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第60話 黒い文字
石造りの取り調べ室は、ひどく冷えていた。
光は高い位置の小窓から差し込むだけで、机の上を白く切り取るように照らしている。
その中央に、布の上に置かれた一枚の紙があった。
血の跡は、すでに乾ききって黒く変色している。
折りたたまれ、何度も握り潰されたのだろう。端はくしゃくしゃで、ところどころ裂けていた。
それでも――
そこに残る文字だけは、はっきりと読めた。
アトラスは、その紙を見た瞬間、胸の奥が静かに冷えていくのを感じた。
(……これは)
自分の字だ。
癖のない、少しだけ角ばった筆致。
線の入り方も、間の取り方も、間違いなく、自分が書いたものだった。
向かいに座る男が、ゆっくりと口を開く。
「どうだね」
低く、落ち着いた声。
衛士省を束ねるシグラス公爵――アルディオスだった。
「見覚えはあるか」
アトラスは、目を逸らさずに答えた。
「……あります。僕の字です」
隣に立つ若い男が、薄く笑った。
アルディオスの長男、ヴァルギス。
衛士省の官僚であり、実務の取り仕切りを担う男だ。
「ほう。ずいぶんあっさり認めるな」
「認めない理由がありません。僕が書いた字ですから」
だが、とアトラスは続ける。
「……それが、どういう経緯でそこにあるのかは、分かりません」
ヴァルギスの笑みが、わずかに深くなる。
「なるほど。“字は自分のものだが、関与はしていない”というわけか」
「はい」
アトラスの声は、震えていなかった。
「僕は、事実しか書きません。
この紙に書かれている内容が、僕の記録から抜き出されたものなら……それ自体は、嘘ではないはずです」
アルディオスが、指先で机を軽く叩く。
「ほう。では聞こう。その“事実”が、なぜ脱獄囚の手に握られて死んでいたのか」
アトラスは、一瞬だけ視線を落とした。
(……それが、分からない)
「僕は……誰かを陥れるために書いたことはありません」
「だが、結果としてそうなっている」
ヴァルギスの声が、鋭く差し込む。
「君の“正確な記録”がなければ、シスタン殿下の婚約破棄の正当性も、フォレスト公爵家の一連の動きも、すべて無効になる」
彼は、まるで楽しむように続けた。
「そして、ネロ帝国とグリザール共和国のテロ未遂――あれさえも、“君たちが仕組んだ”と疑う余地が生まれる」
アトラスは、顔を上げた。
「……僕は、誰かを陥れるための記録は取りません」
アルディオスが、ゆっくりと頷く。
「分かっている。君が“真面目な少年”であることくらいはな」
だが、と。
「真面目で、正確で、誠実な記録ほど、使いやすいものはない」
その言葉に、アトラスの背筋を、ひやりとしたものが走った。
(……使う、だって?)
ヴァルギスが、黒く乾いた血の紙を指先で軽く押さえる。
「君は“事実”を書いた。
だがその事実を、誰がどう並べ、誰にどう見せたか――そこまでは、君の管理外だ」
アトラスは、静かに拳を握る。
「……だから、僕の記録が、誰かの手で切り取られたのだと思います」
アルディオスの目が、わずかに細くなる。
「ほう?」
「僕のノートは、日付と番号で管理されています。抜けがあれば、必ず分かる。
それなのに、この紙に書かれている部分だけが、独立してここにある……」
彼は、はっきりと告げた。
「これは、僕の記録の“切り取られた一部”です」
ヴァルギスは、その言葉を聞いても否定しなかった。
むしろ、どこか満足そうに微笑む。
「……やはり、察しがいい」
アルディオスが、静かに背もたれに身を預ける。
「だからこそ、君は危険なのだよ、アトラス・ショウイン」
真実を書く者は、
操る側にとって、最高の素材になる。
その意味を、アトラスは今、ようやく理解し始めていた。
――自分の“真実”が、誰かの刃に変えられていることを。
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