度だけ見上げた。
(……今日も、記録しておこう)
それが、いつか誰かの盾になると信じて。
石畳の感触も、行き交う制服の擦れる音も、遠くから聞こえる笑い声も――すべて、いつも通りだ。まるで何事もなかったかのように、学園は淡々と日常を続けている。
けれど、当たり前の顔をして過ぎていくものほど、時に残酷だ。
(戻ってきたんだな)
そう思った途端、心のどこかが、ふっと軽くなるのがわかった。ユーグラス伯爵領で感じた張り詰めた空気も、硬い扉の音も、言葉の一つひとつが誰かの人生を左右するあの緊張も――ここにはない。
それでも、戻ってきた自分が「前と同じ」かと問われれば、違うとしか言えなかった。
授業の合間に交わされる視線は、相変わらず多い。剣術大会の準優勝という“話題”は、まだ新しい。だがその視線の中には、ほんのわずか、別の色が混じっている気がした。
(……気のせいじゃないな)
サリーナのこと。ユーグラス伯爵家のこと。王宮監査官が動いたという噂は、学園という閉じた世界にも、遅れて必ず届く。誰も確かなことは知らない。それでも、聞き齧った断片だけで、勝手に物語を作り、勝手に納得していく。
――だからこそ、記録は必要なのだ。
昼休みが来ると、アトラスは自然な足取りで屋上へ向かった。階段を上がり、重たい扉を押し開く。風が頬を撫でる。少し冷たいが、嫌ではない。
屋上には、いつもの場所がある。
日当たりが良く、手すりの影がほどよく落ちる角。そこへ腰を下ろし、鞄から弁当を取り出す。そして、もう一つ――薄い革表紙のノートを引き出した。
メモ帳。
それは、アトラスにとって、長い間ただの習慣だった。気になった言葉、耳に入った噂、誰かの評価。理由があるわけでも、使い道があるわけでもなく、書き留めてきた。むしろ、使うために書いたことなど、ほとんどない。
けれど今は――
指先で紙を押さえ、ペン先を落とした瞬間、ふと考える。
(もしも、使えることがあるのなら)
あの日、記録が人を追い詰める刃にもなり得ると、自分は知った。同時に、記録が嘘を逃さず、真実を繋ぎ、誰かを救う力になることも、知ってしまった。
(そして、この情報が――誰かの人生を変えるのであれば)
だから、今日は少しだけ、メモの取り方が違った。
たとえば、ただ「誰が誰と話していた」と書くのではなく、そこに漂っていた空気や、相手の言葉の癖まで拾う。何気ない一言に、どんな意図が滲んでいたのか。聞き手がどう反応したのか。ほんの些細な“引っかかり”を、後で見返せるように。
弁当を一口食べる。噛みしめながら、また書く。
屋上の風の音に混じって、遠くで鐘が鳴った気がした。その時だった。
扉が開く音がして、足音が近づいてくる。
振り向くまでもない。あの歩幅と、躊躇のない気配は、一人しかいない。
「久しぶりだな」
第二王子マクシムが、屋上の光の中を歩いてきた。
同じ二年生。けれど、立ち姿にある“場”の作り方が違う。本人が望む望まないに関わらず、人が自然に視線を向けてしまう。そういう種類の人間だ。
マクシムはアトラスの前で立ち止まり、軽く顎を上げた。
「エヴァリーン殿とユーグラス伯爵領へ行っていたと、報告は聞いたぞ」
アトラスはペンを置き、短く頭を下げた。
「ご心配をおかけしました」
「心配、というより興味だ。お前がわざわざ同行する案件は、だいたい面倒な匂いがする」
淡々とした言い方なのに、なぜか笑いが混じる。
アトラスは少しだけ視線を逸らし、言葉を選んだ。
「……殿下が采配されたのではないのですか」
マクシムが目を細める。
「ん? ああ……バレているか」
「はい。なんとなく、わかりました」
王子が、動く。しかも、直接ではなく、手を伸ばした先で状況を整える。今回の件は、そういう気配が最初からあった。フォレスト公爵が動けたこと、監査官が迷いなく入ったこと、そしてハイノスが“王宮と公爵からの命”として補佐官に据えられたこと。
どれも偶然とは思えなかった。
マクシムは屋上の手すりに肘をつき、空を見上げるようにして言った。
「これから我が国をな、変えていきたいと思ってな」
風が吹き、マクシムの髪がわずかに揺れる。
「女性ばかりが割を食う。そういう部分を変えていければいいなと思ってな」
その言葉は、屋上の空気に落ちて――意外なほど、軽かった。軽薄という意味ではない。重く、正しく、立派な理念は、時に聞く側の心を押し潰す。だがマクシムの言葉は、押し付けではなく、ただ“決意の報告”だった。
アトラスは、息を飲みかけて、やめた。
「……殿下」
そう呼んだ瞬間、マクシムが眉を寄せた。
「マクシムと呼べと言ってるだろう」
「は、はあ……マクシムでん――」
「だから、マクシムだ」
言い切る声に、妙な強さがあった。
「しかし……」
アトラスは困惑したまま口を開きかける。だが、マクシムは先回りするように、少しだけ声を落とした。
「しかし、じゃない。お前には、これからも横に並び立ってもらいたいからな」
横に。
その言葉が、胸のどこかに引っかかった。王子の横に並ぶなど、普通は望まない。望んだ瞬間、あまりにも多くの責任が背負わされる。
