【完結・番外編更新中】断罪劇をぶち壊したのは、すみっこのメモ魔です 〜気付けばとんでもないことになっていた〜

桜野なつみ

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第59話 託された本

その夜のショウイン邸は、いつもよりも静かだった。

それは屋敷が眠っているからではない。
家の中の誰もが、同じものを待っているからだ。

――答えを。

応接間の中央のテーブルに、一冊の本が置かれていた。

古い装丁。
革張りの表紙には箔押しが施され、明らかに貴重な品であることが分かる。
しかし王宮の蔵書印もなく、書誌にも載らない。
となれば、おそらく王族が私的に所持していたものだろう。
中身はこの国の歴史書で、内容そのものよりも、むしろ装丁に価値がある種類の本だった。

「鍵は……これだな」

リカルドが低く言った。

「そうですね」

ガイアスが頷く。

「我が家の蔵書ではありません。ですがマクシム殿下は、“返却”という形でこれを我々に託した」

それは単なる「今は動くな」という合図ではない。

「退却せよ、という意味だけではない……」

カトリーヌが静かに言葉を継ぐ。

「マクシム殿下はきっと、“伝えるべき何か”があって、この本を選んだのです」

そう言いながら、彼女は本を手に取り、ぱらりとページをめくった。
何気ない動作だったが、その指がふと止まる。

「あら……」

三人の視線が、同時に集まる。

「ここに、下線が引いてあるわ」

紙面の一行に、薄く、しかし確かに鉛筆の痕が残っていた。

「こんな貴重な本に書き込みをする人はいないでしょう?」

穏やかな声とは裏腹に、その眼差しは鋭い。

「ちょっと見せてくれ」

リカルドが本を受け取り、該当箇所を覗き込む。

「……なるほど」

今度はガイアスが別のページを指した。

「父上、こちらには丸がついています」

一つではない。
数ページおきに、下線や丸。
どれも目立たぬほど薄い鉛筆で記されている。

「……これは」

リカルドの目がゆっくりと細くなる。

「文章を読むための印ではない。位置を示す印だ」

「行数と文字数……」

ガイアスが即座に理解する。

「暗号ですね」

カトリーヌは何も言わず、ただ小さく微笑んだ。

「マクシム殿下は、“分かる人間”に託してくださったのね」

三人はもう疑っていなかった。
この本が、アトラスを信じるための鍵であることを。

三人は無言で本を中央に戻す。

下線。
丸。

それらを一つひとつ拾い、対応する行と文字を抜き出していく。

ガイアスが紙に書き留め、
リカルドが順番を確認し、
カトリーヌが全体を見渡す。

その作業は、不思議なほど静かだった。
誰も急がず、誰も迷わない。

やがて――
紙の上に、短い三つの語が浮かび上がった。

「……シグラス」

ガイアスが読む。

「……メモ」

「……しらべろ」

カトリーヌが小さく息を吐く。

「……なるほど」

リカルドは腕を組み、ゆっくりと考えを巡らせた。

「シグラス公爵か。衛士省を束ねる男。フォレスト公爵の政敵であり、第一王子派の中核だ」

「アトラスの“メモ”を調べろ、という意味ですね」

ガイアスの声が硬くなる。

「つまり……」

「アトラスの記録が、政争に使われている可能性が高い」

リカルドは断言した。

沈黙が落ちる。
それは恐怖ではない。
理解が一段深まった重みだった。

カトリーヌが静かに立ち上がる。

「……アトラスの部屋へ行きましょう」

二人は何も言わず頷いた。



アトラスの部屋は、いつも通りだった。
無造作に積まれた本の山と、それ以外の几帳面な整頓。

とりわけ整っているのは、奥の小さな書棚だ。
そこには彼の人生そのものとも言える記録ノートが、番号順、日付順に並べられている。

「……相変わらず、これだけは几帳面だな」

ガイアスが呟く。

「抜けは?」

「……ありません。少なくとも、見た目では」

「なら、一冊ずつ確かめよう」

三人は棚のノートをすべて取り出し、机に並べる。
紙の重み、微妙な違い、並びの違和感。
家族を取り戻すために、全神経を集中させていた。

そのとき。

ある一冊を手に取ったカトリーヌが、小さく息をのむ。

「……これ」

背表紙の番号も日付も合っている。
だが、手に取った瞬間に分かる。

――わずかに、軽い。

「……開けてみろ」

ページをめくった瞬間、三人の視線が凍る。

「……何枚か、切り取られている」

破られたのではない。
刃物で、丁寧に抜き取られていた。

「……これだけです」

ガイアスが他のノートを確認し終える。

「すべての中で、この一冊だけ」

リカルドの目が、ゆっくりと閉じられる。

「……いつの記録だ?」

「エヴァリーン様に頼まれた、サリーナ嬢の件が載っている頃です」

ガイアスが思い出す。

「その時、アトラスは古いノートを何冊か学園へ持って行っていました」

「……そこか」

カトリーヌの声が静かに落ちる。

「この子は、自分の記録を“価値あるもの”だとは思っていない。だから、善意で持ち出した……」

「そして、この一冊だけが抜かれた」

ガイアスの拳が握られる。

「……それを使って、死体の手に紙を握らせ、アトラスを――」

「いいや」

リカルドが遮った。

「アトラスだけじゃない。フォレスト公爵家も、マクシム殿下も、この国の改革そのものを潰すためだ」

空気が張り詰める。

カトリーヌは切り取られたノートを胸に抱いた。

「……でも、この子の記録は嘘をつかない」

母としての確信が、そこにあった。

「切り取られたなら、残った頁が証人になる」

リカルドが頷く。

「シグラスが何を掴んだつもりでいるのか……こちらが先に把握すればいい」

ガイアスはアトラスの机を見た。

整えられたペン。
閉じられたノート。
まだ書かれるはずだった未来。

「……弟は、自分の記録の価値を知らないだけだ」

「ええ」

カトリーヌが微笑む。

「だからこそ、この子は、真実を書けるのよ」

主のいない部屋で、ショウイン家は静かに戦う準備を整え始めていた。

――アトラスの“沈黙の記録”を、取り戻すために。
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