けれどマクシムは、当然のことのように言う。
「だから、マクシムと呼べ」
アトラスは、短く息を吐いて頷いた。
「……はい、マクシム」
たったそれだけの呼び方の変化が、距離を変える。誰かを“殿下”と呼ぶのは、壁を作ることでもある。自分が下であると宣言し、相手を上に置く。そこに安全がある代わりに、責任は置いていかれる。
マクシムは壁を壊したかったのだろうか。それとも、壊させたかったのか。
答えはわからない。
だが、わかったことは一つある。
(……この人は、本気だ)
マクシムは空を見たまま、唐突に話題を変えた。
「それで、だ」
その声の温度が、ぐっと下がる。何か企んでいる時の声だ。
「お前、エヴァリーン殿を剣の修行に誘っただろう?」
アトラスは思わず目を見開いた。
「え? なんでそれを……」
マクシムが得意げに口角を上げる。
「お前ほどじゃないが、俺も地獄耳でな!」
そして、言い切った。
「それ、俺も混ぜろ!」
アトラスは言葉を失い、瞬きをした。
屋上の風が、変な間を誤魔化すように吹き抜ける。
「ええっ……? 母上の特訓ですよ?」
「いいんだ、混ぜろ」
迷いのない声だった。
「女性の剣も見てみたい」
アトラスは、頭の中で母――カトリーヌの姿を思い浮かべた。普段は穏やかで、淡い微笑みを絶やさない人だ。だが剣を持つと、空気が変わる。戦場の匂いがするというか、どこか“生存のための剣”になる。
「……すごく、変わってますよ、母上の剣は。何せ、辺境の剣ですから」
アトラスがそう言うと、マクシムは頷いた。
「ああ、知っている。だからこそだ」
知っている、という言葉が軽くない。王子の知っているは、噂ではなく情報だ。どこまで調べているのかと思うと、背筋が少し寒くなる。
アトラスは小さく息を吐いて、諦めたように頷いた。
「……はい、わかりました。今日の放課後に、エヴァリーン様がいらっしゃいますが」
「では、俺も行かせてもらおう!」
言い終える前に決まっている勢いだった。
アトラスは思わず確認した。
「いいんですか? そんな急に」
マクシムは、ふふん、と鼻で笑う。
「うちもな、兄上に仕事を押し付けて良いことになってな」
その一言で、嫌な予感がした。
「……シスタン殿下ですか?」
「そうだ」
マクシムは、あっさりと言う。
「どうやら時間ができたらしく、兄上がやってくれることになったらしい」
アトラスは一瞬、言葉に詰まった。
「そ、そうですか……」
あの第一王子が、時間ができた。しかも“仕事をやってくれる”。その文言だけを聞くと平和だが、裏に何があるのかを考え出すと胃が痛くなる。ハイノス兄上の胃薬棚が頭をよぎった。
マクシムは楽しそうに続ける。
「だから今日から俺も、お前の家に行くからな!」
宣言だ。
アトラスは、短く頷いた。
「わかりました」
返事をした瞬間、妙に胸の奥が落ち着いた。断れないからではない。断る理由がないからだ。
エヴァリーンが強くなろうとしている。母、カトリーヌはそれを受け止める。そこにマクシムが入ることで、きっと何かが変わる。少なくとも、“女性の剣”を見たいという言葉は、軽い好奇心ではない。
(変えていくって言った、その延長なんだ)
アトラスは、膝の上のノートに視線を落とした。
今の会話を、記録する。
――第二王子マクシム。昼休み、屋上にて。
――女性が割を食う国の仕組みを変えたいという意志。
――剣の修行に興味。エヴァリーンの鍛錬に同席希望。
――「横に並び立つ」という言葉。
ペン先が止まる。
(もしこれが、誰かの人生を変えるなら)
この言葉を、どう書き留めるべきだろう。政治的な野心と書けば安っぽい。理想と書けば美しくなりすぎる。だが、確かにこの男の中には、変えたいという熱がある。
アトラスは、最後に一行だけ付け加えた。
――この意志は、冗談ではない。
書き終えたところで、マクシムが覗き込むようにして言った。
「……相変わらず書くな」
「習慣です」
「その習慣が、国を動かす時代になるかもしれんぞ」
軽く言っているようで、軽くない。
アトラスはノートを閉じ、弁当の残りに手を伸ばした。
屋上の風が、少しだけ温くなった気がした。
午後の授業が始まる鐘が鳴る。
日常は、また何事もなかったかのように動き出す。
けれど、アトラスの中では、確かに何かが変わっていた。
放課後。
ショウイン侯爵家で、エヴァリーンが剣を取る。
母――カトリーヌが、その前に立つ。
そこに、第二王子マクシムも加わる。
そして――自分も。
(……記録するだけじゃ、足りないな)
剣を持つ手の感覚。
息の詰まる距離。
踏み込み一つで変わる、相手の重心。
それらは、紙の上では完全には残らない。
だからこそ、自分の身体で知る必要がある。
(見て、聞いて、そして――立つ)
前に出る者の横に立つために。
支える者として、同じ場に立つために。
アトラスは、膝の上のノートを閉じた。
今日は、ここまででいい。
剣を握る時間は、記録ではなく、自分自身に刻む。
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